コンチェルトが聞こえるか (4)
昨夜と同じはずの下弦の月が、今夜は妙に赤く感じられ、何やら不吉な予感に襲われる。
かなで寮を出た音子は、入谷を抜けて浅草方面へ向かって歩いていた。昨夜、最後の被害女性を救助したあたりだ。
街灯のある言問通りではなく、暗い裏道を、蒸気灯を手に一人で進む。肩には、フルートのケースをかけている。
こんな時間に、夜道を一人歩きする女性など、この時代そうそういない。自分は格好の獲物のはずだ。
自分を餌に、敵をおびき出す。それが、音子の立てた作戦だった。
仲間たちは危険だと反対したが、音子の意志は固かった。結果的には、必ず守ってみせる、と約束して仲間たちが折れた。
今も、敵に気づかれないように離れて、武器と楽器を持った五人がついてきているはずだ。ひと声悲鳴をあげれば、蒸気灯の灯りを目印に駆けつけてくれるだろう。
本当はシベリウスに研修生について聞いておきたかったが、会議が長引いたとかで帰りが遅くなるとのことだった。となれば待ってはいられない。その間にまた被害者が出るかもしれないのだ。
(もし新次郎さんが犯人で、私を狙ってきたら…)
彼の剣さばきを思い出す。
あんな勢いで襲われたら、自分などひとたまりもないだろう。想像すると、恐怖で足が竦んだ。
だが、すぐには殺されないはずだ。昨夜の被害女性たちは皆、命を奪われる前に助けることができた。
(それに、私には霊音がある…!)
襲われたら、急いでフルートを吹く。そうすれば、仲間たちが助けに来てくれるまでの時間を稼ぐくらいのことはできる。
(だから、私は大丈夫…!)
自分に言い聞かせながら、音子はケースの肩紐をぎゅっと握った。
ひゅん、と耳の横で風が鳴った。
同時に、肩紐がすっぱりと断ち切られ、ケースがごとんと音をたてて地面に落ちた。
拍子に蓋が開き、フルートのパーツががらんと転がり出る。
「何…」
言いかけたところで、反対側で空気が唸り、右の袂がはらりと舞い落ちた。
黒い影が、風となって視界をよぎった。
かかった、と思うよりも、我が身に斬りかかる刃への恐怖で、音子はパニックに陥った。
(助けて…)
叫ぼうとしても声が出ない。思わず目を瞑った音子をなぶるように、鋭い刃風が浅く吹きつける。足もとをかすめた刃でブーツの紐が切れ、驚いて飛び退いた勢いで転んでしまう。
倒れたはずみで開けた目の前に、フルートのパーツが転がっていた。
無我夢中で掴み、二つを合わせた。襲いかかる風を転がり様に避けながら、唇を当てる。
音子が霊音を奏でると同時に、風の動きが鈍った。
「ぐあっ…」
苦しげな呻きとともに、風は影の塊となってうずくまる。
月明かりにあらわになったのは、黒と赤の装束を纏い、刀を握った男。
先日の傀儡集団の一員だった。
(生き残りがいた)
(新次郎さんたちじゃなかった)
(じゃあ、新次郎さんは何故昨夜あの場所に…)
一瞬思考が錯綜して霊音が乱れた隙に、敵は勢いを取り戻し、握った刀を振り上げた。
(しまった)
もう駄目だ、と思った瞬間に、チャクラムが飛んできて刀に当たった。同時に、男の肩に矢が突き刺さった。
「音子!」
素手で身軽な源二が真っ先に駆けつけた。迷わぬ速度で男に跳び蹴りを食らわせる。
「ミヤビ!」
「音子くん、大丈夫か!」
「怪我はありませんか」
続いてヒューゴたちが武器を手に現れた。
人数的な不利を悟ったか、傀儡の男は素早く起き上がり、肩に矢を立てたまま逃げ出した。
「私は大丈夫です!追ってください!」
「逃がすかっ!」
駆け出した仲間たちの後を、音子も追いかけた。
「ここは…」
行き着いたのは、見覚えのある場所だった。
先日の傀儡集団の事件で、デノンマンサー緋独楽と戦った、浅草寺裏の公園。人影はなく、街灯がいくつか暗い木立を照らしているのみ。
追い詰めた傀儡の男は、苦しげに荒い息を吐いていた。よく見れば、矢傷の他に頭にも怪我をしているらしく、巻き付けた布に暗い色の血が滲んでいる。
