君の明日を  (1)






 愛しいライアン。
 プロポーズの返事をする前に、どうしても話しておかなくてはならないことがあって、この手紙を書きます。
 あなたにこの話をするべきかどうか、とても悩みました。これから私が書くのは、突拍子もない話だと思います。信じてはもらえないかもしれないし、話すことによって、あなたの愛を失うかもしれないと恐れもします。
 でも、もし私たちが結婚したら、私たちは家族になります。ならば私は、私の家族についてあなたにも知っておいてほしいのです。
 私の家族とは、養父母のことです。私が孤児だったことはご存じですね。養父母が私を育ててくれたこと、今は二人で静かに暮らしていることも。
 ですが、養父母については、まだお話ししていないことがあるのです。


 二人の名は、新次郎と昴です。赤ん坊だった私が彼らに拾われたのは、今から二十年前のモロッコでした。




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「次はどこへ行きましょうか」
 そう言ってワシントンを出た新次郎と昴は、そのまま北上して、手近なカナダに向かった。
 バンクーバー郊外の小さなロッジで、山河森林に埋もれてひっそりと暮らしながら、やがて人恋しくなった頃、丁度欧州の状況も落ち着きを見せ始めた。
 二人はまずドイツでレニと念願の再会を果たし、結果、そのまましばらくそこに滞在することとなった。賢人機関のドイツ支部長となって、荒廃した祖国を建て直すために働いていたレニを、昴は参謀兼相談役という立場で影ながら支えた。
 頃合いを見てドイツを出ると、南下してシチリアに渡り、混在する異文化の街の有り様を楽しみながら、のんびりと三年を過ごす。そのまま地中海をぶらりと周遊し、船上で知古の人物に出くわして慌てたりしつつ、独立を果たしたばかりのモロッコへと降り立った。


 「白き家」ことカサブランカは、モロッコ最大の街であり経済の中心地だった。チュニックとベールが行き交い、埃っぽい道を行く旧式の蒸気トラックのクラクションに紛れて、荷駄の背負う籠から鶏が鳴いている。物売りの賑やかな声とともに、モスクからはコーランの詠唱が音楽のように流れていた。
 市街の中心地から少し離れた静かな通りに、二人は居を構え暮らしていた。白い土壁に青いタイルの、パティオつきの小さな家だ。



 新次郎は四十六才になっていた。
 白髪もほとんど目立たず、年齢のとおりに見られることはなかったものの、昴の父親に見られるには丁度よい外見だった。最初はぎこちなかった親子の振りも……ぎこちないのは主に新次郎の方だったが……二人だけでいられるドアの内側と外側とで、今は呼吸するように使い分けられるようになっていた。
 しかしここモロッコはイスラムの国。昴は諸々の面倒を避けて男の子で通すことにしたので、新次郎は今度は、「娘」ではなく「息子」と紹介するのに慣れなければならなかった。

 下町の片隅で、新次郎はフランス語の教室を開いていた。フランス領だったモロッコでは、公用語のアラビア語に加えてフランス語も広く使われている。しかしこの国では義務教育制度もなく、識字率が低かった。そこで、新次郎は貧しい子供たちを集め、実用的なフランス語を教えるのに三年間を使うつもりだった。
 日中は家の用事や仕事をしている子供が多いため、新次郎の教室は夕方から始まる。給食代わりにふるまうパンを目当てにやってくる子供もいたが、新次郎は歓迎した。新次郎のアラビア語のほうはまだ拙かったが、そのための助手も雇ったし、授業を続けていくうちに自ずと上達した。
 当初は、路地裏で「中国人!」とからかわれたりしたこともあったが、真摯に無報酬で語学を教えてくれる東洋人に、下町の人々は次第に親密さを増していった。
 今では、パンを焼く窯屋も、新次郎が持ってくるパン生地を、無料に笑顔をつけて焼いてくれる。果物を売る屋台は余分なおまけを乗せ、カフェの店主は甘いミントティーを気安くふるまってくれた。



