グラウザム・メルヒェン (7)






「とりあえず、身を隠そう。でないと、君は誰に襲われるかわからない」
 新次郎の身繕いを手伝ってやると、昴は新次郎に肩を貸し、森の奥へと分け入った。
「大丈夫か…少し下り坂を歩くぞ」
「はい…平気です」
 昴が自分をいたわってくれるのがうれしくて、新次郎は痛みを忘れてつい笑顔になった。


 どこを歩いているのかわからなかったが、昴は山中の地理を熟知しているようだった。
 新次郎の体を気遣って、慎重に歩を進めながら、昴が言いにくそうに口を開いた。
「大河…一つだけ…言っておきたい」
 落ち葉を踏みしめ、昴は言った。
「本当に君のことを思うなら、昴は君といるべきではないとわかっている…昴と一緒では、巷間に暮らすのは難しい…」
「昴さん、やめてください」
 体を強ばらせ、はっきりと、新次郎が遮った。
「言ったじゃないですか。そんなこと関係なく、今の昴さんが好きですって。どうか、信じてください」
「………」
 もとより、新次郎を疑うわけではない。それに、昴が己を卑下すれば、新次郎の労苦を無碍にすることになる。
「わかった…昴は約束する。もう二度と言わない、と」
 昴が答えると、新次郎は安堵したように肩の力を抜いた。


 やがて、木々の向こうに、長屋のような建物が見えて来た。
「職員の宿舎だ。敷地の下方に隣接している。生徒は立ち入り禁止だ」
 そう言って、昴は堂々と建物の中に入っていった。
「大丈夫、今は皆校内で働いている時間だから無人だ。ここに一つ空き部屋があるんだ」
 ポケットからピンを出すと、これまた慣れた様子で鍵を開ける。新次郎はいちいち感心した。

 中は畳敷きの六畳間で、昴は窓から死角になる位置を選んで新次郎を座らせた。
「脱出するなら日の出前だ。坊城も流石に寝入っているだろうからね…。ここなら、明け方まで潜んでいられる」
「でも、点呼でばれてしまいます」
 新次郎が心配そうに言うと、昴は平然と片付けた。
「昴は点呼などされなかったよ…自分の部屋にいるとは限らなかったからね」
「あ…そうか…」
「あとは、それまで昴が適当に校長の視界に姿を見せて、油断させておけば大丈夫だ…」
「危なくないですか」
 新次郎は有坂たちのことを言っていた。今頃彼らは復讐心をたぎらせているはずだ。
「大丈夫…彼らに見つかるようなへまはしないよ」
 昴はさも自信ありげに笑ってみせた。




「…ちょっと待っておいで…すぐに戻る」
 言い置いて、昴は姿を消した。やがて、購買部のパンと牛乳を持って戻って来た。
「空腹なんじゃないか…これで、朝まで持つかい」
「わひゃあ、ありがとうございます!実は全然食べてなくて、おなかがぺこぺこだったんです」
 瞳をきらきらさせながら紙袋を破き、新次郎はパンにかぶりついた。その様子を、昴は眼を細めて眺めていた。

「…昴さんは食べないんですか?」
 唐突に新次郎が問うた言葉に、昴はふいと顔を背けた。
「昴はいい…」
「一口どうぞ。おいしいですよ」
 パンをちぎって差し出すと、昴はかあっと耳まで真っ赤になった。

 昴が食事に羞恥を覚えるのを思い出し、新次郎は一瞬戸惑った。
 だが、その羞恥は、もしかしたら昴が生きることを恥じていたからではないかと、ふと思った。
 罰すべき体を生きながらえさせるために、食物を摂取する。それを忌まわしく思う心が、昴に食事を恥じさせていたのではないかと。
 新次郎はパンを手にしたまま、じっと昴を見て言った。
「食べ物を食べるのは、恥ずかしいことなんかじゃないですよ。一緒に食べましょう」
 昴は、何か言い返したいように、何度か口を動かした。だが、最終的に、ふるえる唇を開き、新次郎の手ずから、パンの切れ端を口に入れた。
 頬を動かして咀嚼し、こくりと喉を上下させて嚥下する。その様子をじっと新次郎が注視しているのに、昴はさらに赤くなった。
 だが、新次郎は何事もないような笑顔で言った。
「おいしいでしょう?」

「……うん…本当だ……」
 ぽつりと、昴が呟いた。
「もう…長い間、食べ物の味など感じなかった…」
 そして、新次郎を見上げ、しみじみと、噛みしめるように言った。
「君と一緒に食べると、食べ物は、おいしいんだな…」
 新次郎は、眩しいほどの笑顔で、昴に笑いかけた。
「ここを出たら、いっぱい、おいしいものを食べましょう。一緒に」


