グラウザム・メルヒェン (5)






 新次郎は気が急いていた。
 昴の気が変わらないうちに。誰かに気づかれる前に。早くこの学院を出なければ。
 新次郎は制服のまま荷物を抱き、昴の手を引いて、人目を避けながら校舎の陰を渡り歩いた。時刻は夕刻にさしかかり、傾いた陽が、二人の影を地面に長く落とす。
 校門は、守衛のいる正面玄関から丸見えだ。寮の裏手の、目星をつけておいた植え込みの隙間に、新次郎は体をくぐらせた。
 生い茂る下生えをがさがさとかき分け、方角を過たないように注意しながら、麓へ通じる道を目指す。
「昴さん、木の枝で顔や足をひっかかないように、気をつけてくださいね」
 振り向いて声をかけたが、昴は無言だ。なんの感情も伺えない顔で、黙って新次郎に手を引かれてついてくる。
 やがて目の前が開け、麓への道に出た。つい先日、希望を抱いてこの道を昇ってきたのが、もう遠い昔の出来事のように感じられた。
 空は木々に覆われ、鬱蒼と暗くなっている。灯りを用意してくればよかったと後悔しながら、新次郎は足を速めた。確実に脱走が発覚するのは、就寝前の点呼時だ。それまでに、少しでも遠くへ行かなければ……。



 その時、背後から、物々しいサイレンが聞こえてきた。
「ええっ…?」
 驚愕して、新次郎は学院のある方を振り向いた。何を言っているのかまでは聞き取れないが、坊城の声と思しき放送も聞こえる。もう気づかれたのか。
「なんでわかっちゃったんだろう」
 思わず呟くと、傍らの昴が答えた。
「麓からの道には、何カ所か監視カメラが設置してあるんだよ…君も知ってのとおり、この学校は設備に金をかけている…帝都の重要施設もかくや、という技術が使われているんだ」
「なっ…なんで教えてくれなかったんですかっ」
 新次郎は狼狽のあまり声を荒げたが、昴は全く悪びれなかった。
「君が聞かなかったからさ」



 ここに来て、新次郎もようやく気づいた。昴ははなから逃げるつもりなどなかったのだ。
「くっ…!」
 呻くと、新次郎は木々の間に飛び込み、昴の手を引いて走った。こうなったら、道以外の場所を通って、何がなんでも逃げきらなくては。だが、瞬く間に暗くなった森の中は、視界が効かず、最早自分がどこにいるのかもわからない。
 とにかく、坂を下れば麓に出るはずだ。そう思って茂みをかき分ける新次郎を、ぱっと眩しい光が照らし出した。
「いたぞーっ!」
 蒸気灯を持って叫ぶのは、浅葱の制服の生徒。その声を頼りに、そこかしこからわらわらと灯りが集まってくる。
 なぜ、普通の生徒たちが総出で追ってくるのか。新次郎は動転した。中には、木刀やら竹刀やら、武器を構えて向かって来るものもいる。
 彼らの目に浮かぶ病んだような光に、新次郎は悟った。自分は、昴という麻薬を中毒患者たちから奪ったも同然なのだ。
 だが、おまえたちに昴は渡さない。向かって来る生徒を、新次郎は躱し、足を払い、投げ飛ばし、必死で格闘した。新次郎より余程体格のいいものも多くいたが、一対一なら一般の生徒など新次郎の相手ではない。だが、次から次へと現れて襲いかかる男子たちに、新次郎は次第に疲れてきた。



「動くな!」
 突然、声がした。
 振り向くと、有坂が昴の喉に背後から竹刀を渡して抑えていた。
 その横には、ライフル銃を構えた坊城校長。
「大人しくしろ。さもないと、昴の頭に風穴が空くぞ」



「昴さん…!」
 なすすべがなくなって、新次郎はただ昴の名を呼んだ。
 昴は、例によって一切抵抗する様子はない。ただ、新次郎に、幾分皮肉めいたような眼差しを向けただけだった。
 冷静になって考えれば、校長が昴を本当に撃つわけがないだろう、と新次郎も思い至ったはずだった。
 だが、その前に、生徒たちが寄ってたかって新次郎を地面に押さえつけた。

