解放の条件
黒いオニキスの床を、バスタブの獣脚が踏みしめていた。
湯面に浮かぶのは二つの胸像。眼鏡をはずし、淡い金色の髪を巻き上げて留めたダイアナは、さながらギリシア神話の美神。そのやわらかな胸を枕に抱かれた昴は、ならば悲劇の美少年アドニスか。立ちこめた湯気で霞む光景は、幻想的でありながら緻密に息づくルネッサンス絵画のようだった。
湯の温かさは心地よく、ダイアナの肌はなめらかで、疲れ切った昴は最早何も考える気力もなく、ぐったりと体を預けていた。
「大河さんてね…効率が、いいんですよ」
昴の肩が冷えないように、手で掬って湯をかけてやりながら、ダイアナは語りかけた。
「燃費っていうんですか…、霊力の消耗が、少ないんです。きっとわたしが分け与えてあげるだけではなくて、微量ながらも自然に、周りの人や生き物から、力をもらってるんでしょうね…だから、月に一度の検診で足りるんです…」
ああ、新次郎らしい、と昴は自ずと微笑んだ。愛さずにはいられない、あの笑顔。きっと人が新次郎に好意を返す時に、そこに愛や命が宿るのだろう。
「戦闘などで消耗の激しい時は、わたしが応急処置をしますから」
「君は大丈夫なのかい?ダイアナ…」
「まあ…やさしいですね、昴さん。大河さんのための心配でも、うれしいです。ふう…」
深く溜息をつくと、濡れ羽の黒髪を指で梳いて、子供のような体をやんわりとかき抱いた。
「こうして昴さんがわたしを楽しませてくださるなら、大河さんを生かし続けるために頑張れます…」
口づけやすいよう、昴を抱き直して、象牙の肌を撫でる。
「大河さんは首筋がお好きなのですね・・・うふふ」
喉の窪みに沁みた薄赤い口づけの後をつついて、ダイアナは耳元に問いかけた。
「昴さん、教えてくださいな…大河さんは、どんなふうにしたんですか…?」
「…大河……大河は…キスして…」
ぼんやりと答えると、ダイアナの唇が、ふわりと口づけて、離れた。
「それから…?」
「それから…胸に…触れて…」
違う、キスは最後だった。いや、どうだっただろうか。薬のせいで、記憶があやふやになっていることを、昴は惜しんだ。次はきっと、一つ一つの手順や感覚を、丁寧に記憶して忘れまい。
「んっ…は…っあ、あ…」
考えながらも、ダイアナのために、甘い声を押さえ気味に零してやる。
「こんなふうに…?それとも、こう…?」
「あ…んっ…そ…う…そこを……ああ…」
生返事を続け、脚の奥で泳ぐダイアナの指先を感じながら、昴が思うのはただ新次郎の熱い愛撫だけだった。
広い浴室の空間は、声を大きく反響させた。それは、ドアの外に立つ者にも、容易に聞き取れるほどだった。
翌日、新次郎は体調不良を理由に欠勤した。
昴は案じたが、見舞うことは躊躇われた。ダイアナの手前もあるし、昨日の藪蛇になってもいけない。家の近いジェミニに様子見を頼み、昴はなかなか回復しない疲労に重い足を引きずって早めにシアターを後にした。
ホテルの部屋に帰り着いた昴に、新次郎からキャメラトロンの通信が入ったのは、街に灯が灯り始めた頃だった。
「昴さん、お話があるんですけど、そちらに行っていいですか?」
真剣な声に、来たか、と思う。昨日の事に違いない。
「悪いが、疲れているんだ。明日にしてくれないか…?」
「大事な話なんです」
退く様子のない新次郎に、昴は密かに溜息を殺した。
「仕方ないな…少しだけ、だよ…」
体の疲れは抜けきっていないが、もとより覚悟の上のこと。やがて来る新次郎を酔わせ、熱く抱きしめられ、深く突き刺されるのだと思えば、自ずと下腹部が引きつれ、熱とも寒気ともつかない感覚に身震いがした。
先に香を炊いておこうと思ったところで、ドアがノックされた。
「…早いな。さては既にホテルに着いてから通信したね」
「すみません…」
戸口に佇んだ新次郎は、素直に詫びながら、眩しいような懐かしいような眼差しで昴を見つめていた。
その容貌が、一睡もしていないかのように、幾分憔悴しているのが気になって、昴は招き入れると同時に声をかけた。
「昴は問う…具合は、もういいのか…と」
