蝶の宴






 たとえ嵐が来ても つなぎ合ったその手を 離さないで…

 昴のよく透る澄んだ声と、ダイアナのやわらかな声が、稽古中の舞台から寄り添って伸びていく。
 『蝶々夫人』の再演を間近に控え、主役の二人は連日の集中稽古が続いていた。
「あら、大河さん、見学ですか?」
 短い休憩に入った時、舞台袖に立つ姿に気づき、ダイアナは微笑みかけた。
「素敵でした!もう、ぼく、何度見ても胸が熱くなって…うまく言えないんですけど…お芝居だってことを忘れてしまいます」
 新次郎が朗らかな笑顔を輝かせ、力を込めて語った。
「昴さんがあんまり素敵だから、わたしも本当に恋に落ちてしまいそうです」
 ふふっ、と笑って、ダイアナは微かに頬を染めた。受け取ったタオルで、開いた詰め襟の喉もとを拭いながら、少し心許なげに眉を下げる。
「でも、わたしがピンカートンに共感できる気持ちは、それだけなんですよ。蝶々さんを愛しいと思う心だけ…」
「ああ、わかります!ひどいヤツですよねピンカートン!」
 思わず拳を固めた新次郎は、はっと我に返って直立した。
「ああっ、すみません。ご本人の前で…」
「いいえ、そのとおりですわ。大河さん」
 小さく咳払いして、新次郎を真似て手を握り込んでみせる。
「ぼくなら決して蝶々さんを一人にしたりしないのに…!…でしょう?」
「えへへ…ダイアナさんは何でもお見通しなんですね」
 いわくありげにのぞき込まれ、年若い隊長は照れたように頭を掻いた。
「ぼんやりしてるわたしにだって、そのくらいわかりますよ。…それより、明日は定期検診の日ですから。忘れずに医務室にいらしてくださいね」
「はい。…でもぼくもうすっかり元気ですよ?検診なんか必要ないと思うんですけど」
「いいえ、大河さんは本当に大変な怪我をされたんですから。大事にしなくてはいけません」

「居たのか、新次郎」
 舞台監督との話を終えた昴が、優雅な着物の裾捌きで歩いて来た。
「昴さん、お疲れさまです」
 既に思い人しか眼中になくなった恋人同士を、取り残された感のダイアナが、それでも微笑みながら見つめていた。



 夕刻から、紐育の空模様は急にあやしくなった。全ての絵の具をごちゃ混ぜにして泥の色になってしまったような雲が、もくもくと摩天楼を覆い、やがて大粒の雨を落とし始めた。
 相変わらず、楽屋のスペースを共有せずに、昴は一人で着替えを済ませていた。新人の衣装係に、着物の扱い方を丁寧に教えてやる姿を、ダイアナはぼうっと眺めていた。
「どうかしたのかい?」
 衣装係が去ると、昴が声をかけた。ダイアナはびくりと小さく飛び上がり、おぼつかなげな微笑を浮かべた。
「いえ…なんでも…あの…ちょっと疲れてしまって…」
「ここのところハードスケジュールだからね。無理はしないでしっかり休養をとってくれ」
 素っ気なく言って、昴はお先に、と出ていこうとした。

 外の激しい雨音は、楽屋にまで響いていた。ざらざらした音は、像を結ばないモニタの灰色の砂嵐画面を思い起こさせる。
 確かに自分は疲れている、とダイアナは思った。一歩離れたところから思い人を見守ることに。もう少しだけ、やさしさが欲しいだけなのに。それは、果たして過ぎた望みだろうか…?
「昴さん」
 ダイアナが呼び止めた。
「あの……わたしが、命あるものの、その刻限が見えるのは…ご存じですよね」
「…ああ…そう言っていたね。君の強い力の成せる技…僕の力とはまた違う不思議な発現だな。…それが何か?」
 真面目そうな話題に振り返った昴に、ダイアナはゆっくりと間をおいて問いかけた。
「大河さんの刻限を、知りたいですか?」
 狙った通りに、昴はその顔を瞬時に強張らせた。
「どういうことだ」
 抑えた声の固さがどうにも小気味よく、目眩がするほどだった。ダイアナは花のような笑顔を向けた。
「あの、おじさまに美味しい紅茶をいただいたんです。飲みにいらっしゃいませんか?」