 授業を終え、子供たちを帰し、明日の準備諸々をすべて整えた新次郎が、教室の戸締まりをして向かったのは、港の近くの酒場だった。
 「カフェ・エトワール」という名のその店はネオンサインもなく目立たないが、ヨーロッパ風の上品な作りで、中から軽やかなピアノの音が漏れてくる。
 椰子の鉢の緑が囲うフレンチドアを開けると、若いバーテンダーがグラスを磨きながら、店の奥に声をかけた。
「プチ・ティーグル(リトル・タイガー)、パパがお迎えに見えましたよ」

 すると、ステージでピアノを弾いていた少年が、顔をあげて新次郎に微笑んだ。
「じゃあ、パパ・ティーグルに、この曲を。この街と同じ名の名画にちなんで、『時の過ぎゆくままに』…」
 モロッコの民族衣装・フードつきのジュラバをゆったりと着こなし、ビーズのついたアラビア風のスリッパでペダルを踏むピアニストは昴だ。
 曲調がしなやかに変わり、昴の歌声が甘く気だるく店内に流れる。うっとりと聞き惚れる客の間を縫って、新次郎は定席となっている隅のテーブルに座った。いつもの、と指を上げると、ハチミツ入りのホットミルクが運ばれて来る。
 やがて拍手とともに演奏が終わり、鮮やかに一礼した昴は、新次郎のテーブルまでやってきて座った。
「お疲れ様、新次郎」
「昴さんも」
 二人だけで交わす言葉は日本語だ。呼称を聞きとめて不審に思う者もない。
「今日もお客さんがいっぱいいますね」
「ああ…そういえばさっき、アメリカから来たビジネスマンの客がね、昔ブロードウェイにいた役者に似てる、って言ってきたよ」
 ぎょっとしてホットミルクを噎せそうになった新次郎に、昴はぽんと背中を叩いて笑った。
「それは光栄だ、と言って終わりさ。心配ないよ」
 タッカーの件以来、ずっと家に籠もり気味だった昴が、ここまで大胆になれた理由。それはアメリカから遠く離れていること、そしてもう二十六年の歳月が流れているので、仮にリトルリップシアターの九条昴を知っている者に出くわしたとしても、目の前の少年と同一人物とは思わないだろうと判断したからだった。
 その読みが間違っていなかったようで、新次郎はほっとした。
「なあ、あんたの店はいい店だが、ピアニストが引き上げるのが早すぎる。もっとゆっくり聞かせてくれ」
 自称プチ・ティーグルの一番のファンというフランス人の商店主が、新次郎に話しかけてくる。実際に店を経営しているのは昴だったが、オーナーは新次郎ということになっていた。
「すみません、息子にあまり夜更かしさせたくないんです」
 新次郎が笑顔で答えると、男は残念そうに首を振り、昴に頼み込んだ。
「じゃあパパに一杯奢るから、もう一曲だけ頼むよ」
「そのくらいならいいよ。何にする?」
「シャンソンの『夜は恋人』を」
「これはまたドラマチックだね…」
 苦笑して立ち上がった昴は、再びピアノの前に座って、哀愁を帯びたメロディを奏で始める。
 小さいながらもスポットライトを浴びて歌う昴の姿を、新次郎はグラスを掲げて幸福そうに眺めていた。



