星は流れて  (5)






 新次郎の足音が近づいてくるのがわかる。

 少しずつ、こちらの行動の読みが的確になってきている。「隣の町」で、自分を探す日本人の存在を知らされた時、昴は最早、姿を隠す意味がなくなった。つまり、こちらの意図を…極力姿を隠しながら本の通りに旅をしていることを、新次郎はもう知っているのだ。
 追ってきて欲しいと思った昴の浅ましい願いを知られてしまった。なのに隠れて逃げ続ける矛盾を、新次郎はどう思うだろう。滑稽だと笑うだろうか。ずるいですよ昴さん、と怒るだろうか。いずれにせよ、遅かれ早かれ、新次郎は自分の前に現れるだろう。







 紐育を出て最初に訪れた海辺の町に、昴は再び逗留していた。
 三年前に過ごしたバンガローは人手に渡っていたので、昴は別荘地から離れたアーリーアメリカン調の美しいコテージを買った。人目を避ける理由はもうなかったが、静かな環境を好むのは昴の常だった。



 夕暮れ時、潮風に誘われて、昴はコテージをふらりと出た。
 砂浜を、波の音を聞きながら一人で歩いていく。浜辺には南国の植物が豊かに繁り、白い砂に濃い影を落としていた。風はあたたかく穏やかで、紫色の雲が金色の縁取りを輝かせて幾筋にも連なっている。乾いた砂の上に腰を降ろして、昴は際限なく寄せて返す波を見つめた。
 海の美しさは以前と変わりない。潮の香りも、波の煌めきも。
 ただ、昴の心は違っていた。無理矢理に新次郎から引きはがした傷口の痛みに堪えていたあの時とは。壊れたりひび割れたりしながら、根気よく静かに塗り固めた覚悟は、ようやく彫像のようにその姿を完成させて、昴の中に佇んでいた。



 もうやめよう。
 夕日に照らされながら、昴は決意した。
 旅を終える時が来た。もう本の中の地を全て辿り終えた。
 長く遠く、スリリングで楽しい夢を見た。もう十分だ。これ以上引き延ばして、新次郎を苦しめることはできない。
 手紙を書いて、置いていこう。探してくれてありがとう、でももうおしまいにしようと。三年もの時間を費やさせてすまなかった、今からでも急いでやり直してくれ。昴はどこか遠くへ行くよ…。


 立ち上がって、旅立たなくては。決して新次郎が追って来られないような、遠いところへ。そう思いながら、昴はなかなか動けずにいた。
 水平線に向かって、ゆっくりと太陽が沈んでいく。もう少し。もう少しだけ海を見ていたい。あの船の孤影が消えるまで。燃える夕日の端が、水平線にふれるまで…。






 ふと、人の気配がした。

 その瞬間の、全身の血が一瞬にして凍り、解けてまた沸き立つような確信めいた緊張を、どう表現すればいいだろう。




 果たして、振り向くとそこに新次郎の姿があった。


 時が、止まった。






 瞳を見開き、頬を張りつめ、どうか幻となって消えてしまわないでくれと願うように、新次郎は昴を見つめていた。

 長い前髪を、潮風がなぶっていた。
 やわらかかった口元はいつしか引き締まり、円らな瞳には深い哀切が影を落としていた。




「少し、背が伸びたね。面差しも変わった」
 昴が言うと、新次郎は我に返ったように唇を舐めた。
「…はい。おかげで、ようやく子供には見られなくなりました。…なんとか、ハイスクールくらいには」

 昴は思わず吹き出した。
 三年ぶりの再会の言葉がこれかい?少し大人っぽくなったかと思ったら、まったく、君ってやつは…。笑いながら、涙が出そうになるのを堪えた。
 新次郎は拍子抜けた様子で笑う昴を見ていたが、やがて気を取り直して言った。
「隣に座ってもいいですか?」
 昴は溜息を吐いた。ついにこの日が来てしまった。最早逃げることは出来ないのだ。

