眩惑

(1)



熱海での夏休暇は、予期せぬ黒鬼会の来襲により、何とも後味の悪い幕切れとなった。

「こうなった以上、我々は休暇を切り上げ、すぐに帝都に戻ります」

戦闘終了後、翔鯨丸にて大神の提案に、しかしかえでの返事はその必要はないというもの だった。

「花組不在の隙をついて帝都を狙ってくるかと思いきや、わざわざ熱海まで出向いてくれた ところを見ると、今回の黒鬼会の目的は花組殲滅に絞られていたようね。だったらこれだけ 叩いておけば大丈夫なんじゃないかしら。それに帝都行きの汽車は出てしまった時刻だし、 あなた達が急にいなくなったりしたら、宿の人達に不審がられるわ」

米田の縁戚の者が経営しているとはいえ、旅館の者は花組の素性までは知らされていない。 かえでの言うことももっとものように思われた。

「長官も帰還は明日でかまわないとおっしゃってるわ。戦闘の疲れを温泉でゆっくり癒して、 戻ってらっしゃい」

そこで一同は普段着に着替えて宿に帰り、風呂に入って夕食をとった。前日までとは打って代わり、 誰もが無口で、箸の進みも遅かった。
其処には楽しい休暇を台無しにされた怒りよりも、むしろ自らの立場を思い知らされたやりきれ なさの方が色濃く漂っていた。
・・・・ほんのひとときの安らぎさえ許されない、戦闘部隊としての現実。

「(無理もないことだ)」

大神は乙女達を気の毒に思った。
自分のような職業軍人ならいざしらず、花組の隊員は誰もがただ強い霊力を持っているというだけで この戦いに放り込まれている。いくら自分の意志で戦っているとはいえ、ようやく得たささやかな楽しみ さえこうして無惨に奪われていく様を目の当たりにすると、やはり心からの同情を禁じ得なかった。

けれどこれが現実なのだ。どんなに残酷に思えても、黒鬼会を倒し、帝都に真の平和が訪れるまで、我々は日夜もなく命がけで 戦わねばならない。
・・・だがそんなことは誰もがわかりきっていることだ。
わかりきっているからこそ、やりきれなく辛いのだ。
そこで大神は口をつぐみ、ただひたすら食事を終わらせることに専念した。



やがて食事を終えた一同は、早々に布団を敷いて寝る準備を始めた。何かする気分 ではなかったし、何よりも海水浴に加えた戦闘で、体の方がくたくたになっていたのだった。



マリアはカンナが戻るのを待っていた。
夕食後、カンナは鍛錬をすると言って、空いている孔雀の間へ行ってしまった。疲れているから やめた方がいいと止めるマリアに、
「これくらいであたいがへばるもんかい」
豪快に笑うと、カンナはさっさと部屋を出たのだった。

「・・・遅いわ・・・」
他のみんなは布団に潜り込んだ後、しばらくひそひそやっていたが、今ではすっかり寝入っている。 サキの姿も見えなかったが、行き先を言わずにいなくなるのはいつものことなので、気にとめなかった。
マリアは布団の上に座り、見るともなしにみんなの寝顔を眺めていた。食事の時まではいくぶん沈んでいたが、 寝る前にはすっかり元気を取り戻したようで、今ではいつもどおりの穏やかな寝顔で眠っている。

「(みんなが無事で、本当に良かった・・・)」
マリアは昼間の事を思い出した。キネマトロンを探しているうちに、洞窟で敵の発信器を発見したこと。
通信を傍受し、上手く受け答えしたまでは良かったが、その後洞窟に潮が満ちてきて・・・

「(隊長・・・)」

マリアは知らず頬を染めた。足手まといになりたくなくて、泳げない自分を置いて行くように言ったのに、 隊長は私を励ましてくれた。決して私の手を離さないと、一緒に行こうと言ってくれた・・・。

「(水の中で、だんだん息が苦しくなって、意識が薄れていって・・・けれど隊長の手のぬくもりだけは はっきりと感じていた。力が抜けそうになるたびに、力強く握ってくれたことも・・・)」

鼓動が高まっていることに気づき、マリアは慌てて頭を振ると、気を落ち着けようと深呼吸した。
「(バカね、私ったら何を期待しているの?隊長は花組隊長として部下を助けてくれただけよ、 上官として当然のことをしたに過ぎないのよ)」

けれどあのまなざし、真摯な声。暖かな手、私を気遣うようにのぞき込む表情・・・。 マリアは火照る頬にそっと手を当てた。前髪がさらさらと触れるのを感じながら、

「(そう言えば戦闘の後、カンナに髪が濡れていることを指摘されたっけ・・・)」
マリアは翔鯨丸でのカンナとの会話を思い出した。

「あれ?マリア、どうして髪が濡れてるのさ?」
「え?ああ、これは・・」
マリアは言いかけて不意に言葉を切った。昼間の記憶が蘇り、急に恥ずかしさを感じたのであった。
だが何のことだかわからないカンナは、
「どうしたのさ?」
きょとんとした様子で問い返した。