「店じまいを頼んだよ」
「はい、また明日。おやすみなさい、パパ&プチ・ティーグル」
 バーテンダーに挨拶をして店を出ると、二人は徒歩で帰途についた。
 港から市中に向かうハッサン二世通りは、夜が更けてもまだ賑わっていたが、一本裏道に入るとひっそりと静まりかえる。石壁に挟まれた細い道を昴とともに歩きながら、新次郎は機嫌が良かった。
「ああ、昴さんはやっぱり、エトワール…スターですよね」
「どうした、新次郎、酔ったのか?彼は何を奢ったんだ」
「甘いのがいいです、って言ったら、コアントローを」
「あれは甘くても立派な酒だ。飲み過ぎには注意しろよ」
 ほろ酔いの新次郎は心地よさそうに空を仰いで指さした。
「昴さん、あの星はなんて星ですか」
「とも座のナオスだ」
「じゃあその上の星は?」
「トゥレイス」
「じゃあその右は?」
「アスミディスケ。ギリシャ語で盾の意だよ」
「綺麗な星ですねえ」
「ほら、新次郎…上ばかり見ていると転ぶぞ」
 鼻歌交じりの新次郎の腕を、昴はさりげなく取った。
 連れ添って流れた歳月でこなれたものはあっても、ふれ合うささやかな瞬間は、今もなおいとおしいひとときだった。




 そうして二人が家の前の路地にさしかかった頃だった。
「猫の声がしませんか」
 ふと、新次郎が耳に手をやってそばだてた。
「…いや、この声は猫じゃない」
 昴が答えると同時に、二人は走り出した。
 青いタイルのアーチの下に、布の塊が置いてあった。小さな手が突き出してもぞもぞと動いている。
「赤ん坊です!」
 おっかなびっくり手を延ばし、新次郎が抱き上げる。
 麻布にくるまれていたのは、濃い肌の色に黒い巻き毛の、モロッコ人の赤ん坊だった。泣き疲れたのか、その声は弱々しい。
「捨て子か…」
 昴が哀れむように呟いた。
「よしよし…もう大丈夫だよ…」
 新次郎がやさしい声音でいくらあやしてみても、赤ん坊は泣きやまない。
「どこか具合が悪いんでしょうか」
「空腹なんだろう」
「どうしましょう、赤ん坊用のミルクなんてないですよ」
 新次郎の腕の中の赤ん坊を、昴がしげしげと観察する。
「首は据わっているな…生後五〜六ヶ月といったところか。ならば、果汁も飲めるはずだ」
「今日スーク(市場)で買ったオレンジがいっぱいあります!」
 新次郎は瞳をきらきらさせた。
「もう遅いですから、警察に届けるのは明日にしましょう。まずはこの子に何かあげないと」
「しかし、何だって僕たちの家の前に…?」
 張り切る新次郎の傍ら、昴が首を傾げた。




