片恋の記 (6)








「昴は言った…そういうわけで、これからエイハブの残骸を調べに行く、と」
 王の部屋で、昴は報告していた。最早ペドロー島の調査どころではなかった。


「この件はまだ他言しないでほしい。本当に霊子水晶があるかどうか、破損していないか…調べて見なければわからない。ぬか喜びをさせたくない」
「お一人で行かれるのですか?誰か連れて行った方が…」
「場所が、壁に近すぎる。常人では壁の妖力にやられて死んでしまうだろう。昴でなければ行けない」
 昴がそう言うと、王はふと労うように白い眉を下げた。

「…昴殿は、何もかもお一人で背負っておられるようだ」
「己にできることをやっているだけだ…気遣いは無用」
 昴は淡々と答えた。
「…あなたは、よくやっておられる。昴殿がいなかったら、この紐育は、今頃死者の街になっていたでしょう」
「何を…王先生こそ、そのお言葉、そっくり返そう」
 昴がふっと微笑むと、王は老いて窪んだ眼窩から、じっと昴を見て言った。

「昴殿…あなたは、私の希望でした。煌めく舞台、街の賑わい、スターの勇姿…私にとって、姿の変わることのないあなたが、かつての輝かしい紐育の繁栄の象徴なのです」
 そして、昴に右手を差し伸べた。
「…あなたなら、きっともとの紐育を取り戻せます。どうか、無事にご帰還されますように」

 王の皺深い手を、昴はしっかりと握った。
 長い戦いの盟友として。
「昴は言った…ありがとう、と」








 バッテリー公園の船着き場から、昴は再びボートに乗り込んだ。
 朝方の風は止み、波は穏やかだった。ペドロー島を越えて、エイハブの残骸を一人目指す。

 壁に近づくにつれて、周囲の妖力が増し、体が苦痛を訴えた。
 だが、堪えられないほどではない。霊的防御を隙間なく身に施し、昴はボートを近づけた。
 壁とエイハブの残骸は、十メートルと離れていない。もっと近かったら、とても接近できなかっただろう。
 そう思って壁を見た昴は、海中の様子に気付いて、ぎょっと眼を剥いた。


 壁の付け根の海中に、降魔の卵…魔精卵が連なっている。
 その大きさは、不透明の瘤のような小さなものから、降魔の体がはっきりと透けて見える大きなものまで、様々だ。

 やはり、壁が降魔の発生源だったのだ。壁の妖力を糧に育った降魔が、孵化しては街を襲いに来る。
 どんなに倒してもきりがないわけだ。海中を睨んで、昴は唇を噛んだ。

 これをすべて根絶やしにできたら、どれほど紐育は安全になるだろう。
 だが、昴一人ですべての卵を破壊するのは不可能だった。これ以上壁に近づけば、たとえ昴でも、壁の妖力から身を守るのが精一杯で、戦うどころではないだろう。
 やはり、壁そのものを壊すしかない。昴は決意のもとに、ボートを止めた。

 ひしゃげて曲がった霊子核機関の円筒は、天辺部分を一メートルほど海面からのぞかせ、後は長々と海底に沈んでいる。現存するエイハブの図面で調べた限りでは、丁度円筒が曲がっているあたりが霊子水晶の設置されている場所だ。破損しているかもしれないという不安が、昴の脳裏をかすめた。

(潜って、直接確かめなければ)
 昴は円筒に飛び移り、天辺部分を鉄扇で切り裂いた。
 中は暗くてよく見えなかったが、懐中電灯で照らすと、海水の底から錆びた鉄骨と機械部品が突き出ている。
 あの奥に、霊子水晶があるはずだ。


 水着は用意できなかったので、昴は服を脱いで肌着だけになった。ローワンが急ごしらえで用意してくれた水中ゴーグルをかけ、鉄扇をベルトで腿に固定する。ボートからロープを伸ばして錆びた鉄骨に舫うと、最後に、霊子水晶を持ち帰るための網状の袋を肩に提げて、準備は完了した。
 冷たい海水に潜ると、体の苦痛が増すようだった。まるで、四〇度の熱があるのに潜水しなければならないような感覚だ。だが、昴は己を奮い立たせ、筒の底を目指した。僅かな光源を頼りに手探りで進みながら、息が持つ距離に霊子水晶をがあることを祈った。

 息継ぎに戻っては潜ることを繰り返し、その何度目だったろうか。さしもの昴も霊力・体力ともに疲れを感じ始めた頃。
 ざらざらと錆びた機械部品を辿っていた昴の指が、ふと、すべすべとした手ざわりの、固いものにふれた。子供の頭ほどの大きさの、両端の尖った多面体。

(間違いない。霊子水晶だ…!)