「その、黒鬼会の通信機があった洞窟に潮が満ちてきて、それで濡れちゃったのよ」
「ふーん。んじゃ服も濡れたろ?大変だったな」
「え、ええ・・・」

自分でもそれとわかるくらい顔が熱くなり、マリアは慌てて下を向いた。
「なあ、何で赤くなってんのさ?」
「な、何でもないのよ」
「けどさあ・・・」
「も、もう何でもないって言ってるでしょう。いちいち詮索しないでちょうだい」
思わずぶっきらぼうに答えると、マリアは急いでその場を離れたのだった。

「(カンナには悪いことしちゃったわ・・・)」

そこでカンナのことを思い出し、マリアは時計を見た。カンナが出ていって、 すでに2時間が経とうとしている。
「まさか、孔雀の間で寝てるんじゃないでしょうね」
カンナに関しては十分考えられることであった。鍛錬の途中でそのまま寝入ってしまうことが あるのはカンナ自身から聞いている。ましてこの暑さでは、布団など必要ともしないであろう。

「しょうがないわね」
マリアは立ち上がると、部屋を出た。孔雀の間へ向かおうとする途中で、
「アラ、マリアさん?」
廊下でサキが声をかけてきた。
「サキさん・・・どこに行ってたんですか?」
「わたし?ちょっとお散歩にネ・・・あんまり蒸し暑くて、お部屋にいられなかったのヨ」
「そうですか・・・みんなはもう寝ていますので、部屋に戻るときはお静かに願います」
「ええ、わかったワ。あっ、そうだ。さっきそこで大神クンと会ったんだけど、マリアさんの 事を探してたわヨ」

マリアはきょとんとサキを見返した。
「私を・・・ですか?」
「ええ。もう寝てるんじゃない?って言ったら、何だか困ったような顔してたから、呼んできて あげるって言っちゃったの。ちょうど良かったワ、彼、朱雀の間で待ってるわヨ」
「けれど・・・」

マリアは躊躇した。もう深夜であるし、自分は浴衣姿である・・・いくら呼ばれたからと言って、 こんなくつろいだ格好でひとり男性の部屋を訪ねるのは、さすがにためらわれた。

「どうしたのマリアさん?何を考えてるの?」
「いえ・・・、隊長は何の用件か言ってましたか?」
「いいえ、言わなかったわ。でもとても急いでるようだったし、行った方がいいんじゃない?」
「・・そうですか・・それでは行ってみることにします。サキさん、ありがとうございました」
「いいのよ。それじゃわたし、お風呂に入ってくるわネ。潮風で体べたべたになっちゃったから」
「はい、ではお休みなさい」
「お休みなさい」

マリアはとりあえず部屋へ引き返した。やはり浴衣姿で大神の部屋へ行く のは抵抗があった・・・手早く着替え、そっと足音を忍ばせると、マリアは朱雀の間へ向かった。

「・・・隊長?」
声をかけたが、返事がなかった。
「隊長、マリアですが・・・」
少し声を大きくして呼びかける。だが障子の向こうはしんと静まりかえったまま、 何の答えも返ってこなかった。
「(待ちくたびれて寝てしまったのかしら・・・)」
引き返すことも考えたが、とりあえず確認だけはしておこうと思い、マリアはそっと障子を開けた。

中は暗かった・・・中央に布団が敷かれ、人が眠っているようである。耳を澄ますと規則正しい寝息が聞こえて きたので、大神が眠っていることは間違いないようだった。

すぐに引き返そうと思いながら、マリアはしばらくその場に立ちつくしていた。
やがて暗がりに目が馴れてきて、白く浮かび上がる布団の端から、見慣れた黒い頭がのぞいているのが見て取れた。

マリアは思わず二歩、三歩と足を進めた。布団のすぐ側まで来て、そろそろと腰を下ろし、大神の寝顔を見つめる。
「(隊長・・・)」
日に焼けた健康そうなその寝顔は、思いの外あどけないようにマリアの目には映った。

「(私は何をしているの?早く、部屋へ戻らなければ・・・)」

だがマリアは立ち上がれなかった。まるで重しをつけられたように体が動かない。額に汗がにじむ、 とその時、大神がぽっかりと目を開けた。

「・・・マリア・・・?」
「た、隊長・・・!」

マリアは反射的に飛びすさった。その様子に、大神も慌てて半身を起こす。
「すみません、すみません隊長・・・」
狼狽しきった様子でおろおろと謝るマリアに、
「い、いやいいんだ、ちょっと驚いただけだから・・・」
大神は照れたような表情で、後頭部に手をやった。

