賭けをしよう






「昴さんが、ほしいです」
 ぐっと拳を握り混んで新次郎が言うと、昴の瞳が大きく見開かれた。
「それが、君の要求か」
「はい」
「僕が、ほしい…とは…つまり……そういう事か」
「そういう事です」
 鸚鵡返しな新次郎の答えに、昴は押し黙った。
 そしておもむろに懐から鉄扇を取り出したので、新次郎は、ああ、やっぱり、と目を瞑った。





 事の発端は何だったか…今日は休日で、二人で活動写真を見に行く約束をしていて…待ち合わせた昴のホテルのロビーで、まだ時間が早いからとコーヒーを飲んでいた。モダンな釣り鐘型の帽子を被った若い女性を見かけ、あの帽子流行ってますよね、と新次郎が話題にした。真っ赤な生地に黒いビーズで描かれた葡萄の房と蔓に見とれ、ああ、綺麗だなあと褒めたのだ。ただそれだけの事だった。
 なのに、なぜか突然昴は不機嫌になった。君に女性のファッションがわかるとはね、ちなみにあの帽子はもう流行遅れで云々、とまるで言いがかりのような口調。まだ数回のぎこちないデートを重ねただけの、手探り状態のあやうい恋人の前で、他の女性に見とれたと誤解されたのだとは、男女の機微に鈍感な新次郎にはわからない。ぼくだって劇場でお客様の服装を見てますから、流行くらいはわかります、と売り言葉に買い言葉な応酬を不毛に続けた挙げ句。
「昴は言った…、賭けをしよう、と。次にロビーに入ってくる女性が、あのタイプの帽子を被っているかどうか。もし被っていたら、昴は君の要求をなんでも一つだけ聞いてやろう」
「いいですよ。被ってなかったら、ぼくが昴さんの言うことを聞きますから」
 新次郎がそう言った途端、ドアマンの開けたフレンチドアから、釣り鐘型帽子の女性があっさりと入って来たのだった。



 他の誰に頼んでも叶わない、昴にしか叶えられない新次郎の望み。それをもしも昴が叶えてくれるなら。常日頃そのすべらかな肌に焦がれ、悶々と罪深い夜を過ごし、しかし性別を明かさず神秘を守る昴に要求しても拒まれて当然、と半ば諦めながら堪えてきた。それが最高にして最大の、当面の心を占める願いだった。蔑まれ嫌われて終わるのではと恐れたのは一瞬で、抑制されてきた思いの丈は、臆面もなく新次郎の口をついて飛び出した。

 しかし、待ち受けた打撃が降りかかる様子はない。怖々と眼を開けると、昴は鉄扇を開いたり閉じたりしながら何やら思案しているようだった。
「…活動は、またこの次だな。…じゃあ、昴の部屋へ、行こうか」
「え」
 立ち上がった昴の後を慌てて追う。昴は淀みない足取りですたすたとロビーを横切ると、エレベーターのボタンを押して待った。
「あの、昴さん?まさか本当に」
「おお、スバル!あなたのファンなんです!」
 ポーターを伴った紳士が、熱い声で握手を求めてきた。エレベーターに乗り込み上昇する間も、紳士の熱心な声援に、昴はにこやかに微笑んで応えてやっている。
 その横顔を、新次郎はただぽかんとしたまま、穴の空くほど見つめるばかりだった。


 最上階のフロアで降りた時は、二人きりになっていた。
 昴は部屋のドアを開け、新次郎のコートを受け取ってかけると、ぼんやりとキッチンの方を見やって言った。
「何か飲むかい…?コーヒーでも煎れようか」
「け、結構です」
 実は喉がからからだったが、たった今ロビーでコーヒーを飲んだばかりではないか。昴はそんなことも忘れているのだろうか…?
「…じゃあ…アルコールでも?」
「それも結構です」
 即答する新次郎に、昴はわずかに眉を寄せた。
「…ムードもへったくれもない奴だな、まったく」
 幾分苛立たしげに髪をかき上げると、細く長く溜息を吐いた。
「わかった。寝室へ」
「ええっ」
 新次郎の頓狂な声にも昴は気に留めた様子もなく、まるで兵隊のように規則正しく足を運んで移動した。