 おなかがくちくなった新次郎は、ふわあと欠伸をした。昴はその頭をひょいと引き寄せて、膝の上に倒した。
「わひゃあ…」
 昴の腿の感触を頬に感じて、今度は新次郎が赤くなる。
「明け方まで、まだ時間がある。少し眠るといい…」
 新次郎が聞いたことがないほどやさしい声で、昴が言った。



 昴の膝に頭を預け、新次郎はまどろみながら、夢を見ているように呟いた。

 どこかに、ぼくたちが、違うぼくたちでいる世界があるかもしれませんね。
 どこか遠い国の、遠い街で、ぼくたちは出会うんです。
 ぼくは、夢見たとおりの海軍士官になっていて…昴さんは綺麗だから、女優さんなんてどうでしょう。
 ぼくたちは、喧嘩をしたり…仲直りしたりして…沢山デートして…クリスマスやお正月を一緒に過ごして…。
 そして、ぼくたちはきっと、何があっても、ずっと一緒にいるんですよ…。




 寝入った新次郎の、長い前髪を梳いて、昴は語りかけた。

「昴は、告白する……あの日、放課後の教室で、君を誘った…。昴が、自分からキスしたのは、君が初めてだったのだ、と…」
 新次郎はぴっちりと瞼を閉じて、安堵しきった顔で穏やかな寝息をたてていた。そのこめかみに、昴は深く腰を折り曲げて、そっと唇を落とした。
「きっと、昴も…最初から、君に惹かれていたんだな…」








「起きろ、大河。そろそろ時間だ」
 耳元に小さく潜めた昴の声で、新次郎は眼を覚ました。
「うーん………つっ…」
 目を擦り、体を起こそうとして、下肢の痛みに呻く。
「大丈夫か…」
「あっ、はい、全然平気です!」
 新次郎は強がって、笑顔でガッツポーズを作った。
 悪夢の経験を、勿論忘れたわけではない。一生、忘れられるわけがないだろう。だが、傷ついた様子を見せれば、それが昴の負い目になる。
 これは、昴に代わって受けた名誉の負傷なのだ。何より、昴が本気で自分と生きる道を選んでくれた喜びが、新次郎から苦しみを退けた。

「君の荷物から、貴重品だけ持ってきた。全部だと脱走がばれるからね」
 昴に財布やらを渡されて、新次郎は恐れ入った。
「わひゃあ、ありがとうございます!助かります」



 外はまだ暗く、森でフクロウがほっほうと鳴いていた。
 月明かりの中を、昴は迷わず新次郎の手を引いて進んだ。職員宿舎の敷地を抜け、再び森に入り、麓を目指して山を下る。
「ここを出て、どこへ行くか考えているかい?」
 淀みなく足を運びながら、昴が尋ねた。
「ええと…やっぱり外国かなあ…あの校長、追いかけてきそうですし、いろいろ顔が利きそうなので、怖いですから…アメリカはどうですか?自由の国です」
「いいね…紐育はどうだろう。巨大都市だ。僕たち二人くらい紛れていられるよ」
「賛成です。ぼく、英語はけっこういけるんです。旅費は、少しなら貯金があるんですけど、おろせるかなあ…」
「昴には、自由になる財産がある。坊城が手を回すまえに引き出そう……そうだ、僕たち二人とも、変装しよう」
「名案です」
「その言葉、忘れるなよ…君は女の子になるんだ」
「ええええっ」
「しっ…声が大きい」
 こんな森の中で誰もいないとは思ったが、静寂の中に声が木霊している。新次郎は慌てて声を落とした。
「勘弁してください」
「いや、きっとよく似合うよ…ふふ…楽しみだ」
 昴は本当に楽しそうに微笑んだ。
 その顔を見て、新次郎は心底からうれしかった。昴がこんなふうに笑ってくれるなら、えい、もう、ままよ。女装だってなんだって、粉骨砕身、やってみせようじゃないか。

 こうして、昴と二人、これからの未来のことを笑いながら語り合っている。
 まるで夢のようで、新次郎は胸がいっぱいになった。




 やがて、唐突に森が終わって、バス路線のある道に出た。
 すぐそばに、職員用通用口への矢印があり、蒸気灯の灯りが一つだけ点いてぽつんと照らしている。
 空は微かに白んで、早朝の静けさが空気に満ちていた。


 やっとここまで来た。新次郎は山肌を振り仰いで息をついた。
 学校の敷地を抜けたのだ。後は緩やかな下り道を行けばいい。うまくすれば、昼頃まで脱走が発覚しないかもしれない。その頃には、バスに乗って最寄りの町へ着いている。

