片恋の記 (4)








 空は黄昏時のように赤みを帯びて、薄暗かった。
 枯れ朽ちた広葉樹の枝が、縺れたシルエットを乾いた大地に落としている。


 セントラルパークの、いつも新次郎が鍛錬をしていた場所だった。
 そこに、新次郎の墓はあった。隣りには、サジータの墓標が並んでいる。

 手向けるような花はなく、昴はただ手を合わせて黙祷した。


 新次郎の反対隣りには、スペースが囲ってあった。
 ここには、昴が眠るのだ。いつか、この命の尽きた時に。
 その日が待ち遠しい。早く、何もかも一足飛びに終わってしまえばいいのに。
 だが、昴の生は、未だ半ばだった。昴はまだ戦わなければならないのだ。

 昴は顔を上げ、己を正すように背筋を伸ばした。

「…さあ、ジョイ、ここならば、君の父母の加護もあるだろう。剣の稽古を続けよう」

 傍らに立つ、すらりと長身な少女に向かって、昴は言った。









 紐育の街は、誰も予想だにしなかったような、異常な状態にあった。


 あの日、昴は確かにキシェレマカンを倒したはずだった。現に、ハリケーンは力を失い、虹彩の輝きは消えた。
 だが、ハリケーンを構成していた妖力の渦は、ずるずると海上に落ちた後、生き物のように水面を這ってその長さを伸ばした。

 何が起きたのか把握するのに、人々は暫しの時間を要した。
 だが、やがて信じがたい現象に直面することとなった。


 キシェレマカンの妖力の残滓は、壁のようにマンハッタン島を包みこんでいた。
 南はアッパー湾の中程から、東西はハドソン川とイーストリバーの丁度中央を通り、北はハーレム川が名を変えスバイテン・ダイヴィル川となってハドソン川と結ばれる地点で輪を閉じ、まるで袋の中に閉じこめたように、紐育の街を外から隔離した。

 壁は水中から上空まで延び、セントラルパークの真上あたりで、袋の口を絞ったように収束していた。
 そこには、紅い輝きを失って白く濁った虹彩の骸があった。
 キシェレマカンの眼は、死してもなお、天頂から紐育の街を見おろしていた。

 キシェレマカンは、マンハッタン島を壊滅させることはできなかったが、己の閉じた空間の中に閉じこめることでその執念を果たしたのだ。
 昴が如何に強い思念で呼びかけても、白濁した虹彩からは答えはなく、キシェレマカンは確かに死滅したと思われた。だが、その遺骸とも木乃伊とも言うべき残存妖力が、かくも異質な空間を作り上げているのだった。




 最初の悲劇は、家族と離ればなれになった人々にあった。
 商用で紐育を訪れていたビジネスマン、地方出身者、一部の家族が避難して取り残された者。生き別れた家族に会うためにどうしてもマンハッタン島を出ようとした人々は、クイーンズボロ橋やブルックリンブリッジの中央で、壁の妖力に毒されて息絶えた。
 紐育から外へ繋がるすべての橋の中央に、憐れな人々の亡骸の山が築かれ、かろうじて引き返し命を取り留めた者も、やがては衰弱して死に至った。
 凄惨な光景に、誰も外部への脱出を試みる者はいなくなった。
 それでも時折、或いは船で、或いは空から、命がけで脱出路を探る者も出たが、虚しく終わるのが常だった。


 昴は自ら、壁の状態を確かめに行った。

 倒したと思ったはずの敵が、紐育を混乱と困窮に陥れている。昴にとって許容しがたい現実だった。
 危険です、おやめ下さいと止める王の制止を振り切って、昴はブルックリンブリッジを渡った。
「昴は言った…霊力で防御ができるから、大丈夫だ、と。無理だと思ったら引き返すよ。でも…万一の事があれば、その時はジョイを頼む」
 そう言って、昴は壁に向かって足を踏み出した。


 行く手にあるはずのブルックリンの街並みは見えず、約一八〇〇メートルの長さの橋の中央で、赤暗い妖力の壁が、薄曇りの空のように風景を遮っている。近づくにつれて、倒れた人々の亡骸が足もとに増えていった。
 中には、幼い子供の手を引いて倒れている母親の姿もあり、昴の胸は否応なく塞がれた。すべてが己の責任のような罪悪感が、昴を厳しく責め苛む。ともすると鈍くなる足どりを、昴は叱咤して運んだ。
 壁の持つ妖力は、まるで毒ガスのように危険だった。昴は霊的な防御で身を守りながら進んでいたが、壁の間近にまで来ると、膝を屈しそうなほどの苦痛と重圧を感じた。
「く…!」
 全身が、びりびりと痺れて痛み、凍るように冷たかった。すべての内臓を吐き出してしまいそうなほどの苦痛に、漏れそうな悲鳴を堪える。
 生身で突破するのは、昴でも命がけの行為だった。

