グレイ・ゾーン






「昴さん!」
 呼びかけられて、昴ははっとピアノを弾く腕を止めた。我に返って振り向くと、瓦礫の散らばったハーレムの往来を、新次郎が駆け寄ってくるのが見えた。
「ずっと弾き続けてたんですか?そろそろ夕方ですよ」
「…ああ、もうそんなに時間がたったのか…ピアノに夢中で気が付かなかった」
 そう言って昴は空を仰いだ。もっとも、第六天の招いた暗雲に覆われた空は、陽がどこを渡っているのかわかりかねるほどに重く曇っていた。
「昴さん、帰りましょう。風邪をひきますよ。ほら、ほっぺたが冷たくなってる」
 暖かな手のひらでぴたりと顔を包まれて、昴はどきりとした。慌てて逃れながら、椅子を降り、気を逸らすようにピアノを見やる。
「その前に、これをバーの屋内に戻さないと。建物が倒壊しては元も子もないが、雨ざらしにするのは忍びない」
「どうやって外に運んだんですか?」
「カルロスたちがやってくれたんだが…彼らももう避難したようだな」
 人手を探さねばと思案していると、頼まれるまでもなく新次郎が腕まくりをした。
「ちょっと待ってくださいね。ぼく一人でできるかなあ…」
 足を突っ張ってぐいとピアノを押してみる。
「うん…動かすだけならなんとか…。昴さん、ドアを開けていてくださいね」
 250キロはあるグランドピアノを、新次郎は唸りながらもキャスターに助けられて押していった。
 フレンチドアの片方を瓦礫の破片で止め、反対側を手で押さえながら、昴はその様子を見守っていた。
 こころよく手助けをしてくれ、労働を厭わない、それは昴のよく知っているやさしく誠実な新次郎の姿だ。卑怯な手段で陵辱され、一度は殺意すら抱いたというのに、こうして平然と会話しているのがとても奇妙に感じられた。他人の前では憎しみも疑念も潜めて、当面普通に振る舞っているせいだろうか。それとも、自分の心が麻痺してしまったのか…。
 ほつれた前髪の間から汗が光っているのが見えた。シャツの内側で隆起する、見知った腕や胸の筋肉を思い描いているのに気づき、昴は自分に驚いて頬を赤らめた。なにげなく鉄扇を開いて口元を覆い、素知らぬふうを繕う。


「はあ…はあ…ステージの上までは持ちあげられませんけど、このへんなら大丈夫ですよね」
「ありがとう、大河」
 額の汗を拭う新次郎に、律儀に礼を述べ、昴は急いで立ち去ろうとした。少しでも二人きりでいると、居住まいが悪いことこの上なかった。
「あ、昴さん、やっぱりぼく、もう一度昴さんのピアノが聞きたいです」
 それを新次郎が呼び止める。
「さっきの曲を弾いてくれませんか?…ぼくのために」
 語尾に込められた微妙な抑揚に、昴は早くも警戒心を覚えた。
「…まあ…いいけどね」
 いつもの平静を装い、昴は再び椅子に座って鍵盤に指をすべらせた。
 ピアノを動かしてくれたのはありがたいが、思いのほか高くついたのではないか。胸にじわりと沸いた不安は、傍らの新次郎を意識するほどに、次第に強まった。

 視線が自分に注がれているのがわかる。
 頬に、胸に、脚に。
 じっと、反らされることなく向けられた熱い眼差し。感嘆と、賛美と…欲望。
 昴は強い息苦しさを覚えた。


 求められる。


 その確かな予感に、急に空気が重くなった。濃霧に包まれたように、肌が湿り、服がじっとりとまとわりつく。
 今すぐ、演奏をやめて逃げ出せば、回避することができるだろうか。
 さりげなく手を止め、何か誤魔化す言葉を残して素早く立ち去ればいい。
 だが、意に反して指先は小節を重ねていく。信じられない思いでおのが両手を見おろしながら、昴は呆然と自分の思考を検証した。
 逃げ出すという行為のほうが屈辱だなどと、そんな理屈は通用しない。ならば、自分はいったい何をしようとしているのか…。

