家路にて  






 看護婦が包帯を換えようと頭にふれた時、その青年は丁度目を開けた。
「あらあら、気がついたのね」
 ころころと太った年輩の看護婦は、にこやかに微笑みかけた。
「ああ、よかったわ。…ええと、あなたはヒネーゼ?ドイツ語わかる?」
「……少し、だけ…」
 たどたどしく青年が答えたので、看護婦は思案気味に頬に手を当てた。
「まあまあ、じゃあどうしましょう。…先生、先生!」
 ドアの向こうに向かって看護婦が呼びかける間に、青年は部屋の中をゆっくりと見回した。
 木造の小さな部屋は、どうやら病室のようだった。ベッドは一つしかないが、消毒液と薬の匂いがして清潔だった。窓の外は緑の木々の向こうに小高い山が見える。
「うむ、なるほど…君、英語はわかるかね。フランス語は?」
 現れた医者は、看護婦と対照的に、ひょろりと背が高く棒のように痩せた老人だった。
「両方ともわかります」
 見るからに東洋人の青年が流暢なフランス語で答えたので、老医師はほう、と眉をあげた。合わせてフランス語で話しかける。
「事故のことは覚えているかね?長距離バスが谷に落ちたんだ。死者も出たのに、君はつくづく運がよかったな。頭の怪我以外は打ち身と切り傷だけだ。軽傷だったのでこんな田舎の小さな病院まで回されたんだよ」
「はあ…」
 青年はぼんやりと頭の包帯に手をやった。その手も、絆創膏と包帯だらけだった。
「ああ、ここはヴァルトキルヒ村だよ。フライブルクまで15キロほどのところだ。わかるかね?」
「ええと…ドイツですか?」
「バーデン・ヴュルテンベルク州だよ。フランスとスイスの国境に近いところだ。…他に何か質問は?」
「あのう…」
 青年は、はにかんだような困った笑顔を浮かべ、医師に向かって気まずそうに問いかけた。
「ぼくはいったい誰なんでしょう…?」







「おや、あの若いのは?」
 往診から戻った医師に、看護婦は料理の手を止めずに答えた。
「薪割りをしてくれてますよ。体を動かしたいって。お夕飯はソーセージですよ」
 言われてみれば、診療所の裏手から、爽快な斧の音がする。

「おいおい、いきなりそんなに動いて大丈夫かね」
「あ、はい。もう包帯も全部取れましたし、体がなまってしまうので」
 寝間着の腕をまくった青年は、額の汗を拭って気持ちよさそうに微笑んだ。
「警察に問い合わせてみたが、やはり荷物は見つからなかったよ。バスが炎上した時に燃えてしまったようだ。上着もボロボロに裂けていて、身分証のようなものもなかったし…困ったね」
「そうですか…」
 医師の言葉に、青年は肩を落とした。
「それで、自分が日本人だということ以外にはまだ何も思い出せないかね?」
「すみません…日本語がわかるってことは日本人だと思うんですけど」
 頭をかきながら、青年は残念そうに苦笑した。
「変ですよね…英語もフランス語も覚えてるのに、それを習った時のことや、誰と何を話したのか覚えてないなんて」
「先生、お夕飯が出来ましたよ。そこの若い方も」
 看護婦がエプロンで手を拭きながら、戸口から呼びかけた。
「まあまあ、こんなにたくさん。助かるわ。私も先生も年だから、薪割りは重労働で大変なのよ」
 うれしそうな看護婦の声に、青年も顔をほころばせた。


