片恋の記 (2)








 十年の間に、星組のメンバーたちはそれぞれ故郷へ帰り、己の人生を歩んでいた。

 ジェミニはテキサスで広大な牧場を経営し、ダイアナはマサチューセッツで医師として活躍していた。リカは名だたるバウンティハンターとして、大陸を闊歩していた。
 プラムは西海岸へ渡りハリウッドデビューして、国民的な人気女優となった。杏里はシアトルの父の寿司店を嗣いで切り盛りし、店を大きくしていた。


 十年の間に、紐育も様変わりした。

 丈高い摩天楼が、次々と空を目指してそびえ立っていった。地下鉄は路線を増やし、道路が整備されて人々の活動範囲を広げた。蒸気自動車のデザインは刷新され、女性の服装も変化した。

 カルロスとバーバラは結婚し、蒸気バイク店を経営しながらマザー・キャロルの孤児院を手伝っていた。
 ソルト警部は署長に昇進し、マギーは息子に店を譲って隠居した。ブライアンはボクサーとして再起を果たし、抗争の最中に死んだベビーフェイスに代わってドルチェが港を裏から仕切っていた。
 知古の人物が幾人も紐育を離れ、そして新たな人員が紐育を訪れ構成し、都市としての規模を急速に大きくしながら、街の日々は続いていた。



 新次郎は、サニーサイドが大統領選に打って出た後、紐育華撃団総司令の任を引き継いだ。

 だが、この十年、魔障事件はほとんど発生せず、紐育華撃団の設備は縮小の一途を辿った。
 スターを動かすに足る霊力者が現れることもなく、老朽化したエイハブの後継機が、設計案が出されながらも、着工に至らないまま延期になっていた。
 なので、新次郎の主な仕事は、シアターの支配人としてのものだった。
 幸いなことに、才能のある作家や俳優陣に恵まれ、リトルリップ・シアターは、映画の流行後にも変わらず、タイムズスクエアでの人気を保ち続けていた。
 サニーサイドのような貫禄や手腕はなくとも、スーツにネクタイをぴしりと着こなし、それでいて人なつこい笑顔で誠実に立ち働く「ミスター・タイガー」は、シアターのスタッフたちに信頼され、愛されていた。



 十年の間、昴は変装して、ずっと新次郎の近くにいた。

 新次郎の住まうアパートの正面に部屋を借り、カーテンの隙間から日がな、新次郎の生活を眺めていた。
 新次郎の起床時間に合わせて起き、新次郎が出勤するのを見届け、帰宅する様子を確かめ、新次郎の部屋の灯りが消えてから就寝した。
 もう二度と、新次郎の前に「九条昴」は姿を見せないと決意をしていた。彼が手に入れるべき幸福を妨げることのないように。
 だが、昴はどうしても、確かめずにはいられなかった。自分の行動が正しかったことを…新次郎が幸福に生きていく様を。
 時には、シアターへ客として訪れ、新次郎の働く姿を眺めることもあった。一度も変装を見抜かれなかったのは、気配を殺すことに長けた昴ならではの技ゆえだった。
 昴の莫大な資産は名前を変えて巧妙に維持され、昴の生活を円滑にしていた。それは当然のように新次郎のためにも使われた。昴は独自の情報網と伝手を作って、華撃団の廃止案が持ち上がるたびに、影ながらその維持に金銭面から何から目立たぬよう加勢をしていた。勿論、シアターの興業にも、正体を隠しつつ、スポンサーとして援助を惜しまなかった。



 新次郎は九年間、独身のままだった。
 昴は、苛々と焦れながら待っていた。
 いつまでサジータを待たせるつもりなんだ。もう三十だぞ。彼女のことを考えろ…。まるでどこかの口うるさい親族のように、やきもきしながら。でも、それが昴への気持ちを整理するためにかかっている時間なのだと思うと、すまないと思うと同時に、心の底でどこか面はゆいような気もした。


 サジータは紐育を離れることはなかった。そもそも、星組メンバーで彼女だけが生粋のニューヨーカーなのだ。女優としては後進に道を譲って引退したが、弁護士としては変わらず、愛する街で活躍していた。
 そして朗らかな親密さで、新次郎に寄り添い続けた。
 新次郎の気持ちを、すべて理解した上で、己を卑下することもなく、急ぐこともなく、新次郎の心から昴の影が消えるまで、常に傍らで新次郎を支えた。


 洒落たレストランにディナーの席を用意して、新次郎がようやくサジータにプロポーズした日も、昴は離れた席で変装して見守っていた。
 ああ、ようやっとか。
 昴は心から安堵し、少し大人びた新次郎の横顔を誇らしげに盗み見ていた。