「昴さん…素敵でした」
 リタルダンドで曲が終わると、ぱちぱちと拍手しながら新次郎が歩み寄った。そして、そっと昴の手を取る。
「こんなに小さくてかわいい手なのに…素晴らしい音楽を奏でるんですね」
 頬を寄せ、指の背に小さく口づけた。そして舌先をちらりとのぞかせて、指の付け根に差し入れる。
 始まった。昴は密かに生唾を嚥下し、身構えた。どっと鼓動が速まるのがわかる。
「…っ…よさないか」
「うふふ…昴さんの指、とっても美味しい…お菓子みたい」
 つるりと指先を口に含まれて、昴は慌てて手を引っ込めようとした。しかし、新次郎がしっかりと捕らえて離さない。舌先がぬるぬると動き回り、二の腕を這い昇る蟻走感に、きつく肩をすくめる。
「んっ…やめろ、気持ち悪い…!」
 生ぬるい感触に堪えきれず、力を込めて振り払うと、新次郎は不満げに唇を歪めた。
「気持ちいい、じゃなくて、悪いんですか?」
 昴は答えず、無視を決め込んで顔を背けていた。
「ふうん…じゃあ、昴さんはこういうことしても感じないんでしょうね」
 新次郎は昴の肩を背後から抱き、するすると腕を撫で下ろした。きゅっと腹の前に手を回して抱きしめると、耳元に息を吹きかける。
 ぴく、と小さくふるえる昴に、新次郎が低く囁いた。
「もう一度弾いてください」
「……離れてくれ」
「昴さんくらい上手なら、この状態でも弾けるでしょ?」
「何のつもりだ」
「いいから、弾いてくださいよ。ね?」
 懸念を滲ませながらも昴が演奏を再開すると、ふいにぺろりとうなじを舐められ、アルページオが転びそうになった。
「何を…」
「昴さん、ちゃんと弾かなきゃだめですよ。間違えたら、お仕置きですからね」
 そう言って、新次郎がスーツの内側に手をしのばせる。シャツの裾を引き出してたくし上げながら、滑らかな肌を這い昇り、既に固くしこっている胸の突起にたどり着いた。
「大河…!」
「昴さん、このくらい平気でしょう?それとも、ピアノも弾けないくらい感じちゃってますか?」
 含み笑う声に、昴はぐっと唇を結んだ。
 新次郎のいたずらなど無視できる。もともと目を瞑っていても弾ける曲だ。そう思ったものの、耳朶をねぶられ、ざわざわと肌が泡立つのを堪えるうちに、指がすべっていつのまにか曲が移調していた。胸の先を広い親指の腹で擦りまわされ、息を止めて感覚を遮断しようとするほどに、努力の甲斐もなく意識はそちらを向いてしまう。
 胸の中心から腕へ、肩へ、そして下腹部の底へと走る感覚のラインが、くっきりと浮かび上がるように感じられた。熱い脈が、パルスのように光りながら駆け抜ける。
 痛いほどに押しつけた膝の間を、ねじ込むようにして指が入ってきて、ついに昴は溜めていた息を放出した。
「く…っ……やめろ…っ…!」
 ばあん、と手のひらが鍵盤を叩いた。
 髪を頬にほつれさせ、荒い息をつく昴の耳に、新次郎のひやかすような声が入り込む。
「ずいぶん早い降参ですね、昴さん。そんなに感じちゃいましたか?」
「…馬鹿馬鹿しい…どちらにしたって、君を楽しませるだけじゃないか…」
 憎々しげに眉根を寄せ、昴は唸るように吐き出した。
「昴さんたら、強がりなんだから…」
 漆黒の髪に鼻を埋めて、新次郎が忍び笑う。
「弾けなかったから、…わかってますよね」
 ズボンのファスナーの下がる音に、昴はぎょっとして青ざめた。
「まさか、こんなところで…」
 ガラスの割れたドアから見える往来を視界の端に捕らえ、昴は抱き寄せようとする新次郎を慌てて遮った。
「やめろ!人が来たらどうする」
「もうこの辺はみんな避難が済んでますよ」
 昴は恐ろしげに首を振った。もし誰か通りかかって、のぞき込んだら。新次郎は欲望に眼が曇って正常な神経をなくしてしまったのか。
「いやだ!やめてくれ!誰かに見られたら…僕は!」

