世界は日の出を待っている (4)





 鉄格子の黒く重い格子縞の奥には、アーチ型の窓があって、これまた鉄格子がはまっている。寒々しい空間の隅で、金属製の剥き出しの便器が裸電球の光を反射していた。

「違う、麻薬を買ってたのはサリナス・ジュニアだ!」

 中で叫ぶ黒人の少年は、サジータより年上に見えた。妹と同じ赤茶けた髪が縮れている。まだ幼さの残る大きな瞳の容貌は、怯えと焦燥にやつれていた。
「スキップ!」
 鉄格子に取りすがるサジータに、少年は母親に加護を求めるように必死の面持ちで訴えた。
「サジータ、信じてくれ!俺は何もやっちゃあいないんだ」
「わかってるさ、そんなこと!全部サリナスが仕組んだんだ」

 見るからにアイルランド系の太った警官が、傍らで居丈高に怒鳴った。
「とぼけるな!おまえの上着の内ポケットから麻薬が出てきたんだからな」
「知らないよ!俺には覚えがない!誰かが入れたんだ!」
 悲鳴のような少年の泣訴を、警官はせせら笑った。
「麻薬所持で捕まったやつはな、どいつもこいつもそう言うのさ」


 少年の上着に麻薬を忍ばせたのはこの警官なのか、彼を拉致したサリナスの配下のものか、或いはそんな手間すらかけずでっちあげの罪状なのか…どっちでも事態は変わりはしない。
 酒場での、サリナスのとりすました態度に合点がいった。
 わざわざ少年を殺して手を汚すリスクを負うまでもない。罪をなすりつけて刑務所に放り込んでしまえば、口塞ぎには充分だ。

「てめえ、サリナスに幾らもらった!」
 サジータがぎらりと警官を睨みあげた。
「さて、なんのことかな」
 だが、警官はどこ吹く風といった様子だ。切り崩すような隙はない。
「ふざけるな!この腐れ警官!今すぐスキップを釈放しろ!」
 つかみかかるサジータを、警官の太い腕が振り払った。
「いいかげんにしろ!貴様もぶち込まれたいか!」

 私は壁にもたれて、それらを他人事のように…実際、他人事だ…見ていた。まるでその場にいない幽霊かなにかのように。
 サジータが敗北する様を、ただ、じっと眺めていた。







「ちきしょうっ…くそったれ……地獄に堕ちやがれ…!」
 ハーレム仕込みのスラングを連発しながら、サジータはべそをかいていた。
 悔し涙で、メイクした顔をぐしゃぐしゃにしていた。

 警察署を叩き出された時には、とうに夜半を過ぎていた。外には人も車も姿を消し、街灯だけが深夜の街を照らしている。

 多分、彼女の頭はフル回転で考えたはずだ。
 イギリスまで行ってサリナスの息子を捜し出すか?…不可能だ。費用も手がかりもない。
 サリナスと繋がってる警官を突き止めて告発するか?…無駄だ。黒人の子供がどう足掻いたって権力には敵わない。
 サリナスをもう一度威すか?…無理だ。これ以上強硬な手段をとれば、犯罪者として罪に問われるのは自分だ。

 詰まるところ、彼女にはなすすべがないのだ。

「あたしは、スキップを助けてやれない…今のあたしには…」
 涙声が、無念さにふるえていた。
 とっくに解けていた長い髪が、濡れた頬に貼りついていた。


 彼女の、打ちのめされる姿を見てやろうと、ここまでつきあったはずだった。
 だが、私の気はさっぱり晴れなかった。




 私たちはとぼとぼとパークアベニューを北に向かって歩き続けた。たまに深夜営業の蒸気タクシーが通りかかったところで、タクシー代もなければもう急ぐ理由もなかった。
 紐育の冬の夜はしんと冷え込んでいる。風がないのはせめてもの幸いだ。コートの恩恵にあずかれない足先は、感覚を失いつつあった。もっとも、少し靴擦れしていた私には丁度よかったかもしれない。いずれにせよ、寒さも些細な痛みも大した問題ではない。


