グラウザム・メルヒェン (3)






「昴さん!しっかりしてください!」
 新次郎が駆け寄ると、涙で顔を濡らした千代田が、新次郎にも斬りかかってきた。
「わあーっ!」
 意味にならない声をあげる千代田の腕を、新次郎は捕らえて捻った。逆上した千代田の動きは、てんで子供のようだった。小刀を取り落としたところで、みぞおちに拳を入れて、脱力させる。先日有坂に向かっていった自分もこんなふうだったのだなと、頭の隅で思う。

 急いで昴の様子に戻ると、落ちた時に頭を打ったのか、額の生え際が腫れている。
 三人の生徒たちは、昴を放置して散り散りに逃げたようだった。 
 あられもない格好で床に倒れている昴の姿は、ただ痛ましくて、新次郎は涙が出そうになった。
 着衣を整えてやり、抱き上げると、新次郎は医務室へと向かった。



 学院には常駐する医師がいた。
 白髪交じりの年配の医師は、昴の姿に驚くこともなく、淡々と処置をした。
「脳震盪を起こしているようだ。今夜はここで休ませるから、君は帰りなさい」
「でも…」
 去りがたい新次郎に、医師は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「何も心配はいらないよ」
 すべて含んでいるような大人の貫禄に、新次郎は素直に引き下がった。





 翌日の教室に千代田の姿はなく、周囲は些かざわめいていた。

 千代田は校長室に呼ばれ、その場で退学を言い渡されたとのことだった。ひそひそ話に聞き耳を立てれば、退学の理由は、刃物を振り回して刃傷沙汰を起こした件ではなく、三人の生徒を妨げたことと、昴に怪我をさせたことだそうだった。
 妨げたものは退学。まさか本当だったとは。新次郎は沈痛な面持ちで思案した。昴の遠縁だというあの校長は、いったい何を考えているのだろうか。



 休み時間に、新次郎は医務室へ向かった。昴もとうに意識を取り戻しているだろうと思ってのことだった。
 果たして、半ば開いたドアの奥から医師の声が聞こえた。
「たいした怪我じゃなくてよかった…校長も安心されるだろう」
 医務室のベッドに横たわって天井を見つめる昴を、傍らに座った医師が、微笑みながら見守る様子が見えた。

 誰かが昴にやさしい言葉をかけるのを、新次郎は初めて聞いた。まるで救われた迷子のように、うれしくて涙ぐむほどだった。

 だが、喜びは一瞬だった。医師の手が、昴の体を覆った掛布の中に潜り込んで動いているのに気づき、新次郎は打ちのめされた。
 昨夜新次郎が整えてやった衣服は、すべて脱がされて、脇に畳んで置かれていた。ピアノの前に座ったピアニストが鍵盤に指をすべらせるように、掛布の下で医師の手が蠢く。昴の胸の上で止まった指先の、くすぐるような細かな動きを、薄い布があからさまに伝える。穏やかに見えた医師の微笑みには、よく見れば欲望の色が浮かんでいる。 
 昴は、やはり能面のような無表情で薄目を開けて横たわっているだけだった。だが、医師の手が昴の膝を立てさせ、その奥に入り込むと、わずかに体をふるわせた。
「んっ……ん…」
 水面に浮かんで弾ける泡のように、昴の喉から声が漏れる。白の色の多い医務室の清潔そうな空気は、今や病んだ色に染まっていた。掛布の下で、昴の膝が、ひくひくと小刻みに揺れている。
「あ……は、あっ…」
 昴が声をあげて身じろぎすると、医師は、うんうんとあやすような声を出して眼を細め、手の動きを深めた。