「昴は言った。かまわない、と…」


 ぼろぼろになったペーパーバックをポケットから出して、新次郎が昴を見た。昴らしくない失敗の、隠滅しがたい証拠。
「…ずっと、後悔していた。君が気づかずにいてくれればいいと願っていた。どこか国外へ出てしまおうかとも思ったが、それはフェアではない。だから…なるべく君に見つからないように移動した。ふふ…スパイにでもなったみたいで、楽しかったよ」
 散々苦労したであろう新次郎は、弱々しい苦笑だけで許してくれた。変わらぬそのやさしさが胸に痛い。
「この日が来ないようにと祈っていた」
 昴は視線を海に向けたまま言った。
「君が、どれほどのものを失うか、考えたことはあるのか?」
「もちろん、考えました。この三年、いやになるくらい考えましたよ」
 もどかしげに、新次郎が指摘する。
「人の外見は器の問題にすぎない、昴さんの言葉ですよ」
「君のご両親はどうだ。親不孝をして君の胸は痛まないのか」
「ぼくの両親は、きっとわかってくれますよ。時間はかかるかもしれないけど…。だって、もしぼくが人の親で、自分の息子が本当に好きな人を選ぶのなら、反対しないと思いますから」
 昴は、力無く首を振った。
「君は息子も娘も持てない。昨日と何も変わりばえのしない僕の顔だけを眺めながら、君の血を残せずにただ老いていくんだ。それでもいいのか」
 新次郎の子供。愛し愛される資質を受け継いだ、幸せな美しい子供。
 その可能性を、自分は殺してしまう。なんと大いなる損失だろう。望まれるべき輝かしい命を、自分は生み出すことはできないのだ。

 だが、新次郎は決まり悪げに頭を掻いて笑っただけだった。
「ああ、すみません、例えが悪かったですね。でもぼく、あんまり興味ないんですよ。自分の血を残すとか、そういうの。子供の成長を見守る幸せや喜びは確かにあるでしょう。でも、それなら養子をもらってもいい。そうそう、サニーサイドさんとラチェットさんは、リカの後見人になったんですよ。リカったらサニーサイドさんのことを……ああ、脱線ですね。でも面白いんで後で聞いてくださいね」
 咳払いして真顔に戻り、新次郎は胸を張って言った。
「でも、ぼくは、あなたさえそばにいてくれれば、他に何も要りません」

 新次郎の言葉は、激しく昴を揺さぶっていた。だが、昴はまだ新次郎の顔を見ることができなかった。こうして二人で、まるで昨日の続きのように会話をしているのが不思議で、夢の中で幾度も見た光景の一つを回想しているだけのようにも感じられた。
 海を見つめたままの昴に、新次郎が思い出したように言った。
「よかった。間に合いますね」
「何に?」
「ウォルターさんが、三年分先払いしてもらってるから、三年は部屋をそのままにしておくって言ってましたから」
 実直なホテルマンの、もう二度と会うこともないであろう姿を思い出し、それでも昴はきっぱりと言った。
「僕は紐育には戻らないよ」
「…どうしてですか?」
「いつか戻る事があるとしても、それは遠い先…もう、誰も九条昴を覚えているものがいなくなった時だ」
 警戒するように見つめる新次郎に、昴は淡々と語った。
「僕が何故三年分しか支払わなかったかわかるかい?それまでに、紐育を去るつもりだったからだ。老いることのない人間が、一つ所に住まうことのできる時間は限られている」
「でも、せめて一度挨拶に戻るくらいは…みんなとても心配してますよ」
「会えば離れがたくなる。…今、僕が君と再会してしまったように。…だから、戻らないよ」
 昴は振り切るように立ち上がり、ズボンの砂を払った。
「新次郎。僕と生きるというのはそういうことだ。もう一度考えなおせ」
 痛いほどに背筋を伸ばし、新次郎を見おろす。
「ジェミニでも、サジータでも、他の僕の知らない人でもいい。誰もが君に好意を抱く。その中の誰か、やさしい人と結ばれて、子を成し、共に老いて、幸せに一生を終えてくれ。それが僕の幸せであり、望みなんだ」
 冷静に話しているつもりだった。なのに、次第に声が余裕をなくしていく。
「まだ間に合う。今からなら、やり直せる。こんな…ちっぽけな僕のために、黄泉路にも似た小暗い道を歩むことはないんだ」
 眼を伏せ、ついに昴は顔を背けた。
「僕は、君がいつか後悔する姿を、僕を疎み、憎む時の顔を、…見たくないんだ。…頼む」

