片恋の記 (7)








 その日から、ローワンはフジヤマスターの修理作業に取りかかった。

 日中は王の後を継いで鍼灸治療の仕事をしながら、それ以外の時間は寝食を忘れるほどに地下の格納庫に籠もっていた。

 物資や燃料の欠乏と戦いながらも、フジヤマスターは少しずつもとの形を取り戻していった。それは主に、ランダムスターのパーツを使ったことが大きかった。腕や足、装甲の一部など、同じ形状のものはそのまま流用が可能だった。
 しかし、エンジン部分はそうはいかない。Titan mk.2A型霊子エンジンの復元に、ローワンも手間取っているようだった。その作業には、長期的な時間を要した。




 月日を重ね、次第に姿を整えていくフジヤマスターは、未だに、昴を恐ろしい記憶に結びつけるものだった。それでいて、同時に紐育を救う希望でもあるのだ。相反する感情を抱えながら、昴は修理の進捗を見守っていた。天才と謳われる頭脳を駆使して、ローワンに助言することもあった。

 王がなぜもっと早く、フジヤマスターの可能性を教えてくれなかったのかと疑問にも思った。
 だが、王があの遺言を書いた時点では、ジョイに霊力があるかどうかもわからなかったし、何より、王自身もやはり、昴と同様に、フジヤマスターに対して複雑な思いがあったのだろう。
 だから、己の死後に、ローワンの手に委ねたのだ。

 もしフジヤマスターが再び動いて、この街を救うことができるなら。
 その時こそフジヤマスターへの怨みも消えるだろう、と昴は思った。





 修理が進むに連れて、フジヤマスターは予想外の問題を露呈した。

 ジョイを操縦席に座らせて、起動テストを繰り返したものの、うまくいかないのだ。

「確かに、ジョイの霊力に計器は反応を示しています。ですが、霊子水晶の反応が不安定なのです」
 ローワンは困惑気味に、測定値の記録を読んでいた。
「…うーん、一生懸命やってるんだけどなあ。なんか、あたしもしっくり来ないんだよね。うまく説明できないんだけどさ」
 操縦席で、ジョイも腕組みをして途方にくれていた。
「このノイズのような波長は…?」
 昴は鉄扇を顎に当て、グラフや記録を見比べて言った。
「わかりません。ジョイの霊力値の高さは充分なはずなのですが…」
「ジョイ、もう一度やってみてくれないか」
「いいけど。…行くよ、フジヤマスター!今度こそ動け!」

 ジョイが操縦把を握り、霊力を込める。計器類がぼんやりと光を灯し、テスト中の霊子エンジンが微かに震動する。
 だが、そこまでだ。起動には至らない。フジヤマスターは一歩を踏み出さない。


「これは…!…そうか…」
 霊力の流れを読んでいた昴が、厳しい表情になった。
「新次郎の霊質だけではない。サジータの霊質の影響が強すぎるんだ」
 昴の言葉に、二人ともはっとした。

 ジョイは新次郎の娘であると同時に、サジータの娘でもある。
 二人の霊質をそれぞれ受け継いでいるのだ。

 新次郎専用の霊子水晶は、サジータの霊質には反応しない。そのため、ジョイの霊力の強さにも関わらず、フジヤマスターは起動しない。

「じゃあ…あたしはこのまま、こいつを動かせないってこと?」
 ジョイは落胆しきった顔で、肩を落とした。
「そんな…そんなのってないよ」
 昴も、押し寄せる絶望と戦っていた。
 今度こそ、紐育の街を救えると思ったのに。
 王の遺言もローワンの努力も、すべては、無駄だったのか…。



「……いいえ、ぼくは諦めません」
 項垂れていたローワンが、静かに顔を上げた。
「大叔父は、霊子水晶の再調整は不可能だって言ってたけど、何か方法があるかもしれません。例えば、時間をかけてジョイの霊質に慣らしていけば、いつかは反応を示すかもしれない。或いは、片方の霊質だけを増幅させる回路のようなものを作るとか…」
 そして、ジョイを見て言った。
「ジョイ…、手伝ってくれないか…君の協力が必要なんだ」