「ねえ……大河……」
 つないだ手の指を、おずおずと絡ませて、昴が呼びかけた。
「なんでしょう」
 わずかに頬を染め、昴は伏し目がちに言った。
「どこか…落ちつける場所に着いたら…その時、昴を抱いてくれるだろうか…?」
「え…」


「…君が好きだ…大河、新次郎…」
 昴は顔を上げ、少し泣きそうに見える笑顔で、新次郎を見つめた。
「君に愛されたい…君と、結ばれたい……君だけと…」

 ぽおっ、と新次郎の頬に血がのぼった。

「はっ、はい!喜んで!」
 昴の両手をしっかと握り、新次郎は力いっぱい答えた。
 はにかんだような昴の顔は、この上なく可愛らしくて、今すぐ抱きしめたいほどだった。
 昴が、自分を好きだと言ってくれた。昴が、自分を好きだと……何度も胸の中で大切に繰り返しながら、新次郎はまるで天にも昇る心地だった…。




 ふと、視界の隅の山腹に、きらりと小さな光が見えた。

 同時に、昴が叫んだ。

「危ない、大河!」





 黎明の静寂に銃声が響いた。





 一瞬のことで、新次郎には咄嗟に何が起きたのかわからなかった。

 突然、昴の体が自分にぶつかってきて、地面に押し倒された。
 腰だか頭だかをしたたかに打って、痛みでしばらくくらくらした。
 昴の体は、自分の上に掛布のように重なって被さっている。甘い匂いの髪が、新次郎の顔にかかって、鼻孔をくすぐった。

 その香りの中に、新次郎は錆のような血の匂いを嗅ぎ取った。



「昴さん…?」
 声をかけても、昴は動かない。右胸のあたりに、生あたたかい濡れた感触が沁みてきた。

「昴さん!」
 新次郎は跳ね起きた。
 腕の中でぐったりとした昴の、左肩に、浅葱色の制服を黒々と染める滲みが広がっている。

「そんな、昴さん!昴さん!」
 新次郎は動転し、叫んだ。だが、即座に己を取り戻し、これ以上狙い撃ちされないように、蒸気灯の光の輪から逃れて、木陰に昴の体を移動させた。
 どこでばれたのか。荷物を調べられたか、校長の勘か…。
「大…河……君は…無事か…」
 薄く眼を閉じたまま、昴が浅い息の合間に言った。

「弾は貫通してます。じっとしててください」
 ハンカチを傷口に押し当て、ネクタイで縛った。だが腕ではなく肩なので縛りにくく、抑えるそばから、どんどん黒い沁みは広がっていく。
「くっ…」
 新次郎は額の汗を拭い、昴のタイも解いて使った。





 そこへ、森の中から、ライフル銃を手にした坊城校長が飛び出した。
 山中を走り降りてきたのか、息を切らし、高級そうな寝間着とガウンは木の葉まみれで汚れている。

「なんということだ!」
 昴の姿を目にした坊城の顔には、新次郎が初めて見る狼狽が浮かんでいた。
 この悪鬼のような男でも、少しでも人がましい心を持ち合わせていたかと思った矢先。


「昴の体に、傷がっ」


 かっ、と新次郎の頭に血が昇った。
 勝手に、足が地を蹴って飛んでいた。

 校長の顔に拳がめり込んで、その痛みで初めて、新次郎は自分の行動に気づいた。



 坊城校長は、ライフル銃を投げ出して、地面に伸びていた。
 新次郎は憤りのあまり視界が濁るほどだった。だが、荒い呼吸を抑え、踵を返して昴のもとに駆け戻った。

「昴さん…!」
 撃たれていないほうの腕を引いて、新次郎は昴を背負った。一刻も早く、手当てをしなければ。
 そして、はっと山を見上げた。
 学校に戻れば、応急処置が出来るのでは。

「…いやだ…昴は戻らない」
 新次郎の考えを察したように、背中で昴が言った。
「戻るくらいなら…ここで死んだ方がいい。…大河、お願いだ…」
 剥製にしてやる、という校長の言葉の真偽は計りたくなかったが、戻れば昴を待つのは死より残酷な仕打ちであろう。あそこはとんだ治外法権だ。

 ならば、希望に賭ける。
 新次郎は心を決めた。
「少し行けば、国道に出ます。車が通りかかったら、病院に運んでもらいましょう」
 傷ついた昴を背負って、新次郎は駆け出した。