 昴の必死の訴えに、新次郎がぷっと吹き出した。
 からかわれたのか。昴の頬は怒りで上気した。
 その様子に臆するふうもなく、新次郎が手を引いて立たせる。
「…しょうがないですね。じゃあ…こっちに来てください」
 数歩の距離を強引に引き立てて、カウンターの内側に昴を押し込め、散乱する酒瓶を避けて組み敷いた。
「なっ…!」
「ここなら外から見えませんよ。見えなければ…いいんですよね?」
 言質を取ったように言いながら口づけてくる顔が腹に据えかね、昴は手のひらを挟んで牽制した。
「た…いがっ…せめて、部屋まで…」
「そんなに待てませんよ。ぼく、元気になったらいっぱい昴さんにしてあげようって、ずっと楽しみにしてたんです。やっとこうして動けるようになったんですから」
 もどかしげに紅いネクタイをほどきながら、新次郎はふと床に転がった酒瓶に目を留めた。未開封のボトルを手に取り、くるくると回してラベルを眺めると、ぱっと顔を輝かせる。
「うわあ、これ、上等なバーボンですよ。ちょっと頂いちゃおうかな。後でドッチモさんにお金を払えばいいですよね」
 きゅっと瓶の蓋を開け、新次郎はおもむろに昴に差し出した。
「昴さん、はい」
「昴はいらない」
「違いますよ。ぼくに飲ませて欲しいんです」
 つんつんと自分の口をつついてみせる新次郎に、昴はようやく彼の望みに思い至り、露骨に顔をしかめた。
「昴は問う…君は酒が飲みたいのか…と」
「昴さんが飲ませてくれるお酒が飲みたいです」
 にこにことてらいもなく言いながら、期待を込めた眼差しで見つめる新次郎に、昴は渋々と瓶に唇をつけた。
 琥珀色の液体を口に含むと、強いアルコールが口腔を灼くのを感じた。
 次の行動に躊躇う間もなく、新次郎が頬を抱いて口づける。
「んっ…」
 舌先が入り込み、口内をかき混ぜながら、吸い上げるように蠢いた。
「う…んん…」
 唇の隙間から零れた酒が喉を伝う。その雫を新次郎の舌が追いかける。
「うふふ…美味しい。昴さんの味がする」
 鎖骨の窪みに溜まった分を啜りながら、新次郎は含み笑った。
「馬鹿か…!まったく…服に沁みてしまったじゃないか」
「ああ、すみません。じゃあ全部脱ぎましょう」
「違う…!っ…大河!」
「着たままがいいんですか?ぼくはどっちでもいいですよ」
 揉み合う昴の腕を捕らえ、ぐいと床に押しつけると、新次郎はねだるように言った。
「ほら、昴さん、暴れないでじっとして。大人しくしてください。ね?」
 服従を強いる言葉を吐きながら、しかし新次郎の声は甘く和やかだ。こんな愛くるしい笑顔に、もの柔らかな声に、これから自分は淫らに弄ばれるのか…。下腹部が自ずとねじれるように引き絞られるのを、昴は感じた。
 写真が存在しないのなら、そもそも従う謂われはない。しかし、今それを指摘してしまえば、真実はするりとどこかへ逃げ去ってしまうような気がした。
 だから、今は。
 このまま新次郎に身を任せるしかないのだ…。 