「起きられるようになったんだから、一人で病室で食べることもないだろう。わしらと一緒にどうだね」
 医師の誘いに笑顔で応じ、青年はキッチンのテーブルに引っ張ってきた事務椅子に座った。
「さあさあ、沢山食べて頂戴。ザワークラウトは私の自慢なの。ご飯はちゃんと食べなきゃいけないのよ」
 看護婦が皿の上に気前よく料理を盛りつける。
 食前の祈りを終えてフォークを取った医師に、青年はかしこまって話しかけた。
「あのう、ぼく、荷物もなくて、自分の家もわからなくて…、これでは治療代がお支払いできません。なんとかその分働きますから、もう少しここに置いてもらえませんか?」
「うむ、君はまだ記憶障害という病状がある。つまり君はまだわしの患者だ。患者を追い出す医者はおらんよ」
「ありがとうございます…!」
 皿に顔を突っ込まんばかりに深々と頭を下げる青年に、老人は気さくな声で答えた。
「なに、ばあさんと二人でおもしろくもない暮らしだ。気兼ねせんでもいい」
「まあまあ、おじいさんたら随分だわ」
 二人の呼び合う口調が変わって、この老医師と看護婦は夫婦なのだと、青年は気づいた。軽口をたたき合いながらも睦まじい様子は、長年連れ添った夫婦のものだった。
 その感覚にどこか馴染みがあるのは、自分も妻帯者だったからか。浮かんだ発想に、青年は急いで脳裏を探ってみた。確かに誰かいたような気がする。心を通わせ合い、ともに生きていくと誓った人が。
 ぼんやりと小柄なシルエットが見えるような気がした。しかし、その細部を確かめようとすると、影はもやもやと滲んでつかみ所がなくなってしまうのだった。
「いつまでも名無しさんじゃ困るわねえ。何か呼び名を決めましょうか」
「やめておきなさい。彼には彼の名前があるはずなのだから。その場しのぎの名前になんぞ、馴染まんほうがいい」
 白い口ひげをナプキンで拭いながら、老医師は言った。
「すみません、頑張って思い出しますから」
 再び頭を下げた青年に、安心させるようにうなずく。
「うむ、焦ることはない。気遣いはいらんから、のんびり年寄りの相手をしてやってくれんか。そのうちに思い出すだろうよ」


 医師の往診鞄を持ち、看護婦の買い物の荷物を運び、注射はいやだと暴れる患者を抑えたりと、青年は小さな病院でまめまめしく働いた。村人は東洋人を珍しげに眺めたものの、見るからに無害そうな容貌と人なつこい笑顔も手伝って、事故で記憶をなくした旅行者として同情を寄せてくれた。
 ドイツ語も上達し、のどかな酪農の村の暮らしに慣れていきながら、しかし青年の記憶はさっぱりと戻らなかった。かろうじて、村の広場に掲げられている原色の旗のマークをどこかで見たような気がしたものの、やはりはっきりとは思い出せなかった。






 青年が夜ごと外に出て星を見上げているのに気づいたのは、小用に起きた老看護婦だった。

「星が好きなのね」
 声をかけると、ポーチに腰掛けた青年は、振り向いて笑顔で答えた。
「星を見ていると、不思議な気持ちになるんです。なんだかとてもなつかしいような、誇らしいような…」
 眼を戻し、夜空を横切る天の川と、宝石の欠片を蒔いたような星々を遠く見つめる。
「とても素敵な気持ちなんです。だから何か思い出せそうな気がするんですけど…」
 少し寂しそうに、青年は言葉を途切れさせた。
「あなた、フランスのどこかの大学の留学生なんじゃないかしら?そこで天文学を勉強してたのよ。違う?」
 看護婦が並んでポーチに腰掛け、思いつきに顔を輝かせて言った。
「さあ…どうでしょう…」
 心許なげに青年は頭をかいた。
「実は、星の名前がさっぱり思い出せないんです。花や鳥の名前は知ってるのに…なぜでしょうね」
「あらあら、残念ねえ、私も星は詳しくないのよ。…ああ、でもあの星は知ってるわ。ポラースシュテルンよ」
「北極星…」
 ポレール、ポーラースター…青年の脳内で置き換えられた言葉が瞬く。誇らしさと喜び、深い感銘、胸に溢れるこの感情は何だろう…。
「そうだわ、うちに星を見る道具があったのよ」
 ぽんと看護婦が手を打った。
「望遠鏡ですか?」
「そうじゃなくて…なんて言ったかしら。どこかにしまってあるはずだわ。息子も星が好きだったのよ」
「息子さんがいらっしゃるんですか?」
「ええ、ミュンヘンで開業医をしているの。自慢の息子なのよ。私たちにも田舎に引っ込んでないで一緒に暮らそうって言ってくれるんだけど、おじいさんが頑固でねえ。わしはこの村にはなくてはならん医者なのだ、って…」
 楽しげにおしゃべりを終えると、看護婦はふいに立ち上がった。
「さあ、そろそろ戻って休まないと。外は冷えるわ」
「はい」
 青年も素直に腰を上げ、もう一度北極星を振り仰いだ。