 ランダムスターでなら、突破できるかもしれなかった。スターの外装に使われているファーレンハイト鋼は、シルスウス鋼の問題点をカバーして物理的に強化されただけでなく、霊的な防備力も高い。だから、あのハリケーンの渦の中でも飛ぶことができたのだ。

 だが、そこには大きな難題があった。
 昴は踵を返して引き下がるしかなかった。


 問題の根幹は、昴一人が壁を通り抜けても意味がないということだ。紐育の街全体が解放されなければ。壁そのものを破壊して、自由な街を取り戻さなければらない。
 そのためには、もう一度ランダムスターを飛ばして、形骸化したキシェレマカンの眼を攻撃し、打ち砕く。そうすれば、元締めを失った壁は威力を失い、消滅するはずだ。
 だが、それは不可能だった。



 ランダムスターの霊子水晶が、破損していたのだ。
 十年ぶりでの使用に加えて、必殺技の強化版の強行。あの時ランダムスターの操縦ができなかったのも当然で、回収された霊子水晶は粉々に砕けていた。

 シアターの地下、格納庫に収容されたランダムスターの前で、王の口調は重かった。
「もう一度動かすためには、新たな霊子水晶を用意して、昴殿用に調整する作業が必要です。しかし、このマンハッタン島内部では水晶は産出しておりません」
「ランダムスターを再び動かすのは、無理ということか…」
 昴も肩を落とした。
 眼の近くまで小型飛行機を飛ばして攻撃することも考えたが、キシェレマカンの残骸を砕くには、スターの霊子水晶で霊力を増幅した必殺攻撃が必要だ。それに、スターのファーレンハイト鋼なしでは、壁と同様に、接近するだけで危険だろう。
 或いは、セントラルパークに巨大な砲台を建設して眼を破壊するという案もあったが、霊的な攻撃のできる弾頭を作るにも、霊子水晶が必要だった。つまるところ、霊子水晶なしには何も始まらないのだ。
「ならば…王先生、ランダムスターの装甲を、修復可能な範囲で剥がしてシールドを作れないだろうか。昴一人が壁を抜けるだけなら、試す価値はある。昴は、霊子水晶を入手して必ず戻る」
「…確かに、その方法は考えられます。ですが、リスクがある」
 昴の提案にも、王の顔は晴れない。
「昴どのは、気になりませんか。外部から、全く何も救助の気配がないということが」
 言われて、昴も表情を硬くした。

 紐育の異常な状態は、とっくに全世界に知れ渡っているだろう。今や大統領となったサニーサイドとラチェット夫人は、当然に手を尽くしてくれているはずだった。恐らく、外では大がかりな紐育解放作戦が展開されているに違いない。
 帝都や巴里の各都市には、スターより進化した霊子甲冑も存在する。それらもきっと導入されているだろう。なのに、未だに何の動きもないということは。
 現状のいかなる霊的な武装をもってしても、外から壁を壊すことはできない。
 この空間は外部からは完全に閉ざされていて、内部からしか破る術がないのではないか。

「…昔、ツタンカーメン事件があった時、彼に霊的に奪われた建物には、どうしても入ることができなかった…外から見た紐育は、あれと同じような状態なのかもしれないな…」
 昴の呟きに、王も頷いた。
「そうです…だから、もし昴殿が霊子水晶を持って戻ろうとしても叶わなかったら…それを考えると、慎重な判断を要します」
「となると…僕たちは、外部からの動きを待つしかない、ということか…。壁を、外側から越える手段があると確認できるまで…」
 待つのが嫌いな昴は、ぎりと歯噛みをした。

「残念だ…どこか他に、予備の霊子水晶があればいいのに…」
 昴の呻きに、王は難しい顔をした。
「エイハブの霊子水晶がありましたが、ハリケーンに巻き込まれた後は行方がわかりません。恐らく、壁の向こうのどこかに墜落したものと思われます。あとは……フジヤマスターの霊子水晶は無事でしたが、あれは新次郎殿の霊質に合わせて調整されたもの…昴殿用に作り直すことは不可能なのです」

 フジヤマスターの名に、昴の体が強ばった。



 新次郎の愛機・フジヤマスター。
 だが同時に、昴にとっては、新次郎の命を奪った、まさに凶器に等しかった。

 新次郎を失った悲しみが、昴の心からフジヤマスターの存在を拒絶させていた。理不尽な感情と知りながらも、自制が効かない。
 新次郎のことなら、言葉の一言一句とその日時まで細密に記憶しているというのに。戦闘中の新次郎の記憶だけ、消しゴムで消したように思い出すことができなかった。

