2月22日の黒猫






「というわけで、昴さん、これを着てください」
 新次郎が差し出した化粧箱の中には、黒い猫の耳のついたカチューシャや、長くとぐろを巻いた黒い紐、僅かな薄い布地類が入っていた。


 時は午後、日は2月の22日。外は寒いので、昴の部屋でゆっくり蒸気テレビでも見ようかととりつけたデートの約束。少し遅れてやって来た新次郎は、「2月22日はにゃんにゃんにゃんの日なんですって!かわいい語呂合わせですね」と笑顔で唱え、そのまま一連の動きで、小脇に抱えていた包みを開いたのだった。

「着る」という言葉と、見るからに少ない布面積から、それが下着なのだと認識するまで、昴の聡明な頭脳でもコンマ1秒の時間を要した。
 新次郎と恋人同士になって日々を重ね、肌を合わせる時のぎこちなさもようやく少し薄れてきた今日この頃。今更互いに秘め隠すような領域もないだろうとはいえ、かくも露悪的でふざけた格好を昴にしろと、この男は真顔で言うのか。咄嗟に取るべき態度を決めかね、昴は箱の中身を凝視したまま立ち尽くしていた。

 そんな昴の当惑にはまったく気付かぬように、新次郎は無邪気な朗らかさで続けた。
「道中に、ランジェリーショップの前を通りかかって見つけたんです。猫の日だし、昴さんが着たところを見たいなあって…かわいいでしょう?」
 それでも昴が箱を受け取らず黙ったままなので、さしもの鈍感な新次郎も不安げに首を傾げた。
「えっと…すみません、昴さん、イヤでしたか…?」




 昴の天才的な思考回路は、既に光速で幾通りもシミュレイションをしていた。
「不埒な奴め」と怒りを示して鉄扇で躾けるのは容易い。高貴な昴を愚弄したかどで今日のデートはお流れ、当分口も聞いてやらない。シアターでは気まずい空気が続き、仲間たちには興味本位でからかわれるだろう。挙げ句に「喧嘩の理由は昴さんが猫ランジェリーを着てくれなかったからで…」なんぞと新次郎が馬鹿正直に口走った日には、それはもう眼も当てられない醜態だ。
 一方、黙って受け入れれば、昴はこれを身につけその姿を新次郎に見せるという羞恥を飲まねばならない。さらには調子に乗った新次郎の要求がエスカレートすれば、次はどんな下着を持ってくるやら知れたものではない…。




「わかった…」
 結果、昴のとった行動は、小さくうなずいて箱を受け取ることだった。
「…君の選んでくれたものなら喜んでその気持ちに答える、と言ったのは昴自身だからね…」
 一応、大袈裟に溜息をついて髪をかき上げ、過去の言質を悔いてみせる。
「だが、昴は言っておく。今日だけだ、と。猫の日は今日だけだからな」
 一言釘を刺すのを忘れなかったが、新次郎はもう拳を握りしめて、歓天喜地の表情で瞳をキラキラさせていた。
「ありがとうございます!」
 律儀に礼を言う新次郎にくるりと背を向け、
「着換えるから、そこで待っていてくれ」
 昴は寝室へと引っ込んだ。




 昴が猫ランジェリーを受け取った一番の理由。

 スーツを脱ぎ、タイを解き、シャツのボタンを外す。内側から現れたのは、薄く透けたシフォンのレースに、シルクのリボンのついた、エレガントにして華やかながら昴らしからぬ官能的な下着。

 これを着た昴を見たら新次郎がどんなに驚くだろう。どんなに喜ぶだろう。その顔が見たい。と思ったら、つい出来心で手にしてしまい、今日の日のために身につけていた。ならば、猫ランジェリーを着て新次郎を喜ばせてやるのも、同じ道理、同じ心ではないか。