 そう自分に結論を告げて抵抗をやめた昴に、新次郎は満足げに微笑んだ。
「そうそう。いい子にしててくださいね」
 身を固くする昴のシャツをはだけ、酒瓶を傾けると、胸の先を狙ってぽたりと雫を落とす。
「…っ…!」
 アルコールの揮発する冷たさに息を飲む間もなく、熱い唇が被せられた。
「あ…!」
 反射的に声を漏らす昴に、新次郎が短い笑みを投げる。
「ちゃあんと、代わりばんこに舐めてあげますからね…」
 そう言って、さも楽しげに左右の乳首に琥珀色の液体を垂らしては、丹念に舐め取ることを繰り返した。
 起伏の少ない胸は、雫を零す速度も緩慢で、格好の酒杯となって新次郎の唇を潤し続けた。
「んっ……く…」
 息を詰めて刺激に堪える昴の喉元で、新次郎の悦に入った声が聞こえる。
「ああ…ぼく、昴さんの我慢してる声もかわいくて大好き。喉の奥が、鳩みたいに小さく鳴るんですよね」
 昴はかっと頬を染め、目を見開いた。
「それから…」
 手のひらを重ねて握ると、新次郎は再び乳首を口に含んで存分に転がした。
「……!」
 ならば喉も鳴らすまいと歯を食いしばる昴に、すかさず新次郎が声をかける。
「手のひらにね、きゅっと、力がはいっちゃうんですよね。感じると。ああもう、ほんとにかわいいんだから。昴さん」
 なけなしのプライドをいくらかき集めてみても、新次郎が喜ぶだけなのだと悟り、昴はがっくりと脱力した。いっそ、淫らに振る舞って見せれば、新次郎を興ざめさせることができるだろうかとも考えたが、そこまで自分を貶めて見せることもできかねた。
「はあ…もっと飲みたいです」
 うっとり呟きながら、新次郎は昴のズボンを押し下げた。平たい腹部にとくとくと酒を注ぎ、流れを辿って谷間に舌を差し入れる。
「はっ…!」
 昴の体が弓なりに反って跳ねた。
 アルコールは金属の刃を当てられたように冷たく染み、こそげ取る舌先の動きは焼きごてのように熱かった。制止する言葉も工面できず、昴はただ声にならない悲鳴を漏らした。
「…は…ひぁっ……」
 広い舌の面で舐めあげられ、押し当てた唇が啜る。その度に小さな波がひたひたと押し寄せ、軽く意識をさらわれそうになる。なんとか新次郎の頭を押しのけたいと思ったが、半端に脱がされたズボンは枷となって足を束ね、手のひらがやみくもに新次郎の髪を掴むばかりだった。

「ふう…こんな素敵なお酒を飲めるなんて、紐育中でぼくだけですよね」
 満足そうに口元を拭って見おろす新次郎に、昴は負けじと力の抜けた頬を引き締めた。ようやく苦しい息を継ぎながら、それでも咎めるように睨みあげる。
「…大河、酔っているな…」
「酔ってなんかいませんよう。まだまだ飲めますよ」
 とろんとした瞳のまま、新次郎が答えた。呂律はかろうじて保っているものの、語尾の抑揚が間延びしかけているし、上体の動きもゆらゆらしている。見ればバーボンの瓶はすっかり空になっていた。大半は零れただろうとはいえ、十分な量のアルコールを新次郎は摂取したはずだ。
 もしかして、これは新次郎の真意を探るチャンスではないだろうか。
 昴は唇を湿すと、率直に問いかけた。
「大河…君は…僕を憎んでいるのか…?」
 その言葉に、途端に新次郎は仰々しく眼を丸くした。
「ええっ大好きですよ!決まってるじゃないですか」
「ならば、何故僕を辱める」
「いやだなあ。れっきとした愛情表現ですよう」
 子供のように頬を膨らませたかと思うと、新次郎はふいに眼差しに欲望を滾らせた。
「もう、こうすればわかってもらえますか?」
 ズボンの前を開けて、大きく猛った己自身を取り出す。昴がたじろぐ間もなく、膝を抱えられ、酒精と唾液と愛液に濡れた部分に当てられる。
「く…うっ…!」
 埋め込まれる部分が自分の体に存在することを、嫌と言うほど思い知らされながら、昴は押し殺した呻きを漏らした。
「はあ…あったかいなあ……昴さん」
 新次郎が深々と息をつく。入り込んだ後、動き始める前に、そうしてしばらくじっと感じ入る新次郎の癖も既に知っている自分に、昴はほとほと気が滅入った。
 そして新次郎も、同じく昴の弱点を熟知している証拠に、狙いを正確に定めて突いてきた。
「あっ…!…はあ…っ」
 堪えきれずに喘ぐ昴に、新次郎が得意げな笑みを強くする。抱えた脚を撫で回し、小さな膝小僧に頬ずりしながら、たゆまずに腰を動かした。
「ほら、ぼく、昴さんを気持ちよくしてるでしょ?ね?そうでしょ?」
「ん…!う……ふう…っ…!」
 必死に口を押さえる昴に、新次郎が畳みかけながら突き上げる。それは体の奥に灯された火に注がれる火薬にも等しかった。幾度も炸裂する火花が、思考を焼き払い、プライドも何もかなぐり捨てて乱れてしまえと誘いかける。
「昴さん、気持ちいいって、言って、ください。ねえ、言って、昴さんてば!」
 内奥を擦られ、ぐちゃぐちゃと深く掻き回され、それでも、昴はもちろん固く口を結んで答えない。九条昴が、酔った新次郎ごときに、見境なく悦ばされたりするものか。いくらでも戦ってみせる…。
 しかし快感は確実に熱となって高まり、炎は野火のように全身に燃え広がっていた。追い上げてくる波の思いがけない速さに、昴はうろたえた。
 今日は媚薬のせいにはできない。ならば、少しアルコールを嚥下してしまったせいだ。この、むせかえるようなバーボンの、ほろ甘い香りのせい…。