 そこにはフジヤマスターを駆る新次郎の勇姿があったはずなのに。
 あの日、昴を助けに現れたフジヤマスターの発した、白い光。あれが、昴の心から、フジヤマスターに関する記憶を塗りつぶしてしまったようだった。

「…ふ…フジヤマスターは…今…どこに…?」
 その名を口にするのも恐ろしかった。
「まだ、すべての部品の回収は終わっていません。破損が激しく、修理するのは難しいでしょう。…最も、修理しても、最早操縦できる者も…」
「王先生、頼みがある」
 遮るように、昴が言った。
「…っ…フジヤマスター…を…回収したら、二度と昴の眼につかない場所に葬ってくれないか……お願いだ」

 ふるえを堪えるように二の腕を抱く昴を、王は痛ましげな眼差しで見た。
「…承知しました」







 長期戦になる、と覚悟を決めた昴の行動は迅速だった。

 いつか手段が見つかり、壁が消えるその日まで、この閉鎖された空間で、生き延びなければ。

 一九三九年当時、マンハッタンの人口は一〇〇万人を越えていた。
 その多数が、勧告に従って避難を果たしていたが、その時動けなかったもの、家や店舗など生活の基盤を守ろうとして逃げなかったもの、避難勧告を知らなかったものなどが残っていた。そこから災害による死者、降魔に襲われた被害者、壁に向かって落命した人々などを除いて、約三十万人ほどが生存していた。
 行政の残骸を、昴はかろうじて機能するまでに立て直し、非公式に市政を指揮した。表立つつもりはなかったが、この状況で市政を担いたいと思う者は少なかった。難題の山に、昴は一つ一つ立ち向かった。


 壁を通しても雨は降り、風は吹き、川の水は流れる。つまり無機物は通すのかと思って石を放ってみれば、磁力にでも捕らわれたかのように、壁の手前で落ちてしまう。なのに、風に吹かれた枯葉は、壁の向こうへ消えていく。
 妖力の壁は、キシェレマカンの呪いのようなものだ。物質に人の意志が介在した時、そこに何らかの霊力が宿り、壁が通さなくなるのだろう。
 故に、キャッツキル山地から引かれた上水道も、ハドソン川上流の蒸気出力所から送られる蒸気も、途絶えたままなのだ。

 水は、ハドソン川岸に浄水施設を作って、上水道に繋げば解決した。しかしエネルギーはそうはいかない。蒸気機関の主燃料である石炭も、マンハッタン島では産出されない。そこで、東西の両の川の水力、摩天楼の頂の風力でそれぞれ発電施設を作り、蒸気に替える計画を進めたが、得られるエネルギーは少なく、慢性的なエネルギー不足は如何ともしがたかった。

 一番の問題は、食料だった。
 空も妖力の薄暗い雲に覆われ、青空も星も見えなかった。日が暮れれば暗くなったが、朝が来ても黄昏時のような仄暗い空のまま。
 陽射しの乏しさに広葉樹は立ち枯れ、それによって昆虫やそれを捕食する小動物も死滅する。生態系の危機を前に、都市の人口を支える食料を確保するのは至難の業だった。

 まず北部にあった農場は、燕麦やジャガイモなどの少ない日照で育つ作物に植え代えた。インウッドヒル・パークなどの緑地はすべて農地に変え、市街地でも公園や屋上など可能な限りのスペースを食料生産に当てた。
 また、わずかな家畜を補うために野生の鹿や野ウサギ、土鳩を家畜化し、アッパー湾の魚や牡蠣を養殖した。

 最早帰るもののない家や建物は非常措置として接収し、物資やスペースを活用した。空いた建物を利用し、貴重なエネルギーを使って、日照不足に弱い食物の水耕栽培も行った。
 そして、あらゆる生産物の再利用技術を研究し、物資の欠乏と戦った。

 王の持つ技術力が、常に計画を支えていた。昴の天才的な頭脳と、王のメカニック兼参謀という知能が、紐育を死滅から救うべく、連携してフル稼働した。

 しかし、大きな障害も残っていた。
 未だに降魔がどこからともなく出没して、人々を襲い、建物を破壊するのだ。降魔を見たら早急に地下室や頑丈な建物へ避難すること、弱点は腹部の紅い光点であることなどを周知させたが、降魔の動きは素早く、一般人や警察などが銃で応戦しても限界がある。そのため、降魔出現の知らせを受ければ、昴はどこにいても急いで掃討に出動した。昴はたった一人の紐育華撃団の戦闘員としても戦っていた。