「やれやれ…」
 昴はもう一度溜息をつくと、折角着ていた艶美な下着を脱ぎ捨て、箱の中のものを手に取った。

 耳のついたカチューシャの他に、金色の鈴のぶら下がったチョーカーと、膝上丈のストッキングまではすぐに理解した。
 だが、太い部分が尻尾なら、それを生やした紐つきの小さな布片がショーツなのだと気付いて、昴の頬はひくついた。そして胸に当たる部分の中央は猫顔の形にくり抜かれていて、上下にはひらひらと可憐なフリルがついている。さらには、それらすべてが黒とはいえ殆ど透けて見えそうな薄さの布だ。
 こんなにもエロティックで戯画的なコスチュームを昴に着ろとは、新次郎め………。昴はきゅっと唇を結んだが、ふるっと顔を一振りし、意を決して着替えを始めた。
 しかし、ショーツに至っては履くというより、脚の間に挟んで腰の両側で紐を結ぶといった作業だ。ぶらりと尻尾を尻にぶら下げて、自分はとんでもない阿呆なのではないか、という嘆かわしさが昴の脳裏をよぎる。
 だから、いざ着替えを終え、さて新次郎を呼ぼうという段になっても、昴は拗ねたような心地のまま、気まずい空気を呼吸していた。
 恥ずかしそうに身を縮めた姿を見せるのはプライドが許さないが、媚びた姿態をとっても小癪に障る………。待て待て、往生際が悪いぞ九条昴、新次郎を喜ばせてやろうと思ったからには、完璧を期すべきではないか。こんな下着、昴ならば堂々と着こなしてみせようとも。


「…入っていいよ…」
 吐息に乗せて声をかけると、恐らくドアの前でお預け状態で待機していたと思しき新次郎が、間髪入れずにドアを開けた。
「わひゃあ…!」
 迎える昴は、ベッドに仰向けに寝そべり、長い尻尾を腕に絡め、濡れた瞳で新次郎を見上げている。
 唇の端に添えた小指の先、臍の窪みに刷かれたやわらかな影、シーツの海に流れる黒髪、そこに生えたキュートな猫耳と、細い首を捕らえた首輪のようなリボン…視覚に映る昴の姿のすべてが、新次郎の脳天から腰まで一直線に貫いた。

 どのように宙を滑ったか、新次郎はものの3歩でベッドへ直行した。靴を脱ぎ捨て、ベストをむしり取り、タイを緩めたところで昴の真上にダイブする。
 文字通り食いつかれそうな勢いに、昴は僅かに身を竦めた。だが、そっと眼を開いてみれば、新次郎は慌てたように飛び退いて、胸を押さえて深呼吸している。
「あぶないあぶない…すぐになんて…勿体ない…」
 ぶつぶつつぶやくと、まるい瞳を爛々と見開き、
「昴さん…すっっ…ごくかわいいです…!」
 力を込めて訴えるように言った。

「…そ、そう…かい…」
 勢いに飲まれたような昴に、新次郎はたたみかけた。
「もっとよく見せてください…!」
 手を差し伸べて昴を起こし、頭のてっぺんの耳の先から、尻尾の端まで幾度も視線を走らせた。

「かわいい…なんてかわいい黒猫さんなんでしょう…ああ…もう…かわいいしか言えない…」
 感極まった声でかわいいを連呼されて、昴は伏し目がちに視線を下げた。すると、新次郎の緩んだシャツの襟からは上気したたくましい胸もとがのぞき、さらにその下ではズボンの前が早くもりゅうと盛り上がっている。見つめられた肌がひりひりするのと同時に、昴の脚の間がじんと痺れた。

 そんな状態で凝視されるいたたまれなさは堪え難く、かといって弱みを気取られたくはない。誤魔化そうとする気持ちといたずら心が相まって、昴は手を軽く握り、鎌首のように曲げてみせた。
「にゃーお」
 と猫の真似をすると、それがとどめになったようで、新次郎の腕が昴を捕らえて押し倒した。
「昴さん…!」