 繊細なレリーフの施された重厚なドアを開けると、部屋の中央にあるキングサイズのベッドがいきなり目に飛び込んで来た。凝固する新次郎の前で、昴はむっつりと黙りこくっていたが、
「…シャワーを浴びてきてもいいかい」
 ふいに尋ねてきた。
「どっ、どうぞ!」
 裏返った声で新次郎が答えると、昴はぷいとそっぽを向くように身を翻し、バスルームへと消えた。

 広い豪奢な寝室に一人取り残され、新次郎は所在なげにうろうろしていた。ベッドの大きさはまるで威圧するようで、ここに昴は毎夜身を横たえているのかと思うと不思議なようでも納得するようでもあった。
 今からこのベッドで昴を抱くのかと思うと、心臓は胸から飛び出さんばかりに暴走し、かあっと頭に血が上って今にも鼻血を吹きそうだった。…いや待て、昴さんのことだ。油断できない。本気にしたのか、君はどこまでお目出たい奴なんだ、と涼しい顔で笑う姿を想像する。いくらなんでも話がうますぎる。展開が早すぎる。昴さんがこんなに呆気なくぼくに肌を許すわけがない…。

「…待たせたね」
 どことなく固い声に振り向くと、白いバスローブの紐を結びながら、昴が立っていた。素足にやわらかそうなスリッパを履き、胸元からは薄桃色に上気した肌が覗いている。濡れて尖った髪の先が、頬の横で揺れていた。

「ああ…空調をつけていなかったな。すまなかった。寒いだろう」
 スチームヒーターに向かって前を横切っていく昴から、ほのかな石鹸の香りが立ちのぼる。洗い立ての白いうなじの、その清浄な輝きが、新次郎の眼に沁みた。
「…髪を乾かしたいんだが…」
 言いかけた昴の声を、新次郎が遮った。
「ぼくもシャワーを浴びていいですかっ!」
 いやな脂汗で背中に貼りついたシャツがたまならく気持ち悪かった。こんなべたついた手で尊い昴にふれるわけにはいかない。
「ああ、いいよ…」
「失礼します!」
 昴の返事の途中で、新次郎はバスルームに飛び込んだ。

 今まで見たこともないような、瀟洒な金の蛇口のバスタブ。大理石の壁は、まだ湯気が残ってあたたかい。一角の脱衣籠に、昴の衣服が丁寧に畳まれて置かれていた。
 つい今し方、ここで、いとしい昴が服を脱ぎ、素裸で佇んでシャワーの流水に打たれ……想像しただけで全身が熱を持った。ようやく現実が追いついたようだった。これは夢ではないのだ。ああ、自分はついに…。

 一方、昴はドレッサーのスツールに腰掛け、ドライヤーを使っていた。固く拭いた髪はすぐに乾いた。背後のドアの向こうから、新次郎の使うシャワーの水音がする。
 バスタオルは予備が置いてあるからいいが、新次郎の分のバスローブはない。ウォルターに持ってきてもらおうかとも思ったが、それではあまりにもあからさまで恥ずかしすぎる。