 新次郎がゆっくりと立ち上がった。
「昴さんこそ、わかってるんですか?もし昴さんがそのままなら、最後に年をとってしわくちゃになって足手まといになるのはぼくのほうですよ。ぼくがよぼよぼのおじいちゃんになっても、あなたはぼくを嫌わないでくれますか?」
「新次郎…」
「いいかげん、観念してください。ぼくは、一時の気の迷いで三年もあなたを探してたわけじゃないんです。何を言っても無駄ですよ。ぼくの心は、ずっとずっと、同じなんですから」


 昴は呆然としていた。本当に新次郎はすべての可能性を考えたというのか。いつまでも二人きり、自分だけが老いていく人生を。その姿は夫婦でも家族でもない、そこに通常に人が望む規範の幸福はないというのに。それなのに、男でも女でも、昴が何ものであってもかまわないと、ただ単純素朴に愛してくれた心を、新次郎はずっと無くさずにいてくれるというのか。
 変わらない心などない。いつか新次郎の愛も冷める時が来ると思っていた。そんな奇跡などないのだと。
 だが、いつだって新次郎は奇跡を起こしてきたではないか。


「あなたに言いたいことが、山のようにあったのに。あなたを見つけた時の予行演習をさんざんやったのに…。なんだかちっともそのとおりに言えません。でも、これだけは言わせてください」
 言葉をなくして立ちつくす昴に、新次郎の手が伸びた。
「あなたがいなくて、さびしかった…。あなたに、会いたかった。もう…二度と離れたくない」

 盲いた人がするように、昴の頬に、髪に触れる。その指先が微かにふるえていた。
「ああ…昴さんだ。ぼくの昴さんだ…。やっと…やっと、会えた…」
 呟く新次郎の、まるい瞳から涙が溢れ、流れた。

 ぶんと開かれた腕が、昴の小さな体を抱きしめた。新次郎の胸に埋め込んで、体の一部にしてしまおうとするかのように。強い腕の力が、三年かけて積み上げた昴の砦を、がらがらと壊していく。
 瓦礫の中から、希望が燦然と輝いて現れた。
 この、一見凡庸なようで類い希なただ一人の人を、愛してもよいのだ。孤独のない人生を、愛に満ちた日々を、選んでも許されるのだと。他の全ての人と同じように、小さな幸福を守るために、頼りない命をただ精一杯生きていけば。
 その思いは、黄金の鐘の音となって、昴の胸に鳴り響いた。

 怖々と両手を持ち上げ、新次郎の背中に回す。幻ではない、新次郎の確かな存在。
「すまない、新次郎…本当に…本当に、僕でいいのか…?後悔、しないのか…?」
「しません!」
 昴の問いを遮るように、新次郎が叫んだ。
「…………ありがとう…」
 新次郎の胸に押さえられ、小さな声がくぐもった。


「…許してくれ…。君の心の強さを信じられなかった、愚かな昴を許してくれ。君に、長い苦労を強いてしまった…」
「いいんですよ」
 小さく洟をすすって、新次郎の腕の力がやわらかくやさしくなった。
「きっと、必要な時間だったんですよ。ぼくたち、いろんなことを考えましたよね。この三年間」
「…ああ、そうだな…」
 長く困難な迂回路を経て初めてたどり着いた真実。それはきっと、確固として揺るぎないものであるはずだ。
「だけど、もう、いなくなっちゃ駄目ですよ、昴さん。ぼくの幸せは、昴さんにあるんですからね」
 涙に濡れた瞳で軽く睨み、長きに渡った昴の我が儘を、新次郎は叱った。







 新次郎と、この浜辺を歩いてみたいと思った、遠い日。
 茜色に輝く夕日が、波に照り映え、新次郎に光の粉をまぶす。
 朗らかに新次郎が笑う。楽しそうに波を追って、逃げて。そして、昴を振り返り、手を差し伸べて繋いでくれる。
 何もかもが、金色に輝いて、夢のような光景だった。
 眩しくて、視界が滲んで、もう何も見えない。幸せで、怖いくらいに幸せで、今ここで命が尽きてもかまわない…。