「わひゃあっ、この子、女の子です」
「そうかい」
 赤ん坊を包んだ布を解いて、新次郎が声をあげる。一方、昴はてきぱきと湯を沸かし清潔なタオルを用意した。
「ええと、昴さん、おむつの仕方ってわかりますか…?」
 心許なげな新次郎の声に、昴が素っ気なく答える。
「もういい、代われ。君はオレンジでも搾っていろ」
 腕まくりをした昴は、汚れていた赤ん坊の尻を手早くぬるま湯で洗った。それからやわらかなタオルをおむつ代わりに縦に当て、厚手の布を三角に折って尻を包み、安全ピンで止める。
「流石昴さん、おむつの当て方も知ってるなんてすごいですね」
「昴は言った…知らなくても、考えればわかるだろう、と…。オレンジは搾れたのかい」
「はいっ、とりあえず一つ分ですけど」
「飲ませてみよう」
 新次郎は膝に赤ん坊を抱き、小さじで根気よく口元に運び続けた。零れた汁を、昴が手早くタオルで拭く。器の中の果汁をすべて飲み終えると、赤ん坊はようやく人心地ついたらしく、にこにこと微笑んだ。
「わひゃあ、この子、笑うとすごく可愛いですよ!それに、なんて綺麗な眼をしてるんでしょう…」
 新次郎が頬をつつくと、手足をばたばた動かして、きゃっきゃっと声をあげる。
「…あまり、情を移すなよ、新次郎」
 魅入られたように赤ん坊を見つめる新次郎に、警戒気味に昴が釘を刺した。
「この子、どこに寝かせましょうか」
「どの程度運動能力が発達しているかによるな…ちょっとそこへ寝かせてごらん」
 昴の指示でベッドに仰向けに置くと、赤ん坊はうーんと腰を捻って、ころりんと寝返りをうった。ぐらぐらする頭を揺らし、短い手足を突っ張ってシーツを叩いたり、手をしゃぶったりしている。
「わひゃあ…可愛い…なんて可愛いんでしょう!」
「はいはいはまだ出来ないようだが、ころがってベッドから落下したら危険だ」
「でも床の上も危ないです。物が落ちてきたり…一人で動いていってしまったら…」
「わかった、こうしよう」
 昴は毛布を抱えてバスルームへ行き、空のバスタブに敷き詰めた。
「ここなら、落下も移動も心配ない。ベビーサークルの代わりだ」
「なるほど!じゃあ、ぼく、ここで一緒に寝ます。この子が一人じゃかわいそうですし」
 いそいそと自分の枕や毛布をバスルームに運び込む新次郎に、昴は溜息をついてみせた。
「やれやれ…悪いが昴はそこまでつき合わないよ。じゃあタオルを用意しておくから、おむつは君が換えてくれ」
「はいっ、わかりました…昴さんはまだ寝ないんですか?」
 キッチンで小鍋を出す昴に、新次郎が尋ねる。
「赤ん坊の朝食用に、おもゆを作っておくんだ」
「ありがとうございます!昴さん」
「…君に礼を言われる筋合いはないよ」
 答えながら、昴は胸の中でもやもやとざわめくものを抑えていた。




 翌朝、二人が赤ん坊を抱いて警察署に行くと、応対した年配の警官は、また捨て子か、と言って、慣れた様子で書類を用意した。
「捨て子って多いんですか?」
「珍しくはないね。昨日も、まだへその緒のついた赤ん坊がアラブ連盟公園のベンチに捨てられてるのが見つかったばかりだよ」
 気のない調子で答えられた痛ましい内容に、新次郎は眉を寄せた。
 発見場所や時間などを淡々と記入している警官に、新次郎は再び問うた。
「あの、この子はこれからどうなるんでしょう」
「孤児院へ送られて、引き取り手が見つかればもらわれていくよ」
 新次郎は腕の中の赤ん坊をじっと見つめた。
「でも、この子をここまで育てた親がどこかにいるはずです。貧しさなどが理由でやむを得ず捨てたのなら、その親を捜し出して、親子がともに暮らせるように助けてあげるべきなんじゃないでしょうか」
 真剣な口調で新次郎が言っても、警官は鬱陶しげに肩をすくめただけだった。
「じゃあ、ぼくたちがこの子の親を捜します。だから、見つかるまでこの子を預からせてくれませんか」
「新次郎」
 昴がぱっと制止の声をあげた。
「昴さんもそう思いませんか。この子の親を捜すのを手伝ってください」
 新次郎の顔には熱意と決意がみなぎっている。
 むつかしい顔で新次郎を睨んでいた昴は、やがて短く息をついた。
「それで君の気が済むのなら……。ただし、見つからなかったら大人しく孤児院に預けるんだぞ」
「ありがとうございます!」






 二人はそのままハッブース街まで出かけ、哺乳瓶に粉ミルク、おむつ用の布などを買いそろえた。
「そうだ、お湯を入れておく魔法瓶も欲しいです。揺りかごとか、おんぶ紐とかないかなあ……あれ、昴さん、どこへ行くんですか?」
「買い物は任せた。昴は用がある」 
「用って何です?」
「その子の親を捜すんだろう?他に何があるって言うんだ」
 そう言って、昴はそのまま雑踏にの中を下町へ向かった。