 空は東に明るさを孕み、星がその輝きを褪せさせて、西の端に消えていこうとしていた。
 子供の重さとはいえ、昴を背負ってしばらく走ると、新次郎の息が上がってきた。
 それでも、新次郎は速度を落とさなかった。一刻も早く、昴を病院に連れて行かなければ。
 一歩走る毎に下肢に痛みが響いたが、新次郎はかまわなかった。



「大…河……っ…もう少し…ゆっくり…」
 背中で、昴が呼びかけた。
「…え…?」
「揺れて…痛いんだ…速度を落としてくれないか…」
「でも…!」
「…頼む…」
 昴の声は本当につらそうだ。
 新次郎は仕方なく、少しでも昴を揺らさないように気遣いながら、可能な限りの早足で歩いた。
 新次郎の呼吸が落ち着いてくると、背中の昴が、また声をかけた。

「…ねえ……大河…教えてほしいんだ…」
「何ですか?」
「…君が、どんなふうに、昴を愛するのか…聞かせて…」
「ええっ!」
 新次郎は動揺し、大声をあげた。
「君の声で…君の言葉で…聞きたいんだ………痛みが紛れる」
 そう言われて、新次郎には拒めなかった。

「え…っと…その…あの…」
 唇を湿すと、口ごもりながら、言葉を探した。
「ええと…やっぱり、最初はキスしたいです。昴さんの唇は…ふわふわで、すべすべして、いつも、キスしたいって思ってましたから」
「…舌は入れる?」
 からかうような声音に、新次郎は開き直ったようにきっぱりと答えた。
「もう、遠慮なく!」
 背中で、昴がくすりと笑った。
 それで、新次郎は弾みがついたように続けた。
「髪にも、さわりたい…さらさらして、水みたいですよね…。耳とか、喉とかも、キスしまくります。それから、その…昴さんの胸も撫でまわします。…胸にも、キスします。舐めたり、吸ったりします。それから、その…もし、いやじゃなければ…痛くないようにしますから、そうっと、そうっと、噛んでみたい…」
 昴の体が、ぴくりとふるえるのがわかった。
「はぁ……それから…?」
「脚も、さわります。お尻も外せないです。背中も、手足の指も、膝の後ろも、…昴さんの体中全部、指でさわって、キスします」
 鼻息荒く、新次郎は熱弁をふるった。
「……それから…その、ええと…昴さんの…」
「昴の…何…?」
 昴の声はかすれている。新次郎ははあっと息を吐き、声を低め、続けた。
「昴さんの、脚の間も、さわります。どんなふうなのか、じっくり眺めます。やわらかさとか、熱さとか、全部、知りたいです。……味も」
「…ああ…」
 耳元に、昴の甘い息。
「それで、ぼくは、ぼくの…ええと……昴さんの中に入っていきます。…やさしくします。必ず」
「ん…っ……」
「ぼくは昴さんの中にいて、昴さんはぼくを包んで、ぼくたちは、一つになって…溶け合って、きっとその瞬間は永遠なんです」
 昴のはかなげな重みが、少しずつ軽くなっていくような気がした。背中の左側が、じっとりと濡れている。新次郎は声に勢いと熱を込めた。
「ぼくは、全身全霊で、昴さんを抱きしめます。いっぱい、いっぱい、昴さんを揺すって、昴さんの名前を呼んで、…昴さんの声を聞きます。昴さんの顔を見ます。昴さん、あなたが好きです。ぼくは、昴さんが大好きです」
「あ……っ…!」
 背中で、昴の体がひりひりと痙攣し、くったりと脱力した。
「ああ…大河……」
 蝶がふわりと飛び立つような、羽のように軽い声で、昴は新次郎を呼んだ。
「いい、気持ちだ…雲の中に溶けているようだ……昴は…こんなに、君に愛された……」
 そして、か細いけれど、一言一言、絞り出すように、はっきりと言った。
「こんなに、幸せな気持ちは、生まれて初めてだ…」


 幸せだ、と昴が言ってくれた。
 新次郎は思わず天を仰いだ。

「本当に、全部本当にしますから。覚悟してくださいね。もう絶対に…」
 ふいに、涙が溢れそうになって、新次郎は顔を歪めた。
「もう、絶対に、ぼくは昴さんを離しません」
 昴は答えずに、静かに眼を伏せていた。





 前方の山の端が、白々と明るんできた。

 新次郎は夜明けに向かって歩いた。

 昴と、紐育へ行くのだ。

 そこで、ぼくたちは…ずっと、一緒に……。






 昴の血の跡を、ぽつぽつと後ろに残しながら、ただひたすらに、新次郎は歩き続けた。


  





《グラウザム・メルヒェン〜残酷な童話〜完》




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