 深いキス。いつも、新次郎は生真面目に唇へのキスから始めると知っている。彼の手順や反応に幾らか慣れたつもりだったが、今日は些か趣が違った。
 新次郎の唇は喉もとをさまよって鈴を鳴らし、手は昴の剥き出しの腹部や背中を撫で回したが、すぐには胸にふれなかった。代わりに、胸の中央に空いた猫の顔型の部分に、ちゅうっと音をたてて吸い付いた。
「ん…」
 強く吸われて赤くなった部分を、舌先でくすぐるように舐める。それを繰り返されると、胸の先はふれられていないのに、つんと硬く尖って薄い布地を持ち上げた。
 その様を、新次郎が気付いてうれしそうに眺めている。なのに、新次郎の頭はそのまま腹部を下がっていこうとした。
「まっ……新次郎…!」
 ねだる言葉で呼び止めそうになった昴に、新次郎は顔を上げた。そして昴が飲んだ言葉を察し、眦を下げて相好を崩した。
「すみません…脱がしちゃうのが、勿体なくて」
 悪びれずに言うと、薄い布地の上から、尖った部分に唇を被せた。
「あぁ…」
 望んだ熱いぬめりに包まれて、昴は声を零した。狂おしくかき抱いた腕の中で、新次郎の頭は小刻みに角度を変え、丹念に胸の先を慈しむ。空いた方の胸が淋しくないように、指の腹がさらさらと擦って遊んでくれ、平等に左右を交代する。
 唇を離されても、唾液でひやりと濡れた布地が貼りついたり剥がれたりするので、昴の胸は休まらない。その頃には、新次郎の左手は昴を逃がさぬよう背中を抱き、右手はストッキングの上の腿の間で戯れ、きつくすぼめられた膝を押し開こうとしていた。  

 脚の間に陣取られ、強い視線を注がれて、昴は逃げ出したいほどだったが、確かめる新次郎はいつだって幸福そうだ。小さな布のその部分は、既にどうしようもなくそぼ濡れている。昴の意志に反して勝手にひくつく様子は、布越しにもあからさまだろう。
 新次郎の手が昴の腰に伸びた。紐を解いて脱がされるのかと思いきや、彼は緩んだ紐をしっかりと結び直し、また布の上から舌を這わせた。
「はっ…あ…!」
 昴の声が高くなる。
「あ…はぁ…あ…ん…っ」
 新次郎の舌先は昴の入り口を縦横に素早く動き、その間昴の声は途切れることがない。薄い布に遮られた舌の感触は、もどかしく刺激を拡散させ、直にふれられるのとはまた違った快感を昴にもたらしていた。
 やめないで、と思う一方で、もうこれ以上は堪えられない、とも思う。相反する望みのせめぎ合いで昴が指の背を噛みしだいていると、新次郎も堪えかねたように体を起こし、慌ただしくズボンを下げた。

 それでも、新次郎は頑なに思えるほどに、猫ランジェリーを脱がさなかった。僅かな布地を指で横に寄せ、昴の深部を露わにする。
 腰の紐をほどかれ脱がされれば、ベッドの上にだらんと尻尾が放置され、それは興ざめな光景かもしれない。ならばこれも正方か、と昴が思ったと同時に、新次郎が内部を押し広げるように侵入してきた。