「勿論、手伝うよ!いくらでも!」
 ジョイが笑顔を取り戻し、強く頷いた。


 ローワンの言葉にかつてない頼もしさを感じ、昴は感銘を受けていた。
 思えば、新次郎の助けた赤ん坊が、こうして成長し、紐育を救うために新次郎の愛機を復元しようとしている。そう考えると、運命の糾う糸の妙に唸るばかりだった。
「昴も、助力を惜しまない。出来ることがあれば、言ってくれ」
 昴の言葉に、ローワンは変わらぬ穏やかな口調で答えた。
「ありがとうございます、昴殿」





 ジョイは泊まり込みで作業につき合うことも多くなり、次第にハーレムとの往復が煩雑になった。その結果、シアターに居を移し、昴とローワンと寝食をともにするようになった。カルロスとバーバラには、霊力やらフジヤマスターやらの詳細は伏せて、昴の仕事を手伝うとだけ説明した。
 ジョイとローワンが一緒にいる時間が長く、二人の間の信頼関係が急速に深まっていくのを昴は感じた。ジョイはローワンを好きなのだろうと気付いてはいたが、ローワンの方はと言えば、年の差もあってか、常に年長者らしい節度をもって接しているようだった。
 昴は昴で、王を失った傷手もあり、毎日が多忙な日々だった。シアターの階上部のかつてテナントビルだった部分は、今は一部、市政を担う省庁のようになっており、人々が生き延びるための施策に昴は奔走していた。







「ちょっと休憩しようよ、ローワン。疲れたでしょ?」
 ジョイの声に、ローワンは計測記録から眼を上げた。
「ああ…もうこんな時間か。気がつかなくて、ごめん」
「あたしもおなかすいた。今日もきっと、昴がドアの外に何か用意してくれてるよ。…ほら、ビスケットと魚のフライだ。燕麦茶のポットもある」
 食べ物の入った籠を、ジョイがテーブル代わりの木箱に運ぶ。
「ローワンてば、あたしが言わないと、食べる事も眠る事も忘れてるんだから。根を詰め過ぎだよ」
 燕麦茶をカップに注いで手渡しながら、ジョイは続けて尋ねた。
「ねえ、ローワンにとっても、『新次郎』の名前はプレッシャーだったりするの?だからそんなに、フジヤマスターのために一生懸命になるの?」
 ジョイの問いに、ローワンは少し苦笑を浮かべた。
「そういうわけじゃないよ……でも、新次郎殿に助けてもらった命だと思えば、その恩に報いられるような働きをしたいと、思うけどね…」
「それってやっぱりプレッシャーだよ」
「いや…ぼくは、本心から早くフジヤマスターを動かして、壁を破壊し、元通りの自由な街を取り戻したいんだ」
 静かな口調の中に、はっきりと強い意志を込めて、ローワンは言った。


「そっか…ローワンは、壁のない紐育を知ってるんだよね」
 それがどんなに素晴らしいかを聞かされて育ったけれども、ジョイには実感できない世界だった。壁の向こうに広い景色があって、エネルギーも物資もふんだんにある世界。
「…十才頃までの記憶だけどね…忘れないよ」
 言って、ローワンは遠い眼差しを虚空に向けた。
「あの日、ぼくは風邪をひいて学校を休んでいた。母さんはつきっきりで看病してくれていたけど、父さんの忘れ物を届けに、急いでブルックリンの仕事場へ行ったんだ」
 細かな機械を扱うに適した、細く長い指でカップを包み、燕麦茶の茶色い水面にじっと眼を落とす。
「避難勧告が出たのは、そのすぐ後だった…きっと両親は、ぼくの所へ戻ろうと、必死だったと思う。でも、避難する人の波に逆らって、ハリケーンの中を進むことは難しかったんだろう。…大叔父がいてくれなかったら、子供のぼくはきっと一人では生き延びられなかった」
「ローワン…」
 混迷の街で、家族から引き離された少年の心細さと寂しさを思い、ジョイの胸は痛んだ。
「…あれから十八年。生きているなら、もう一度両親に会いたい…そのためにも、ぼくは、フジヤマスターを動かしたいんだ」
 常に黙々と作業に打ち込んで来たローワンが、初めて語った心情だった。それは、ジョイに身の細るような罪悪感を感じさせた。