「くそっ…!…離せ…!」
 新次郎は全力で暴れたが、多勢に無勢だった。

「腕が立つようだから縛っておけ。…昴もだ」
 校長が命じ、そして付け足した。
「ああ…昴には、傷をつけないように、注意して縛るんだぞ」


 新次郎と昴は、有坂たちの手で麻紐で後ろ手に縛られた。
 縛られるなど新次郎は生まれて初めてだった。両手が自由にならない状況に、得体の知れない不安と無力感が襲ってくる。
 他の生徒たちは、昴が捕縛されたのを確認して、安堵したように帰って行った。その様子を見て、新次郎は思わず声をあげた。
「…みんな、狂ってる。この学校は、狂ってるよ!」

「君も同じだよ、大河」
 有坂が、憐れむような声で、新次郎を呼び捨てた。そして、昴に向けて顎をしゃくった。
「みんな、こいつに狂わされたのさ」





 反省室は校舎の地下にあった。
 まるで独房のような、格子の嵌った扉に、新次郎はおののいた。室内は机と椅子、簡素なベッドだけで、それは寮の部屋に似ていなくもなかったが、剥き出しの暗い色の壁と裸蒸気灯が、違いを強く思い知らせた。

 そこに、新次郎と昴は二人きりで入れられた。
 新次郎は縛られたままベッドに座り、向かい合わせに椅子に腰を下ろしている昴を見ていた。
 昴に逃げる気がない以上、自分の行動は無駄だったのだ。新次郎は昴を恨むでなく、ただ己の考えの甘さを悔いていた。
 きっと、あのまま逃げおおせても、昴は相手を生徒から他の誰かに変えるだけで、その行動を改めはしないだろう。

 無理矢理に連れ出しても駄目なのだ。
 いったいどうしたら、昴は昴を許してくれるのだろうか…。



「嫌な予感がする」
 ふと、昴が声を発した。
「え…」
「なぜ…彼らは僕たちをこんな姿でここに一緒にしているんだ…?」
 昴の顔には、新次郎の見たことのない緊張が浮かんでいた。

 格子の向こうから、二つの足音が聞こえてきた。それは、地下の廊下に殷々と響き、次第に近づいてくる。
 昴はひたと新次郎を見つめ、動揺も露わに訴えた。
「許せ、大河……昴は、昴はこんなつもりじゃなかった…君を退学にしたかった…それだけなんだ」
「え…どうしたんですか昴さん」

 ドアが開き、坊城と有坂が現れた。
 坊城は徒手だったが、有坂は先ほどの竹刀を持っている。

 新次郎は、思わず二人に抗議の眼差しを向けた。すると、坊城は紳士的な物腰で後ろに手を組み、口角を持ち上げた。
「少し弱らせたほうがやりやすそうだな」
「はい」
 従順に答えた有坂が、竹刀を振り上げた。
 いきなり打ちかかってきた刀身を、新次郎は咄嗟に避けた。だが、縛られた体は不自由で、バランス感覚も俊敏さも妨げる。
「うあっ…!」
 転んだところでこめかみを叩かれて、新次郎は声をあげた。逃げようにもすぐには起き上がれない。そのまま、ばしばしと頭を叩かれ、脳が揺らされて意識が遠のく。
「殺さないようにな」
「はい、加減はわかってます」
 平静な声で、二人は言葉を交わしていた。
 やがて朦朧として動けなくなった新次郎を、有坂がベッドに俯せに転がした。


「やめろ!大河にさわるな!」
 縛られたまま立ち上がった昴は、そのまま校長の長い腕に抱え込まれた。
「離せ…!やめろ…!」
 藻掻く昴を楽しげに抱いて、校長は椅子に腰掛け、有坂に声をかけた。
「できるかね」
「はい。彼は女の子みたいな顔だし…」
 有坂の手が、縛られた新次郎の体の下に入って、制服を剥いていく。
「…それに、随分生意気でしたからね…一度、思い知らせてやりたいと思ってたんですよ」
 整った顔を嗜虐的に歪め、新次郎の尻に人差し指を向けた。



 頭ががんがんと鳴っていて、新次郎は釣り鐘の中に閉じこめられているようだった。
 起き上がろうという気持ちだけはあるのに、指一本動かせない。視界は夜のように暗く霞んでいて、何が見えているのかもわからない。
 その時、尻に釘を打たれたような痛みが走った。
 何かが中に入って来る。こじ開けて広げるような、容赦のない動き。
 苦しくて悲鳴をあげているはずなのに、声が出ていない。息もできない。

