コンチェルトが聞こえるか (1)
「皆に紹介する」
練習前のミーティングに、シベリウス楽団長とともに現れた二人は、どちらも印象的な人物だった。
一人は、子犬のようなまるい眼をした、人なつこい笑顔の青年。
スチールグレーの襟付きベストに、薄ねずのタイを締め、白いシャツの袖口のボタンをぴったりと留めた楽団服。
もう一人は、子どものように小柄ながら、高貴な物腰の謎めいた美少年。
同じスチールグレーのブレザーに藤紫のリボンタイ、チェック柄のズボンの丈は短く、すらりと伸びた足の先が黒ソックスに包まれている。
「このたび、研修生として奏組に配属されることになった、大河新次郎と九条昴だ。見知りおくように」
ざわ、と楽団員がさざ波立つ。
「研修生…?」
隊長である音子も、思わず呟いていた。奏組に配属されてこのかた、研修制度があったなど聞いたことがない。
「大河新次郎です!粉骨砕身の努力で頑張りますので、よろしくお願いします!」
「僕は、九条昴…それ以上でも、それ以下でもない…」
片方は元気よく、もう片方は気だるげに挨拶をした。
奏組に入るからには、彼らは大なり小なりの「力」を持っており、その使い方も理解しているということになる。だが、どちらも怖じる様子もなく、どこか落ち着いて見えた。
「担当は、大河がアルトサックス、九条がピアノだ。解散後は各自、パート練習に参加するように。…以上だ」
眉間に深く眉を寄せたいつもの鋭い眼差しのまま、楽団長は淡々と結んだ。
「アルトサックスならヒューゴといっしょだな!あ、オレ、トランペットの桐朋源二だ!よろしくな!」
「九条はん言わはるんは、京都の出身どすか?同郷どうし、仲良うしとくれやす」
人の好い源二が早速声をかければ、いつも昌平と東西論争に明け暮れる世海も、味方発見とばかりに昴に笑顔を向ける。だが、団員たちの間には全体的に、新人を歓迎するムードと、研修生という聞き慣れない言葉に戸惑う微妙な空気が混在していた。
音子の瞳には、新次郎は素直で明るい青年に映ったが、昴のアルカイックな微笑みはどこかよそよそしく感じられた。
「ミヤビ君、ちょっと来たまえ」
呼ばれて、音子は楽団長のもとへぱたぱたと駆け寄った。
「あっ、はい…何でしょう」
「隊長としての君の任務だ。研修期間中、彼らに便宜を図るように。…それから…」
シベリウスの低く抑えた声が、音子の頭に落ちた。
「彼らの前で、決して気を抜くな」
「え…?」
音子は眼をまるくして楽団長を見返した。
「それって、どういう…」
「以上だ」
だが、楽団長は話を打ち切り、廊下を去って行ってしまった。
「どうかしたのか…ミヤビ」
ヒューゴの声に振り向くと、源二を除く奏組隊員が揃っている。
「あっ…ええと……その…楽団長が、あの二人に便宜を図るようにって…」
一瞬迷ったが、自分にもわからないことを不用意に言わないほうがいいと思い、音子は話す範囲を選んだ。
「楽団長が気にかけるとは、何か特別な事情でもあるのだろうか」
ジオが、指先で眼鏡のブリッジを押し上げる。
「さあ…でも、特徴のある二人ですね」
ルイスの声はやんわりと訝しさを含んでいた。
「研修生だかなんだか知らないけどさ、この忙しい時に余計な面倒は勘弁してほしいよね」
棘を含んだ口調は源三郎だ。
先日の聖アポロニア学園の事件で、帝都には瘴気が撒き散らされ、魔障事件が多発している。数日前にも、謎の傀儡集団『醤』による連続女性誘拐事件が起き、デノンマンサーの暗躍が懸念されていた。そのため、奏組は見回りと出動が続く日々である。
さらには、帝都を守る重武装部隊・帝国華撃団花組が、今日から不在というプレッシャーも重なっていた。
詳しい経緯は知らないが、以前、真宮寺さくらが故郷の仙台に帰省した折り、なぜか花組全員が集まって、臨時公演をしたことがあったそうな。
そして、今回臨時ではなく正式に再演してほしいという声が仙台市民から届き、もぎりの青年や劇場スタッフ諸々引き連れての、大がかりな地方公演と相成った。
その間、帝都の守りは手薄となる。音子たち奏組隊員は、少なからず神経を尖らせていた。
「と、とにかく…!みなさん、仲良くしましょう!」
「だって研修生でしょ?いつまでいるかわかんないんだよね」
音子の言葉に、即座に源三郎が返す。
「でもでも…!期間が限られていても、私たちの仲間には変わりませんから!」