 田舎の村では、寝こむほどの患者は自宅で療養したので、使われない病室はすっかり青年の自室代わりになっていた。
 ベッドに身を横たえると、腕の中に物足りなさを覚える。胸にまるく抱えこんだ空間はとても小さく、何やらせつなさが込み上げた。
 宵闇に、月明かりを浴びて、カメオのように光る白い面影。
「おやすみなさい…」
 うとうととまどろみながら、青年は誰ともわからない朧な顔に、そっと呟いて眠りに落ちた。









「若いの!どこだね!」
 薬品類を買い付けに行っていた医師が、鞄を置くなり大声で呼んだ。洗濯籠を持って看護婦と一緒に現れた青年に、意気込んで話しかける。
「君のことを覚えているという人が見つかったよ」
「ええっ?」
「事故の生存者だ。バスの中で君と言葉を交わしたそうだよ。フライブルグにいる。会いに行ってみるかね」
「はい!」
 青年は明るい声で答えた。
「まあまあ、よかったわねえ。…ちょっと先生、洗濯石鹸は買ってきてくれなかったの?」
「売ってなかったんだ」
「あらあら、困るわそんなの。それじゃあ私も一緒に行って買い物してくるわ」
 看護婦はエプロンを外し、壁にかけてあった外出用の帽子に手を延ばした。



「ああ、よく覚えてるよ。東洋人だったからね、珍しくて」
 工場の事務室に作業着のまま現れた男は、事故の後遺症か、少し右足を引きずっていた。
「バスの中ではフランス語で話してた。兄さん旅行かい、と聞いたら、違います、家に帰るんです、ってね」
「家に…?」
 青年は鸚鵡返しに問いかけた。
「スイスの家に帰るんだって言ってた。とても急いでるんだとも言ったよ。大切な人が帰りを待ってるんだって」
「スイス…大切な人…」
「兄さん、命はなくさなかったのに、記憶をなくしちまったんじゃあ、手放しで喜べないねえ」
 気の毒そうに首を振る男に、青年は丁寧に礼を述べて別れた。


 待ち合わせた商店の前に行くと、中から看護婦の声がした。
「洗濯石鹸がないと困るわ。うちは病院なのよ」
「仕入れようにも品物がないんだよ。うちも困ってるんだ」
 商店主の答えに、看護婦は不満げに鼻を鳴らして言った。
「ほんとにもう、政府は何をやってるのかしら。大砲を作るより石鹸を作ってほしいわ」
 その言葉に、周囲の人間が何人か振り向き、眉をひそめた。
 ぶつぶつとぼやきながら出てきた看護婦は、青年に気づいて笑顔になった。
「あらあら、どうだったの?何かわかった?…」