「ごめん…ローワン…」
「え…何が…?」
 唐突な謝罪に、ローワンが眉を上げてジョイを見る。
「あの時、霊子水晶を持って帰ってたら、今頃とっくに壁は消えてたんだ」
 三年前、エイハブの残骸に霊子水晶を探しに行った顛末は、誰にも言わないよう昴に口止めされていた。だが、ジョイはもう黙っていられなかった。あの日、ローワンのような人々すべての願いと引き換えに、自分は生かされたのだ。その本当の意味をわかっていなかった自分は、なんと子供だったことだろう。


「…だから…あたしのせいなんだ…ごめん」
 すべてを話したジョイは、ローワンに詰られることを覚悟した。小さな頃から、穏やかでやさしいローワンが大好きだった。自分の事は声高に主張せず、それでいて人が困っていると素早く気づいて助けてくれる、そんな聡叡さを尊敬していた。子供扱いしかしてくれないのをもどかしく思い始めたのはいつだったか。フジヤマスターのためとはいえ、一緒にいられることがどれほどうれしかったか…。


 だが、ローワンはやはり声を荒げたりはしなかった。
 ジョイの顔から眼を逸らして、淡々とした口調のまま言った。
「…いや、…もし昴殿が霊子水晶を守る代わりに君を死なせていたら…ぼくは決して昴殿を許さなかっただろう」
「え…」
 ジョイは瞳を見開き、ローワンの横顔を凝視した。
「それって…どういうこと?」
「…なんでもない」
 言って、ローワンはジョイの方を見ないまま立ち上がった。
「作業に戻るよ…君はもう寝るといい」
「ローワン」
 その手を握って、ジョイが引き止めた。
「隠さないで、教えて。あたしたちは、明日死ぬかもしれないんだ。なのに、ローワンはいつも何も言ってくれない。自分のことを話してくれない…。あたし、ローワンのことが、もっと知りたい」
 ローワンは暫しためらい、それからやっとジョイを見た。困惑の中に慈しみを込めて。
「…だから…」
 ローワンの顔は、こころなしか赤いようだった。
「君が…誰よりも大事だってことだよ…」








 ジョイは、そうしてフジヤマスターの起動実験に協力する傍ら、昴とともに降魔討伐に出た。

 近年、特にシアターの周辺に、降魔の出没が増えていた。ローワンが複製したキャメラトロンを携帯し、警察からの通報や妖力探知システムの警報を受けて、昴とジョイは二人で出撃した。
 新次郎とサジータ双方の力を受け継いだジョイの霊力は、昴には及ばずとも充分に強かった。霊力を使って戦う方法を昴が教えたので、ジョイの戦力は格段にアップした。
 身のこなしは、降魔の刃をかいくぐる昴が超人的に早い。だが、ジョイのチェーンは鉄扇よりリーチが長く、霊力を纏うことによって降魔の刃にも断ち切られることはなくなり、大いに戦果を上げた。
 霊子甲冑こそ持たねど、二人は紐育華撃団の隊員だった。


 ジョイは美しい女性に成長していた。
 サジータに似た、豊かでしなやかな体に、艷やかな唇。新次郎の円らな瞳と、くっきりとした眉。

(大きくなったら、きっと美人になる…)

 新次郎の言葉を思い出し、昴は片恋の相手に語りかけた。
(君の言ったとおりになったよ、新次郎…)

 昴にとって、ジョイはやはり「新次郎の娘」に違いなかったが、強く己の意志を持つジョイを、個人として認められるようになっていた。それが、二人の関係を円滑にした。
 そして、新次郎の娘として昴が望んだように、ジョイは戦う力を身につけて、人々を守るために戦っている。
 かつて新次郎とそうしていたように、昴と助け合いながら。
 それは、昴にとって望外の喜びだった。







 しかし、その日のジョイは調子が悪そうだった。

「ジョイ、危ない!」

 上空から襲いかかる降魔の刃に、ジョイの反応が鈍かった。
 あわやというところで、昴の鉄扇が間に合った。

「どうしたんだ、ジョイ。君らしくない」
 塵と化した降魔が風に散る中、昴が尋ねた。

「ごめん…ちょっと体がだるくて。風邪ひいたかな」
 チェーンを握った腕をだらりと下げて、ジョイは物憂げに溜息をついた。

「昴は言った…それは心配だ、と…ローワンに診てもらうといい」
「うん…帰ったらまたフジヤマスターの起動実験につき合うことになってるから、その時に話してみるよ」
「無理はしないでくれ」
 心配そうな昴に向かって、ジョイは懸命な笑顔を作って見せた。
「…大丈夫!そういや最近、実験の方はなんだか進展があるみたいなんだ。霊子水晶の反応に変化が見られるって、ローワンが言ってた」
「それは…朗報だな」
 昴にも笑顔が浮かぶ。
「後で昴も顔を出すから、ローワンに伝えておいてくれ」
「わかった!」