「うむ。貴族たるもの、分け隔てをするつもりはないぞ」
「そうですね…とりあえず、様子を見守りましょう」
ジオとルイスの応援に、音子はほっと頬を緩めた。
「というわけで!ヒューゴさん、同じパートですから、新次郎さんを見てあげてくださいね!」
「…わかった…」
ヒューゴは無愛想に答えると、源二にばんばんと肩を叩かれている新次郎をじっと見た。
午前の練習が終わり、音子が昼食のために食堂に向かっていると、丁度ヒューゴと新次郎が歩いてくるのに気づいた。
「あっ、ヒューゴさん、新人さんの様子はどうでした?」
音子が尋ねると、ヒューゴは厳しい言葉で評した。
「タイガの演奏技能は趣味の域を出ていない。もっと鍛錬が必要だな」
「うう…すみません、精進します…」
横で新次郎がしょぼくれている。
「ま、まあまあ…焦らないで、頑張ってくださいね!」
音子は笑顔で励ました。奏組は、音楽的素養ではなく、霊的な能力を買われて入団するものもいる。少年だった源二や源三郎が入団した経緯もそうだったようだし、かくいう自分も同じ部類だ。この新次郎という青年も、訓練次第では霊音を奏でられるようになるのかもしれない…。
そんなことを思っていると、新次郎がぽつりと呟くのが聞こえた。
「やっぱり付け焼き刃の練習じゃ駄目か…」
小声でも、ヒューゴの鋭敏な耳は逃さなかった。
「今なんと言った?」
「あっ、いえ、あの…」
「君は、どういうつもりで奏組に来たんだ」
気圧されて、新次郎は慌てた様子で冷や汗をかいていた。
「わひゃあ…え、えーと、ぼくはですね…」
その時、まるで新次郎の助け船のように、鍵盤パートの練習室からピアノの音色が聞こえてきた。
「これは…」
流れるメロディは、ショパンの「幻想即興曲」。
ヒューゴが、新次郎から身を離し、思わず感嘆の声を漏らした。
「なんて…美しい」
無意識のうちに音子の瞳孔が針となり、音を見ていた。
軽やかな嬰ハ短調のパッセージは七色に輝く絢爛な錦絵巻。…中間部のノクターン風の旋律は煌めく光の粒…左手のアルページオの、絹のように繊細な光沢…。
引き寄せられるようにふらふらと練習室に歩み着くと、丁度昴が、眠るような最後の一音を弾き終えて指を上げたところだった。
廊下には他の団員たちも同じように集まっており、練習室の中は、圧倒された鍵盤パートメンバーの沈黙が緞帳のように降りていた。
「……君はどうしてここにいるんだ」
鍵盤パートのパートリーダーが、憤懣やるかたない様子で拳をふるわせていた。
「舞台専属の楽団員ではなく、ウィーンに行って一流の演奏家になればいいだろう?ぼくたちを馬鹿にしているのか!」
当の昴は、億劫そうに髪をかき上げ、椅子を降りながら答えた。
「別に…君が本気で弾いてみろというから弾いたまでだ…。昴は、手を抜いているわけでも、君たちを馬鹿にしているわけでもない。求められる演奏を完璧にこなすだけだ。文句はないだろう…?」
そして、新次郎の姿を見つけると、打って変わったような艶やかな笑みを浮かべた。
「ああ、新次郎…昼食の時間だったね。一緒に食堂へ行こうか…」
音子はただ呆気にとられて、二人の後ろ姿を見送った。
食堂での新次郎と昴は、和やかに談笑しながら食事をしていた。その様子から、二人は旧知の仲らしく見えた。だが、先ほどの演奏を聞いた他の団員たちはどうにも遠巻きで、周囲の席は空いている。
二人が何を話しているのか気になった音子は、抜き足差し足で近寄って聞き耳を立てようとした。
だが、ものの三歩と進まぬうちに、昴が背中を向けたまま声を発した。
「音子隊長」
「はっはい!」
反射的に直立する音子に、昴は切れ長の眼をちらりと流して言った。
「何もこそこそしなくてもいい。丁度新次郎が君と話したいと言っていたところだ。僕は外すから、相手をしてやってくれないか…」
「え…はわ…」
おたおたする音子の脇をすり抜けて、昴は行ってしまった。
「音子さん、本当によろしいですか?あなたに伺いたいことが、いっぱいあるんです!」
新次郎が無邪気な笑顔で瞳を輝かせて、音子に歩み寄った。
「ちょっと!新入りのくせに、慣れ慣れしくない?」
がたん、と音をたてて、源三郎が席を立つ。
「ミヤビに、何を聞き出そうってわけ?」
「あっ、いえ、奏組のお話を、いろいろ教えていただけたらと…失礼だったら、すみません」
誠実に頭を下げる新次郎の姿に、源二が割って入った。