「もう逃がさないよ!」
「オマエなんで女ばっか狙うんだよ!卑怯だろ!」
詰め寄る奏組隊員たちの顔を、男は妖しく光る目でぎらりと見回し、歯を剥いて笑った。
「若い女の恐怖と絶望は、最高の養分となる!」
かつて傀儡の紫(ゆかり)が言ったのと同じ言葉を、男が唸るような声で唱えた。持っていた刀を宙に翳すと、それは月の光を浴びてゆらめくように輝き始めた。
「女たちの恐怖を吸ったこの刀の力で、緋独楽様を甦らせるのだ!」
口を耳まで裂けるように開いて叫び、がつ、と地面に刀を突き立てる。
すると、いかなる技か、瘴気が地を這うように集まり、刀のまわりで黒々と渦を巻き始めた。
「うわっ、なんだなんだ」
「甦らせるって…あいつを?あんな厄介なの、勘弁してよ!」
デノンマンサー緋独楽は凶悪な魔音を操る強敵だった。正之助が傷を負わせてくれたお陰で、皆で力を合わせてようやく倒せたのだ。
「止めなくちゃ…!みなさん、楽器を!」
「シー、マエストロ!」
音子の合図で、五人は武器を楽器に持ち替え、マウスピースに唇を当てた。
「私の音に乗せて…!行きます!」
音子の吹くフルートに、五人の音が重なる。集まった霊音の塊は、煌めく光の玉のように見えた。
黒い瘴気の渦は、むくむくと盛り上がり、人の形を作ろうとしている。そこに向かって、音子は霊音の塊を衝突させた。
どおん、と衝撃音が走り、弾けた霊力が爆風となって走り抜けた。
「ぐわあああ…!」
断末魔の叫びを残して、傀儡の男は、その刀もろとも霧消した。
「はあ…やった…んだよね?」
「…そのようですね」
地面には、瘴気が焦げ跡のようになって黒く沁みているが、緋独楽が現れる様子はなく、傀儡の男の影も形もない。
人の姿で、人の言葉を話す降魔。もとは人だったのだと思うと、助けられなかったことが音子には悔やまれた。
降魔化して間もない時ならば、霊音で浄化してもとの人間に戻すこともできる。だが、彼は時間が経ちすぎて、身も心も完全に降魔になりはててしまったのだ。
「すげーな!ジオの推理が大当たり!ホントに『醤』の仕業だったなんて」
「うむ、我ながら完璧だ」
「ちょっと待ってよ。じゃあクジョウとタイガって結局、何…」
源三郎が言いかけたその時。
ふいに、地鳴りがして地面が揺れた。
「きゃっ…地震?」
「…違う!見ろ!」
ヒューゴの指さした方を見ると、瘴気で汚れた地面がびしびしとひび割れ、そこから魔音が溶岩のように噴きだしている。土くれが山となって盛り上がり、暗い亀裂の中から、どす黒い塊が現れた。
「緋独楽…?…じゃなくて…!」
「む!なんだこれは!」
塊がめきめきと音をたてながら体を起こした。爬虫類のようにてらてらとぬめった肌に、長い尾と鉤爪。鰐のような顎に櫛比する牙。
甦ったのは緋独楽ではなく、降魔だった。それも、身の丈は音子のゆうに四倍はあるだろうかという巨体。
「うわ、でけえ!」
「なんでこんなのが出て来るの?」
「先の大戦で、このあたりは戦場だったそうです。その時調伏された降魔が、今の騒動で甦ったのではないでしょうか」
ルイスの言葉で音子も思い出した。アポロニア学園の事件では、霊音と魔音が激しく戦った結果、周囲の霊力が暴走して、瘴気の吹きだまりが解放されてしまった。先ほどの騒動で、それと同じようなことが起きたのかもしれない。
巨大降魔は、奏組の姿に気づくと、ぎゃあ、と耳障りな声をあげ、鉤爪を振り上げて襲いかかってきた。
「あぶない、ミヤビ!」
呆然としていた音子は、ヒューゴに腕を掴まれてからくも逃れた。目の前に巨木のような腕が降ってきて、地面に爪を突き立てている。
直撃をくらえば、体がばらばらになりそうだ。思わず喉に溜まった固唾を呑むと、ごくりと大きな音がした。
思いも寄らなかった事態に混乱しながらも、音子は必死に考えを巡らせた。どうしたらこの巨大降魔を倒せるか。公園を出れば民家もある。このまま降魔を帝都の街中に放つわけにはいかない。
(私たちが、なんとかしなきゃ…!)
