日ざかり






 紐育の夏の真昼に出歩くなど、天火で焼かれるパイにでもなりたければの話だった。
 僕の隣で新次郎は、もう何度目かの、暑いですねえ、を呟いている。セントラルパークの小径は幾分風が抜けたが、芝生の照り返しも強かった。さらには、じりじりと鳴く蝉の大合唱が耳を炙っている。新次郎は池にざぶざぶと入っていく犬を眺めては、心底羨ましそうな顔をしていた。
 こんな時間に炎天下の公園を歩く羽目になったのは、我らが司令の日本かぶれのせいだった。折角の休日に二人で呼び出されてみれば、なんのことはない、彼の収集した胡散臭い古美術品の審美のためだったのだ。僕たちが日本人だというだけで迷惑千万な話だ。
 手の甲で額の汗を拭っていた新次郎が、砂漠にオアシスでも見つけたように、ふいに顔を輝かせた。
「あっ!アイスクリームが売ってますよ!昴さん、一緒に食べましょうよ!」
 そして昴の返事を待たずに走っていく。その様が、まるで子犬がころがるように見えて、昴はつい笑ってしまった。


「ちょっと持っててくれますか………はい、どうぞ」
 ズボンのポケットからハンカチを取り出すと、新次郎は丁寧に広げて木立の根もとに敷いた。陽射しに焼かれたベンチでは昴の脚がやけどする。そう言って新次郎が選んだ木陰だった。
「わひゃあ、冷たくておいしいですね!」
 子供のように無邪気な笑顔でアイスクリームを舐める新次郎だが、大きく舌を出してクリームを巻き込む様子は、…どうしてなかなかセクシーだった。舌の動きに合わせて、首に筋が浮き立ち、汗の粒が煌めきながら伝い落ちる。昴はぽそぽそと自分の分を舐めながら、横目で盗み見て楽しんでいた。
 彼と二人でいると、無性に戯れたくなる。九条昴をかくも狂わせる罪作りなこの男。新次郎が食べ終わるのを待ち構え、昴はさっと顔を寄せて唇の端をぺろりと舐めた。
「わひゃっ」
「ふふっ…クリームがついているよ」
「もうっ、びっくりしました!」
 少し怒った顔の新次郎が、お返しとばかりに昴の唇を舐めた。勿論、昴も負けじと舐め返す。そんな応酬が深いキスに変わるのに、さほど時間はかからなかった。当然と言えば当然の成り行きだ。

 新次郎の舌と唇は、アイスクリームより余程甘かった。新次郎の首に腕を巻きつけ、髪の間に指をさまよわせると、汗に濡れた髪が空気にふれてひんやりとした。ぎゅうぎゅうと昴を抱きしめていた新次郎の腕は、今はほどけて、昴の脚を熱く撫でている。しっとりと湿った掌で、内腿を揉むようにされると、変な声が出そうなほど気持ちよかった。
 絡み合った舌先の感覚と相まって、昴の脚の奥がきつくすぼまるのがわかる。
 外気温とは別の熱が、病のように昴を曇らせていた。この先へ行きたい…その思いに新次郎も同じなのは明らさまだった。
 だが、小径から一歩入った木陰とはいえ、人目につかないという約束はない。視界の隅には先ほどのアイスクリーム売りのワゴンも見える。公共の場所でいちゃつく恋人たちに許されるのはこれが限界だろう。…ならばホテルの昴の部屋へ直行すればいいのだが、生憎とこの場所は五番街に面した入り口までかなりの距離がある。辿り着くまでに、この甘やかな熱は霧消してしまうだろう。勿論、最初からやり直すのにやぶさかではないが、今この瞬間の昂揚が惜しまれる…。キスの味に酔いながら、昴はぼんやり考えていた。

 ふいに、自らの欲望を遮るように体を離すと、新次郎は重たげに瞼を半開きにして言った。
「…場所を…変えましょう」
 そして、昴の手をとって立たせた。着衣の乱れる直前のきわどさで中断され、昴は些か虚を突かれたようになっていた。何も言えぬまま、新次郎がぐいと引っ張るのに任せた。
 そのまま、新次郎は昴と手を繋ぎ、小径のひなたに背を向けて、木立の奥へと歩を進めた。