「お帰り、ジョイ。無事でよかった」
 出撃から戻ると、ローワンはいつも心からの安堵を見せて迎えてくれる。そしてそっとジョイを抱きしめ、慎ましやかなキスをした。
「少し熱があるみたいだ…」
「あ、わかる…?なんだか風邪気味で…だるいし、口の中も変なんだ」
 具合の悪そうなジョイの様子に、ローワンの顔が曇る。
「それはいけない。今日は実験はやめておこう」
「ううん、やるよ。霊子水晶に気になる反応があるんでしょ?早く確かめようよ」
 気丈に笑って、ジョイが操縦席に乗り込んだので、ローワンも折れた。
「じゃあ、一回だけ…早めに切り上げよう」
「そうこなくちゃ。行くよ…!」
 この頃、フジヤマスターはほぼ修復作業を終えて、あとは霊子水晶の問題さえ解決出来ればというところまで来ていた。そこへ、霊子水晶の反応に変化が生じていたので、二人が熱心になるのも当然だった。


 ジョイの霊力に反応する計器の針の振れを、ローワンは注視した。
「やっぱりおかしい…この反応は…」
「どうなってるの?あたしの体調が悪いから、霊力も変になってるの?」
「いや、そうじゃない…君の霊力に変化はないのに…こんな事はありえない」
 記録を取るローワンの手がふと止まり、硬直した。そして、じわじわとジョイを振り向いた。
「ジョイ…君…もしかして…」






「昴殿、お話があります…」
 昴が地下格納庫に行くと、ドアの前に、深刻な顔のローワンがジョイとともに立っていた。
「改まって、どうしたんだい?」
「その…何からご報告したものか…」
 ローワンは傍目にもあからさまな困惑を浮かべて、記録紙の束を落ち着きなくめくった。
「フジヤマスターの起動実験で、ジョイとは別の霊力の波長が見られたのです」
「何…?」
「それで…その波長は、ジョイよりも、フジヤマスターの霊子水晶とのシンクロ率が高くて…その…」
 しどろもどろなローワンに、昴は訝しげに問うた。
「昴は言った…どういうことだ、と」


「あたし妊娠した」
 ぱん、と目の前で風船でも割ったかのように、ジョイが唐突に放った言葉は、存分に昴を面食らわせた。

「な…んだと…?」

「あたしのお腹の中の子供が、あたしよりもうまくフジヤマスターを動かせるかもしれないってことさ」
「霊力値は極めて微弱ですが、恐らく妊娠三か月ほどの胎児であれば当然として…ジョイの霊力を受け継いだバランス的に、より新次郎殿の霊質を強く…」
「霊力の話じゃないだろう!」

 叫んで、昴が遮った。
 自ずと、弾んだ呼吸で肩が上下した。

「ローワン…」
 弱り切っている青年を、ぎらりと睨みつける。昴にしてみれば、十八才の愛娘に妊娠したと告げられた親の気分そのものだった。
「昴は言った…君はもう少し分別があると思っていた、と。信頼していた昴が愚かだった」
「すみません…」
「いくつ年が違うか、わかっているのか」
「年の違いがなんだよ!あんたが年齢の話をするなんて、どうかしちまったんじゃないの?」


 ジョイに言われて、昴は我に返った。
 九条昴ともあろうものが。凡庸な動揺を示し、愚かな言葉を口走ってしまった。
 だが、どうして平静でいられるだろう?
 大切な大切な、新次郎の娘が…。


 立ち尽くすばかりの昴を、ジョイは真剣なまなざしで見つめて言った。
「あたしたちは、あんたに叱られるために話してるんじゃない。祝福してほしいから、すぐに伝えたんだ」
「昴殿…どうか、わかってください。ぼくは、心からジョイを愛しています」
 そう言うローワンは、しっかりとジョイの手を握っていた。