 体のあらゆる苦痛を、昴は一時忘れた。
 やっと…これでやっと紐育の街は救われる。
 昴の胸は喜びで灼けるようだった。


 一刻も早く、持って帰ろう。
 昴は足を踏ん張って霊子水晶をつかみ、嵌った箇所から力を込めて引き抜いた。

 途端に、海水で錆びた機械部分が、バランスを失って、水中にメキメキと音を響かせながら崩れ落ちてきた。


 昴は急いで霊子水晶を抱えて浮上した。だが、水面に顔を出したところで、体にがつんと衝撃が打ち付けた。



 崩れた機械部品に、腰が挟まっている。
 霊子水晶を袋にしまい、両手を空けて全力で持ち上げようとしたが、昴の膂力ではびくともしなかった。
 腿に着けた鉄扇は、機材に遮られて届かない。昴はざあっと青ざめた。
 霊力を爆発的に放って逃れることも考えたが、霊的防御と同時には出来ない。解放された瞬間に、壁の妖力で命を失うだろう。

 顔がかろうじて水面に出ているのが救いではあったが、潮が満ちてくればそれまでだ。



 あと一歩なのに。霊子水晶をようやく手に入れたのに。
 ここまで来て諦めなくてはならないのか…。
 誰か人が来てくれないだろうか。
 いや、霊力がなければここまでたどり着けない。
 誰も、昴を助けには来られないのだ。




(新次郎…!)
  思わず、胸中にその名を呼ぶ。 






 その時、円形の縁から、ひょいと人の頭がのぞいた。
 昴は一瞬、本当に新次郎が助けに来てくれたのかと思った。


「昴!大丈夫?」
 よく見れば、それはジョイだった。
 苦しげに顔を歪めてはいるが、体の周囲には霊的防御がオーラのように輝いている。
「ジョイ…!」
 彼女の霊力の発現を初めて見た昴は、ただ驚いていた。

 昴の窮状を一目で見て取ると、ジョイはすぐ頭を引っ込めた。やがて、ボートのモーター音が聞こえて来る。昴を噛んだ機材に結んであったロープは、ボートに引かれてぎしぎしと軋み、僅かに隙間を広げた。
 それで、昴の腰が自由になった。


「ジョイ!もう大丈夫だ!」
 円筒の外に這い出て、昴は叫んだ。ジョイがモーターを止めるのを見て、鉄扇でロープを切り、ジョイが乗ってきたボートに繋ぐ。
「早く離れよう」
 隣りに乗り移った昴の声を合図に、ジョイが再びエンジンをスタートさせた。







「怪我、大丈夫かい」
 昴の細い腰は、錆びた鉄材に挟まれて藻掻いたせいで、傷だらけになっていた。海水が生傷に沁みる。
 だが、霊子水晶を手に入れた喜びを思えば、そんな痛みはささやかだった。


「ありがとう、ジョイ…お陰で助かった。君は霊力が使えたんだな」
 新次郎とサジータの娘なのだから、霊力を持っていても不思議はない。だが、今までそんな素振りも見せなかったので、昴も気付かなかったのだ。
「ああ…なんだか、変な力だから…誰にも内緒にしてたんだ。でも、これがあれば、壁の近くまで行けるって、わかったから」
 しみじみと昴に言われて、ジョイは指先で頬をかいていた。
「今朝のあんたが、すごく血相を変えてたからさ…何が起きたのか教えてくれないし。だから、気になって後を追ってきたんだ。…それって、何のお宝だい?」
 霊子水晶の入った袋を肩から外し、昴は大切に両手で捧げ持った。
「…これさえあれば、空の魔物の眼を破壊できる…そうしたら、壁は消えて、紐育の街は開放されるんだ」
 昴の言葉に、ジョイは瞳を輝かせた。
「へえ…!それってすごいことだよね!」