「こらあ源三郎!後輩にはやさしくしろよ!」
「単細胞な兄さんは黙っててよ!バーカ!」
「なんだとお!?」
どうやってもこじれそうな空気になって、音子は困惑した。シベリウスには便宜を図れと言われたが、ここではまともに話などできそうにない。
「あっ、あの、中庭に行きましょうか!お話ならそこで!」
お馴染みの兄弟げんかを尻目に、音子が新次郎の背中を押した。
「ふう…すみません、みんな本当はいい人たちなんですけど…」
中庭のベンチに座ると、音子は肩を落として溜息をついた。
「大丈夫です。わかります。気にしないでください」
新次郎は並んで座っているが、近づきすぎないように距離を取っている。節度のある態度は、好感が持てた。
「新次郎さんておいくつですか?」
「ぼくですか?二十歳です」
「ええっ…?てっきり私とあんまり変わらないかと…!」
あからさまに驚くと、新次郎はトホホ顔で項垂れた。
「うう……よく言われます…童顔だとか女顔だとか…」
「す、すみませんすみません!…あ、そうだ、昴さんはおいくつなんですか?」
「昴さんは…ええと…実はぼくもよく知らないんです……そ、それより、音子さん、お若いのに、隊長だなんてすごいですよね。その上、女の子だし」
唐突な話題に戸惑ったが、そういえば、先ほど昴も自分を「音子隊長」と呼んだ。二人とも、既に奏組の戦闘部隊の構成についても説明を受けているのだな、と音子は思った。
「そんな、もう、私なんか…!みなさんの足を引っ張るばっかりで、まだまだです」
「いいえ、立派です。個性的なメンバーで、自分より年上の人もいて、そんな中で隊長を務めるなんて」
「いえ、ほんとにほんとに、全然立派なんかじゃないんですう!」
褒め言葉にいたたまれず、音子は赤面しながらぶんぶんと手を振った。
「でも、やっぱりいろいろご苦労もあるんでしょうね。大変なこととか…」
親身な新次郎の言葉は、帝都に来てからこのかた、なかなか聞くことのなかったものだ。つられて、つい愚痴が口をついて出た。
「はあ…実はそうなんです…私、なかなか自信が持てなくて…いつも、みなさんに助けてもらってばっかりで」
「うん…誰でも、最初はそうだよね…」
「源三郎くんは意地悪なことばかり言うし…ヒューゴさんには、君を隊長と認めたわけじゃない、って言われたり…ホントに、私に隊長なんて務まるのかって、不安で…」
「うんうん…その気持ち、すごくよくわかるよ…ぼくも、君には務まらないとかボウヤとかいろいろ言われたし…」
新次郎はぶつぶつ言いながら、こくこくと深く首を振って頷いた。
「でも、最近やっと少し、みなさんに認めてもらえたかなって、思えることもあるんです」
膝の上で指を組みながら、音子は控えめにはにかんだ。
「この帝都を…大切な人たちを、この手で守るために、…私、もっと強くなりたいんです」
「そうだよね…!ぼくもそう思うよ!」
新次郎が拳を握って立ち上がった。
「ぼくもきっと、でっかい男になって、立派な隊長として認められるように…!」
「え…?」
熱く瞳を燃やして空を仰ぐ新次郎を、音子はぽかんと見上げた。
「新次郎さん…隊長って…なんですか…?」
途端に、新次郎はぎょっとして跳び上がった。
「え…う…わひゃあ…ななななんでもないんだ!その…ちょっと…もとの職場っていうか…」
急に汗だくになってしどろもどろになる新次郎は、思いっきり不審だった。
「新次郎さん…何か隠してませんか?」
音子が真顔で詰め寄ると、新次郎はたじたじと及び腰になった。
「いや、別に、ぼくは決して怪しい者では…!」
「…新次郎!」
木立の陰から、唐突に昴が現れた。
「わひゃあっ、昴さん」
瞬時に新次郎が身をすくませる。
「昴は言った…ちょっと来い、と」
その顔には、静かな怒気がある。
「ああ…彼は時々妄想に囚われるんだ。気にしないでくれたまえ」
にこやか故に却って凄んだ笑顔を音子に向けると、昴は新次郎の首根っこを掴んで、ずるずると引っ張って行ってしまった。
「???…」
残された音子は唖然とするばかりだ。
「ええと…何…?今の…」
何度も首を捻ってみる。だが、理解はできずとも、あの二人には何かある、と音子の勘が告げる。
シベリウスは「気を抜くな」と言った。それは「油断するな」という意味ではないか。
(あの二人は怪しいから注意しろ、ってこと…?)