「それよりどうしたんだい?何かあったのか?」
「いえ、あの・・・隊長が私をお呼びだと聞いたもので・・」
「俺が?別に呼んではいないけど・・・」
「え?でもサキさんが・・・」
「ああ、サキさんにはさっき歯を磨いている時に会ったよ。けど、そんな話はしなかったがなあ」
「そうですか・・・」

ではサキの勘違いだったのだ。恥ずかしさに全身がカッと熱くなり、マリアはサキの早とちりを恨んだ。 が、一方でいくばくかは自分の意志が働いていたことも認めざるを得なかった。

「あの、本当に失礼しました。それでは・・・」
そそくさと退出しようとするマリアに、
「ああ、待ってよ」
と大神が声をかけた。「せっかくだからお茶でも飲んでいったらどうだい?」
「でも、もう隊長はお休みですし・・・」
「いや、だから起きるよ」

大神は布団を体からどけた。と、浴衣の前がはだけていることに気づき、慌てた様子でかき合わせた。
「は、ははは、これはみっともないところを見られたな」
「い、いえ・・・」
マリアは真っ赤になってうつむいた。大神の肌を見たことよりも、布団が開かれた際にかすかに 鼻腔を刺激した男性の匂いの方が、遙かにマリアの羞恥心を刺激したのだった。

大神は明かりをつけ、隅に寄せていたテーブルを持ってくると、備え付けの急須で茶を入れた。
「どうぞ、粗茶ですが」
「はっ、いえ、いただきます」
しゃっちょこばるマリアに、
「・・・いや今のは冗談だったんだけど・・・」
大神がぼそりと呟く。マリアは思わず大神の顔を見た。目と目が合い、
「ふふ・・・」
「ははは・・・」
どちらともなく笑い合う。

「今日は大変だったね。お疲れさま」
「いえ、隊長こそお疲れさまでした。それから、本当にありがとうございました」
「いや・・・きみが無事でよかった。それだけでもう十分だよ」
「あの・・すみませんでした。私のせいで、余計な苦労をかけてしまって・・・」
「そんなことはないさ。それよりも、あの場できみを置いて行く事の方がよっぽど 辛いことだからね。それなのにきみは先に行けと言うし、何としても残ろうという素振り を見せるからまいったよ」

その言葉に、マリアはそっとうつむいた。
「すみません、私・・・」
「ああごめん、言い過ぎたよ。きみを責めるつもりで言ったんじゃないんだ。きみ相手だと つい、気を許してしまって・・・謝るよ」
「いえ、そんな・・・」
「ただ・・・」
「え?」
「正直なところ、あのとき俺は、まだきみの信頼に足らないのかなと思って、少し寂しかった・・・」

マリアは慌てて顔を上げた。
「そ、そんなことありません。隊長は本当に花組のためによくしてくださって、私なんか のためにも命がけで・・・もう2度も・・・私は、私は隊長のことを心から信頼しています。 謝るのはむしろ私の方です、今度のことも隊長に何とお礼をしたらいいのか・・・」
「礼なんていいよ。むしろそんなことを考えないでほしいな。お礼なんて、それじゃあまりに 他人行儀じゃないか、マリア」
「はい・・・」
「とにかく、きみが俺のことを信頼してくれてるのがわかっただけでもう十分だよ。それだけで、 今日の苦労は報われたというものさ」

マリアは大神の瞳を見つめた。唇が震え、ようやくの思いで、
「・・・隊長・・・」
とだけつぶやく。

大神もまたマリアの顔を見た。そしてまぶしそうに目を逸らし、
「さ、さあもう遅いよ。部屋に戻った方がいい」
もぐもぐと口ごもりながら言った。
「はい、そうします。あの、夜分遅くに申し訳ありませんでした」
「いや、かまわないよ。それよりマリアも早く寝た方がいい」
「わかりました。それではお休みなさい、隊長」
「お休み、マリア」

部屋を出たマリアはそっと障子を閉め、大神に聞こえぬようため息をついた。
胸はまだどきどきと波打っていた・・・会話のひとつひとつを思い出し、頬を染めて再びため息をつく。
だがすぐさまそれを恥じると、殊更冷静を装って、ひとつ頭を振ってみせた。

「私ったら、何を舞い上がっているのかしら。早く部屋に戻らないと、ああその前にカンナの様子を・・・」

マリアは孔雀の間を覗いてみた。部屋はもぬけの殻だった・・・どうやらカンナは部屋に戻ったらしい。 急いで引き返す途中で、
「あら?」
マリアは玄関を出ていく丈高い姿を認め、目を見張った。

玄関先の照明にわずかに照らされた赤褐色の髪、その後ろ姿を見間違うことなどなかった。

「カンナ?」
サキのように散歩に出たのだろうか、それにしては時間が遅すぎる。
追うべきか放っておくか、マリアはしばらく考えた後、後を追うことにして宿を出ていった。


ススム →
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