「あ…はい、お休みしてしまって、すみませんでした。ご心配をおかけしました…」
そう言うと、新次郎はどこか心ここにあらずといった落ち着かない様子で、そわそわと身じろぎをし始めた。
「…ええと、あのう、…水を一杯いただけませんか?なんだか、喉が渇いちゃって…」
唐突な要求を訝しく思ったが、断る理由もないので、昴は応じた。
「ああ…いいよ」
キッチンに行って、冷えた水をコップに注いで戻ると、新次郎の姿がなかった。
「新次郎…?」
寝室のドアが開いていた。
「何をしてるんだ」
治療を装った嗜虐のための器具が並ぶベッドサイドに立って、新次郎はぎくりとして振り向いた。
「す、すみません、あの…」
「勝手にそこらの物に触るな」
新次郎の前に回って、押し戻すように睨みつけた。
ご所望の水だ、と素っ気なくコップを手渡すと、新次郎は思い出したように急いでごくごくと飲み干した。ふうっと息をついて、昴の肩越しに、気がかりな様子で枕元を見やる。
「それって、ええと…お香…?ですよね…?」
香炉を指さして、新次郎が尋ねたので、昴はそれとなく身構えた。
「ああ、ダイアナにもらったんだ。リラックス作用があるんだよ」
やはり新次郎は不審に思っているのだ。でも、話の流れのおかげで自然に火をつけることが出来る。そう思って、昴は茶色い粉末を容器から移し、ホテルのマッチを手の中で擦った。詳しい成分は昴も知らない。竜涎香や白檀が混ざっているのはなんとなくわかったが、最近漢方の勉強もしているというダイアナのオリジナルと聞いていた。
「リラックス、ですか…そうですね…疲れてる時…とか…」
甘い香りが部屋に漂うにつれ、新次郎の言葉はだんだん歯切れが悪くなってきた。
「…あの、ぼく…昨日、ここに来た…はずなんですけど…なんだか…その…」
探るように昴の顔を盗み見ては、視線を泳がせ、新次郎は口ごもった。
「なんだい」
「それが…よくわからなくて…何か、夢でも見ていたような…」
夢、か。夢だと言って誤魔化すには生々しい行為だった。新次郎が核心を突いてきても、完全に薬が効いてくるまではぐらかし続けなくては。
「大事な話というのは、そのことかい…?」
「ええ、あの…ぼく…ぼくは…」
新次郎は言い淀み、自らを落ち着かせようとしてか、幾度も深呼吸した。甘く妖しい匂いを胸一杯に吸い込んで。
なんとも哀れなほどに、いとも容易く術中に陥る新次郎。昴は苦笑を噛み殺しながらも、いとけなさに心が苛まれた。
「なんだか、暑いですね…」
気まずそうにネクタイを緩める新次郎に、昴は内心で喝采した。
「そうだね。服を緩めて、楽にしてくれ…」
言いながら、猫のようにしなやかに寝台に寝そべり、しどけない流し目を送った。
「今日は、本当に暑いな…新次郎、僕も、脱がせてくれないか…?」
「昴さ…ん…?」
ネクタイを自分で引き抜くと、昴は新次郎の手を取って、胸元に導いた。
「頼むよ、新次郎…ほら…ね、ボタンを外して…」
新次郎はぽかんとした表情のまま、言われたとおり、素直に昴の服に手を掛けた。繭を剥くようにシャツを割り開くと、白く幼い肌が蠱惑的に喘いで、視線を釘づけた。
「昴…さん…」
昴の凄艶な微笑みが誘っていた。
はあっと大きく息を飲み、新次郎は昴の胸元に突っ込むように抱きついた。
「こら…まだ、全部脱いでいないよ…?」
くすくすと笑いながら、軽く咎めたが、新次郎は聞いていないようだった。
「昴さん…昴さん…っ…」
だだをこねる子供のように、昴の胸に頬を押しつけ、しがみついている。その表情は今にも泣き出しそうで、名を呼ぶ声も嗚咽に似ていた。
手枷を嵌めていないのを思い出し、昴は手順の誤りを悔いた。このままではきっと新次郎を抱きしめてしまう。だが、互いに薬に酔って記憶がおぼつかなくなるのなら、最早構うまい。ならば好機とばかりに、昴は自分も深々と甘い香りを吸い込んだ。
新次郎の健やかな体を見てみたかった。小さな手を体の隙間に差し入れて、胸をときめかせながらボタンを外した。