 慎ましやかな結婚式には、なつかしい仲間たちの賑やかな顔が揃った。ただ一人、物陰から見つめる昴を除いて。

 アッパーイーストの新居の向いに、昴も時を同じくして引っ越した。
 新次郎が丁寧に片付けた部屋を、サジータが一日で滅茶滅茶にするのを、やれやれと苦笑しながら眺めていた。
 新次郎とサジータが口づけ合う姿を見て、微塵も羨ましくないと言えば嘘になった。だが、ならば自分とでは思えば、それは妙に空虚な非現実感があって、想像できなかった。
 自分の新次郎への思いは、肉欲など超えた次元にあるのだ、と昴は思っていた。それが、昴のプライドだった。


 やがて妊娠したサジータの腹が十月をかけて膨らみ、病院に運ばれ、二人が三人になって帰って来た時も、昴は密かに、窓からその様子を見ていた。
 生まれたばかりの、新次郎の子供。既に病院に探りを入れ、女の子だと知っていた。

 新次郎の子供。新次郎の子供。心の中で繰り返すだけで、昴の胸は高鳴るようだった。
 やっと、新次郎が手に入れた幸福…。
 これからの新次郎の人生を思うと、昴も同じように幸福と希望を感じた。

 名前はジョイと言うそうだ。いい名だが、いかにもサジータがつけたらしい名前だな。
 昴だったらなんと名づけるだろう…もっと雅やかな、星の名前を…。



 自分の考えていることに気付いて、昴は瞬時に激しい自己嫌悪に襲われた。昴は今、なんて情けない、ありえない、未練がましいことを……。





 まれに…本当にごくまれに、例えばこんな瞬間に。自分は何か愚かなことをしているのでは、という考えがよぎることがないわけではなかった。
 こんなにも新次郎が愛おしい。なのに、どうして彼のそばにいないのか。どうして頑なに、執拗なまでに、ただ遠くから一人で眺めているのか…。
 だが、そんな思いは、いつだって瞬殺された。
 自分は今、一番の望みを叶えているのだから。
 新次郎のあの笑顔、充実した生活、幸福な家庭。もし一緒にいるのが昴だったら、すべてはあり得なかったことだ。
 犠牲でも自虐でもない。誰に理解されなくとも、愚かだとしてもかまわない。
 愛おしいものの、最大の幸福を守り続ける。それが、昴の愛。


 窓の向こうには、新次郎が腕の中の我が子を、慈しみを込めて見つめる姿があった。

 それこそが、己の愛の叶った光景なのだと、昴は思った。昴の胸は、新次郎への愛で溢れていた。

 新次郎…昴は、今も、変わらずに片思いを楽しんでいるよ…。





 そうして新次郎を見守りながら、昴の心の片隅に、ずっと気がかりなことがあった。

 魔の発生は、都市には必定の現象。都市の人口が増えれば、負の思念も増え、それをエネルギーとする魔の跳梁も活発になる。なのに、この十年、こんなにも平和が続くとは。

 どこかで必ず発生しているはずの、膨大な負のエネルギー。それらは、どこへ行ったのか。


 その疑問は、ある日唐突に、解明された。











 華撃団施設の、妖力探知警報が、錆びついた音で危機を伝えた。
 新次郎と、今も変わらずに参謀を務める王は、大急ぎで司令室に走った。

「いったい何が…?」
 妖力レーダーの円盤を見て、新次郎は緊張した。
 紐育のはるか南、海に向かって、計器が強大な妖力反応を示している。

「王先生、モニタに出せますか」
「少々お待ちください」
 長らく電源の入っていなかった装置を起動して、王が計器類を操作した。ようやくペドロー島(※現リバティ島)に設置したカメラとの映像が繋がり、メインモニタに画像が映し出された。

「こ、これは…!」
 思わず、新次郎が声をあげる。

 赤黒い巨大な渦が、幾重にも重ねた車輪のように、海上でとぐろを巻いていた。

 稲光が鋭く明滅して、渦の回転する様を照らし出している。その動きはずいぶんとゆっくりに見えたが、それは即ち渦の巨大さを示していた。恐らく周囲の暴風は凄まじいものだろう。
 バミューダ海域で発生したハリケーンが、急速に北上しているというニュースは、新次郎も聞いていた。それが、魔物となってこの紐育に向かっているというのか。

 呆然とする新次郎の耳に、王の固い声が届いた。
「中心部の妖力は、強大すぎて測定不能です。進路を計算しましたところ、間違いなくこの紐育を目指しています」
「そんな…」