「……面倒につき合わせて、悪かったな」
 セントラルパークが近づく頃には、並んで歩いている私に気が回るほどに、彼女の涙は乾いたようだった。
「サンキュ…あんたがいてくれて、ほんとに助かった」
 感謝されると居住まいが悪かった。別にセンチメンタルな理由で未だに一緒にいるわけじゃない。着替えをマーキュリーに置いてきているからだ。この借り物のドレスのまま消えるのはいただけない。

「なあ、あんたさ…辞めちまいなよ、用心棒なんて」
 唐突に、サジータが私のことを話し始めた。
「だってさ、やっぱり物騒だし,命が惜しくないだなんて、そんなのよくないよ」
 タクシーの中で中断した話の続きをするつもりらしい。声に力が戻って来ている。
「あんた、美人だし、胸もでかいし、きっと売れっ子のモデルになれる。歌もうまいから、シンガーでもいい。…そうだ、ブロードウェイの舞台女優だって夢じゃないさ」



 夢なんて、反吐が出そうな言葉だ。
 私は心底からうんざりした。

「もう、沢山だ。おまえのお節介は…」

 潮時だ。サジータに私の正体を教えてやろう。

「おまえは、人を殺したことがないだろう」

 言うと、サジータはぎょっとしたように足を止めた。
 私も立ち止まり、彼女に振り向いた。

「私は、ロシアで革命軍にいた。十才の時から、戦場で、何人もの敵兵を殺してきた。私の手は血まみれだ」
 今は嵌めていない、赤い手袋を思い起こして、掌に目を落とす。

 そして、ただ一人の大切な人を守ることもできなかった。

 その話までする気はなかった。サジータが驚いたように私を見ているので充分だった。

「私には、生きる価値などない。私はこの街で破滅を待っているだけだ」


 これで、子供は黙るだろう。私はおまえとは違うのだ。私はおまえの知らない地獄を知っている。


 だが、サジータはふいに怒ったように唇を結ぶと、投げ返すように言った。

「ふん…そうやって自分の不幸に酔ってればいいさ」
「何だと…?」
 聞き捨てならない言葉に、私の声は低くなった。
「あたしは酔わない。あたしは精一杯生きてやる。どんなに苦しいことがあったって、死んでもいいなんて思うもんか…!」
 ヒールのつま先で足を踏みしめ、すっくと背を伸ばし、サジータは立っていた。


 その様子に、私は返す言葉を見つけられなかった。彼女も私の知らない地獄を知っているのだ。激しい差別という苦しみを。


 星々の瞬く夜空を仰いでから、白い吐息を落として、サジータは言った。
「あんた、仲間を見つけなよ」
「仲間…?」
「誰だっていいんだ。ちょっと気の合うやつでも、お隣りさんでも、同郷のやつでも。あんたが助けたいと思う、仲間を見つけるんだよ。それで、失った命の分だけ、仲間を守ってやればいい。そのために、生きればいいんだ。生きなきゃ、いけない」



 まっとうすぎる言葉に、胸がちくりと痛んだ。
 もう少し私が素直で、感動して涙の一つも流せれば、美しいシーンになったかもしれない。
 だが、認めるわけにはいかなかった。あっさり改心できるには、私の心は長く凍土にありすぎた。

「ご高説は拝聴した」
 私は唇を歪めて笑った。そして、駄目を押すように付け足した。
「そんなに弁が立つなら、弁護士にでもなったらどうだ?」
 皮肉のつもりだった。


 なのに、サジータの黒い瞳が、大きく見開かれて輝いた。
「弁護士…?弁護士、だって…?」
 目の前に流れ星でも落ちてきたかのように、虚空を凝視して繰り返す。
「…そいつはいい。名案だ。そうしたら正々堂々,法律の表舞台で戦ってやれる」
 彼女の声が冗談ではなさそうなので、正直、私は呆れた。
「本気で言ってるのか?」
 黒人で孤児で女。ハンデの三乗だ。その上でロー・スクールを卒業して、司法試験に受からなければ、弁護士にはなれない。風車に挑むドン・キホーテのほうが余程まともだろう。
 だが、サジータは不敵とも見える笑みを浮かべて、強い声で答えた。
「やってみなけりゃあ、わからないさ」