「くふっ…!」
 その瞬間、悲鳴をあげそうになって、昴は思わず、口を押さえた手のひらを強く噛んだ。
強い収縮が、そのまま新次郎にとどめを刺す。
「あ…っ」
 ぶるぶると雄馬のようにふるえ、新次郎はどっと息を吐いた。大きく肩を上下させ、ばつが悪そうに照れ笑いをみせる。
「すみません。ぼく、やっぱり酔ってます、我慢、できませんでした」
 頭をかいてみせる新次郎は、白状したとおりアルコールに絡め取られ、昴が先に降伏したことに気づいていないようだった。手のひらにくっきりと刻まれた紅い歯型を見られないように伏せながら、昴は密かに安堵した。
 余韻にふるえる自分が許せず、無理矢理体を起こし、新次郎から離れる。半端に脱がされた服のだらしなさが耐え難く、息切れも静まらないままに、昴は急いで身繕いをはじめた。
 衣服の下に仕舞われていく白い肌を、新次郎は半ば閉じた眼で、もったいなさそうに見つめていた。
「昴さんのことを考えるとね…うふふ…もう、稲妻に打たれたみたいに、興奮しちゃうんですよ…。昴さんが欲しくて欲しくて、どうしようもなくなっちゃうんです。もう…ほんとに罪な人ですねっ、昴さんたら!」
 手をのばして、昴の頬をぴしゃぴしゃと遊ぶように叩きながら、新次郎はくすくすと笑った。
「…酔っぱらいめ」
 蔑みを込めて呟くと、新次郎の顔から一瞬笑みが消え失せた。酔っているとは思えない、暗い光が視線をよぎる。
「昴さんこそ、ぼくが憎いですよね」
「…君など、憎む価値もない」
 吐き捨てるように言うと、新次郎は眉を思わせぶりに吊り上げた。
「あれえ。まだそんなこと言う元気があるんですか。昴さんたらタフだなあ…。じゃあもっといやらしいことしてあげなきゃ」
 再び抱き寄せられ、服の中に手が入ってくる。
「こらっ…も、もうよせっ…!」
「教えて、昴さん。どんなことをされたら、いちばん恥ずかしいですか?」
 せっかく整えた衣服を剥ぎ取られそうになって、昴はもがいた。



 その時、瓦礫を踏んで近付いてくる足音がした。
 二人とも、もつれあったままぎくりと身を固くした。

 ドアが開く音とともに、カルロスの声が聞こえた。
「おや…戻してあるのか」
 ピアノを外に運んでくれたカルロスが、わざわざ片付けに戻ってきてくれたのだと、昴は悟った。この街の現状を思えばそれは命がけにも等しい、ありがたい心遣いである。しかし、なんという危ういタイミングか。
 背中をどっと冷や汗が流れた。
 何をされたら昴がいちばん恥ずかしいか。
 己の性を、非力で不埒な姿を第三者に暴かれること。神秘性を失い、地にまみれた存在に貶められることだ。
 そのことに新次郎が気づいたら。ウォルターに助けを求めなかったことを見抜いていた新次郎だ。昴を辱めるために、酔った勢いでこの乱れた姿を晒そうとしたら。
 昴はそっと懐の鉄扇を握った。その時こそ、ついにこの不確かな殺意を、行使しなくてはならないかもしれない。