たらり、と汗の雫がこめかみを伝う。
ならば、彼らの正体を突き止めなければ…!
音子は、昴の消えた方向へと進んだ。
寮の角を曲がろうとして、ルイスのトマト畑の向こうに、目指す二人の姿が見えた。遠目に、新次郎が昴に叱責されているように見える。
会話の内容が気になったが、音子は忍び足で近寄ろうとして躊躇した。
先ほど、食堂ですぐに気づかれたのを思い出す。昴は気配に敏感なのだ。立ち聞きできる距離まで近づくのは無理だろう。
(どうすれば……あ、そうだ…!)
音子の頭に名案が閃いた。
(会話する「音」を見ればいいんだ…!この距離なら、多分見えるはず…!)
きっ、と虹彩を狭めると、音が色や形となって音子の視界に鮮やかに展開した。
刷毛で刷いた紗幕のような風の音。
木々のせせらぎは緑の砂粒のようだ。
小鳥のさえずりは金色の光の明滅。
そんな中で、新次郎と昴の交わす言葉が、音子の瞳にかろうじて小さく「見え」た。
「昴は言った…君は馬鹿か、新次郎…と。僕たちの正体があやうくばれるところだったぞ」
「うう…すみません、つい…」
「音子隊長と接する時は決して油断するな。彼女は要注意だ」
「どういうことですか?」
「君と同類ということだよ。相手の警戒心を緩めて、心をさらけ出させる…極めて危険な相手だ」
「ええっ、そんな…」
「それと、ルイスにも気をつけろ。彼は多分専門的な訓練を受けているに違いない」
(正体…?ばれる…?)
音子は戦慄した。
(あの二人は何者なの…?ルイスさんのことまで見抜いてるなんて、いったい…)
「昴さんこそ、いきなり鍵盤パートで揉めてたじゃないですか」
口を尖らせる新次郎に、昴は懐から柄の黒い扇子を出して、ひらひらとそよがせた。
「昴が伴奏用に抑えて演奏をしていたら、手を抜いているとか言い出したからね…まあ…あのパートリーダーはそれを見抜くだけの優れた感性を持っていたというわけだ」
「戦闘能力はなくても、流石は奏組の一員てところですね」
「ああ…。そして、あの五人の霊力は、奏組の中でもかなりのものだ。降魔にとっては、強敵たり得るだろう」
腕を組んで不適な笑みを浮かべる昴に、新次郎はすまなそうに眉を下げてこぼした。
「でも、みなさんいい人たちみたいですし…騙してるのは気が退けます」
「しっかりしろ、新次郎。僕たちの本当の目的を忘れるな。僕たちは……仲間になりに来たわけじゃない。彼らの弱点や問題点を探るために……来たんだ」
時折風が強く吹いて、昴の言葉をかすれさせ、見えにくくしていた。音子は力を込めて瞳を凝らした。
「でも…」
「…情に流されず、任務に徹するんだ。そうすれば…」
風に紛れた昴の言葉を、音子の瞳は、はっきりと見た。
「奏組の……お終いだ」
《続く》
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