 世間知らずの、無謀な子供のたわごとだ。
 夢は、見るだけなら簡単だ。目標を掲げるだけなら誰にだって出来る。まったく、度し難い愚かさだ。
 そう否定しながら、頭の片隅で、サジータならやりとげるかもしれない、とも思った。頭がよく、行動力があり、情熱もある。彼女なら、今まで誰も成し得なかったことが出来るのではないか。

「今のあたしにはスキップを助けてやれない。でも、出所した後に冤罪を晴らして、前科を消してやることならできる。そして、スキップのような仲間を二度と出さないように…仲間を、守るために…」
 昂然と頭をもたげ、行く手に明け初める星空に向かって、サジータはきっぱりと唱えた。
「あたしは、弁護士になる」


 彼女のひたむきな決意を聞きながら、かすかな老婆心が私を刺激した。
 サジータの旺盛な意欲は、まるでどこか生き急いでいるような、人生を焦っているような感があった。力一杯生きなくてはいけない、という強迫観念めいたもの。人生への飢餓感。それは、彼女の人種的なハンデからくるのだろうか。

 功を焦るものは失敗する。力を求めるあまりに、己を見失うこともあるかもしれない。
 彼女がそうならないように、祈るだけだった。
 或いは、その時に誰か彼女を支えてくれる人がいるように。






「夜が明けちまったな」
『マーキュリー』に着いた時には、摩天楼の間から朝日が顔を出していた。
「…世界は日の出を待っている…ぼくの心は、君を呼んでいる♪」
 もとのライダースーツに着替えながら、サジータは口ずさんでいた。スキップの件で打ちのめされた心を励ますかのように。新たな目標へ向かう力を呼び覚ますように。そして、くるりと私に向き直って言った。
「マリア!約束してくれないか」
「何だ」
「あたしが弁護士になれたら、その時はまたあたしと歌ってくれよ」




 一瞬、夢想が私の脳裏を駆け抜けた。

 本当に、シンガーだか舞台女優だかになった自分。

 大観衆の喝采を浴びて、サジータと二人、マイクを握って歌い踊る。

 陽気なジャズのリズムが、人生の讃歌を奏でる。

 眩いライト。

 割れるような拍手。

 体中に満ちる、熱く心地よい充足感…。





 奇妙な懐かしさを残して、夢想は消えた。
 なんとも、素晴らしくもくだらない絵空事だった。


「…いいだろう」
 空約束のつもりで、私は答えた。
 仮に、彼女が本当に弁護士になれるとしても、それは何年も先の話だ。まさかそんな頃まで私を生き永らえさせるほど、神は無慈悲でも怠慢でもないだろう。
 それにしても、弁護士が歌うのか?シンガーと兼業するつもりだろうか。確かに、彼女の歌唱力を思えば、シンガーの道を捨てるのは惜しいかもしれないが、これまた世迷い言も甚だしい。


 私が安易に承諾したのは、彼女の目標が叶うわけないからだと、サジータは思ったようだ。
 逆に、サジータはしてやったりというようにいたずらっぽく笑った。
「約束だからな。忘れるなよ、マリア!」



 サジータが差し出した右手を、私はコートのポケットに手を突っ込んだまま無視して別れた。
 二度と、サジータと会うことがないよう願った。


 強く、美しく、貪欲に生きようとしている、ぎらぎらと輝く星。
 輝くことを拒んだ私が、彼女と同じ場所に立つことはありえないのだ。
 直角に交わった十字路のように、私たちの道は二度と交わることはない。






 店の裏口を出ると、朝日に背を向けて、私はねぐらの安アパートへと向かった。
 ただ、眠りたかった。死んだように眠れば、きっとハーレムでの行きずりの少女のことなど忘れられるだろう。

 そしてまた、このくそったれな人生が早く終わるよう祈りながら、銃を持って生きる。

 それだけだ。仲間など持たない。誰も愛さない。二度と歌など歌わない。




 私は日の出など待っていない。





《end》




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