 昴の驚愕と怒りが、急速に冷えていった。
 冷静さを取り戻してみれば、これは紛う方なき慶事だった。

 新次郎の娘が、愛した相手と結ばれるのに、何の異論があるだろう。
 年齢も性別も関係なく、新次郎は昴を愛してくれた。それを思えば、たかだか十才ほどの年齢差がどうだというのだ。

 そして、新次郎の孫まで、その命が宿っているという。
 さらには、その孫こそが、ついには紐育を救うかもしれないのだ。

 誰よりも幸せになってほしいと願った、新次郎の娘。
 今、ジョイは、確かな幸福に輝いている。
 愛を知り、人生を共に歩む伴侶と結ばれ、新しい命を生み出そうとしている…。


 昴は息をつき、しみじみと呟いた。
「あの時、新次郎は、娘の未来の夫の命を、助けていたんだな…」

 緊張していた二人の顔が、ぱっと晴れた。
「昴…」
「昴殿…」


 互いに結び合った二人の手に、昴はそっと自分の手を重ねた。
「ジョイ…君は何よりも、体を労ってくれ。そして、ローワン、昴の大切なジョイを、頼んだよ…」
 昴の承認を得て、日頃大人しい青年は、珍しく昴に言葉を返した。
「大丈夫です。ジョイを大切に思う気持ちは、昴殿に負けませんから」







 安定期に入ればまた戦えるというジョイの主張を、昴は断固として退けた。
「君が今一番やらなければならないのは、降魔と戦うことではない。体を大事にして、元気な赤ん坊を産むことだ」
 同じ意見を、ローワンも常にない強さで主張したので、ジョイも従うしかなかった。

 ジョイは表面には出さなかったが、初めての妊娠で不安がないわけがないだろう。そんなジョイにとって、経験者であるバーバラが頼りになった。こればかりは、如何に天才の頭脳を持っていようとも、昴には出る幕がない。バーバラの助言のもとに、ジョイはつわりや体調の変化を乗り切った。カルロスも、サジータの姐御の孫が生まれる、と感慨深げに祝福し、遅まきながらささやかな席を設けて、二人の結婚を祝ってくれた。


 ジョイの生まれた病院は、医師や薬の不足で今は廃業していたが、五十二丁目にある小さな産院が、この地域の出産を助けていた。
 年配の助産婦が一人で切り盛りする産院は、一階に診察室と産室があり、二階は出産を終えた母子の入院する部屋になっている。腕がいいと評判の助産婦は、この困難な状況の中でも何人もの赤ん坊を取り上げてきた実績があり、ジョイを診察して母子ともに順調な経過であることを請け合った。


 細くくびれていたジョイの腹部が日ごとに膨らみ、まだ子供だと思っていた少女が次第に母の顔になっていくのを、昴は不思議な思いで見守っていた。
 ローワンは常にジョイを労り、甲斐甲斐しく働いた。赤ん坊の誕生を待ち侘びる、二人は幸福な夫婦だった。ローワンは、いつかジョイと子供を連れて、両親に再会できる日を夢見ていた。生まれてくる我が子は、やがて成長し、壁を壊して、自由な世界で生きる。そして、家族とともに安全で豊かな環境で暮らし、夢と希望を持って成長していくのだと。








 ジョイの陣痛が始まったのは、予定日よりも二週間早い日の午後だった。
 昴は予定をすべてキャンセルし、ローワンと一緒に産院に付き添った。

「初産だ…時間がかかるだろう。君も落ち着けよ、ローワン」
 気遣わしげに手を握り込むローワンに、昴が声をかける。
「そう言う昴殿も鉄扇の上下が逆さまですよ」
 顎に当てた鉄扇を見て、昴は少し顔を赤らめた。
「昴は言った…参ったな、と…まるで孫が生まれる祖父母のような気分だ」
 美しい子供のような顔のまま、年寄りじみたことを言う昴に、ジョイが思わず吹きだした。
「もう…二人ともそんな調子じゃ、こっちは緊張もできないよ……あいたたた!」
 次第に間隔が狭まってきた陣痛に、ジョイが声をあげたところで、昴の上着のポケットのキャメラトロンが鳴った。