「大河さんは、本当はあの時、死んでいたんですよ」
 優雅に足を組んで長椅子に腰掛けた昴に向き合い、ダイアナは語りかけた。
「あんな大怪我をして…生きている方が不思議だとは思いませんでしたか…?」
「昴は言った…わかるように説明してくれ、と」
 猜疑心も露わな昴に、ダイアナは用心深く言葉を紡いだ。
「…わたしは、命が見えると同時に、命を繋ぐことができるんです。…こんなこと言っても、信じていただけないかもしれませんが…」
 卓上の花瓶の、萎れかけた花に、そっと手をかざす。
 茶色く変色した花弁は、見る間に鮮やかな色と潤いを取り戻し、しわくちゃの葉は勢いよく反り返った。
 昴は冷徹極まる表情のまま、こみあげる驚愕を噛み殺すように言った。
「つまり…今新次郎を生かしているのは、君だと言いたいのか」
「逆に自分の体を傷めてしまうほどの力…。それを大河さんに分け与えることができるなら、ちっとも惜しくはありません」
 手をつけられていない紅茶を、そちらのほうが惜しいというように横目で見やり、ダイアナは苦笑した。
「こんな話、俄には、信じられないかもしれませんね…何でしたら、明日の検診を取りやめにしてもいいんです…。結果がどうなるか…わかってからでは遅いのですけれど…」
 掬うようにまるく手のひらを合わせ、その中に隠し持つ美しい宝石に魅入るように、ダイアナはうっとりと唱えた。
「大河さんの命は、わたしの…この手の中にあるんです」

「それで僕にどうしろと?大河につきまとうなと言いたいのかい?」
 昴の声は落ち着きを保っていた。逆に、ダイアナは目を見張り、うろたえた。
「いいえ…いいえ…!違うんです、昴さん」
 背中に編んだ髪を揺らして、激しくかぶりを振ると、ぱっと頬を赤らめ、豊かな胸を押さえた。
「わたしが好きなのは、大河さんではなくて……」
 ダイアナの訴えるような熱い眼差しに、昴はわずかに瞳を見開いた。
「初めて、シアターを案内してくれたあの時から…わたし…わたしは…あなたが…」

 これが単純な恋の告白なら、容易にはぐらかされたかもしれない。だが、自分は必勝の札を手の内に持っている。それがダイアナに勇気を与えた。
「応えて欲しいわけじゃないんです…ただ…支えてほしいんです…ほんの少し……やさしくしてくれたら…あの…」
 見つめた漆黒の瞳は、夜空に開いた星をも喰らう孔のように、何もかも飲み込んでしまうのかと思った。
 そっと、その手を取ったつもりだった。なのに、気がついた時には、昴の顔がすぐ間近にあった。昴の髪になぜ金色の部分があるのだろうと思ってみれば、それは自分のこめかみから流れたものだった。ようやく、自分が昴を長椅子に押し倒していることに気づいた。
「ああ…わたしったら…こんなこと…すみません、すみません…」
 自分の行動に自分で恐れを成しながら、ダイアナは強張ったまま動くことができずにいた。

 聡い昴は瞬時に全ての状況を理解していた。自分にできることとできないことを。だから、不快感を表すことも、拒絶することもしなかった。
「ダイアナ…君はとてもやさしい人だね。仲間のために、一人で苦労をしていたのに、気づかなくてすまなかった…」
 静かな声で言いながら、間近にあるダイアナの顔から、そっと眼鏡を外してやる。眦からこぼれ落ちそうな空色の瞳を見つめ、昴はただ穏やかに微笑んだ。
「これからも、新…大河のことを、頼んだよ…。僕たちの、大事な隊長だから…」
「昴…さ…」
 瞳に吸い寄せられるように見入り、重力のままに唇を落とした。柔らかな感触を受け止めながら、昴は薄く眼を開いたまま、じっと虚空を見ていた。



 黒く重い雨が、窓ガラスを油のように流れていた。
 この世のものならざる天使を腕に捕らえ、ダイアナはひどく怯えていた。禁断の小函を開けるパンドラのように、おそるおそるスーツの内側に手を忍ばせる。咎めるように雷鳴が轟き、ぎくりと身をすくませた。
「君は、僕が男でも女でもかまわないのかい…?」
 動きの止まったダイアナを見上げ、昴が問いかける。
「ええ…ええ、昴さん。あなたが…昴さんが好きなんです」
 まさしく男でも女でもない妖艶な笑みを、昴は浮かべた。
「うれしいよ。ダイアナ」
 そう言って、瞼をかすめるようにやわらかく口づけた。
 目の眩むほどの幸福に、しかしダイアナは酔いしれることができず、ただ後ろめたさに怖じ気づいていた。
「そんな、あの、わたし…わたしのことなんか、いいんです。どうか、そのまま大河さんのことを好きでいてくださって結構ですから…」
 すると、昴は困惑気味に小さく眉をひそめた。
「…君はとても残酷なことを言うんだね」
「ああ…すみません…そんなつもりじゃ…」
「いいんだよ。どうせ、いつかは身を引くつもりだったんだ。面倒が省けて丁度いい」
 美しい唇に浮かんだ笑みは、刃物のように薄く、ダイアナを斬りつけた。
「さあ、昴はいくらでも君の思うとおりになるよ…だから…君はしっかりして……そして…大河を…」
 抱きたいのか、抱かれたいのか、それすらもわからない。ただ戸惑いながら、ダイアナは昴に促されるようにして体を重ねた。