 生徒だけではなく、職員の大人まで。
 新次郎は全身の力を奪われたような気がした。

「はぁ……あ…」
 昴の声は続いていた。新次郎はスローモーションのように緩慢な動きで背を向け、医務室を後にした。

 あんなふうに、誰にでもふれさせて、感じて、声をあげる昴は、なんと淫らな人なのだろう。

 気づけば、頬が濡れていた。
 この悲しみはなんだろう。
 この胸がどうしてこんなに痛むのか。




 自分は、昴が好きなのだ。
 誰もいない浜辺に波が打ち寄せるように、新次郎は悟った。



 出会って間もない、この上なく猥りがわしく、子供のようなその体は年を取らない異形のものだという、九条昴その人を。
 およそ現実離れした、明らかに己の手に余る相手だ。新次郎は何度も自らに確かめた。その気持ちは本当か。同情や動揺を錯覚しているのではないか。

 だが、何度自問しても答えは同じだった。
 自分…大河新次郎は、どうしようもなく、九条昴が好きだ。


 昴を守りたい。
 昴が自ずから堕ちた奈落から、昴を救いたい。


 まだ二十歳にも満たない己が、他人を救うなどおこがましい考えだとは思った。
 それでも、もしも、昴が心から微笑むことが出来るなら。
 幸せだよ、と言って笑ってくれるなら。
 そのためになら、自分はどんなことだってできるだろう。



 だが、どうすればいい?
 医務室に駆け戻って医師を殴り倒しても、何の役にも立たない。
 どうすれば、昴は自らを辱めるのをやめてくれるだろうか…?






 放課後、新次郎は昴を探して校内を彷徨った。
 図書館やブナの森へ行くと、同じく昴を探しているのではと疑わしい生徒の姿があった。彼らの目的を思うと、新次郎の心臓は痛んだ。自分が先に昴を見つけなければ。
 それとも、もう昴は誰かの部屋に連れて行かれた後なのだろうか。失意を抱えて花壇に着いた新次郎は、芝に影を落とす椎の木の幹にぐったりともたれかかった。
 ふっと、新次郎は顔を上げた。気配に気づいた新次郎は、樹上を振り仰いで呼びかけた。

「昴さん、降りてきてくれませんか」

 探しても見つからないはずだ。昴は太い木の枝に、猫のように寝そべっていた。新次郎を見おろし、薄く笑みを浮かべる。  

「君が受け止めてくれるならね」
「え…」

 ひらり、と木の葉のように舞い落ちた昴を、新次郎は両腕でおっかなびっくり抱きとめた。
 腕の中のはかない重みは子供のものだ。新次郎はただじっと腕の中の昴を見つめた。

「昴さんに会いたくて、探してたんです」
 言うと、首に腕を絡められ、昴の顔が間近になった。
「やっとその気になったかい」
「いえ、違います」
 頑なな表情の新次郎がそっと地面に降ろして立たせると、昴は馬鹿にしたような眼で新次郎を見やった。
「ふん……まあ、昴は趣味ではないという生徒も大勢いるさ…こんな体だし…胸の大きな女性らしい女性が好きだという方が普通だ」
「そうじゃなくて…本当に昴さんと話がしたいんです」
「うん…そう言えばいろんなやつがいたっけね…ただ話がしたいんです、とか、絵が描きたいんです、とか…」
 てんでちぐはぐな昴の言葉に、新次郎は眼を白黒させた。
「え…絵…?」
「昴の体に絵を描きたい、と言った美術教師がいたな……こうして…昴の体に鮮やかな蝶の絵を描いたよ…」
 新次郎の手をとって、人差し指を伸ばさせ、昴は胸の中央を縦になぞった。
「蝶の羽の模様のね…目というのがあるだろう…あれを、ここに…まるく…絵の具で塗れた筆を動かして、ね…」
 甘くかすれた声で言いながら、胸の先があると思しき場所へと、新次郎の指先をくるりと滑らせた。うっかりふれさせてしまった新次郎は、飛び退くようにして手を振り払った。