 町医者や行商人などに自ら聞き込みをする他にも、昴は下町に詳しい人を雇って調べさせた。
 一方、新次郎は赤ん坊を背負って授業をした。途中ミルクだのおむつだので中断したが、もとより無償の教室で文句のある子供もない。生徒たちは喜んで赤ん坊をかまい合った。
 そして赤ん坊の素性は、意外に身近なところから知れた。生徒の一人が、赤ん坊の顔に見覚えがあると言い出したのだ。

 店を抜けてきた昴と供に、生徒に案内されて訪れたのは、壁の所々に入り口のある長屋のような家の空き部屋だった。
 そこでわかったのは、赤ん坊の両親が相次いで病で亡くなり、一人残され泣く赤ん坊に困った家主が、新次郎の篤行を噂に聞いて、家の前まで捨てに来たということだった。
 家主を問い詰めてみても、両親の身よりはおろか、赤ん坊の名前すらわからなかった。



「でも、よかったです」
 赤ん坊を抱いて路地を歩きながら、新次郎は言った。
「この子が、親に疎まれて捨てられたんじゃなくて、ちゃんと親に愛されてたことがわかって…。こんな可愛い子を置いて亡くなった親は、どれほど無念だったでしょうね」
 赤ん坊は、己の身の悲運を知ることもなく、すやすやと穏やかに寝入っている。
「気が済んだか」
 昴の声に答えず、新次郎は一人何やらぶつぶつと唱えていた。
「大河………星………うーん……?」



「買ったものはいっしょに運んで寄付してしまおう。そのほうがいいだろう?」
 家に着くと、昴は赤ん坊用のものをまとめ始めた。
「待って下さい」
 さっと新次郎が止めた。
「昴さん、あの星の名前、なんて言いましたっけ。綺麗なギリシャ語の…」
「何のことだ?」
「ええと……アス…そう、アスミディスケ!…この子の名前、アスミはどうでしょう。明日は美しい、って書いて、明日美。大河明日美です」
「新次郎…まさか、…」
 恐れるように後ずさる昴に、まるい瞳を真っ直ぐに向けて、新次郎は言った。
「この子を、ぼくたちで育てましょう」

「約束が違うぞ。孤児院に預けると言っただろう」
「預けて、引き取りに行く手間を省くだけです」
「君は、いつからそんなこざかしい男になったんだ…!」
 昴は、かっと眼を見開いて、低く叫んだ。
「君は感傷に酔っているだけで、そんなものはただの偽善だ。ならば昨日捨てられていたという別の赤ん坊は?孤児院の他の子供たちは?君がそんなに博愛精神に満ちた立派な人物なら、世界中の身寄りのない子供を救ってやれ…!」
「昴さん…お願いです。意地悪を言わないでください」
 新次郎は温厚な態度を崩さずに言った。
「ぼく一人の力はささやかです。今も、たくさんのものを昴さんに負っています。でも、今こうしてぼくの腕の中で眠っているこの子を、どうして孤児院にやらなきゃいけないんでしょうか。ぼくはこの子が大きくなるまで、育ててみたいんです。…昴さんと一緒に」


 打ちのめされた昴の、細い足が床に縫いつけられた。
「君は…やっぱり子供が欲しかったのか…」
 うめくような呟きが漏れる。


 人の一生に、必ずしも子供が必要とは思わない。
 自分だけの問題ならばそう割り切れても。
 ありふれた幸福の形の一つを、誰よりいとおしい新次郎に与えてやれない。その負い目を、昴は常に心の底に沈めていた。
 ひやりとする瞬間は今までにも幾度もあった。不幸な環境にある子供に出会い、新次郎が手助けをするたびに、昴はそれを手伝いながらも、彼が子供を引き取ると言い出さぬように祈っていた。