 村に戻った時は、もう日が暮れて暗くなっていた。
「そうか、君はスイスに向かっていたのだな。大きな手がかりじゃないか」
 報告を聞き終えると、医師は自分の事のように期待と熱意を込めて言った。
「それで、スイスと聞いて何か思い出すことはないかね?」
「はあ…それが…」
 口ごもる青年の顔を、医師が覗き込む。
「どうしたのかね?何やら浮かない顔をしているが」
「その…なんだか、急に、思い出すのが怖くなって」
 言い淀み、青年は戸惑い気味に言葉を押し出した。
「ぼくはとても急いでいた。なのに、こんなに時間が経ってしまって…もう、間に合わなくなってしまったんじゃないかって」
 不安そうに、膝の上で拳を握り込む。
「記憶が戻ったら、何か取り返しのつかなくなってしまったこと…間に合わなくて、その大切な人を失ってしまったことに直面しなくてはならない。…もしかしたら、それがつらくて、ぼくは何もかも忘れてしまったのかもしれない…」
「うむ…」
 医師は口ひげをひとしきり撫でて唸った。
「だがな、若いの。人は、自分以外の何ものでもないのだよ。自分から逃れることはできん」
 水を湛えたような静かな眼差しで、青年を見つめて言う。
「スイスは広いが、東洋人はそう多くはないだろう。君のことを知っている人がどこかにいるはずだ。探しに行ってみてはどうかね。時間はかかるかもしれんが、きっと…」
「…駄目よ、そんな暢気なことを言ってちゃ!」
 傍らで聞いていた看護婦が、ふいに遮った。そして、何ごとかを思いついたように立ち上がる。
「ちょっと!手伝って頂戴」
 ランタンを灯して持つと、青年の手を引いて、診療所の裏手にある納屋に向かう。中には木箱や本などがうず高く積み上げられ、埃をかぶっていた。

「おいおい、どうしたんだね」
「ほら、あれよ。昔おじいさんがミュンヘンの骨董市で買ってきて、フランツにあげた、まるいものよ」
 ランタンの灯りをかざしながら、腰を屈めて、箱の中に手を突っ込んで掻き回す。
「星の名前がわかれば、きっと他のことも思い出すわ。大切な人が帰りを待っているなら、早く帰ってあげなきゃ駄目よ」
 せわしない老婦人の様子を、青年は呆気にとられたように見ていた。


 その時、玄関のほうで、どんどんとドアを叩く音がした。
「おや、急患かな」
「あらあら、大変、悪いけどちょっと一人で探してて頂戴」
 慌ただしく二人が出て行くと、青年は困り顔で納屋に残された。
「探すって言っても…まるいものって何だろう…?」
 玩具のボールや帽子箱を手に取ってみては、首をひねる。そうして、木箱を踏み台に、高い棚に置いてある箱を下ろそうとした時だった。
「わひゃあっ」
 脆くなった木箱を踏み抜いて、青年は荷物と一緒に床に転げ落ちた。
「いたたた…」
 埃まみれになって開いた目の前に、天啓のように転がったものは。


 青銅の球体に、繊細なレリーフで星々を描いた、アンティークの天球儀だった。




 青年は、憑かれたように手を延ばした。
 これとよく似たものを、確かに自分は持っていた。とても大切なものだった。紐育に置いてきてしまったけれど…。
「…紐育…?」
 ぼんやりと呟きながら、青年は星の名を辿った。自分に天球儀をくれた、その人の名は。
 ツヴィリングは双子座。オリオン座が立ち向かうシュティーアは牡牛座。その肩に散りばめられた七つの星、プレヤーデン………。




(大河なら、僕と同じものが見られる)



 穏やかなアルトの声が、記憶の皮膜を切り裂いた。



 ぎっしりと写真の詰まった箱を床にぶちまけたかのように、思い出が脳裏に溢れかえった。
 懐かしい家族、憧れの叔父、星組の仲間たち。再会を約束して別れたレニ。土産の友禅はバスの荷物と一緒に燃えてしまったのか。誰よりもいとおしい、あの人に似合う紫の…





(昴さん)