「わひゃあっ」
 新次郎が、波に足を取られて尻餅をついた。つられて、手を繋いでいた昴も一緒になって倒れ込む。
「ああ、びしょびしょだ…」
「すみません、すみません…!」
 尻に大きな海水の染みを作って、途方に暮れた声で詫びる新次郎に、昴は微笑んだ。
「僕のコテージに、おいで…。一緒にシャワーを浴びよう…」
 新次郎がはたと昴を見た。端麗な容貌を映す大きな瞳の奥に、熱い炎が灯っていた。
 波に濡らされながら、やがて訪れる濃密な時を約束するように、新次郎が深く口づけた。




 時に忘れ捨てられた体が、命を吹き返して輝く瞬間。
 空虚だった腕の中が埋められ、かつえていた部分が満たされ、古今由来の因習に、世俗の基準に、二人を咎め立てるあらゆるものに反旗を翻して燃え上がる。
 夜な夜な思い返し辿った記憶そのままの物慣れた愛撫に、新次郎もずっとこの小さな体を愛し続けてくれていたのだと悟り、昴の胸は熱くなった。
「やっと、あなたの中に帰り着いた…」
 低い声で囁く新次郎を、昴は深く迎え入れた。そして強くあたたかな肩につかまって、幾つもの波を乗り越えた。







「昴さんを見つけました」
 受話器の向こうのサニーサイドに向かって話す新次郎の傍らに、昴は立っていた。
「でも、ぼくたち、紐育には戻りません」
 きっぱりと言うと、新次郎は昴を見て、困惑気味の微笑みを浮かべた。きっと、痛烈な皮肉を聞かされているのだろう。
「サニーさんには、今まで援助してくださったこと、感謝してます。かかった費用は、これから返して行きますから。改めて、みなさんに手紙を書きます。ラチェットさんや、星組のみんなに、よろしく伝えてください。さようなら、サニーさん」

 受話器を置くと、一仕事を終えた新次郎は、ふう、と区切るように息をついた。そして、昴に向き直り、微笑んだ。
「行きましょうか」




「あっ、ちょっと待っててくださいね」
 鞄を置いて、新次郎は道を逸れてぱたぱたと走っていった。野辺の花を摘んで、小さな束にする。佇む昴のもとへ駆け戻ると、大きく深呼吸し、新次郎は神妙な顔で花束を差し出した。
「あの、いちおう…ブーケです。昴さん。ぼくと結婚してください」
 昴は驚いて新次郎を見つめた。
 それは人の作った制度であり、同時に崇高な約束でもあった。慎ましやかな花束が、生涯変わらぬ愛を誓っている。
「ありがとう。新次郎…。僕の答えだ」
 昴は白い花を一輪抜き取って、新次郎の胸ポケットに差した。それが、承諾の印。
 自分を選んでくれたことを、後悔させまい。昴は固く心に誓った。二度と、己の負い目を口にはしない。いつか命が尽きるその日まで、昴は、新次郎の愛したままの昴でいよう。

「健やかなる時も、病める時も、死が二人を分かつまで…でしたっけ」
「そんな言葉、どうだっていいさ」
「あはは…そうですね」
 新次郎が微笑み返す。陽の光を浴びて輝く笑顔を眩しく見上げていると、ふわり、と体が宙に浮いた。
「大好きです。昴さん」
 子供のような体を抱き上げ、口づけて、また空に向かって崇めるように高く持ち上げた。

「はは…目が回るよ、新次郎」
 くるくると振り回され、はしゃいだ笑い声をあげながら、昴は花束を胸に握って離さなかった。
 このまま、どこまでも飛んで行けそうだ。
 新次郎がくれた自由の翼で。





 昴は旅を続けよう。
 これからは、新次郎と二人で。
 他の誰にも出来ない、僕たち二人だけにしか見つけられない幸福があるはずだ。それを、いっしょに探しに行こう。

 あなたとならば、どこまでも。
 歌うような新次郎の声を聞いて、昴の小さな胸は痛いほどの幸福ではち切れそうだった。
 そしてこっそりと思った。
 本当は、探しに行くまでもないんだけれど、ね…。






 星は流れて、大河の懐に落ちた。









《完》




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