やがて現れた体は、若木のようにすくすくと伸びやかで、昴は感嘆に眼を細めた。着やせするのだろうと思っていたが、その通りだった。男性にしては細く見えた腰には、筋肉がやわらかな溝を作って整然と並び、女装の時に隠さねばならなかった肩や二の腕は、剣修行で鍛えた逞しさではちきれそうに輝いていた。そして夢見た新次郎の胸。すべすべとした曲線の厚みは、焼きたてのパンのように、囓れば香ばしい味が口中に広がるに違いない。…花の形の傷跡さえ美しい。
自分にダイアナの手があれば。
望みもしないのに自らの体の老化を止めるのではなく、愛しいものに命を分け与えることができたなら。
有り余る力の発現のどうしようもない差異を嘆きながら、昴はただ小さな痣に口づけるしかなかった。
新次郎の様子は些か不思議だった。
昴の体の細さを、頼りなさを、ねぎらい、いたわるように愛した。華奢な体を撫で下ろし、髪の先まで唇で崇めた。散々弄ばれた胸の先が、快楽よりも痛みのほうを多く感じるのに気づいたのか、新次郎は決して強くは触れずに、周辺にそっと口づけるに止めた。
その愛撫はやさしすぎて、もどかしいほどだった。昴は一瞬薬効の程を怪しんだが、新次郎の瞳は恍惚と潤み、熱に浮かされたような吐息は荒かった。
昴は不審に思う間も惜しくて、考えるのをやめ淡い快楽に浸ることに専念した。体中にくまなく降る口づけが、こんなにも心地よいなんて。
それでも、光の柱のような二本の脚を抱き、その付け根に新次郎が舌を差し入れると、さすがに激しい羞恥と慣れない衝撃が昴の喉をふるわせた。
「あ…っしんじろ…う…っ…!」
ぴんと硬直した背中は、しかしやがてゆっくりと解けた。貪るようだった昨日の様子とは打って変わり、新次郎の舌と唇は、昴の肉のほころびを繕うように愛した。薄い花弁をやわらかくなぞり、濡れそぼる入り口を舌先でぬぐい、小さな突起を唇で包んで唾液に浸した。
「…ん……ああ……」
羞恥が麻痺してくると、親密に与えられる快感は性的なものよりもむしろ癒されるようだった。じんわりと体が温まり、危うくまどろみそうになって昴は驚いた。
気がつくと、新次郎が己の先端を押し当てて、入り込もうとしていた。
強引に押し開かれる瞬間の痛みを思い、昴は密かに息を詰めた。
しかし、何やら思い詰めたような表情の新次郎は、昴の内部の感触を1センチずつ味わうように、ゆっくりと入ってきた。じわじわと拓かれる感覚は、真綿のように昴の喉を締めつけ、胸を焦がした。
やっと最奥まで入り込んだ新次郎は、昴が痛みも苦痛も感じていないことを確認するように、慎重に腰を揺らした。
「んっ…ふ…あ…」
ゆるゆると擦られて、その一瞬一瞬の溶けるような歓びを、途方もない幸福感とともに噛みしめる。甘い疼きが、手のひらから指先まで届いた。
切なげな新次郎の表情がいとおしくて、同時に、この幸福を新次郎も同じく味わっているかどうか不安になった。ああ、新次郎は性器のどの部分で快楽を感じるのだろう。どこを締めつければいいのか。もっと腰を押しつければ。それとも…。淫らな考察に生真面目に頭を悩ませながら、昴は試行錯誤した。
それでも新次郎は唇を固く噛みすぼめ、必死に自身を押さえているようだった。昴の息づかいや表情をうかがいながら、丁寧に昴の内部に円を描いた。推し量るように進み、怖々と引き抜く。それを繰り返されると、さざ波が肌を走り、頬にのぼって熱となった。
ひたひたと緩慢に寄せてくる悦楽は、昴の上にゆるやかに降り積もり、山となった頂が、最後に突き崩れた。
「あ…っ」
薔薇色の紗幕をふわりと投げかけられたような、甘い波が昴を包んだ。
それは激しくも強烈でもなかったが、昴はこの上なく満たされた思いだった。
こんな和やかな情交が存在するとは思わなかった。
しかし果たして新次郎は満足できたのだろうかと思って見れば、昴の中で伸び上がるように脈動した新次郎は、確かな解放感に大きな吐息をついていた。そして、いとおしげに昴の頬を抱いて、深く口づけた。
