あした              
明日の思い出




 眼を開けると、日の光を透かして青葉がまぶしかった。ひんやりと湿った空気には、土と樹木の香りが満ちている。指先に濡れた草が触れた。

(ここは…?)
生い繁る森の中に、私は倒れていた。視界が斜めなので一瞬ぎょっとしたが、地面が傾斜しているのだった。つまり山の中ということか。
 なんだか体がだるい。目眩をおして立ち上がると、長い時間乗り物に乗っていた後のように、足もとがふわふわした。この違和感はなんだろう。まるでいてはいけないところに来てしまったような…。

 その時、私の耳に、かすかに子供の泣き声が聞こえてきた。

(うわ〜〜ん…うわ〜〜ん…)
(ママ〜〜〜…パパ〜〜…)

「誰かいるの?」
私は呼びかけた。泣き声は、驚いたように一瞬止んだが、堰を切ったようにさらにはげしくなって、こちらに向かって近づいて来る。
「うわ〜〜ん!」
がさがさと茂みをかき分けて、小さな男の子が現れた。涙と泥と草の切れ端に汚れた顔で、目を丸くして私を見つめている。
「ママ〜!」
突然、男の子が叫んで突進してきた。
「はあ?」
「ママ!うわ〜んわんわん」
私の足にしがみついて泣きじゃくる。

「ええと…どうしたの?泣かないで…」
ハンカチを差し出すと、子供はしゃくりあげながら眼の周りだけごしごしと拭いて返した。私は仕方なく、畳み返して汚れた頬や鼻をぬぐってやった。
 こんな小さな子供が、一人でどうしたのだろう。山で迷子になったのだろうか。
 迷子…といえば私も迷子なのだ。いったいここはどこなのか。なぜ私はこんなところにいるのか。

 いくら考えてもわからなかった。
 私は確かに、さっきまでみんなといっしょに帝劇のサロンにいたのだから。






「マリア!お誕生日おめでとう!」
「ありがとう、みんな…」
仲間たちが開いてくれた誕生パーティーは、ささやかながら心がこもっていた。さくらとカンナの手料理に、食べきれないほどのお菓子と飲み物。壁や窓はレニとアイリスのつくった飾りで彩られていた。
「これでおにいちゃんがいればいいのに」
アイリスがキャンディーをくばりながら少し不満そうに口をすぼめた。ほんの一瞬、寂しさがすきま風のように吹きつけたが、すぐにみんな笑顔を取り戻した。
「巴里にいる少…中尉サンのことなんかほっとくで〜す!さあ、ちゃっちゃっとプレゼントタイムにいくで〜す!」
「そうそう、楽しくやろうぜ!」
 カンナは酒瓶にリボンをつけてどすんと寄越し、すみれは私のために作らせたという香水を、レニは、アイリスと一緒に選んだと言ってオルゴールをくれた。

「マリアはん、ウチのプレゼントはとっときやで!」
最後に進み出た紅蘭の眼鏡がきらりと光ったので、なんだかいやな予感がした。
「ウチの世紀の大発明や!じゃ〜〜ん!」
背後の白い掛け布をはがすと、なにやら物々しい装置があらわれた。
「な、何なの、これは…」
「ふっふっふ。驚いたらあかんでえ〜!その名も『すべすべくん』!お肌の若返り装置や!」
「いやだわ。私そんなに肌が荒れてるかしら」
思わず自分の頬を撫でていると、
「まあまあ、よう赤ん坊みたいな肌言うやんか!このさいぱ〜〜っと20年くらい若返ってもバチは当たらへんて!」
紅蘭はわきわきした妙な手つきで私ににじりよってきた。

「こ、紅蘭、悪いけど、遠慮しておくわ…」
そっと後ずさろうとしたが、
「人の好意を無にしちゃいけねえなマリア」
「そうですよマリアさん!あたしたちのプレゼントを受け取ってくれたのに、紅蘭のだけ受け取らないなんて!」
カンナががっしりと肩を掴み、さくらがにこにこと手を引っ張って促した。
「…あなたたち、おもしろがってるわね。覚えてなさい」
二人をにらみつけ、私があきらめて装置についた座席のような部分に座ると、紅蘭は喜々としてスイッチをいじり始めた。
「これでうまくいったら他のいろんな部分に老化回復の応用が効くで!医学の大発展や!」
すでに他の仲間たちは遠巻きに避難している。
「やっぱりプレゼントにかこつけて実験がしたいだけじゃない…」
「固いこといわんと!どんなきめ細やかなお肌でも、マリアはんの望みのままでっせ!皮膚の細胞の時間軸を巻き戻し、活性化させた細胞にコラーゲンが……」