 ごとん、と手の中の天球儀が落ちた。
 その日の日付に思い至り、伯林で昴と別れてからの歳月を数えて、青年――新次郎は茫然自失した。

 スイスまで目と鼻の先にいながら、なんと長い時間を無為に費やしてしまったのか。








「ちょっと!何をするの!やめてちょうだい!」
 看護婦の険しい声が聞こえて、新次郎は我に帰った。

 納屋を飛び出すと、玄関の前に、広場の旗と同じマークの腕章をつけた男が二人立っていた。
 一人は偉そうに手を腰の後ろで組んで胸を反らせ、赤らんだ顔は些か酒が入っているようだった。もう一人はまだずっと若く、幾分すまなそうにしていた。
「家宅捜査する。反政府的な書物や書類がないかどうか調べるのだ」
 威張ったほうの男が言うと、医師は冷静な声で答えた。
「そんなものはない」
「嘘をつくな!」
 若い方の男が、弁解するように言った。
「先生は先週の党の集会に出なかった」
「急患がおったんじゃ」
「そして先生の奥さんは今日、町で党の政策を批判した」
「石鹸がなくて困るって言っただけじゃないの!忙しいんだから帰って頂戴!」
 看護婦がエプロンを握りしめて、憤然と叫んだ。
「誤魔化すな!あんたの息子は反政府主義者で収容所送りになってるじゃないか!」

 老看護婦が息を飲むのが聞こえた。



 新次郎はまじまじと医師夫婦を見つめた。
 看護婦の、ふるえるまるい肩を、医師の細く長い腕がそっと抱いた。

「さあ、そこをどけ!反抗するなら逮捕するぞ!」
 どんと突き飛ばされ、看護婦が悲鳴をあげてしりもちをついた。
「乱暴はよさんか!」
「うるさい!」
 男が、医師の腕をねじり上げる。


 新次郎は突進した。

「なんだ貴様!」
 振り上げられた拳をかいくぐり、懐に入って胸ぐらを掴むと、背負い投げを見事に決めた。
「うわあっ!」
 どすんと重い音がして、男の体が床に沈んだ。
 玄関脇に立てかけてあったモップと箒を取ると、新次郎は両手で交差させて構えた。
「この人たちを傷つけるな!」
「貴様!」
 怒りで顔を真っ赤にした男を、もう一人が助け起こした。
「先輩、ここは引き上げましょう」
「許さん!人数を連れて戻ってくるからな!連行してやる!」
 騒ぐ男は、後輩に引っぱられるように去っていった。


「やれやれ、小気味よいのは否定せんが、あまりよい首尾ではないな」
 看護婦に手を貸して立たせてやりながら、苦々しげに医師が言った。
「怪我はないですか」
「うむ、パンと仕事を得るために入党する者もいれば、血気盛んな若者というのも必ずいる。たまにああして言いがかりをつけにくるのだ。何、わしらはそう悪いことにはならんよ。この村には医者が必要だからな」
 さばさばと言ってのけると、医師は痛ましげに顔をしかめた。
「だが、君はいかん。このままここにいては危険だ」
 整えるように口ひげを撫で、新次郎を見て言った。
「急いでスイスへ行きたまえ。思い出したのだろう?」
「ええっ!?」
 看護婦が仰天して声をあげた。


「…どうして、わかったんですか」
「うむ、君のそんな暗い眼を見るのは初めてなのでな」
 医師の言葉に、新次郎は俯いた。

「…もう遅いんです。時間が経ちすぎてる…今から帰っても、ぼくを待っていてくれた人は、もういないんです」
「どうしてそんなことがわかるの」
 瞳を見開き、咎めるように看護婦が言った。
「わかります。だって、あの人は…」
 新次郎は堪えかねて眼を伏せた。

「なるほど、君は何か心に重い負担があるようだ。だがな、記憶をなくしていた間の、あれが君の本来の明るい瞳なのだ」
 医師は口ひげの端を摘んだ。
「戻って、その眼で確かめたまえ。そして、本当の自分を取り戻すのだ。最後まで希望を捨ててはいかんよ」
 息子を見るようなあたたかい眼差しで、新次郎を見つめて言った。
「君の名前は?」
「大河、新次郎…です」
 老人は深くうなずいた。
「本当の君のことをよく知らないままで別れるのは残念な気もするが、これでよかったのかもしれん。うむ、わしらの役目はここまでだ」