「ウェストビレッジに降魔が出現しました!」
 連絡要員の声に、昴は舌打ちをした。
「こんな時に…!」
 苛立ちを隠せない昴に、ジョイとローワンが言った。
「こっちはいいから、早く行って、昴」
「昴殿、お気をつけて…何かあれば連絡します」
「わかった…ジョイ、頑張ってくれ」
 昴は素早く立って、 助産婦にも頭を下げた。
「どうか、よろしくお願いします」
 そして、産院を飛び出していった。





 救急車両のサイレンが、窓の向こうを駆け抜けて行くのが聞こえて、ジョイが悔しげに呻いた。
「被害は、どのくらいなんだろう…あたしも出撃できたら…!」
「きっと今頃、昴殿が退治しているよ。君は心配しないで」
 ローワンがしっかりと手を握った。
「くっ…!」
 陣痛に顔を歪めるジョイの背中をさすってやろうとして、ローワンはジョイの腰のあたりが濡れているのに気付く。
「すみません!妻が!」
 うろたえるローワンの声に呼ばれた助産婦は、慣れた冷静さで答えた。
「破水したのね。お父さんは外で待ってて」


 廊下に追い出されたローワンは、世の他の父親たちがそうしたように、ただ落ち着かない様子で立ったり座ったりうろうろしたりしていた。ドアの向こうからはジョイの苦しそうな声と、励ます助産婦の言葉が聞こえる。
 もうすぐ我が子が生まれるのだ。紐育の街を救う子供が。男の子だろうか、女の子だろうか。どちらでもいい、元気に生まれてきてくれさえすれば…。

 そうして手を組んで祈り続けるローワンの耳に、唐突に外の騒音が入って来た。


 悲鳴、怒号、震動。
 何かが壊れる音。
 ただならぬ危機と混乱の気配。


「まさか…」
 顔色を変えて立ち上がったローワンの前で、バタン!と玄関ドアが開いた。

「降魔が出た!早く逃げろ!」
 逃げる途中の男が叫んで、脱兎のごとく走って行く。



 一瞬、ローワンの頭が真っ白になった。
 開いたままのドアの向こう、通りの先に、建物を壊す降魔の巨体が見える。鋭い羽の刃が、煉瓦の壁をパンでも切るようにすっぱりと断ち切り、逃げ惑う住人の背後に襲いかかる。

 先ほど昴が出動したのとは別の降魔が、こんなに間近に現れたのだ。



「た、大変だ!」
 恐怖で真っ青になって、ローワンは産室のドアを破った。
「降魔が来る!逃げないと!」

 しかし、産室の中はすっかり臨戦状態になっていた。
 医療用の器具を並べたトレーを傍らに、助産婦がジョイの脚の間に陣取っている。ジョイは長い髪を蜘蛛の巣のように顔に貼りつかせ、ベッドの手すりを掴み、強いいきみで体を硬直させていた。
「今動くのは無理だわ!」
 マスクの内側から、助産婦が緊張した声で言った。
「でも、このままじゃ殺される!」
 ローワンは、携帯していたリボルバーを抜こうとして、緊張のあまり取り落としてしまった。慌てて拾い上げるが、やはり手がふるえてしまう。
「昴に…昴に知らせなきゃ…!」
 荒い息の合間に、ジョイが枕元のキャメラトロンに汗まみれの手を伸ばした。






 昴は、産院を出た後、シアターから寄越した緊急車両でウェストビレッジに駆けつけ、難なく降魔を倒していた。一体だけなら昴の敵ではない。それでも、壊れた建物や命を落とした人々の前には、いつも無力感を禁じ得なかった。
 だが、今日は希望の誕生する日なのだ。もうすぐ新次郎の孫が生まれる。そして、いつかきっとこの街を救う。
 その日を思い描いて、昴は自分を支えた。

 事後処理を警察に頼んで、産院に戻ろうとした時だった。昴のキャメラトロンが鳴った。
「生まれたのか…?」
 胸を弾ませて受信したそれは、ジョイではなくまたもや連絡要員の声だった。
「また降魔です!西五十二丁目、十番街!」