 生い茂る木々の下を行くにつれ、空気が湿り気を帯び、少しばかり温度を下げていく。
 新次郎はきょろきょろと周囲を見回しながら、目当ての場所を探していた。
 そして、低木の枝が周囲を遮るようなところを見つけては、地面の様子を確認して、しばらく首を捻り、踵を返した。
 陽の射さない木立の地表は、わずかながらの雑草と地衣類が生えるばかりで、茶色い土が露わになっている。新次郎はそんな地べたに昴を押し倒すのが気が引けるのだろう。かといって、芝草の生える場所は陽も当たるし人目につきやすい。
「あっ…」
 四阿(あずまや)の白い柱を遠くに見つけて、新次郎は足を速めた。しかし、近づいてみれば既に別の恋人たちがひと組、熱く抱き合ってキスを交わしている。その姿を目にして、新次郎は肩を落とした。
「先客がいましたね」
 残念そうに笑って、再び木立の奥の散策へと戻る。

 黙って新次郎に手を引かれて歩きながら、羞恥とも緊張ともつかないもやもやしたもので、昴の胸は疼いていた。
 昴はどこへ向かって歩いているのか。どこへ連れて行かれようとしているのか。
 屋外で「する」ための場所を、新次郎と探しているのだ。九条昴ともあろうものが。
 はっきりとした言葉はなくとも、そこには暗黙の了解があった。仕切る壁も天蓋もない場所、ただ人目から離れているというだけの危うい場所で、これから新次郎に抱かれるために、昴は今歩いている。


「…なかなか、ないですねえ」
 ぼうっと呟きながら、新次郎が歩く。芝草を、低い枝が傘のように覆っている場所を見つけるが、遠目に広場で憩う人の姿が見える。
「ちょっとまずいかなあ…」
「…そうだね」
 つい答えて、昴は密かに赤面した。昴は認めてしまったのだ。何のための場所を探しているかを。

 歩きながら、つないだ昴の手の甲を、新次郎の親指がしきりに撫でていた。その横顔を見る限り、どうやらそれは無意識の動作のようだった。求める気持ちの強さが隠しきれずに表れているらしい。やれやれ助平なやつめと思いながらも、昴の胸は高鳴った。手の甲ではなくて、まるでもっと敏感な部分をこすられているような気がして、昴は思わずよろめきそうになった。


 ふいに、新次郎の足が急いだ。ぐいぐいと手を引かれて連れて行かれたのは、木立の終わりと植え込みの隙間。そこはまるであつらえたかのように、芝草がやわらかく地面を覆い、木の枝が薄く被さっている。植え込みの向こうは芝生の続く広場で、ずっと遠くに子供が遊ぶ姿が見えるものの、確実にこちらの姿は隠れるはずだった。
 待ちかねたように昴を草のしとねに押し倒そうとして、新次郎はふとポケットに手を突っ込み、先ほどのハンカチを取り出した。そして、
「髪に…、草がつくといけないから…」
 うわごとのように呟いて、昴の頭の下にそれを敷いた。




 早く欲しいのと、時間をかける危険性の両方が、僕たちを煽った。
 深く口づけ合いながら、新次郎が前を開けるのと同時に、昴は手早く下着ごとズボンを下ろし、片足を抜いた。
 指を使おうとする新次郎の手を押さえて、昴はあられもなく口走った。
「いいから、早く」
 彼に抱かれる前にいつも感じる、期待に一抹の怯えの混じったような感覚が、きゅっと胸を掴む。急かされた新次郎は時間をかけられずに、半ばねじ込むようにして入って来た。
「んっ…!…く…」
 新次郎の重さと、体を塞がれる息苦しさに、呻く。それでも昴は、さらに深く新次郎を迎えようと、自ら動いた。体の内側いっぱいに感じる、新次郎の存在。
「昴さん…」
 囁いて、新次郎が昴の中を行き来する。腹の奥に生みだされる愉悦を噛みしめ、昴も彼の名を呼んだ。
「あ…新次郎…っ」




 その時だった。
 熱に浮かされた鼓膜に、草を分ける音が急速に近づいてきた。


 何か来る。



 昴一人ならば、瞬時に体勢を整えることも可能だったかもしれない。
 だが、この時、昴は新次郎の体の下で地面に縫い付けられたまま、新次郎の腰にがっつりと足を絡めていた。新次郎とて反射神経は常人以上であろうものの、状況が状況だった。近づいてくる音のスピードに、僕たちは対応することができなかった。