 この人は決して淫らに喘いだりしないだろう。平静な顔をして…それでも、敏感な部分を刺激すれば、わずかに息を乱し、頬を紅潮させるに違いない…そんなダイアナの想像に、昴は寸分違わぬ反応を返した。吐息の抑え加減、瞼のふるえ、かすかに汗ばむ肌の湿度さえ、まるで自分の心を全て読まれているのではないかと思うほどに、ダイアナの思い描くとおり、望むとおりに完璧だった。 

 その完璧さに憎しみを覚えた。

 憎しみ?己の胸中に見慣れない黒い染みを見いだし、ダイアナは狼狽した。癒しと博愛を志す自分が、人を憎むなど。
 しかし、一度灯った小さな炎は、紙を舐めるように燃え広がり、純白の部分を焼き尽くした。
 この完璧な演技を壊してやりたい。気高い嘘を醜い真実にねじ曲げてやりたい。
 この希少な蝶は自分のもの。ピンカートンのように、ピンで刺して閉じこめておくことだってできるのだ。決して心の奥底を明かさない、この謎めいた人を。
 真綿の雪の下から現れた、黒々と生臭い地表に息吹く悪意の芽に、ダイアナは恐怖しながらも魅了された。
 全ての神秘を暴いてみたい。昴が身悶えし、美しい唇を歪め、汗みずくになってのたうつ様を、知らずにはいられない。そして自分には、その知識がある。生かさないように、殺さないように、この美しい蝶を愛でることができるのだ…。
 雨は激しい飛沫を飛ばして窓ガラスを打ち、静寂を蹂躙して、現実と夢想、理性と狂気の境を曖昧にした。
 淫らになる薬に漬けて、小さな胸を愛撫すれば、この人はどんな嬌声をあげるのだろう…。あるいは肌を傷つけないように苦痛を与え続ければ、いつかは涙を流して許しを乞うたりするのだろうか。いとおしげに昴の頬を抱き、端正で煽情的な容貌を観察しながら、ダイアナは想像を巡らせた。めまぐるしく脳裏を駆けめぐる、昴の喘ぎ乱れる姿、白い喉から漏れ出でる悲鳴、双眸から流れる煌めく涙…。

「あ…ふうっ…」
 陶酔のあまり気が遠くなり、ダイアナは一人で達してしまった。





「昴さん!」
 エレベーターを降りた昴の足元がよろめいたのを見て、ロビーに立っていた新次郎は駆けつけた。
「大丈夫ですか?このごろ体調が悪そうですけど…」
「ああ…うるさいな、僕にさわらないでくれ」
 抱えようとする手を忌まわしげに刎ね除けられ、新次郎はまるい瞳を曇らせた。
「昴さん…最近、あんまりぼくと話してくれませんね。どうしてですか?ぼく、何か昴さんの気に障ることをしましたか…?」
 悲しげな新次郎を、しかし昴は冷たい声で封じた。
「…大河。すまないが、僕はこれからダイアナと約束があるんだ。そこをどいてくれないか」
「昴さん…」
「昴は言った、どけ、大河…と」
 打ちひしがれる新次郎を背中に残し、昴は廊下を擦るようにして歩み去った。



「あら、大河さん」
 心配して訪れたホテルのロビーで、新次郎はばったりとダイアナに鉢合わせた。
「ダイアナさん、昴さんがなんだか最近具合が悪そうなんですけど、何かご存じですか?」
 ダイアナはしばらく思案顔で新次郎を見つめ、やがてふんわりと微笑んだ。
「昴さんはまだ少しご気分が悪いそうで、横になってらっしゃいます。よろしかったら、見舞ってさしあげては?」
 そう言って立ち去るダイアナの後ろ姿に、新次郎は奇妙な違和感を感じた。
 まるで、悪趣味なジョークに気づかずに笑ってしまったような、嘘寒い居住まいの悪さ。
 しきりに首を傾げながら、最上階を目指して訪れた昴の部屋は、ドアの鍵は開けっ放しで、容易に新次郎の侵入を許した。
「昴さん…?」
 ふいに、新次郎は怖気にふるえた。
 その元凶は、寝室のドアだった。そこから、あらゆる異常さが醸し出されていた。狂気、苦痛、絶望、倒錯、発散される瘴気に怯みながら、しかし昴を案じて即座に踏み込んだ。