「やめろ!ただ退学にすれば済む話だろう!なぜこんなことをする!」
 坊城の膝の上で抑えつけられながら、昴は叫んでいた。
「おまえたちが一番苦しむ罰を考えたまでだ」
 言葉にそぐわない、穏やかな声で校長が答えた。
「彼の見ている前でおまえを犯してやろうかと思ったが、多分彼はもう見飽きているだろう…ならば逆はどうかと思ってね…」
「く…は…っ」
 新次郎の喉が苦しげな音を発した。
 有坂が、新次郎に侵入しようとしていた。

「よせ!昴がいくらでも相手をしてやる!だから…」
 半狂乱になって叫ぶ昴の顎を、校長の強い指が捕らえ、捻った。
「おまえがそんな顔をするのを初めて見たな…」
 坊城の瞳には、嫉妬と興味が入り乱れている。

 言われて、昴は自分で驚いた。なぜ昴はこんなにも動揺しているのか。
 大河新次郎は、昴の入れない、あちら側の人間だ。健常と純真の象徴だった。決してこちら側に堕ちてきてはならない存在なのだ。
 いつも真剣なまるい目をして、まっとうすぎる言葉を一生懸命に吐いて…それが、昴の知っている新次郎だった。淫らに苛まれる姿など、絶対に見たくはなかった。

 だが、坊城はぐいと昴の顔を前に突き出させた。
「よく見ておくがいい…私から、おまえを奪おうとしたものが受ける罰を…」
 有坂が、新次郎の腰を抱えて前後に動いている。新次郎は、意識があるのかないのか、苦痛に顔を歪めたまま、虚ろな目を半開きにして揺すられている。

「大河…!」




 体を引き裂かれるような痛みが、新次郎の全身に鳴り響いていた。
 明滅する意識の中で、ただ、かすかに昴の叫ぶ声だけが聞こえた。

 昴さんが、ぼくを呼んでる。
 あんなに、一生懸命にぼくを呼んでくれてる。

 それは、苦痛を忘れさせるほどの喜びだった。

 大丈夫、ぼくはここにいます…ずっと、昴さんと一緒にいるって、約束したじゃないですか…。
 だから…心配しないで…。



「…やめろ…!大河…!大河……っ!」
「おまえも罰がほしいんだろう…私がたっぷり与えてあげよう」
 坊城の手が服の内側に入って来た。慣れた指使いで脚の奥をまさぐられたが、昴は気に留めなかった。もう声もあげなかった。
 己の醜悪な悪意が招いた、残酷な結末に、ただその眼を灼き続けた。











 重苦しい痛みの中で、新次郎は眼を覚ました。
 縄は解かれていたが、まだ、反省室のベッドに俯せたままだった。
 腰に杭を打たれて縫い付けられたようで、とても起き上がれないと思った。

 何が起きたのか、じわじわと新次郎は思い出した。何か悪い夢であってほしかったが、そうではないと体の痛みが告げている。

 自分は有坂に犯されたのだ。
 昴の見ている目の前で。


「う…」
 思わず吐き気がして、新次郎はえずいた。こみあげるものを必死に飲み下す。
 それは、自尊心を破壊する強烈な打撃だった。自分が、とてつもなく矮小で惨めなものに成り下がったような気がした。


 どうにか顔を傾けると、昴の姿はなかった。

 どこかで、昴が自分を呼んでくれていたような気がしたのに…。
 あれは気のせいだったのか…。

 窓も時計もない部屋では、どのくらい時間がたったのかわからなかった。
 昴はどこにいるのだろう…。どうか、ひどい目に遭っていませんように…。



 そこへ、ガチャリとドアが開いて、有坂が入って来た。

「起きたか…校長がお呼びだ」
 何事もなかったかのように、有坂は涼しい顔だ。

 新次郎の全身が総毛立った。
 咄嗟に跳ね起きようとして、痛みに呻く。
「立てないか…?そら…肩を貸してやるよ」
 まるでやさしい先輩然と差し出された手を、新次郎は激しい勢いで振り払った。
 おぞましさで、額に脂汗が浮いた。新次郎は自分でも驚くほどの強い憎しみと殺意を覚えた。
 この気取った顔を滅茶滅茶に殴ってやりたい。力一杯首を絞めて、地面に頭を叩きつけて…そして、自分と同じ苦痛と屈辱を与えてやりたい。そうしなければ、この悪寒は一生消えない。永久に、立場の優劣は入れ替わらない。もし今この手に二刀があれば、間違いなく斬りかかって…。