 その住所が、昴の顔から血の気を奪った。
「ジョイのいる産院が…!」

 再びキャメラトロンが鳴る。今度こそジョイだった。
「昴、助けて…!降魔が…!」
 悲鳴とともに、通信が途絶えた。

 沈黙したキャメラトロンを握りしめ、昴は半狂乱に叫んだ。
「ジョイ…!」







 がらがらと天井が崩れてきた。
 ローワンと助産婦は、動けないジョイの体の上に、同時に多い被さって守った。

 固い塊が、ごつごつと肩や背中に当たり、痛みでローワンの意識が飛びかける。


 どうにか顔を上げると、粉塵の中に、降魔のシルエットが浮かんでいた。

 凶鳥のような禍々しい巨体に、鋭く尖った羽。迫る夕闇の中、冷血な眼が怪しく光っている。
「うわあっ…!」
 ローワンは咄嗟にリボルバーを向けて撃った。
 しかし、動転したローワンの腕では、急所にかすりもしない。すべての弾丸は、固い鱗に弾かれて終わった。
「逃げて!ローワン…!」
 ジョイはチェーンを握っていたが、そこへまた容赦ない陣痛の波が襲いかかった。
「ぐうっ…!」
 腰をねじ切られるような痛みに、ただ歯を食いしばることしかできない。
 助産婦は、瓦礫を背中に乗せたまま、ぐったりしている。




 それは、時間にすればほんの数秒にも満たない間だった。
 すうっと、ローワンの体から、恐怖と狼狽が消え去った。

 今ジョイと子供を守れるのは、自分しかいないのだ。
 どうすれば、非力な己の力で降魔を倒せるか。
 ジョイのチェーンは自分には扱えない。銃弾も尽きた。
 ただ、この手の力だけで、降魔を倒さなくては。



 ローワンの声は落ち着いていた。

「新次郎殿にもらった命、今、返します」

 呟いて、瓦礫だらけの床を蹴った。



 降魔の懐に飛び込む前に、羽の先がローワンを貫いた。

 避けられるとは思っていなかった。己の胸から斜めに生える尖った刃を見ながら、しかしローワンは動きを止めなかった。

 心臓の最後の鼓動の一拍で、右手に握りしめた医療用鋏を、降魔の急所に突き立てた。




 ジョイが、自分を呼ぶ声を微かに聞いていた。
 よかった。ジョイは無事だ。
 閉じた瞼の裏に浮かんだジョイは、腕に赤ん坊を抱いていた。ジョイによく似た、大きな瞳の男の子。
 会いたかった。ぼくの息子。ローワンはもう動かない腕を精一杯伸ばして、赤ん坊を抱きしめていた。
 君はきっと、自由な街を取り戻して、青い空の下で生きるんだ…。









 緊急車両を飛ばして昴が駆けつけた時、あたりはすっかり暗くなっていた。
 建物が崩れ、人々が避難して灯りの消えた街角に、弱い光が一つだけ灯っている。


 半壊した産院から、ジョイの泣き叫ぶ声が聞こえた。
「ジョイ…!無事なのか…!」
 車を降りて、昴は瓦礫の中を走った。


 壁を残して天井を失った部屋に、むっとする血と汗と体液の匂いが立ちこめている。
 床に転がった電灯が照らす中、粉塵にまみれたベッドの上で、ジョイは汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「ローワン…!ローワン…!いやだああっ…!」
 息絶えたローワンの亡骸が、その前に俯せて横たわっていた。
 背中を貫いた刃は、最早塵となって消えている。

 その手に握った鋏を見て、昴は思わず瞑目した。
「もう少し、昴が早く来られたら…」



「お願い、助けて…大変なの…」
 声に顔を上げると、助産婦が壁に寄りかかるようにして座り込んでいた。
「逆子よ…先週診た時は正常だったのに…」
「何だと…?」
 助産婦の言葉に、昴は色を失った。
 見れば、ジョイは陣痛と悲しみで息も絶え絶えに、土気色の顔色でぐったりしている。
「大丈夫なのか…!どうすればいい」
「ひっくり返したいんだけど、動けないのよ…」
 頭や肩から血を流している助産婦は、どこか骨折しているのだろう。呼吸するのも苦しそうだった。
「昴がやる。指示を出してくれ」
 昴は上着を脱ぎ捨て、腕をまくった。割れ残っていた薬瓶から消毒液を拾い、両手を洗う。
 だが、ジョイは力なく首を振った。
「いやだ…!もういや…!あたしもローワンのところへ行く…!」
 涙で濡れたジョイの頬を、昴は思い切り叩いた。



