星は流れて  (1)






 テネシー州の東のはずれ、目標とする山間の避暑地の一つ手前の駅で、昴は小さなプラットフォームに一人立ち降りた。

 昴が紐育を出てから、季節は一巡りして、また春を迎えていた。カンバーランドの森は針葉樹の若葉をもくもくと列ね、空から降りそそぐ黄金色の日射しに輝いている。
 件の小説家が「水晶のように澄んだ」と描写した空気を、胸一杯に吸い込むと、昴は田舎町の閑散とした佇まいを眺めやった。隣の町も似たようなものだろうと推察し、
「パターン・チャーリーと行くか…」
 滞在の方針を決めて一人呟いた。大きな街ならば溶け込むのはさほど難しくはないが、小さな町はそうは行かない。宿屋に泊まらずに済ますためには、町はずれに家を一軒借り切ってのんびり過ごすか、それが不可能なら、他人の家に厄介になることになる。後者のほうは何かと面倒だが、このところ久しく一人で過ごしていた昴は、些か人懐かしい気持ちになっていた。

 今日の新次郎は何をしているだろう。シアターでは新しい演目がかかっているらしい。マチネーの始まる時間だから、今頃は笑顔でチケットをもぎっている真っ最中か…。

 愛くるしい面影が脳裏に浮かび、昴は密かに胸を押さえた。
 この胸の痛みも、新次郎を愛したが故のもの。そう思えばいとおしい。
 そう、新次郎は今もきっと紐育で元気に暮らしている。間違っても自分を探してなどいないはず。そうでなければならない。
 なのに、なぜこうして自分は相変わらず回りくどい旅を続けているのか。

 幾度も行き当たる矛盾に皮肉に少し口元を引き上げると、ホームの反対側へ線路を渡り、昴はたった一人で眠そうに改札に立っている駅員に声をかけた。
「ねえ、君…隣のレイクランズの町について、誰か詳しい人は、いないかい…?」









 その日、いつものように休日をともに過ごす約束をした昴は、昼より少し前に新次郎のアパートにやってきた。
 したたかに立ち直った紐育の街並は、新たな摩天楼を春霞の空にそびやかしている。シアターでは次の公演の稽古が始まっていた。演目はシェイクスピアの『オセロ』。主役を張るのはサジータで、デズデモーナをダイアナ、イアーゴを昴が演じることになっていた。


「おや?何か取り込み中かい?」
 着替えの途中だったのか、サスペンダーのままの背中を丸めて、茶箱の上に顔を突っ込むようにしている新次郎に、昴が問いかける。
「母から小包が届いたんです。今開けてるとこなんですよ」
 顔を上げた新次郎は、嬉しそうな表情で、中の荷物を一つ一つ取り出しては、床に広げていった。
「…わあ、新茶だ。昴さん、あとでおすそ分けしますね」
「ありがとう。いただくよ」
「梅干しもありますよ」
「…それは遠慮する」
 干菓子、乾物、寝間着代わりの浴衣に靴下…限られた茶箱のスペースには、遠い異国で長く暮らす息子を思いやる母親の細やかな心遣いが、宝箱のように詰まっていた。
「わひゃあ…ぼくの好きな煮干しと、お味噌まで。これでおいしいお味噌汁が作れますね」
「じゃあ昴は、新茶の御礼に豆腐をおすそ分けしようか」
「それは楽しみだなあ。昴さんのホテルのお豆腐、おいしいですからね」
 無邪気な笑顔を見ながら、昴は眩しげに眼を細めた。親の愛を浴びて、真夏のひまわりのように、健やかに真っ直ぐ育った新次郎。その姿はいつも昴に、郷愁にも似た羨望を覚えさせた。

「あれ…これは何だろう」
 大きな角形の封筒を開け、何やら取り出した新次郎は、同封された便箋を開いて眼を走らせた。
「何々………ああ、もう…ついにぼくも大伯母に目をつけられる年になっちゃったのか」
「どうした?」
「お見合い写真ですって。いやんなっちゃうなあもう。縁組みが趣味みたいなうるさい大伯母なんですよ。どうしても送れって言われたから、入れておきますって」
 そう言って、新次郎がぺらりとめくって見せたのは、着物姿の若い女性の大判の写真だった。