(私の望み…)
紅蘭の言葉に、私はふと心を止めた。
(やはり一番の望みは、隊長に会いたいということかしら…)
(それとも…)
漠然と考えていると、ふいに機械がプシュプシュと煙を噴き、いやな唸りをあげ始めた。
「あかん!」
紅蘭の声にぎょっとした途端、爆発音とともに激しい衝撃が私を襲った…。





「ママ、ひっく、ぼく、さびし、ひっく、かったよ…」
切れ切れに言いながら、小さな体が私にすがりついている。このくらいの年の子供は、大人の女性は誰でもママなのだろうか。それとも、母親を探し続けて、心細くなっているのかもしれない。
「泣かないで、その…いい子だから。ね?…」
どうしていいかわからず、なだめ続けているうちに、子供はようやく呼吸が静まってきた。
「落ち着いたかしら」
声をかけると、子供はいぶかしげに私の顔を見上げ、小さな首をかしげた。
「ママ。かみがちがう…」
「ああ、あのね、私は半分ロシア人だから…」
説明して解るだろうか。確かに、金髪なんて、この年の子供にはめずらしいだろう。
「どうしてみじかいの?」
「どうしてって…私は男役が多いし…その…男役っていうのはつまり、私は舞台女優なんだけど…」
子供がぽかんとしているので、まどろっこしくなってやめた。きっとこの子の母親は髪が長いのだろう。ため息混じりに、私は尋ねた。

「ぼく、お名前は?」
「おおがみいちろうくんです!」

 即行で帰ってきた返事に、私は唖然とした。子供の顔をまじまじとのぞき込む。



 固くとがった髪、くっきりとしたまなじり。
(まさか…)
思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。



「ええと…いくつ?」
「3さいです!」
じゃあここは…20年前なのか。紅蘭の機械の爆発で、何か超自然的な現象が起きたのだろうか。そういえば時間軸がどうのと言っていたような…。
「今が、いつだかわかる?」
「えっとね、にちようび!」
「そうじゃなくて…何年の、何月何日か…」
「おたんじょうびは、いちがつ!」
「……………」
「ぼく20までかぞえられるよ!すごい?」
「……ええと…ここはどこだかわかる?あなたはどこから来たの?」
「おばあちゃんち!」
 隊長の出身地は栃木だったっけ…ではここは栃木のどこかの山なのか。
(マリアはんの望みのままに…)
紅蘭の声がよぎった。そういえばあのとき隊長に会いたいと思っていた。私の意志がどこかに反映して、隊長に会えるように空間を移動させられたのか。ただし、20年も時間がずれて…。

「うさぎさんだよ!」
「え?」
不意に小さな隊長が叫んだので、私は考えを中断して聞き返した。
「うさぎさんねえ、ぴょんぴょんぴょんって、すごくはやかったの!ぼく、つかまえようとしたんだよ!」
「うさぎ…?何の話?」
「いっしょうけんめいはしったの!でも、ぼくまけちゃった…」
どうやら、うさぎを追いかけているうちに、山奥まで入り込んで迷ってしまったようだ。もっとも、すぐにそうとわかったわけではない。
「ぼく、ほんとはかけっこはやいんだよ!ぼくおうまさんも好きなんだ!」
こんな調子でしゃべり続けるので、その中から脈略のある部分をすくい取ってつなげるのが一苦労だった。

 だから子供は苦手なのだ。3才の隊長を前にして、私は腕を組んでこめかみを押さえた。
 意志の疎通が難しくて。何を言ってるのかよくわからないから、なんて返事をしていいのかもわからない。遠慮がなくて、騒がしくて、そのくせ叱るとすぐに泣き出す。笑顔でやさしく接しなきゃいけないようで、神経が疲れるのだ。
 カンナならこんな時どうするだろう。私はカンナが子供たちと戯れる様を思い起こした。しゃがんで目線を合わせて、頭を撫でて…。

 私は腰ではなく膝を屈めて、正面に向かい合った。
「隊長…じゃなくて…ええと…い…」
唇がむずむずしたが、思い切って呼んでみる。
「いちろうくん」
「はい!!!!」
突然気をつけをして大音声で叫ばれ、私は首をすくめた。
「よばれたら、いいおへんじ!」
隊長…もとい、いちろうくんは鼻の穴をふくらませて得意そうに胸を張ると、ぶんと頭をこちらに突き出してきた。
 ようやく頭を撫でてくれというゼスチュアだと察し、
「ああ、はいはい、いいお返事でえらいわね」
と固い髪を撫でてやった。げんなりしつつも、その様子があまりにこっけいで、私は思わず小さく吹き出した。
 私の笑顔に安心したのか、ミニ隊長は甘え声を出した。
「ママ、だっこ…」
「はあ?」
「だっこ!」
せかすように手を伸ばしてくる。
「…なんで私が…」
 脇に手を入れて、しぶしぶ抱き上げた。思ったより軽いので驚いた。
 黒い瞳が、森の緑を照り映えさせて、きらきらと光っている。
(隊長ったら…子供の時はこんなに小さくてかわいかったのね…)
ふっくらしたほっぺを見ながら、私は、少しうれしくなった。