「君がこれから生むのは、君とローワンの子供だ!」
 新次郎の孫とは言わなかった。強い声で、昴は続けた。
「君が今諦めたら、ローワンの命は無駄になる!生まれてくる子供の中に、ローワンは、生きているんだ!」
 すべて、昴が新次郎を思った言葉だった。今まで己を支えてきた言葉を、昴はジョイに紡いだ。
「いいか、ジョイ。君が子供にローワンのことを語り継ぐんだ。彼が、どんな人だったか。何を愛し、何のために死んでいったのか。…それが、ローワンの命だ。君の語る言葉の中に、ローワンは生きる。君の子供とともに、ローワンは生き続ける!」
 ジョイは昴を見上げ、嗚咽を堪えた。
「ローワン…」
「頑張るんだ、ジョイ。君が、ローワンの命を繋ぐんだ!」
 止めどなく涙を流しながら、浅い息の中で、ジョイが微かに頷いた。


 逃れようのないいきみが、ジョイを襲う。膣口からは、赤ん坊の足先がのぞいていた。
「お腹の上から、頭を押さえて、下から手を入れて、赤ちゃんを、ひっくり…返すの…やって頂戴…」
 助産婦の途切れ途切れの声に、昴はジョイの腹に左手を当てた。赤ん坊の頭の位置を確かめる。
 己の手が、子供のような小さな手でよかったと思った。いくらかは、ジョイの苦痛が少ないかもしれない。

「痛むぞ…ジョイ、歯を食いしばれ…!」

 星の見えない夜空に、ジョイの絶叫が響いた。








 すべてが終わったのは、明け方だった。

 ジョイとローワンの子供にして、新次郎の孫が、暁に産声を上げた。

 男の子だった。

 最後まで昴に適切な指示を出した助産婦は、今は昴の手当を受けて眠っている。
 ローワンの亡骸は、手を組んでシーツをかけてあった。夜が明けたら、王の墓の隣りに埋葬することになるだろう。

(昴は言った…ジョイを守ってくれて、ありがとう、と…)
 亡骸に向かって、昴は黙祷した。

 あの日、子供を持って生きる新次郎の人生の可能性を最初に昴につきつけたのは、他ならぬ赤ん坊のローワンだった。
 その事が、もしかして、無意識のうちに心の片隅にささくれとなっていなかったか。
 昴は自問した。

 今まで自覚したことはなく、ローワンには普通に接しているつもりだった。だが、いつかボートの上で理不尽に厳しく当たってしまったりしたのは、そんな自分の狭量さゆえではなかったか。
 だから、それを鋭敏に感じ取ったローワンは、昴の傍ら、常に大人しく控えめに生きるようになったのでは…。

(すまなかった…ローワン…君は何も悪くなかったのに…)
 昴の眦から、涙が流れ落ちた。


(ローワン…君は、間違いなく、勇敢な男だった…!)






 生まれたばかりの赤ん坊をその胸に抱き、ジョイは掠れた声で独り言のように言った。

「昔は、あんたの言う『幸せになる義務』って言葉が気にくわなかったけど……誰かの命を受け継いで、愛や思いを込められて生まれてきた命には、幸せになる義務があるんじゃないかって思うよ…」
 涙の乾いたジョイの顔は、一人の母親のものだった。
「この子は、幸せにならなきゃいけない」

 そして、傍らの昴に、挑むような眼を向けた。
「この子は、ローワンとあたしの息子だ」
 昴は反論せずに、静かに頷いた。

「…でも、取り上げてくれたお礼に…名前は、あんたがつけてくれないか…。あんたが、新次郎の孫として、つけたい名があるなら、そのくらいは譲る」


 それは、昴に対して、ジョイのこれ以上ない申し出だった。
 しわくちゃな顔で、ジョイの乳房の間に眠る赤ん坊を、昴は新次郎への片思いを込めて見つめた。


「北斗…」


「…ホク…ト…?」

 生まれたばかりの、かけがえのない小さな命に、昴はその名を贈った。



「北斗…ポーラースターを指し示す星の名だ…」









《続く》 




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