 昴が躊躇していると、バタン、と大きな音をたててドアが開き、タオルを腰に巻きつけた新次郎が飛び出してきた。鼻息荒く、まるでバスルームで何かとんでもないものに出くわしたとでもいうような形相だ。濡れたままの頭から、ぽたぽたと水が滴り落ち、カーペットに染みを作っている。
「…こら、新次郎」
 昴は厳しい声で言い、新次郎を睨みつけた。
「ちゃんと頭を拭かないか」
「昴さん、ぼくは」
「頭を拭けと言っている…!」
 ずかずかと新次郎に歩み寄ると、ぐいとその腕をとり、ドレッサーの前まで引っ張っていった。
「座れ」
 肩が冷えないようにタオルを掛けてやり、別のタオルで新次郎の髪をごしごしと乱暴に拭いた。
「ベッドをびしょびしょにする気か…昴は、イヤだぞ」
 頭を擦られぐらぐらと揺らされて、新次郎は我に返ったようだった。
「す、すみません…」
 昴はドライヤーのスイッチを入れ、手に当てて温度を確かめると、新次郎の背後に立って髪を乾かし始めた。
 丁寧に当てられる温風は心地よく、髪の間を滑って地肌を撫でる昴の指先は、くすぐったいような、すうっとするような快感をもたらした。うっとりと眼を細める新次郎に、鏡の中の昴が抑え気味の微笑を浮かべた。
「…落ち着いたか」
 ドライヤーを片付け、手櫛で新次郎の髪を整えてやる。
「…すみません…、緊張してました」
「うん…すごい顔をしていた」
 指摘されて、新次郎は己の余裕のなさをただ恥じ入った。
「あんな顔で挑まれたら…昴でも………怖い」
「え…」
 昴が自分を怖いなどとは。思いがけない言葉に新次郎が唖然とする。
「昴だって緊張している」
「えええっ」
「…なんだ、その態度は。そんなにおかしいか?…当たり前だろう」
 憮然と言い放つと、昴は頬を染め、未経験の事だから…と小さく呟いた。
 そして、振り払うように髪をはねのけると、ぽすんとベッドに腰を落とし、捌けた声で笑った。
「まあ、このとおりの、未熟でちっぽけな体だ。君がそんなに思い詰めるほどの価値はないよ…」
「そんなこと、ありません」
 断固として、新次郎は言った。すっくと立ち上がると同時に、肩からタオルがマントのようにひらりと剥がれ落ちた。
「ぼくは…ぼくは、もう、ずっと…」
 昴の前に跪くようにして、おずおずと頬に指を伸ばす。
「こうして、昴さんにふれられたらって……苦しいくらいに…」
 両手で頬を包み、そっと首筋へと滑らせた。昴が長い睫を伏せ、新次郎の手のひらに顔を擦り寄せるように動かす。
「ああ……君の手は、気持ちいいな…」

 たまらずに、新次郎は昴の頭を捕らえて口づけた。唇で、唇を挟むようにして貪る。肩に、そろりと昴の手が這いのぼった。
 先ほどの指の感触を思い出し、新次郎は昴の髪の間に指をさまよわせた。ひんやりとしたさらさらの髪は、まるで清流のせせらぎに手を差し入れたようだった。
 顔と顔の間で、昴は甘く鼻を鳴らし、新次郎のうなじを大切そうに撫でていた。それでも、舌と舌が擦れ合うと、その感触に夢中になって、二人とも手が止まった。
 息苦しくなって、ようやく唇を離す。新次郎は昴を横たえ、バスローブの紐を解きにかかった。勢いよくぱっと左右に開くと、昴が鋭く息を呑んだ。
 童女のようななだらかな胸と谷間は、日頃の不敵な昴の佇まいを思えば、痛々しいほどに頼りなげに見えた。わなないて上下する無防備な胸を、新次郎の視線が食い入るように見つめる。
「昴さん…」
「何も、言うな」
 一言でも何か言えば…貧弱なばかりの性別についてふれれば、殺してやると言わんばかりに、凄んだ瞳で昴が見返した。
 しかし、新次郎は穏やかに首を振り、ただ素直な声で伝えた。
「綺麗です」
 その胸が昴のものであるのが羨ましいとでも言うように、強い憧れと、物欲しげな貪欲さで撫で回す。
「綺麗です、昴さん…本当に」
 平らに均すように、手のひらで弧を描くと、薔薇色に染まった胸の先が、指の腹で弾かれて固くなっていった。つんと尖ってふるえる様は、否応なく新次郎の唇を引き寄せる。口に含んで強く吸うと、昴が喉を反らせて喘いだ。
「あ…!」
 しなやかな腕が、新次郎の頭を抱き、丸め込むように狂おしく力を込める。反対側の胸も同じように音をたてて吸い上げながら、途切れ途切れの悩ましい声と、己の体重で押さえつけられて藻掻くせつない動きを、新次郎は夢見心地で感じていた。自分の喉からも、獣じみた呻き声が、鼻にかかった音になって漏れている。このままいつまでも赤子のように胸を吸っていたいと思いながら、下腹部は既に欲望でねじ曲がるようだった。
 身を起こし、昴の脚を大きく広げる。ふれれば溶けてしまう脆い蝋細工を扱うように、指先で襞をより分けた。昴は顔を枕に倒し、手首で眼もとを覆って、気丈に羞恥を堪えていた。