愛する者に、こんなにも幸福そうな顔をさせられるなら。男だの女だのということはあながち煩わしいだけのものではないかもしれない。そんな、己の信条すら揺らぐほどの感銘を受けながら、昴はぴったりと合わせた胸に、早打つ新次郎の鼓動を感じていた。新次郎に歓びを与えられた己の小さな体を誇らしく思った。
新次郎を抱きしめたくてならなかった。昴は細い腕を持ち上げて黒髪の頭を抱いた。
地肌はしっとりと汗ばんで温かく、毛先はひんやりと冷たかった。
何よりもいとおしい新次郎。この美しい命を守るためなら、自分はなんだってしてみせる。
入ってきた時と同じようにゆっくりと新次郎が出ていくのを、名残惜しくて不満の呻きを漏らした。このままずっと、向かい合わせの一つの生き物のようになって、繋がっていられたらよかったのに。重しとなっていた胸が離れ、呼吸は楽になったが、喪失感がもの悲しかった。新次郎も同じ思いなのか、眼差しに未練を浮かべて昴の体を横抱きに抱き寄せた。
やさしく腕に抱かれて、背中を撫でられていると、自然と睡魔が襲ってきた。やがて新次郎が体を離し、服を纏う気配を感じた。
「もう、いいのかい…?」
立て続けになれば、小さな体は痛みを覚える。しかし繰り返し求めてきた前日のことを思えば、新次郎が足りているはずがなく、昴は眠そうな声で問うた。
新次郎はにっこりと微笑んで、毛布で昴の体を守るようにやさしく包み込んだ。そして、昴の顔をじっと見つめ、耐えかねるようにきゅっと抱きしめてきた。
「ありがとう…」
惜しむような新次郎の声を、聞いた気がした。
疲労よりも安寧を得て、一人になった昴はうとうとしながらぼんやりと考えていた。
決して経験豊富であろうはずのない、若い新次郎が、強い催淫剤に酔いながらどうしてあんなに自分を押さえられたのか。あるいは薬が効き過ぎて、反応が鈍っていたのだろうか。そういえば新次郎は体調を崩していたのだった。いくつかの条件が重なって生まれた偶然なのかもしれないと、昴は解釈した。現に新次郎は自分が何の話をしにきたのかも忘れて帰っていったではないか。
でも、自分は忘れていない。今日はちゃんと覚えている。昴は新次郎の愛撫を反芻し、我が身をかき抱いて微かな喘ぎを漏らした。深いキス。ふんわりと熱い唇と、とろけるような舌の感触。ああ、新次郎の厚い胸板。なめらかで、つやつやして…
思い起こしながら、その記憶の鮮明さに不審を抱いた。
新次郎の様子にばかり気を取られていて、自分の状態に気づかなかった。いかに薬に慣れて効きにくくなっているとはいえ、酔った気はこれっぽっちもしなかった。
香炉の蓋を開け、鼻を寄せる。そして、微妙な匂いの違いにようやく気づいた。
やはり新次郎は酔っていなかったのだ。
シアターを休んでまで、同じ匂いの香を探し、すり替えて、酔った振りをした。
思えば、最初の落ち着かなげな様子は、薬が違うことに気づかれずに済むだろうかと案じていたからか。
素人の大根演技に欺かれるとは、腑抜けるにしても程がある。昴はいまいましげに己を叱咤した。
しかし、何故。何故新次郎は素面で自分を抱く必要があったのか。しかも、あんな、昴の体に負担をかけまいとするような、気遣いに満ちたやり方で。
いやな予感が、矢羽根をふるわせて昴の胸を穿った。
一つの仮定に、すべてのパズルのピースが整然と当てはまった。
新次郎が真相を知ってしまったのだとしたら。
昨夜、酔いから醒めて、不審のあまりここへ立ち戻り、ダイアナとの会話を聞いてしまったのだとしたら。
やさしい新次郎。真面目な新次郎。不器用な新次郎。
詫びるように自分を抱き直した新次郎が、次に取る行動は。
昴は蒼ざめ、ベッドから飛び降りた。
「まだ検診の必要はないと思うんですけど…」
シアターの地下の医務室で、呼び出されたダイアナは、新次郎の前に座りながら不思議そうに小首を傾げた。
「すみません、なんだか体調が優れなくて、どうしてもダイアナさんに診ていただきたくて…」
悪びれない様子の新次郎に、ダイアナは、ああ、と思い至ってうなずいた。
「そういえば、今日はお休みされてたんですよね、どんなふうに具合が悪いんですか?」
「え…ええと、まあ…だるいっていうか…」