 屋内に戻ると、医師は数枚の高額なマルク紙幣を手にして出てきた。
「これは旅費だ」
 新次郎はうろたえ、押し留めるように手をあげた。
「駄目です!そんな…」
「言い争ってる時間はない。君には必要なものだ。持っていきたまえ」
「…必ず、お返しします」
「そんな話は、君が無事に家に帰ってからでいい」
「あらあら、お夕飯がまだなのに。お弁当がいるわ」
 看護婦がキッチンを慌ただしく動き回り、固いライ麦パンの塊と、干したソーセージ、林檎に胡桃などを、ナフキンに包んで布製の鞄に押し込んだ。
「急いどるんだぞ」
「駄目よ、ご飯はちゃんと食べないといけないの。ええと、コーヒーの残りがあるわ。どこかに水筒があったはず…」
 出来上がった荷物を新次郎に手渡すと、彼女は愛情深く微笑んだ。
「大丈夫よ、きっと」
 ぽってりした手で新次郎の手を握りしめる。
「どんなに長い間かかっても、大切な人の無事を願う気持ちは変わらないわ。その人は、きっとあなたを信じて待っている。だから、あなたは一刻も早く帰ってあげて」
 看護婦の薄青い眼に、涙があった。

 新次郎は深く頭を下げ、背中を向けると、まっすぐに夜道を駆け出した。







 国境の村で譲ってもらったポンコツの蒸気バイクが動かなくなったのは、でこぼこの長い山道を思えば無理からぬことだった。
 ここまで最短、最速を優先して来たが、あとは徒歩で森を抜けて丘を突っ切るしかない。日暮れまでには家に着けるだろう。新次郎はバイクを乗り捨てて歩き出した。
 ただ何も考えず、はやる心を抑えるように足を動かし続ける。もうすぐ、もうすぐ家に帰れる。昴のもとへ帰れるのだ。地球を半周して戻る、長い長い道のりだった。澄み渡った空にそびえるアルプスの山稜。昴と手を取り合ってこの地を訪れたのが、つい昨日のことのようでもあり、遠い昔のことでもあるようだった。
 日が傾くに連れ、山の影や森の形が、次第に記憶に馴染んだものに近づいていく。なだらかにうねった野原を行き過ぎ、ついに新次郎は最後の丘にさしかかった。

 この丘を越えれば、家が見える。昴の待つ家が。
 胸の張り裂けるような期待と歓喜を、冷たい疑問がここに来てふいに甦り、鋭く突き刺した。


 果たして、本当に、昴は待っていてくれるのか…?


 丘を駈けのぼる足が、急速に重く鈍くなった。
 ずっと、目を背け、考えないようにしてきた、恐ろしい結末。


(やっぱり、昴さんはもういない)

 手に取るように、昴の様子が見えた。
 待って、待って、待ち続けて、やがて、すべてを諦める昴。
 きっと、新次郎が自分を捨てて別の人生を選んだのだと思っただろう。
 強く誇り高い昴の、内面の繊細さを自分は知っている。今頃はもう、どこへともなく姿を消してしまったに違いない…。

 この丘を登り切っても、荒れ果てた無人の家があるだけだ。
 あるいは、最早家は壊されてなくなっているかもしれない。
 それとも、もしそこに昴の墓があったらどうしよう。




 新次郎の足が、凍りついたように動かなくなった。
 墓の前に、昴を埋葬した人がいて教えてくれるのだ。冷たい湖の底に沈んでいたんだ、と。
 真っ白な額に黒髪が流れて、人形が眠っているみたいに、美しく穏やかな顔だったよ…



 がくがくと体が震え、新次郎はその場にうずくまった。
 立ち上がれない。もう歩けない。そんなものを見るくらいなら、どうか今すぐここで息の根を止めてくれ…。





 夕日が、新次郎の影を地面に濃く落としていた。
 また、自分は何もかもなくしてしまったのだ。
 このまま、永遠に己を責めながら、苔むす岩になってしまいたかった。







 風が、草をそよがせる微かな音だけを、新次郎は聞いていた。
 無心に伸びゆく青草の、さやさやという静かな声の合間に、いつかの、自分の声が聞こえた。

(昴さんを信じます)