 このまま放っておくわけにもいかない。きっと、ご両親が心配しているだろう。
「お姉さんが一緒に行ってあげるから、もう少しがんばって歩きましょうね」
そう言って小さな体を地面に降ろすと、隊長はきょとんとした。
「ママ、お姉さんじゃないよ」
「…悪かったわね。どうせ私は花組最年長よ」
私は一人口の中で呟いた。
 自分がもとの時代に帰れるかどうか不安だった。だが、いくら考えてもどうすればいいかわからない。
 今はただ、隊長を無事にご両親の元に送り届けることだけを考えよう。私のことはそのあとでいい。


 けもの道のような、かすかな草の切れ目をたどって、木の根や石ででこぼこした斜面を降りていく。雑草は私の膝まであり、細かな木の枝が挑むように目の前につきだしてくる。私は隊長の先を歩き、少しでもそうした枝を押さえてよけてやりながら、慎重に進んでいった。
 じっと救助を待つべきかどうか悩んだが、どのくらい時間がかかるかわからない。むやみに歩き回って余計に迷ってもいけない。ならば少しでも山を降りて、人里に近づこうと思った。
 雨が降った後なのか、地面が濡れていて歩きにくい。時々、小さな隊長が足を滑らせてころぶので、何度も助け起こしてやったり、抱き上げて段差をおろしてやったりした。私に出会う以前の彷徨で、すでに膝のまわりは擦り傷だらけになっていたが、彼はどんなに転んでも、大人といる安心感からか、もう決して泣かなかった。
「ぼく、いたくないよ!」
そういって微笑んでみせるおもざしは、未来の隊長を彷彿とさせて頼もしかった。

 きっと、愛されて、まっすぐに育てられたのだろう。私は眼を細めて小さな笑顔を眺めた。
 隊長を見ているといつも感じる、まぶしさのようなもの。
 悩んだり、迷ったりすることはあっても、決して人を憎んだり、己を呪ったりすることなく、いつもまっすぐ、正面からぶつかってくる。その背後に感じるのは、あたたかで誠実な家庭のにおいだ。

(…それにくらべて私は…)
そう思うと、ふっと視界がかげるような、薄暗い気持ちになった。

 両親は私を愛してくれていたはずだった。
 でも、私のものごころがついたときは、すでに生活は流刑地にあった。
 生きることだけで精一杯の日々の中で、愛情や思いやりは、家族の中にあってもただすりへっていくだけだった。そんな家庭の残骸すら、私は早々になくしてしまった。

 いつも感じる、引け目のようなもの。家族がいないということ。ひとりぼっちだということ。根無し草のような不安と、寂しさ。そして、私の過ごしてきた、隊長とは正反対の長い寒々とした時間。
(だから、私はきっと隊長にはふさわしくない…)
 寂しさはいつも同じ結論に行き着いてしまう。
 隊長と家庭を築いていく自信がない。隊長の持つ暖かさが、私には手の届かない宝物のようで、実感がわかないのだ。いつくしみあう言葉も思いも、明日には醒めてしまう夢のようにはかないものに感じてしまう。私はただその夢に酔って今を生きているだけだ。
(…それでもいいわ)
私は軽く頭を振って、顔をあげた。
 夢でもいい。私は今確かに、こうして隊長を思って幸せな気持ちになれるのだから。それ以上何を望むというのだ…。

 振り向くと小さな隊長の姿がない。ぼんやりしていて先に行きすぎてしまったのか。私はあわてて大声で叫んだ。
「いちろうくん!?」
「ママ、ぼく、おしっこしてるよ」
草むらの陰に、かわいいおしりがのぞいている。私はほっと胸をなで下ろしながら、顔がほころぶのに任せた。




 先ほどから聞こえていた川の水音が、すぐ近くになってきた。川に沿って行こうかとも思ったが、眼下に見える川は、雨で増水したのか水が濁り、流れが早かった。
 落ちたりしたら危険だ。少し迂回しよう…そう思った矢先、近くの藪ががさがさと動いて、何か小動物が飛び出した。
「あっうさぎさん!」
隊長は私の手をぱっと離した。その弾みで足を滑らせる。
「あぶない!」
私の叫びもむなしく、隊長はつるつると斜面を滑り落ちていった。小石も草も、彼の体を止めてはくれなかった。
「わー」
小さな悲鳴を水音が飲み込んだ。

「隊長!」
転がるように後を追い、泳ぎの不得手なことも忘れて、私は水に飛び込んだ。







続く
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