「く……っ…は…ぁ…」
 一瞬息を詰めてから、昴は腹をへこませて最大限に息を吐き、新次郎を迎え入れた。腰を浮かせて、さらに奥深くへといざなうと、小さな体は、深い充足と閉塞で満たされた。
「昴さん…」
 新次郎の声は、熱く低くかすれている。この声で呼ばれるのが好きだった。昴と結ばれている時にしか聞けない声。新次郎のこんな声は昴しか知らない。
「好きです、昴さん…」
 願うような、詫びるような、切なげな新次郎の顔も。
「新次郎…」
 昴も腕を伸ばし、新次郎の首に絡め、しがみつこうとした。
 だが新次郎はそれを許さず、慎重に繋がりを保ったまま体の位置を入れ替えた。
「あ…」
 新次郎の腰に跨がった状態で下から突かれ、昴の背がしなった。
 見上げる新次郎の顔はつくづく満足げで、さては新次郎め、とことんまでこの装いを見て楽しむつもりなのだと昴も見抜く。でこぴんの一つもしてやりたいところだったが、その余裕は最早なかった。
 中を混ぜるように動かれて、昴の体がぐらりと回る。
「あ…っ…や…」
 ぐちゃ、と生々しい音が鼓膜を侵し、かあっと頬が染まって耳まで熱くなった。
 尻を弾ませて昴の中を捏ねながら、新次郎は昴の細い肩を撫で下ろし、胸の先をまるくなぞった。その手がさらに下がって繋ぎ目に入り込み、小さな粒を転がされると、昴の眼の隅に火花が散った。
「あぁ…そん、な…」
 新次郎のリズムで、ちりん、ちりん、と喉もとの鈴が鳴る。その間隔が次第に早くなり、昴の声も揺れて重なる。
「あ、あ、あ…しん、じろ…うっ…!」
 つかまるものを求めて伸ばした昴の手を、しっかりと指を組み合わせて新次郎が受け止めてくれた。
 新次郎は眩しげに眼を狭め、額に深く眉を寄せている。昴も、新次郎の顔を見ていたいのに、眼を開いていることも難しくなってくる。繋がった部分は灼けるように熱くて、自分の体ではないようだった。

 馬上で跳ねるように疾駆しながら、高まる波をつかまえ、身を委ねる。新次郎と一緒に、越えられるように…。
「昴さん……昴さん…!」
「ああっ…!」 

 細い悲鳴と同時にくずおれた昴を、新次郎の腕が強く抱き止める。体の中心で、新次郎の脈動を感じた。まるで熱い湯の沸く泉のようだった。
 呼吸が整うまで、新次郎はずっと昴の髪を撫でていてくれた。新次郎の深い愛を感じる、この時間が昴の宝だった。
 九条昴はそれ以上でもそれ以下でもなかったが、新次郎に愛されていると、それ以上の存在になったような気がするのだ。





「えへへ…着てくれて、ありがとうございます、昴さん」
 ようやく昴から腕をほどくと、新次郎は少し照れたように頭を掻いた。
「本当は、怒って着てくれなかったらどうしようって、ドアの向こうで心配してました」
「そうしたら、君はどうするつもりだったんだい…?」
「そりゃあ、粉骨砕身の覚悟でお願いするだけです!」
 力説する新次郎の声に、昴は思わず小さく笑ってしまった。
 肌の熱が静かに揮発して、昴も己を立て直していく。馴染んだ不敵な笑みを取り戻し、からかうような流し目を新次郎にくれて言った。
「…ならば、昴も粉骨砕身にお願いしようか…次の11月の1日に、君に犬の格好をしてもらおう、と…わんわんわんの日、ということで、ね…」
「え…」
 新次郎は絶句し、声を詰まらせた。
「でっでっ…でも、男ものの犬の下着なんて売ってるかなあ…」
「なければ、昴が作ってやろう」
「わひゃあ…降参です…!でも、それが公平ってことですよね…うう…」
 複雑な表情で視線を外した新次郎の眼が、突然ぱっと見開かれた。

「こ、これは…!」
 手を延ばしてベッドの向こうから拾い上げたのは、先ほど昴が脱いだ目も綾なる可憐な下着。

 今度は昴が絶句する番だった。

「昴さん……」
 新次郎の顔は、感動と喜びと、既に期待で輝いている。

 ささやかな反撃もここまでか。
 後日、と言って新次郎の期待を挫くには、昴はほとほと新次郎に甘すぎる…。

「やれやれ…」
 昴は今日3度目の溜息をついて、着換えるためにようやく猫ランジェリーを脱いだのだった。


  





《おしまい。》




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