「やめてください!…ぼくは…ぼくは昴さんに聞きたいことがあるんです…!」
 苦しそうに息を吐いて大真面目に訴える新次郎に、昴はうっとうしげに前髪をくしゃりとかき上げた。
「陳腐な会話なら御免だよ」
「いえ…すみません…あの…」
 新次郎は言い淀み、しかし真摯に昴を見て言った。
「昴さんのお母さんて、どんな方だったんですか」

 先日の会話を思えば、逆撫でするような不躾な話題に、昴は一瞬怒りの色を浮かべた。
 だが、それを新次郎が承知で言っているのに気づき、渋々というように怒りを押しとどめた。
「聞いてどうする」
「知りたいんです」

「そうだな…」
 昴は木にもたれ、木洩れ日を見上げた。
「…子供のような人だった…我が儘で、甘えん坊で、すぐに癇癪を起こしたり、泣いたり…自分の身の回りのことも何も出来なくて、手のかかる人だった」
「え…」
「僕を生んだ時に、少し心を壊してしまったようでね…。死ぬまで、座敷牢から出ることはなかった」
 淡々と語る昴の言葉は、新次郎の予想を超えたものだった。昴の母が、どんなふうに愛を注いで昴を育てたのか知りたかっただけなのに。それがわかれば、昴の呪縛を解く方法が見つかるかと思ったのに…。
「昴を、ずっと男の子だと思い込んでいたしね…実際、僕は当主となるべく男として育てられたんだ」
 言われて、新次郎は昴の口調や物腰に納得した。なぜ男子校にいるのかも。
「馬鹿馬鹿しい…男だの女だの。昴は、昴だ…体など、所詮は器にすぎないというのにね……そして、男として存在を望まれた昴が、ここでは女としての性を利用されている。皮肉だとは思わないか…」
 昴は喉の奥で小さく笑った。
「まあ、そんなわけで、…母というより、向こうが子供で、昴のほうが親のようなものだったよ」


 新次郎は静かな声で言った。
「昴さんも、お母さんを愛していたんですね」
「…さあ…今となってはもうわからないな……それでも……」
 昴は遠い眼差しを地面に落として、溜息のように呟いた。
「願いを、叶えてやれたらよかった、と思ったよ…」

「昴さん…」
 時を辿って、今の外見と変わらない年の昴を、やさしく抱きしめてあげたかった。
 君は何も悪くないんだよ、と。
「ぼくは、昴さんのお母さんにも子供にもなれないけど…でも…」
 新次郎は、過去から遮るように昴の正面に立った。
「ぼくでは、駄目ですか」

 昴が、顔を上げて新次郎を見た。

「あなたが、好きです」
 まるい瞳を煌めかせ、新次郎ははっきりと言った。




 昴は眼をすがめ、冷たい声で答えた。
「久々に面白い冗談を聞いたな…」
「冗談じゃありません」
「昴の存在には意味がない…ただ罪深く不浄なだけだ…君は気でも狂ったんじゃないか」

 新次郎は騎士のようにその足もとに跪いた。
「昴さん…あなたは、誰よりも尊い人です」
 小さな手を取って、指の背に唇を落とす。
「昴さん、あなたの名前は、美しい星の名前です」

 新次郎は、声に強い熱を込めて言った。
「ぼくが、あなたを、ぼくの一番大切な人にします。…あなたの存在に、意味を取り戻します」




「…昴は言った…戯言だな、と…」
 しかし、昴の声はどこまでも冷めていた。
「君は、千代田と同じだよ。昴を自分だけのものにしたい、それだけなんだろう?」
「違います!」
 新次郎はぴょんと立ち上がり、全力で否定した。
「違わないよ…昴が、他の生徒にふれられるのがいやなんだ…」
「そりゃあ、いやですけど…でも、それだけじゃありません…!」
 新次郎は拳を握り込み、言葉を探して口をもぐもぐさせた。
「どうしたら、信じてくれますか」
「そうだね……」
 昴は、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「君が、昴に指一本ふれないと約束するなら、信じてもいいよ」