 新次郎は固唾を呑んだ。

 ハリケーンというだけでも、どれほどの被害があるかわからない。それが、人に仇なす強力な魔物となれば、これは信長の第六天級の災厄だ。
 直撃を受ければ、紐育は壊滅を免れない…。

「どうなされますか、総司令殿」

 王の呼ぶ役職名が、新次郎の肩にずしりとのしかかる。
 新次郎は急いで頭を回転させた。

「紐育市長に連絡して、避難勧告をお願いします。それから…」

 エイハブの二連装機銃だけで対応できるとは思えない。そもそも、久しく動かすことのなかったエイハブは、飛び立つだけでも準備に時間を要するだろう。
 シアターの俳優陣は、微力ながら霊力を持つ者を集めてあるが、その力は霊子甲冑を動かすにはほど遠く、従って専用のスターもない。とても現状で戦力になるとは思えなかった。

 いつどんな危機があるかわからない、そのために備えた華撃団のはずだ。今や無用の長物と誹る勢力に、新次郎はその度に立ち向かって、華撃団の施設を維持し続けてきた。それでも、肝心な時こんなにもなすすべがないとは、やはり自分も平和呆けしてしまっていたのか。すべては、己の責任。
 眉間に眉を寄せ、新次郎は己の甘さを悔いた。


 でも、スターなら、短時間で起動できる。スターを操縦できる者さえいれば。

 ぐっと顎に力を込め、きっぱりと顔を上げて、新次郎は言った。

「スピーカーを、外に繋いでください」






 昴は自身の情報網で、避難勧告が出る前に危機を察知していた。
 事態を案じた昴は、シアターに向かって足を運んだ。
 華撃団の現状は知っていた。ここまで弱体化した華撃団の装備で、いったいどう対処するつもりなのか。
 新次郎はどんなにか窮地に立たされて苦しんでいるだろう。
 思うと、昴の胸は締めつけられた。

 そうしてようやくタイムズスクエアに辿りついた昴の耳に、飛び込んできた音声は。



「昴さん!聞こえてますか!?聞こえてたら、どうか戻って来てください!ぼくと一緒に戦ってください!」

 まさに、ブロードウェイ中に届くような大音量で、新次郎が日本語で叫んでいたのだから、さしもの昴も跳び上がるほどに驚いた。


「し、新次郎…?」
 昴は呆然とシアターを振り仰いだ。
「何を…何を考えているんだ…」
 思わず呟いた昴に答えるように、新次郎の声が続いた。

「ランダムスターが、まだあるんです!だから、昴さん、お願いします!」


 他のスターは処分されていた。ジェミニ、サジータ、ダイアナ、リカ。四人ともに既に霊力は積年の威力はなく、維持する経費を削減するために。
 だが、新次郎は信じていたのだ。昴の霊力が衰えていないことを。
 そして、紐育の危機には、必ず昴が力を貸してくれるはずだと。


「昴さん!九条昴さん!お願いです!」

 タイムズスクエアに響く己の名に、昴は不似合いな狼狽で口をぱくぱくさせた。

 周囲では、日本語のわからない人々が何事かと騒いでいる。
「ありゃあ何語だ?」
「何を言ってるんだ?」
「スバル、って聞こえたけど、そういえばそんな名前のスターがいたよなあ」
「ええ、スバル・クジョウ、って言ってるわ、確かに」

 当の本人が傍らにいるとは知らずにざわめく人混みの中、昴は石のようになって動けずにいた。

 もう二度と会わないつもりで、頑なに変装までして、まるで心を病んだもののように、ずっと影から新次郎を見守って来たというのに。
 今更、どんな顔で、新次郎の前に出ろというのか。
 だが、この非常時にあっては…。

 そもそも、なぜ今自分はここに立っているのか。
 心のどこかで、こうなることを予想して…新次郎のためにできることを求めて、ここまで来たのではないのか…?


「昴さん!九条、昴さん!」
 新次郎の呼ぶ声は続いていた。
 その声音には、揺るぎない信頼の響きがあった。


 ぎりぎりと唇を噛み、小さな手のひらに爪を食い込ませ、昴は呻いた。
 そして、ぶるっと体を震わせ、全力で走った。


 人混みをかき分けて、向かうべき先は、ただ一つ。






「九条、昴さん!」

「フルネームで連呼するな!」

 昴は変装を解き、ぜいぜいと息せきを切って、司令室に飛び込んだ。



 十年ぶりで、十年前と変わらない姿で、新次郎の前に己が身を曝した。





《続く》 




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