 ジョイは、今の閉ざされた紐育の街しか知らない。だから、どれほど「すごい」のか、本当にわかってはいないだろう。…だが、それがわかるのも、もうすぐだ。




 壁から充分に遠ざかったので、昴とジョイは霊的防御を解いた。
 二人の霊力の波動を感じたのか、霊子水晶が淡く光って反応する。

「これは、霊力に反応して増幅させる石なんだ。この石をランダムスターに組み込んで、昴の霊力に合わせて調整する。そうすれば、ランダムスターはもう一度空を飛べる。キシェレマカンの眼を今度こそ倒しに行くんだよ」
 不思議そうに石を見つめるジョイに、昴は話してやった。
「それって、あたしには操縦できないの?」
「ランダムスターは昴の霊力に合わせて作られた機体だからね…」
「ちぇっ、つまんないの」
「でも、壁がなくなれば、君用のスターを作ることも可能になる…昴と一緒に、紐育華撃団を再興するかい…?」
「うん!やってみたい!」
 元気よくジョイが答えた、その後ろの空に、昴は黒い影の群れを見つけた。





「降魔だ…!」
「えっ!…うわ、何あの数」
 ざっと数えても二十体はいる。昴は訝しんだ。
「何故あんな数が一度に…?」
 日頃、街を襲う降魔は、一〜二体で現れる。こんなに大勢で飛んで来る様子は、十五年前のあの日以来見ていない。
「予備のチェーンを持って来てるけど、二人だけじゃ無理だよ…!」
 悔しげに歯噛みをするジョイに、
「昴は言った…君は、伏せていろ、と…」
「でも」
 ボートを止めると、鉄扇を開いて、昴は舳先にすっと立った。

 降魔の群れは、みるみるうちに近づいて来た。明らかにこのボートを目がけて、急降下してくる。

「沙羅双樹の花の色…雪、月、花!」
 技の発動の媒体となる鉄扇は、今朝の戦闘で海に落としてしまったので一本しかない。だが、やるしかない。

「いざ、狂い咲き…!」


 吹き荒れる金襴の竜巻が、降魔の群れを薙ぎ払う。その威力は、まさに神の領域と謳われるにふさわしい。一度の攻撃で、多数の降魔が塵と化して風に散った。

 だが、鉄扇が片方では威力に欠けたようだった。打ち漏らした降魔が、上空を旋回して再び襲ってきた。
「あたしがやる!」
 ジョイがチェーンを解き、ひゅんと放った。降魔に避けられて戻って来た分銅の先を、つま先で鋭く蹴ると、尖った分銅は再び降魔の腹を目指し、紅い光点に刺さった。
 だが、揺れるボートの上、それでバランスを崩したジョイは、派手な水音をたてて海に落ちてしまった。


 二体の降魔が、真上に迫っていた。


 海面に顔を出したばかりのジョイの上に、刃の羽を振り下ろす降魔。
 そして、ボートの上の霊子水晶に、尖った羽先を向ける降魔。
 昴一人で、両方を同時に倒すことは不可能だった。
 どちらか一体しか倒せない。