(あの家で、君の帰りを待っているからね)
 最後に見た昴の、美しく、不敵で、崇高な決意に満ちた顔。


(最後まで希望を捨ててはいかんよ)
(一刻も早く帰ってあげて…)


 よろよろと、新次郎は立ち上がった。
 何かに背中を押されるように、足を踏み出した。







 昴さん。ぼくは必ずあなたのところに帰ります。
 あなたがぼくの家なのです。

 凡庸なぼくのもとに舞い降りてきてくれた、永遠の天女。
 あなたを失うことを恐れる余り、ぼくはあなたの羽衣を奪って縛りつけてしまっていた。
 でも、今はもう、一番大切なことが何だか、ぼくたちはきっと知っている。

 孤独も不安も、この世のどんな障壁も乗り越えて、ぼくたちはここまで来た。
 もう何ものにも挫けることのない、強い絆が、ぼくたちにはあるはずだ。

 再び会えたなら、二度とあなたを疑わない。
 この命が続く限り、どこまでも二人、信じ合い、支え合って生きていこう。








 丘の向こうに、夕日に煌めく湖の傍ら、小さなコテージが見えた。
 その戸口に、紛れもない、昴の小柄な立ち姿があった。

 まるで、その日その時間に新次郎が帰ってくるのを知っていたとでもいうように、丘の上を見つめて、昴はまっすぐに立っていた。







 気がつくと、新次郎は走っていた。力の限り、涙で滲む瞳を凝らし、足がもつれて何度も転びそうになりながら、ようやく、ようやく昴のもとにたどり着いた。


「おかえり、新次郎。約束通り、昴は君を信じて待っていたよ」
 息せき切って声も出ない新次郎に、涼やかな笑顔で、昴が言った。

 ああ、この人は、もう、本当に…。

 自分が身も世もなく涙をぼろぼろと流しているのに、まるで今朝出かけただけの新次郎を迎えるかのように平気な顔をしているんだから、ずるい人だ…。
 心の中で不平を唱えながら、記憶よりも一回り小さくなったように感じられる昴の体を、強く、やさしく抱きしめる。たとえどんな苦しみがあったとしても、昴が決してそれを悟らせない人であることを、新次郎はちゃんと知っていた。














「今度は、どこへ行きましょうか」
 新次郎がそう言ったのは、もうすっかりもとの日常が戻って、何ごともなく夕食を終えた後だった。
 ヴァルトキルヒ村の老医師夫婦には手紙を書いて送金し、新次郎は長い不在を生徒に詫びて、また英語教師の仕事に戻っていた。
 その間、昴は相変わらず教室の隣のカフェで過ごしていたが、時折気ままに町を散歩するようになった。そして、新次郎はもうそれを心配しない。落ち合う場所は市場の入り口と決まっていた。
 このまま穏やかに暮らしていくことができれば、それで二人は満足なはずだった。


 だがその日、新次郎は生徒の一人に言われたのだった。
 先生の奥さんは全然変わりませんね、と。


「うっかりしてたけど、そろそろ、動く時期ですよね。欧州は、まだまだ不安定ですし…どこがいいかなあ…昴さんはどう思います?」
 昴はきょとんとして新次郎を見ていた。
「そうだ、ぼく、また剣道を教えたいんです。道場とか、用具とか、ちょっと準備が大変ですけど、でもこんな機会がなければ、こっちの人は一生剣道なんて知らないでしょう?そう思ったら、一期一会っていうのかな…そんな、意義があるんじゃないかって……………昴さん?」
 ふいに昴の両手が顔を挟んできたので、新次郎は目をまるくした。
「新次郎……?」
「え…なんですか?」
「………そうか、…そういえば、君は…幻じゃなかったんだな………ふふ」
 昴が、小声で意味のわからない言葉を呟いた。
「どうしたんですか?昴さん」
「…いや、もういいんだ…昴としたことが、不覚だ…すっかり忘れていたよ…」
 恥ずかしそうに微笑んだかと思うと、はらはらと涙をこぼした昴に、新次郎はただうろたえておろおろと慰めるばかりだった。










《了》





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