開いた胸に、聴診器を当てると、僅かに鼓動が早いのがわかった。
体調を崩して霊力を消耗してしまったのだろうかと、ダイアナは推論を納め、
「とりあえず、いつものように、霊力の流れを確認させてくださいね」
微笑んで、五輪の痣に己の手をかざした。
湯を零したような熱が手のひらに満ちる。
その手を、新次郎の指がそっと剥がした。
「大河さん…?」
「そうやって、ぼくを、生かしてくれてたんですね」
新次郎はじっとダイアナを見据え、静かに言った。
「ダイアナさん、今までありがとうございました」
輝くような笑顔でぺこりと頭を下げると、新次郎は立ち上がり、診察用寝台の下に手を差し入れた。あらかじめ置いてあったのか、無銘の愛刀を取り出すと、すらりと抜き放つ。
「もういいですから…ぼくのことは、もういいですから、だから、昴さんを、解放してあげてください。お願いです。ダイアナさん…」
何を、と問う間もなく、柄を持ち直し、鈍く光る切っ先を、迷いもなしに己の胸に突き立てた。
がくりと身を折った背中から、手品の仕掛けか何かのように、刀身が突き出ていた。
見る見る、床に血溜まりが広がっていく。
空気を切り裂く悲鳴をあげたのは、ダイアナではなかった。
「新次郎っ!!」
昴が、よろめきながら駆け込んで来た。
「新次郎!しっかり!」
がくがくと身をふるわせ、新次郎を起こそうとする昴。
「す……ばる……さ…」
新次郎の息はもう声にならない。それでも、死に至る激痛の中で、昴の顔を見て微笑もうと、僅かに頬を歪めるのがわかった。
「駄目だ!死ぬな!新次郎!新次郎っ!!」
膝も手も血まみれにして半狂乱の昴は、身を翻してダイアナに取りすがった。
「早く、早く新次郎を助けてくれ!ダイアナ、君ならできるだろう!?」
一度だけ、こんな昴を見たことがあった。安土城で、信長の矢に倒れた新次郎を抱えて、天に向かって助けを求め泣き叫んだ昴。その懇願が、今、ダイアナ自身に向けられていた。
「僕を滅茶苦茶にしてくれ!何をしてもいいから!何だってする!だから、早く!」
自らの服を引き毟り、昴は叫んでいた。
「いくらでも、僕を奪ってくれ!だから新次郎を助けて…お願いだ!ダイアナ!ダイアナあっ!」
白衣の裾をつかみ、脚に抱きつき、あまつさえ、必死に背伸びして口づけようとすらした。最早、何を言っているのかもわからないほどに、取り乱し、泣き叫び、狂乱する昴。
こんな昴の姿を知るものが、他に、この世のどこにいるだろうか。
特等席から見おろして、ダイアナはその高さに目の眩む思いだった。
泣き伏す昴を避けて新次郎のそばに屈み込む。おそるおそる柄を握り、力を込めて剣を抜くと、血しぶきが眼鏡のガラスに飛び散った。
背後で、昴が今にも死にそうな悲鳴をあげた。すかさず傷口に手を当てて、意識を集中し、己の霊力を呼び覚ます。
「メジャー・オペレーション…」
小さく唱えると、押さえた指の間にどくどくと湧いていた血が止まった。
フィルムを早送りするように、急速に細胞が修復され、破れた血管をつないでいくのがわかる。失われた赤血球が増殖し、弱々しく消えかけていた心臓の鼓動が復活した。
紙のように色褪せた新次郎の頬に、次第に血の気が戻り、穏やかな息づかいが、見守る昴の手のひらを温めた。
「あ…あ…新次郎…っ!…生きて…助かったんだね…よかった…よかっ…」
新次郎の頭を抱いて頬をすり寄せる昴の、野放しに眉も眦も下げきった、無防備なまでに緩んだ表情を見ながら、ダイアナは、もう自分は昴を苦しめることはないだろうと思っていた。
既に究極の姿を見てしまったから。
どれほど残酷な目に遭わせようとも、先ほど見た以上に乱れ叫ぶ昴の姿などあり得ないだろう。
むしろ、これからは、こんなふうに幸福に緩む昴の表情を楽しむのもいいかもしれない。
二人とも、自分に感謝こそすれ、恨むようなことはあるまい。きっとたくさん、楽しませてくれるだろう。
昴と新次郎、研究用のサンプルをつがいで手に入れたような気になって、ダイアナは弾む胸を押さえて一人微笑んだ。
《了》
[Top]
[とらんす書院]
|