 ジョイが海中からチェーンを使うより、降魔の刃が先に届くだろう。
 スターの装甲に食い込むほどの硬い羽は、霊子水晶をも砕くだろう。

 一秒の何分の一かの短い瞬間に、昴は決断しなければならなかった。

 ジョイの命か。
 紐育の自由か。


 どちらかを守れば、もう片方を失う……。



 昴は船縁から跳んだ。

「はあああっ!」
 咆吼とともに、ジョイを襲おうとした降魔の弱点を切り裂いた。


 勢いのままに海に落ちた昴が、再び海面に浮上した時は、船縁につかまったジョイが、残りの降魔を倒したところだった。

 もう降魔の影はなかった。



 二人がボートによじ登ると、ボートの底には、砕け散った霊子水晶の破片が散らばっていた。

 何が起きたのか、ジョイは悟ったようだった。眼をまるくして、昴を凝視する。
「どうして…」

 昴はボートの床に手と膝をつき、呆然と破片を見ていた。
 己の選択の結果の、残滓を。
 もう二度と取り戻すことの出来ない、希望の名残を。

「この街を救える石だったんだろ…?それを…あたし一人だけのために…」




「…君を、死なせられるわけがないだろう…!」
 血を吐くように、昴が叫んだ。

「昴は、何度でも言う…君は…新次郎の娘なんだ、と…」
 海水で濡れた昴の頬を、涙が洗っていた。


「新次郎は、死んでしまった…!この街を守るために…!でも、君の中に新次郎は生きている…」
 手を伸ばし、自分よりずっと長身な少女を抱きしめる。

「君がいなければ、新次郎を失った悲しみで、昴は生きていられなかっただろう。紐育のためだけに生きたとしても、それは果てのない暗黒の中をさまようような、絶望に満ちた人生だ」
 何千回、何万回と、新次郎を失ったあの瞬間を、昴は思い出す。その傷は深すぎて、決して癒えることなく、今も血を流し続けている。
「…でも、新次郎は昴に、君を残してくれた」
 昴の両腕いっぱいに、ジョイの体のぬくもりがあった。
「昴の記憶がどんなに鮮明でも、いつか昴が死ねば新次郎の記憶も死ぬ。でも、君が生きている限り、新次郎は死なない。君は、新次郎が確かに生きていた証だ…」
 ジョイこそが、虚ろに凍てついた昴の心の空洞に、灯された光だった。

「この世界の、誰よりも、何よりも、…君が大切なんだ…ジョイ」




 少女は、黙って昴の言葉を聞いていた。
 そして、そっと昴の腕を解いた。

「…昴は、いつもあたしの中のパパだけを見てた…あたし自身じゃなくて。…それが、ずっとイヤだった」
 昴は、はっと顔を上げた。
「だって…あたしはパパじゃない。あたしはあたしなんだから。………でも…なんか…もう、いいや。目の前で、紐育の街を救える石と引き替えに、命を助けてもらっちゃったら…何も言えないよ」

「ジョイ…」
 ただその名を呼ぶ昴に、ジョイは続けた。
「別にあたしを愛してくれなくていい。『新次郎の娘』じゃなくて、ただのジョイとしてつきあってくれたら、あたしはそれでよかったんだ」
 言われて、昴はジョイを見つめ、絶望的な表情で項垂れた。
「できないよ…。だって、君は…新次郎の娘なんだから…」

「あんた…ひょっとしてものすごく不器用なんだな…」
 天才にして完璧なる九条昴に向かって、十五才の少女は呆れたように言い切った。
「悪いか…」
 諦めた口調で、昴が呟く。
 新次郎のことになると、日頃の冷静さや判断力がすっかり狂ってしまうのは、昴自身もよく自覚している。九条昴ともあろうものが、悩める不器用なただの人間になってしまうのだ。


「あんた、パパのことが…新次郎が、本当に好きだったんだな…」
 ジョイが、膝を抱えて座った。
「ああ…誰よりも、彼を愛していた…」
 遠い眼差しで新次郎の姿を思い描き、昴が呟く。
「じゃあなんでパパとママが結婚するのを黙って見てたんだ?」

「…君に、会いたかったからだよ…ジョイ」
 ジョイを見て、昴が小さく微笑んだ。
「新次郎は、子供が好きだと言った。彼に、子供のいる幸福な人生を歩んでほしかった」
 昴は、未だに性別を明かしていなかった。だが、濡れた肌着だけを海水で貼りつかせた薄い体では、最早隠せない。いずれにせよ、昴がこれ以上成長しないということは、ジョイにももうわかっている。

 昴の答えに、ジョイは不服そうに問い返した。
「なんだよ、それ…本当に、それでよかったの?自分の幸せは?」
「新次郎の幸福が、昴の幸福だ。後悔はしていない」
 昴は即答した。