 最初に植え込みから飛び出してきたのは、真っ赤なゴム毬だった。
 それは昴の肩に当たり、跳ね返って止まった。
 僕たちはゴルゴンにでも出くわした無力な旅人のように、石化して動けずにいた。子供のものと思しき息づかいが近づき、植え込みの向こうからにゅっと小さな手が伸びてきた。

 万事休す。あられもない、不埒でいかがわしい昴の姿が人目にさらされる。
 しかも相手は子供だ。その目にはどれほど醜悪な姿に映るだろう。子供が親に話せばスキャンダルに繋がる。リトルリップリップシアターのスター・九条昴、昼日中のセントラルパークでもぎりの青年と…。
 起こりうる最悪の事態が、走馬燈のように昴の脳裏に展開された。


 だが、小さな手は、そのまま指先だけでゴム毬を探り当て、植え込みの向こうにたぐって戻した。
 あったよママ、という子供の声が遠ざかっていった。
 それきり、物音は蝉時雨の声しか聞こえなくなった。




 昴たちが息を吹き返すまで、長い時間が経ったように感じられた。
 大きく溜息をつくと、新次郎は昴を見て苦笑いをした。
「あぶないところでした」

 昴は笑い返せなかった。突如として襲ったアクシデントに、昴の熱はいずこへか飛び去り、気まずさだけが残っていた。理不尽と思いながらも、彼を突き飛ばして帰りたいような衝動すら感じた。
 だが、新次郎はめげていなかった。こんな時でも熱心な彼は、もう一度昴と深く唇を重ね、手をシャツの下に忍ばせてきた。
「怖い思いをさせてしまって、…すみませんでした…」
 胸の先を指の腹でやさしく擦るその動きは、昴のためのものだとわかった。温かな掌で胸を溶かされ、昴に必要な甘い空気が戻ってくる。
 まったく、君ってやつは。昴を絆すことにかけては天才的なんだから。そう思いながらも、昴は新次郎の体の下から彼を強く抱きしめた。
「昴さん…」
 思いを確認するように名を呼んで、新次郎が昴の腰をぐっと抱え直した。


「あ……んっ…!」
 声が漏れて、思わず唇を強く結んだ。
 腹の奥の、一番深いところに新次郎が届いている。これ以上ないくらい、新次郎と結び合っている。逃げ出したいような、それでいて一瞬でも逃したくないような強い熱が、昴を腹のあたりから灼いていく。
 首が激しく振れて、ハンカチが敷いてあるのをありがたく思った。でなければ、昴の髪は芝草だらけになっていただろう。
「はあっ……は……あぁっ…」
 熱に耐えきれず、口をあけて空気を貪った。熱い。熱くて、たまらない。この熱さは、外気温なのか、それとも昴の中の熱なのか。
 湿った土の匂いと、乾いた陽ざしの香りが、口の中に入ってくる。青い草いきれを強く感じたのは、昴の指が芝草をかきむしったからだった。
 揺れる新次郎の頭上で瞬く木洩れ日は、まるで星々の煌めきのようで眩しかった。
 新次郎に愛されていると、自分がとても豊かな存在になったような心地がする。
 昴の小さな体は今、陽光の遊ぶセントラルパークの大地だ。


 もう、新次郎と二人なら、どうなってもいい。
 誰に見られても、何と思われても。
 いかなる羞恥もスキャンダルも。
 新次郎と分け合えるなら、昴は甘んじよう…。


「ああ…新次郎…!」
 振りまかれた陽光とともに、光が弾けた。





 耳鳴りの中に、蝉の声が少しずつ戻って来た。
 上気した頬の回りが、湯気でも噴いているかのように熱い。僕たちの吐息は、温風になって顔の間で渦巻いていた。
 汗みずくなのに、新次郎はこの上なく幸福そうに見えた。流れ落ちるような潤んだ眼差しで、昴を見おろしている。
「昴さん…」
 頭上を覆う無数の木の葉のざわめきで、新次郎の声はかすれて聞こえた。

 眩しい笑顔が昴を照らす。瞳の煌めきが、昴に降りそそぐ。
 草木の生い茂る大地と一体化したような、豊沃な充足感が、昴を満たしていた。

「君は、熱と光の塊だな…」
 呟きながら、この太陽の申し子のような彼は、真夏の生まれだったのだと、昴は思い出した。  






《了》












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