 謎という神秘に包まれていた昴の、その体の最奥に、粛然と存在する真実。珊瑚のように赤く色づいた小さな肉芽は、微笑んですぼめた口元の形に愛らしく膨らんでいた。新次郎が指先でくすぐるようにふれると、昴は肘を高く上げ、口を強く押さえて悶えた。
 昴の虚ろな部分に指をくぐらせると、飲み込もうとするかのように蠢き、とろとろと液を零す。新次郎は歯を食いしばった。もう限界だった。
 尖端を宛がうと、吸い込まれるようにつるりと滑り込んだ。だが、順調だったのはそこまでで、柔らかな抵抗感が先行きを阻んでいる。力を込めて押し進もうとすると、昴がぐっと唇を噛み、頭を枕にめり込ませた。
「駄目です、これ以上」
 つなぎ目に滲む鮮血に、新次郎はおののいた。
「昴さんを、傷つけてしまう」
「…新次郎!」
 怒ったような剣幕の昴が、新次郎の腰にぐいと足を絡めた。その眼差しは、早く痛みの先にあるものを寄越さねば済まさないと訴えている。
「君は、昴が、ほしいんだろう。違うのか…!」
 叫ぶように言うと、昴は自ら腰を突き上げ、新次郎を深く迎え入れた。

 そうだ。己のほしいもの。誰よりも何よりも恋い焦がれる昴。今、自分は、その昴の中にいる…。
 熱くとろけるような幸福と愉悦が、新次郎を満たした。あとはもう、止まることはできなかった。
 昴の中を駆けのぼる。二人で一つになって目指す高みへと。そして、茫洋と広がる海原へと、抱き合ったまま身を躍らせた。





 二人とも、まだ息が弾んでいる。
 余韻に曇った視界に映る昴は、フォーカスがかかったように美しかった。細かな汗の粒が、ガラスの粉のように肌の上で光っている。半ば開いた唇から漏れる吐息が、新次郎の頬をあたためた。
 ああ、自分はようやく昴と結ばれたのだ…深い感慨とともに、唐突に、今更ながらの事実が新次郎を殴打した。

「すみません!」
 弾かれたように跳ね起き、敷布に頭をこすりつける。
「なんだ、いきなり」
「こんな…賭けの結果なんかで…」
 長い前髪をかきむしるように掴んで、新次郎は呻いた。
「昴さんの意志に反して、強制するようなことを、ぼくはしてしまった。本当なら、ちゃんと、昴さんに、この気持ちを伝えて…わかってもらって…それから…」
「新次郎」
 昴の指が、戯れるように新次郎の指をほどいていく。
「僕が賭に勝ったら、何を要求するつもりだったと思うかい…?」
 新次郎が顔を上げると、艶やかに微笑む昴が見つめていた。
「君がほしい、と言うつもりだったんだよ。だから…もういいだろう?」
 そう言って、新次郎の首に腕を絡め、昴は甘やかにキスをした。






《了》












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