「わかんないな…あたしだったら、好きな人がいたら、絶対諦めない。何がなんでも、その人と二人で幸せになる道を探す」
 ジョイは首を振って、溜息をついた。そして、昴に真っすぐな視線を向けた。
「あんたは、自分が正しい選択をしたって信じ込もうとしてるだけなんじゃないの?」
 生意気な口調に、昴は整然と返した。
「違うな。人生に、『正しい選択』など存在しない。あるのはただ、選択しなかった可能性への未練だけだ」
「じゃあ、パパはどう思ってたの?昴のことを」


「新次郎は…」

 昴の胸に、新次郎の記憶が溢れる。

(年齢も性別も、関係なく、ぼくは昴さんが…)

 新次郎の愛を、昴は自ら拒み、彼を傷つけた。
 そう思うと、昴は苦しくて思わず眼を伏せた。
 だが、同時に、新次郎の、最後の言葉が甦った。


(ありがとう…昴さん…)

(この幸せは、昴さんがくれたものなんですよね…)

 昴は眼を開き、ジョイの視線を正面に受け止め、答えた。
「新次郎は、わかってくれていた。昴の望みを。昴の愛の形を。…その上で、心からサジータを愛し、生まれた君を愛し、本当に幸せになってくれた」
 昴は確信していた。新次郎は、紛れもなく、昴のポーラースターだった。
「新次郎は…そういう人だったんだ…いつだって…昴の望みを叶えてくれた。誰よりも、昴を幸せにしてくれたんだ」

「ふうん…」
 わかったような、わからないような顔で、ジョイは聞いていた。
「もう、いいだろう…シアターに戻ろう。このままでは二人とも風邪をひく」
 昴はボートを発進させると、濡れた体にようやく服を纏った。そして、ふと思いついたように付け足した。
「君は、誰か好きな人がいるのかい…?」

 ジョイは頭の後ろに手を組んで、とぼけるように言った。
「…別に。あたしはみんなが大好きだよ。カルロス・パパも、バーバラ・ママも、王先生も、…ローワンも……それから一応、あんたのこともね。昴」








 帰路は足の重い道のりだった。
 ジョイと久しぶりに沢山話せたのはよかったが、何と言っても霊子水晶を失ってしまったのだ。
 他に、選択肢はなかった。ジョイの命は、何ものにも替えられないのだ。だが、失ったものが大きすぎる。

 王になんと報告したものか。思うと、昴の胸は沈んだ。

 とぼとぼとシアターに帰り着くと、エントランスにローワンが立ち尽くしているのが見えた。


「どうしたの?ローワン」
 駆け寄るジョイに、ローワンは答える声を詰まらせた。

「お…大叔父殿が…」

 涙に濡れて悲痛の色に染まったローワンの顔を見て、昴はもう報告の必要がないことを知った。





 寝台に横たえられた王の表情は穏やかだったが、そこには最早生気は残っていなかった。
 紐育華撃団創設時からのメカニックチーフにして参謀、寛容なる知者、王行智。
 紐育が解放される日を見ることなく、ついにその生涯を閉じたのだった。

「昴殿が出かけて、すぐ後のことでした…急に、昏倒して…そのまま意識が戻らなかったんです…」
 ローワンが顔を歪めて、呻くように言った。
「そんな…王先生…!」
 ジョイが、亡骸にすがってわっと泣き崩れた。


 昴の脳裏に、出発前の王の姿が浮かんだ。思えばあれは、別れの言葉のようだった。
(王先生のことだ。何か予感があったのかもしれない…)


 昴は王の傍らに膝をつき、頭を垂れた。
「あなたがいなければ、昴は、ここまでやって来られなかった…」
 王は、昴にとって、ただ一人残された華撃団の同志であり、頼るべき先達であった。
 まるで、親を亡くした子のように、心細さで凍えそうだった。
「王先生…!」
 冷たくなった手を握り、額に押し当て、昴は涙を流した。







「昴殿…」
 小さくすぼめられた背中に、ローワンがそっと呼びかけた。
「昴殿宛の遺言が、引き出しの奥にありました…この時のために、あらかじめ用意していたのでしょう」