 しかし、新次郎は、まるで昴を庇うかのように抱いて、カウンターの壁に身を貼りつけ息を潜めていた。それでもカルロスがなかなか立ち去らないのが、昴には気の狂う思いだった。酒の匂いだ。零れたばかりの鮮烈なバーボンの香りを不審に思っているのだ。じゃり、と一歩踏み込む音がして、昴は息を殺したまま全身を張りつめた。
「ちょっと!どうしたの?」
 遠くから、バーバラの声がした。
「ああ、誰かが戻してくれたらしい」
「じゃあさっさと避難しようよ」
 呼び戻す声に促されて不審を放棄したのか、カルロスはドアから離れて去っていった。
 足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなるまで、昴は微動だにしなかった。

「行ったようだな…」
 ようやく長い息を吐いて、昴は呟いた。我に返ってみると、壁との間に挟むようにして抱きしめる新次郎の体が、妙に重く感じられた。
「大河…どうした?」
 昴が身動きすると、巻き付いていた腕がずるずるとほどけて落ちた。がっくりと肩に乗った頭から、すうすうと他愛ない寝息が聞こえてきて、昴は呆れるあまり声を失った。

「…最低だな、大河」
 酔って、行為に及んで、寝入ってしまうとは。ごろごろと音を立てて評価が失われるのがわかるようだった。
 昴を庇って隠れるようだったのは、気のせいだろうか。それとも、写真がまだ存在する証しか。なぜなら、昴の醜態を暴いてしまえば、写真の価値がなくなるからだ。
「結局、君は、何を考えているんだ…大河」
 気が抜けるほど、無邪気な寝顔を見せている新次郎に向かって、昴は呟くように問いかけた。
 新次郎の重ねる「好き」という言葉と、その行為との間にはやはり大きな断層がある。そこに存在する憎悪は、どちらの方向に流れているのか。そして昴を思い悩ませるのは、新次郎の心を測る作業だけではなかった。
 貫かれた後は、小さな体にはいつも、ひりひりした異物感が長く残る。それは、手順はどうあれ、確かに自分も快楽に流されたことを思い起こさせ、苦々しい自戒と反省を誘った。新次郎の心を探るため、と言いながら、少し自分は安易に恭順しすぎてはいないか。
 最早風前の灯火のような新次郎への思いが、存在を主張して火勢を取り戻そうとするのを、しかし昴はいまいましげに否定してやった。快楽など、己には必要のないもの。官能の邪悪な扉の向こう側の住人になどならない。百歩譲って新鮮な衝撃であることは認めても、それ以上の興味など決してない…。
 得意の客観性を取り戻すに連れ、認めたくない結論を導き出してしまいそうで、昴は首を振って無理矢理思考を中断した。

 服が発散する酒の匂いに眉をしかめ、ホテルの裏口から入らなければと思いながら立ち上がる。余程新次郎をこのままにして置いて行こうかと思ったが、暫しの躊躇の後、昴はげんなりと肩を落として溜息をついた。
 目が覚めたら、さぞや恥じ入ることだろう。その様子を見てやるのも、少しは胸が空くかもしれない。
 何より、放置して万一彼の身に何かあってはいけない。自分に対してどうであっても、新次郎は紛れもなく、星組の隊長なのだから。

 カウンターにもたれながら、先刻サニーサイドから聞いた話を思い出す。
 五輪曼陀羅のための犠牲。
 昴は立候補するつもりでいた。
 もともと、生きながらえることそのものには大して執着はない。自分の命でこの街が救われるなら安いものだ。
 そして、もし、何も知らない新次郎が自分をパートナーに選び、その意味するところを知ったら。
 その時こそ、この黒とも白ともつかない謎の曇りが晴れて、新次郎の心が見えるかもしれない。

 そう思うと、昴はいっそ待ち遠しいような思いで、破れた窓越しに暗い空を見上げた。






《了》












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