音子は魔音の流れを見て降魔の急所を探った。だが先ほどと同じ霊音だけではとても太刀打ちできないだろう。ならば武器での攻撃が必要だ。
「ルイスさん、みなさんの武器で一番威力があるのって」
「打撃力なら、ヒューゴの双剣でしょう」
音子はヒューゴを見た。
「ヒューゴさん、やってくれますか」
無言のままヒューゴが頷く。
「みなさん、霊音をヒューゴさんに集めてください!」
活発に動き始めた降魔の攻撃を、分散して避けながら、どうにかタイミングを合わせる。
「今です!ヒューゴさん、降魔の腹を狙って!」
楽器から発せられた霊音が、ヒューゴの体をオーラのように包む。それをヒューゴが双剣に結集させると、刃が輝くような光を帯びた。
「うおおお!」
咆吼とともにヒューゴが降魔に迫る。襲いかかる鉤爪を躱し、降魔の腹に向かって、霊音を纏った双剣を同時に突き立てた。
だが、巨体はびくともしなかった。降魔は鬱陶しげに歯を軋らせると、ぶんと長い尾を振って、ヒューゴの体を剣もろとも弾き飛ばした。
「うあっ…!」
宙を飛んだヒューゴの体は、公園の植え込みに突っ込んだ。
「ヒューゴさん!」
音子が駆け寄ると、ヒューゴの白い戦闘服が破れ、腕に血が滲んでいるのが見えた。
「…大丈夫…だ…っ…」
呻きながら起き上がったヒューゴは、はっと目を見開くと、がばっと音子に覆い被さった。
「きゃっ…」
何かが頭上をかすめたと思ったら、自分が今いた場所の植え込みが、消し炭のようになって消えていた。
降魔がかっと口を開き、瘴気を砲弾のように撃ち放っている。
「うわっ…」
「兄さん!」
源二と源三郎が塊になって飛び退いた地面に、黒々と穴が空いた。
降魔の鉤爪と、尾と、瘴気弾の三重攻撃に、奏組は防戦一方になった。どうにか合間に攻撃を仕掛けてみても、降魔の動きを鈍らせることもできない。
「私たちの力では、これ以上は無理です…!」
「どうすんの!?花組は今いないんだよ?」
「くっそ…もっと、オレたちに力があれば…!」
絶望と無力感が、音子たちを苛んでいた。所詮自分たちは、重武装部隊の下部組織にすぎないのだ。小規模の魔障を隠滅することはできても、本当の脅威を前にして、この情けなさはどうだ。
それでも諦めないで、と音子は叫びたかった。だが、これ以上どう戦えばいいのかわからない。
皆、白い戦闘服は泥に汚れ、瘴気の飛沫でボロボロになっていた。霊力、体力ともに、最早限界が近い。
「…全員で、同時に攻撃しよう」
ヒューゴの声が聞こえた。
「危険ですよ」
ルイスの声が固い。
「うむ、承知だが、それしかないな」
「そうだね…ちょっとでも降魔の力を弱めることができるなら」
「…やるっきゃねえな!」
「ま、待って…!」
確かに、それが今できる最大限の戦法だ。だが、五人同時にかかれば、降魔の的となる数も増える。誰か犠牲者を出さずには済まないだろう。
「ミヤビ、君は逃げろ」
ヒューゴの低い声には、決死の覚悟があった。
誰かが、死ぬ。
音子はぞわりと身震いした。
「駄目…!みんな…!」
悲痛な声が、涙で裏返った。
突然、二つの影が飛び出してきて、降魔との間に遮るように立ち塞がった。
「…クジョウとタイガ…?」
「なんで?」
新次郎は抜き身の二刀を、昴は開いた鉄扇を両手に構えている。その眼差しは、戦いを挑む者の、厳しい鋭さを湛えていた。
(ああ、やっぱりこの人たちは敵だったんだ…)
諦めと悲しみが音子を打ちのめす。もうお終いだ。これ以上悪い状況なんてないだろう…。
だが。
「みなさん、下がっていてください!」
そう新次郎が叫ぶと、二人は巨大降魔にくるりと向き直った。
「紐育華撃団星組、大河新次郎!」
「同じく、紐育華撃団星組、九条昴!」
「「レディ、ゴー!」」
「え…?」
奏組隊員が等しく瞳を見開いた。
二人は降魔の攻撃をすり抜け、見事に呼吸の合った連携で、苛烈な攻撃を繰り出した。
「天罰覿面!」
「…舞え…!」
新次郎の剣戟は、ヒューゴとの試合で見知っていたはずだったが、まるで迫力が違った。実際の戦闘で発する気迫が、新次郎を雄々しくしていた。
そして初めて見る昴の戦う姿は、まるで華麗な舞踏のようだった。ひらり、くるり、と跳躍しては回転し、バレリーナのような優雅さでありながら、雅な鉄扇で的確なダメージを与えている。
「紐育、華撃団…」
自分たちとは桁の違う、量子甲冑を操る強大な霊力。
音子たちはただ圧倒されて見守るばかりだった。
《続く》
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