 昴が顔を上げると、ローワンは折りたたんだ書簡を差し出した。
 昴は無言で受け取り、のろのろと紙面を開いた。

 そこには、先立つ詫びの言葉が達筆で綴られ、後々の細かな指示や助言も添えてあった。王らしい、飄々とした遺言だった。

 しかし、続く文面に眼をやって、昴は自ずと身を固くした。




(昴殿は、どんなにか私を責めたかったかと思われます。
 なぜ危険な用途を知りながらフジヤマスターを残しておいたのか。なぜあの日、エイハブにフジヤマスターを搭載したのか。

 一言も口にはされずとも、お心は察しておりました。私も、あの日から、ずっと同じ後悔をしておりました。

 ですが、もし新次郎殿が、己の命と引き替えにしてでも成したいことがある時に、その手段がなければ、それはまた別の後悔になりましたでしょう。

 己の判断が正しかったと主張するつもりはありません。ですが、昴殿に重い苦しみと悲しみを負わせてしまったことを、心からお詫びしたい)


 王の言葉で、昴は思い至った。
 新次郎を失った悲しみの矛先を、もしフジヤマスターに向けていなければ、自分はきっと王を憎んでいただろう。
 そうすれば、王との協力関係はあり得ない。その結果、紐育の街はとっくに廃墟となり、人々は死に絶えていただろう。
 だからこそ、昴は無意識のうちに、王を憎まぬよう、命のない無機物のフジヤマスターに怨みを向けていたのだ、と。



 王の遺言は続いていた。

(最後に、そっとお教えいたしましょう。
 フジヤマスターは格納庫の最下層、二重扉の奥に保管してあります。
 新次郎殿しか操縦できない機体ですが、新次郎殿の娘御のジョイ殿なら操縦できるかもしれません。
 ジョイ殿が、新次郎殿と同じ霊質を受け継いでいれば、の話ですが、昴殿がもし万策尽きて絶望に沈むようなことがあれば、この事を思い出していただけるよう願います…)



 紙の端を握る昴の手が、わなわなとふるえた。
「昴殿…?」
 心配そうなローワンの声に答えずに、昴はくるりと身を翻した。
「ジョイ……昴と一緒に来てくれ…!」

 泣き伏すジョイの手を取ると、昴は地下の格納庫へと走った。

「ちょっと昴…!どうしたのさ」
 ジョイは涙を拭いながら、昴に手を引かれてついて行く。昴は、ただはやる心のままに足を運んだ。
 長い階段を駆け降り、いくつものドアを開閉して、記された場所まで二人で辿り着いた。

 シャッターを開けても、一見何もない。だが、奥の壁の下部に引き手がついているのを、昴は見つけた。

 指をかけ、力を込めて引き上げると、隠された部屋が現れた。







 そこに、赤と白の機体の残骸があった。

 ひしゃげた装甲、もげた腕や足。ボールのように床に転がったモノアイ。
 新次郎を失った時の記憶が一斉に甦って、昴の全身はズキズキと痛むようだった。


「これは…?」
「…フジヤマスター…新次郎の霊子甲冑だった」

 言って、昴はそろりと足を踏み出した。
「おいで、ジョイ」

 破損したエンジンの奥に、霊子水晶が見えている。
 昴がジョイの手を取って翳すと、新次郎の霊質だけに合わせて調整された宝石が、ぼうっと白く輝いた。

「反応している…」
 淡い輝きに、昴は瞳を見開いた。
「君は、確かに新次郎と同じ霊質を受け継いでいるんだ…!」

 ジョイがフジヤマスターを操縦できれば。
 ジョイならば、キシェレマカンの眼を倒しに行ける。
 そうすれば、今度こそ紐育の街は自由を取り戻せる…!




 昴の胸に溢れた希望は、しかしみるみるうちに萎んでかき消えた。

「ああ…でも、王先生がいない。王先生の知識と技術がなければ、ここまで壊れたフジヤマスターをとても修理できないだろう…」



 がっくりと膝を折った昴の背後に、人影がさした。


「ぼくが、やります」
 きっぱりと、通る声がした。

 紐育華撃団メカニックの繋ぎの、エンブレムの模様も鮮やかに、ローワンが立っていた。

「大叔父殿に、すべて教わりました。ぼくが、フジヤマスターを修理します」






《続く》 




[Top]  [星組文庫]

inserted by FC2 system