 だが、新次郎は歯を食いしばり、今にも粉々に砕けそうな心の正しさを、かろうじて守り抜いた。おまえと同じけだものに堕ちはしない。体を貶められても、魂まで汚されてはならない。
「ぼくに、さわるな…!」
 不屈の意志をこめて有坂を睨むと、新次郎は着衣を整え、よろめく足を踏みしめてベッドから降り立った。








「我が校の方針に従わなかった君は退学処分だ」
 開口一番、坊城は言った。校長室の大きな机の上に、新次郎に向けて置かれたのは、学校の方針に従うという書類と、そこに署名された自分の名。
「…残念だよ、大河くん。今すぐ、ここを出て行きたまえ」
 本当に残念に思っているかのように、校長は眉を下げて首を振った。

 新次郎はうろたえなかった。
 決然と校長を睨み、全身で叛意を放って立ち向かった。

「ぼくは、ここを出たら、この学院を告発します。…あなたは、紛れもない犯罪者です!」
 だが、坊城は微塵も動揺しなかった。
「やってみたまえ…過去に例がなかったわけでもない」
 平然と指を組み、顎を乗せて新次郎を見やった。
「忘れたかね…?この学院には、有力者の子弟が多い。この国の、政府でも警察でも、卒業生が要人となっている。母校の醜聞は、頼まなくてももみ消してくれる」
 ざっ、と新次郎は青ざめた。そんなことは考えても見なかった。
 だが、負けじと言葉を返した。
「…だったら、新聞社に通報します。世間に広まれば、もみ消しようがない」
「ほう…君は昴の不面目な境遇や行動を広めようというのかね…?ご立派なことだ…そうして誰もが知ることになるのだな…年を取らない異形の、何年も生徒たちを相手に淫らな行為を続けてきた、九条昴という存在を…」



 新次郎はぐっと呻いて押し黙った。
 坊城の言葉は、新次郎の最後の望みを打ち砕いた。
 昴を晒しものにするようなことはできない。つまりは……ここを出たら最後、もう昴のために出来ることは何もないのだ。


「どうして、そこまでできるんですか!あなたは仮にも教育者の長じゃないんですか?」
 非難の限りをこめて、新次郎は詰った。すると、坊城は唐突に明かした。
「私はね、本来ならばあれの父親になっていたかもしれないのだよ」

「え…」
「あれの母親は、家同士の決めた許嫁だった。彼女の醜聞によって破談にならなければね」
 近親婚の、不義密通。昴の言葉を思い出し、新次郎は戦慄した。九条家には、きっと激震が走ったのだろう。

「彼女は私のものにはならなかった。疵ものになったためだ…私にふさわしくないからね…。昴は、彼女の変わりに私がもらったものだ」
 死に神のような、ぞっとする暗い目をして、坊城は言った。
「…だから、決して、手放すつもりはない。傷ひとつつけないよう、大切に、大切に…地獄の底に飼い続ける」

 校長が、昴にどのような妄執を抱いているのか、新次郎には計り知れなかった。昴が生まれたことによって、彼が失ったもの。母親の身代わりとしての、昴への執着と愛憎。
 だが、校長は断言したのだ。これからも、ずっと、昴は苦しみ続けるのだと。その体を玩弄され、誇りを踏みにじられ、決して救われることはないのだと…。




「お願いです…教えてください…!」
 新次郎はすべてをかなぐり捨て、床に手をついた。
「どうしたら、昴さんを解放してくれるんですか……そのためなら…ぼくは、なんでもします…!ここで死ぬまで働けというなら働きます…!だから、どうか昴さんを助けてください…!」
 恥も悔しさも感じる余裕はなかった。昴を思って、新次郎はただ涙を流した。
「お願いです…もう…昴さんを苦しめないでください……」

 校長は、まるで面白い芸でも見るかのように、新次郎の様を見ていた。
「ふむ…君の気持ちはわかったが、しかし、そうすると一つ問題があるな…」
 困ったように眉を寄せ、わざとらしく溜息をつく。
「昴が相手をしなくなったら、生徒たちの欲望をどうすればいいのかな…?」
「え…」

 頭を上げた新次郎を、狙いすますように見下げて、坊城は言った。



「君が、昴の身代わりになるというのなら、昴を解放しよう」











《続く》




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