「昴、さ…っ」
 声を飲んだ。
 ベッドにぐったりと沈んだ昴は、か細い全裸のまま仰臥していた。
 傍らには、新次郎にはわけのわからない計測器が並び、コードが触手のように伸びて華奢な体に巻きついている。サイドテーブルには薬品の瓶が並び、饐えた酒のような甘ったるい匂いが部屋に充満していた。
「昴さん!大丈夫ですか!?」
 咄嗟に駆け寄った新次郎は、その肌に細かく散らばる赤い染みを見つける。小さな蝶が留まり落ちたような跡は、まるで蜜に集まるように、肌の柔らかそうな部分に集中していた。折れそうなほど華奢な手首には、拘束した痕のような微かな擦過傷が見られる。蒼白に褪めた肌の、汗ばんだ頬だけが奇妙に紅潮し、そこに乱れた黒髪を貼りつかせた様は、凄惨な光景の中でひどく淫猥でもあった。

 ひくひくと動いた瞼が、物憂げに開き、ゆっくりと焦点を結ぶ。その瞳が即座に見開かれ、がばと跳ね起きた。
「新次郎!なぜここに…」
 言いかけて、目眩に横倒れる。
「昴さん、いったい何が…」
「出ていけ!僕を見るな!」
 助け起こそうとする手を、激しい勢いで払いのけた。
「ダイアナさんが、まさか、そんな…!」
「出て行けと言っている!」
 素裸のまま、昴は小さな体でぐいぐいと新次郎を寝室の外に押しやった。ようやく閉めたドアに貼りつくように、ずるずるとくずおれる。
 浮き彫りの木目に額を押し当て、昴はしばらく喘いでいた。
 黄泉の底で、愛しい人に醜い姿を見られてしまった女神を思い出す。狂おしさに荒く乱れた呼吸を、昴ははっと止めた。慌ててシーツを纏い、再びドアを開ける。

 果たして、新次郎はまだ青ざめた顔でそこに立ちすくんでいた。
「昴さん、ぼく、下でダイアナさんに会ったんです。教えてください。ダイアナさんは、昴さんに何かひどいことをしてるんですか?」
「待て、違う、新次郎。ダイアナが悪いんじゃない」
 このままでは、新次郎がダイアナを問いつめ、詰るだろう。もしそれでダイアナが傷ついて、新次郎を生かすことをやめてしまったら。
 それだけはなんとしても阻止しなければならない。新次郎の命を守らねばならない。この頼りない体が襤褸切れのようになろうとも。
「僕の体が、成長が止まっているのは、気づいているだろう…?ダイアナは、その研究をしてくれてるんだ」
 弱々しい笑顔をどうにか浮かべ、安心させるように昴は言った。
「僕にもわからない、僕の体の謎を、ダイアナが解明してくれれば…そして…もし普通に成長することができるようになるなら…」
 自分でも全く信じていない、ダイアナの唱える口実を、なんとか新次郎に納得させようとする。
「だから…新次郎…」
 じっと新次郎の瞳を見つめ、昴は声を震わせた。
 引きこまねばならない。新次郎を、こちら側に。この狂った世界の共犯者に。それが唯一、新次郎を生かす道なのだ。
 そして、昴が諦めた夢がかろうじて叶う方法でもあった。たとえそれが、どんなに歪な形であったとしても。
「僕に、力を貸して…手伝ってくれないか?新次郎…」
「…昴さん?」
 訝しげな様子で警戒心を露わにする新次郎に向かって、細い腕をふわりと差し伸べる。
「おいで、新次郎…」
 胸を掻きむしられるような危うさと、拒絶しがたい妖艶さを持って、昴は誘い招いた。
「教えてあげるよ。何もかも…。何、難しいことじゃないんだ…さあ、こっちへ来て、僕を…助けて」
 小さな体に巻きついたシーツが、ゆっくりとほどけて、落ちた。





 ピンカートンは逃げ出したのかもしれない。
 可憐な蝶々に魅了され、人ならぬ道をどこまでも転げ堕ちていく自分に恐れを成し、故郷に逃げ帰ったのではないだろうか。
 自宅のマンションのドアをくぐりながら、ダイアナはふと思った。昇ったばかりのエレベーターの表示を眺め、高揚した気分に任せて階段を上がることにする。
 今頃もう一人のピンカートンが蝶々の羽を毟っている様を思い浮かべると、ふわふわと足裏が疼くようで、ダイアナは思わず階段を踏み外してよろめいた。






《了》








すいません。でも日下さんに捧ぐ。



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