 ああ、と昴は思った。
 その時が、来た、と。
 ずっと、忘れた振りをしていた、心の片隅に押しやって見ないようにしていた、厳粛な事実。
 新次郎を愛する家族がある。
 新次郎には望まれる未来がある。

 そこに自分の居場所はない。




「…昴さん、どうかしましたか?」
「いや、べつに。何も」
 ふるえそうな口元を鉄扇で覆って微笑んだ。今すぐに、新次郎のもとを立ち去らねば。迷う時間などない。時間を置くほどに心が鈍るだろう。そうと気づかれないよう、この部屋を出なければ。
「昴は言った…災難だな、新次郎、と…」
 冷やかすように言うと、新次郎が肩をすくめた。
「ほんとですよ。だってぼくは…」
 言いかけてから、何を思ったか、ふと真顔になって昴を見つめ、新次郎が向き合った。
「昴さん、何も心配しないでくださいね。ぼくはお見合いなんかしないし、まだこの紐育にいますよ。…いつか、帰国するとしたら、その時は…昴さんと一緒がいいです」
 鈍感なくせに、中途半端に勘が働く時もあるから困りものだ。昴はなんとかとりすました声を繕った。
「ふふ…たいした自信だな、新次郎。昴がやきもちを妬いて不安になっていると、君は言うのかい」
「あ…う…違うんですか…」
「さあてね」
 新次郎は落ち着かなげに拳を握り込み、唐突にストレートな言葉を繰り出した。
「昴さん、ぼくは昴さんが大好きです。ずっと、昴さんのそばにいます」
「ありがとう、新次郎」
「本当ですよ。ぼくが好きなのは、昴さんだけです」
「うん」
「…あなたを、愛してます。昴さん」
「僕もだよ。新次郎」
 新次郎の言葉は熱く灼けた刃物のように胸を苛み、堪える昴の声は自ずと固くなった。答える言葉はすべて、どうしようもないくらい本心だった。
「…あの…キスしていいですか?昴さん」
「どうしたんだ、新次郎。急に」
「昴さんにキスしたいんです」
「……いいよ」
 固辞するのも不自然なので、応じた。新次郎のあたたかな指先が頬にふれ、唇が深く結び合わされる。これが最後だ。そう思って昴は今生の思いでその感触を噛みしめた。
 舌先が情熱的に絡みつき、強い腕が、決して手放すまいとするように抱きしめてくる。ああ、この手のぬくもり、固い指先の皮膚と、ふんわりとやわらかな唇…。
 戻れなくなる前に、昴は鉄扇を持ち上げて遮った。

「さて、すまないが僕は急用を思い出したので失礼する」
「えええっ、来たばかりじゃないですか」
「悪いな。今度埋め合わせをするよ」
「送ります」
「タクシーを使うからいい。…じゃあ、また明日、シアターで」
「はい…また、明日」


 ドアのところに立って、昴は肩越しに振り向いた。
 新次郎の見た最後の自分は、一番美しい顔でありたい。そう思って、完璧な笑顔で微笑んだつもりだった。
 しかし、新次郎の瞳と視線が交わった瞬間、自分の顔が歪むのがわかった。昴は急いでドアを閉じた。


 後ろを振り向かずに、早足で歩いた。
 今すぐ駆け戻って、新次郎の胸に飛び込み、押し倒されて、抱かれたかった。こんな考えなど粉々に吹き飛ばしてくれるくらいに、無茶苦茶に愛されたかった。

 しかし昴は足を止めなかった。丁度通りかかったタクシーに乗り込むと、キャメラトロンを取り出し、電源を切った。




 ホテルの部屋から、まずウォール街の証券会社に連絡を入れた。一言、プランを実行するように、とだけ。
 同時に、昴の名前で所有された資産は、すべて動かされ、別の名前、別の形に組み立てられることになっていた。昴の生活を保障する高額な配当金や利潤はそのままに、誰にも跡をたどれないように。

 重要な書類は銀行の貸金庫の中だった。当面必要な身の回りの品を小さな鞄に放り込みながら、昴は鏡台の上の小さな櫛に眼を止めた。
 それは新次郎から贈られた柘植の櫛だった。鞄に入れようとして、戻し、再び迷って、結局鞄の底に仕舞い込んだ。
 櫛が必要だから持っていくだけだ。未練などではない。いや、未練でもいい。新次郎を忘れようというわけではないのだから。新次郎との思い出ごと、すべて大切に抱えて旅立つのだ。思い出の品の一つくらい、持って行ったって罰は当たるまい。