「わかりました」
 新次郎は迷わずに答えた。
「昴さんが望まないかぎり、指一本ふれません」

「言質は、取ったよ。大河新次郎」
 狡そうに笑うと、昴はくるりと身を翻した。
「その言葉、忘れるなよ…」
 そして、蝶が閃くように、花壇から去って行った。







 その夜、就寝時間を過ぎ、新次郎は寝支度をしてベッドに入った。
 今宵も、昴の行方が案じられる。昴のためにどうしたらいいのか、いくら考えてもいい方法が浮かばない。懊悩を抑えて目を瞑った途端に、いきなりドアノブが回る音がした。
「だっ、誰…」
 ドアには鍵をかけたはずだった。だが、易々とドアは開き、シャツだけを羽織った昴がするりと入って来た。
「昴さん、鍵が…」
「鍵など、昴には無意味だ」
「え…」
 シャツの裾から伸びる、素足の眩しさから目を逸らしながら、新次郎は尋ねた。
「…ええと、何かご用ですか…」


「一緒に寝ていいかい…」
 吐息のように、昴が囁いた。
「ええええええ」
 頓狂な声をあげる新次郎にかまわず、昴はしなやかな動きで新次郎のベッドに潜り込んできた。
「すすすすすばるさん、いったいこれは、あの、どうして…」
「君なら、ゆっくり寝かせてくれそうだと思ってね…はふ…おやすみ」
 小さく欠伸をすると、昴は眼を閉じてしまった。



 新次郎はぎんぎんと眼を見開き、身動きできずにいた。
 狭いベッドに、ぴったりと密着していると、否が応にも己の体が反応する。
 白檀のような高雅な香りのする髪。伏せられた長い睫が、頬に濃い影を落としている。薄く開いた唇からは、甘い寝息が零れ、くつろいだ襟元からは、匂い立つような鎖骨の窪みが覗いていた。
 この髪を指に梳かせてみたい。この額に、頬に、唇にふれて、抱きしめることが出来たなら。
 気づけば、無意識に手が伸びていた。
 指先があわや髪にふれる寸前で、新次郎は我に返り、ぱっと手を引っ込めた。指一本ふれないと約束したのだ。
 まさか一晩中こうして誘惑に堪えろというのか。まるで拷問のような仕打ちに新次郎は呻いた。残酷な人だ。自分の思いを知っていながら。
 だが、そこで新次郎ははっとした。ここにいなければ、昴は今頃誰かの腕の中で弄ばれていたかもしれないのだ。
 新次郎は唇を結び、決意した。昴が安眠できるのなら、甘美な拷問に堪えもしよう。

 しかし、それはこのような状況に不慣れな新次郎には、思ったより余程の難行だった。
「う…ん…」
 寝息の合間に、なんとも可愛い声を漏らして昴が寝返りをうつ。白い喉がこくりと動き、ぎりぎりのラインまでシャツの裾がまくれる。
 目を瞑って視界を遮りたいのにできない。それらの様をつぶさに見てしまい、新次郎は身悶えした。
 ちょっとだけ、本当に指一本だけならふれても許されるんじゃないか。偶然を装って…寝ぼけたふりをして…だがそんなことをしたら、その途端に昴がぱっちりと眼を開けて、してやったりと嘲られるような気がした。それに、わずかでもふれてしまえば、それ以上進まずにいられる自信もなかった。

 眠るのは諦めた。無意識にふれないためには、強い自制が必要だった。
 新次郎は直立不動で横になったような姿勢のまま、ただじっと目の前の昴を見守り続けた。






 明け方、少しだけうとうとしたようだった。
「…大河…君は…なぜ…」
 夢うつつのうちに、昴の声が聞こえたような気がした。



 だが、目覚めるとベッドには昴の影も形もなかった。
 夢だったのだろうか。新次郎は一瞬思ったが、ベッドには小さな体の重みで浅く窪んだ跡がある。何よりも、昴の髪の甘い香りが、枕に淡く残っていた。











《続く》 




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