 故に、昴の生活は多忙を極めた。不眠不休で働く日々が、何年も続いた。
 そのため、昴はジョイとともに過ごす時間を、なかなか持てなかった。

 当時、カルロスとバーバラの夫婦に、丁度三人目の子供が生まれていた。昴はバーバラにジョイの乳母を頼み、代わりに彼らの生活の便宜を図った。
「さ、サジータの姐御の忘れ形見なら、自分とこの子供より大事にするぜ!」
 感極まった様子で眼を潤ませるカルロスを、バーバラがやはり涙目で小突いたりする様子に、彼らにならジョイを任せても安心だと昴は信用した。

 本当なら、昴自らの手で抱いてミルクを与え、おむつを換え、風呂に入れて、ありったけの愛を注ぎ慈しんで育てたかった。だが、昴はジョイが生きるための環境を作るので精一杯だったのだ。紐育の街を守ることも、新次郎との大切な約束の一つだった。

 それでも、昴はどんなに多忙でも、合間を縫ってジョイの様子を見に行った。
 寝顔だけを眺めて帰ることもあれば、幼いジョイを膝に抱いて、父親の話をしてやることもあった。

 笑顔を絶やさない、誠実で勇敢な人だった、と。
 遠い異国から紐育へ来て、命を賭けてこの街を守るために戦ったのだと。
 新次郎こそは星々の導き手、ポーラースターであり、誰より美しく尊い心の持ち主だった。
 だから、君は新次郎の娘だということを、決して忘れてはいけないよ…。

 昴の言葉をどこまで理解しているかわからずとも、あどけない顔のジョイが素直にこっくりと頷く様はなんとも愛らしく、疲れた昴の心を癒した。
 ジョイの黒くまるい瞳に、くっきりした眉や長い睫に、新次郎の面影を見いだしながら、それが昴の生きる希望となっていた。
 昴は今も片思いを続けていた。ジョイの中に息づく新次郎に心からの愛を傾けていた。



 紐育の街は、昴の努力にも関わらず、人口を減らし続けていた。エネルギーや資材の不足と降魔の妨害で、諸々の事業の進捗は思わしくない。混乱のうちに幾度も暴動が起き、治安は定まらず、将来を悲観した自殺者が後を絶たなかった。また、医薬品の多くは底をつき、治るはずの怪我や病で命を失う者も多かった。
 それでも、長い戦いの果てに、危うい中にも少しずつ均衡が保たれるようになり、ようやく昴の体も以前よりは空くようになってきた。

 空いた時間を、昴はジョイのために使った。
 学校の運営が滞りがちな中、昴はジョイに勉強を教えた。
「新次郎は海軍士官学校を飛び級して主席で卒業するほどの勉強家だったのだ。ちなみに、母であるサジータも、最年少で弁護士になった才女だ。君は両親に恥じない知力を身につけてくれ。知性は、すなわち生きるための力でもあるのだから」
 そして、新次郎の娘たるべく剣術の指南もした。昴は武道の心得を一通り持っていたので、可能だった。
 新次郎の遺品の木刀を与え、毎朝の修練を課し、打ち稽古の相手を務めた。
「降魔の跋扈する今の紐育で、己を守る力を身につけるために、君には必要な事なんだ。そして、新次郎がそうであったように、いつか人々を守るために戦えるようになってくれ」




 昴は、繰り返しジョイに説いた。
 君は、新次郎の娘なのだ、と。
 だから、強く生きてくれ。
 そして、誰よりも幸せになってくれ。
 君にはその義務がある…。










 そうして、今日も昴は、ジョイとともにセントラルパークの墓地に立っていた。

 ジョイは勉強はよく出来たが、剣術の腕は遅々として上達しなかった。
 既に十三歳になっていたが、未だに二刀を操るに至らない。
 鍛錬をさぼり気味で、あまり剣が好きではなさそうな様子に、昴は今一度新次郎の徳をひとくさり説くために、ジョイを墓前に連れてきたのだった。

「さあ、今日は昴がとことんまでつき合おう」
 そう言って、昴が差し出した木刀を、少女は受け取らなかった。
 そして、己より小柄な昴を見おろし、きっぱりと言い放った。

「いやだ」

 昴は眉を上げてジョイを見た。
「何を言っているんだ…」
「あんたの説教も、剣の稽古も、もうウンザリだ」
 反抗的な口調で遮ると、驚愕する昴を置いて、ジョイはくるりと背を向け、勝手に立ち去ろうとした。
「待つんだ、ジョイ!」
 真っ直ぐに少女に向けた木刀に、じゃらん、と音をたてて一振りのチェーンが巻き付いた。

「あたしは、剣はキライなんだ。こっちのほうが性に合ってる」
 チェーンの端を拳で握り、にやりと不敵に笑ってみせるその顔は、まるでサジータにそっくりだった。






《続く》 




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