 鞄を持って立ち上がり、さてどこへ向かおうか、と考える。ヨーロッパの風情もいいが、身を隠すなら東洋だ。ふと書斎に目をやり、何か紀行本でもあれば参考にしてみようかと思って、書架をなぞった。そして、O・ヘンリの短編集に目を止めた。

 紐育を愛し、紐育で死んだその作家が書いた本の内容を、昴は細かに記憶していた。合衆国の様々な都市や地方が舞台となった作品集だった。

 やがてホテルに駆け込んでくる新次郎を思った。
 もしこの本を持ち去れば、新次郎は気づくだろうか。
 気づくかも知れないし、気づかないかもしれない。
 仮に気づいても、自分の生活を投げうってまで、探しになど来ないかもしれない。

 合衆国の田舎町など、東洋人のこの姿は目立つことこの上ないだろう。
 しかし、それも面白いかも知れない。困難な目的に挑むことは、いくらかでも感傷を紛らわせてくれるだろう。
 これはひとつの可能性への賭け。逃げ続ける自分を、もしも、追って追って追いかけて、決してその心を変えることなく、あらゆる障壁を越えて求めてくれる者がいるとしたら…。
 そんな奇跡のような物語が、この世に存在するはずがなかろうとも。

 少し、気分が高揚していたのだと、後に昴は後悔する。
 だが、結果、昴はその本を抜き取って、小さな鞄に詰め込んだのだった。





「今日でチェックアウトする」
 部屋のキーを渡してそう言うと、眼鏡の奥のウォルターの瞳が丸く見開かれた。
「…ですが、既に三年先までお支払いいただいております」
「納めておいてくれ。悪いが、急いでるんだ。荷物は適当に処分してくれないか。…本とかも」
「もうお戻りにならないのですか?」
 ウォルターの押さえた声と態度には、隠しきれない残念そうな様子が滲んでいた。
「たぶん、ね…。また来るとしても、それはいつか、遠い未来のことになるだろうな」
 昴の言葉に、名ホテルマンは居住まいを正し、深々と礼をした。
「その時も、当ホテルは一流のおもてなしをお約束します。九条様の、またのご来訪をお待ちしております」
 ふいに胸が熱くなり、昴は一瞬声を詰まらせた。
「ありがとう…とてもいいホテルだった。ゆっくり挨拶している暇がないのが残念だ。従業員の皆に、くれぐれも伝えてくれ。昴は、とても満足だった、と…」
 そう言って、名残を振り切るように、くるりと背を向け、颯爽と歩み去った。
 その後ろ姿を、ウォルターの、いつもと変わらない落ち着いた挨拶が見送った。
「いってらっしゃいませ、九条様。お気をつけて」


「スバル・クジョウさんでしょう?リトルリップシアターの。オセロの公演楽しみにしてますよ」
 ホテルの前から乗ったタクシーの運転手に言われて、昴はあやうく、すまないね、と言いそうになって堪えた。
「ありがとう」
 何事もないように微笑んで、じっと窓の外の風景を睨む。
 舞台に、立ちたかった。せめて、公演が終わってからにできないだろうか。シアターのスタッフには大きな迷惑がかかるだろう。

 もう少し。もう少し、この日だまりのような幸福に浸っていたい。新次郎の傍らで、仲間たちに囲まれて。苦しかった戦いも、ささやかな諍いも、今となっては懐かしい。数々の輝かしい舞台、沢山の笑顔、己の人生で最も満ち足りていた、夢のような日々。

 しかし昴は小さく首を振った。そうして、決心が鈍り、新次郎に悟られ、やがて取り返しがつかなくなる。
 ジェミニが代役を務めるだろう。悪役もこなして、演技の幅を広げるにはいい時期だ。
「で、今日はどちらへ?」
「メイシーズへやってくれ」
 デパートの名を告げ、昴はシートに背中を沈めた。服を適当に買って、試着室へ。出てきた時には、もう九条昴ではなくなっている。



 今日この日を最後に、九条昴は紐育からいなくなるのだ。









《続く》 





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