 だから、新次郎の言葉は裏切りにも等しかった。
 やはり昴一人では、新次郎の人生は満ち足りないのだ。

「ぼくの子供が欲しいんじゃありません。ただ、この子と別れたくないんです。 ぼくと昴さんが出会ったように、この子はぼくたちと出会ったんです」 
 切々と訴える新次郎を、昴は表情の削げた石像のように見ていた。
「……あの日、君は、昴さえいれば他に何もいらないと言った…あれは、嘘だったのか」
「嘘じゃありません。ぼくは、昴さんさえいてくれれば、他に何も必要ありません」
 答える新次郎の顔にはやましさのかけらもない。
「でも、この子にはぼくたちが必要です」



「昴は…言った。君は間違っている、と。その子に必要なのは僕たちではない」
「昴さん、どうしてそんなに反対するんですか?子供が苦手とか言ったって、昴さんはとてもいい先生だったこともあるじゃないですか」
 諭すような口調に苛立った。
「教師と親は違う。一番いいのは、その子にちゃんとした養父母を見つけてやることだ。僕たちではその子の親にはなれない」
「どうしてです」

 怒りと屈辱が、昴の頬を染めた。それを昴の口から言わせるつもりか。いいだろう。それが最後の切り札だ。
「その子にも、三年ごとに転々とする生活を強いることになるんだぞ。その理由を、どう説明する?」
 運命を知り抜いた者の重々しい声で、昴は暗い予言を告げた。
「その子は長じて昴を憎むだろう。自分より小さいままの、昴を」



「そんなことにはなりませんよ」
 雲を払う日差しのように明るい笑顔で、新次郎は自信を込めて言った。
「だって、ぼくたちは、家族になるんですから」


 赤ん坊が目を覚まし、うんうんと喃語を呟き始めた。気づいた新次郎が、いとおしげに揺りあげる。
「よしよし…明日美、今日から、ぼくがお父さんだよ…こっちはお母さんの昴さん。わかるかい…?」
「やめろ!」
 昴は鋭く叫んだ。
「昴は…昴は絶対に、母親になどならない!」
 声に驚いたのか、赤ん坊はひくりと息を飲み、うんえーと泣き出した。
「ああっ、昴さんが脅かすから…ほらほら、明日美、泣かなくてもいいんだよ…」
 新次郎は赤ん坊をあやすのに余念がない。その顔は生き生きと楽しげで、幸福そうだ。

 敗北感が、昴の力を虚脱させた。

 いつか、こんな日が来るのではないかと恐れていた。
 その日が、ついにやって来たのだ。
 もう新次郎の最高の笑顔は自分だけのものではない。




 二人の姿を無言で見つめながら、昴はあらゆる手段を考えた。天才と謳われた頭脳を光速で駆使した。
 偽の親族を用意して引き取らせること、新次郎の気づかぬように赤ん坊をどこかへやってしまうこと、果ては、狂言自殺から、自分が姿を消すことまで。

 そして、結論を出すのは早かった。



 諦めるしかなかった。
 今更新次郎と離れるなど考えられなかったし、新次郎と意地の張り合いをしても徒労に終わると知っていた。卑怯な手段をとることはプライドが許さなかった。
 そして、今新次郎が手にした幸福を、奪うことはできなかった。それを新次郎に与えられなかった昴が。





「……貸してくれ」
「え?」
「昴にも、抱かせてくれと言っているんだ」
 新次郎の顔がぱあっと輝いた。
「昴さん…じゃあ」
「明日、役所に行こう。それで、いいんだろう」
「ああ、昴さん、ありがとうございます…!」
 涙ぐまんばかりに喜んで、新次郎は渡した赤ん坊ごと昴を抱きしめた。


 ぷくぷくした浅黒い赤ん坊は、細い腕にずっしりと重い。昴の硬い雰囲気を感じるのか、顔を歪めて泣きやまず、抗議するように小さな拳を握っている。
 己の負い目の象徴を、昴はじっと腕に抱いて見おろした。
 新次郎がもたらすものなら、たとえそれが苦痛であろうとも甘受する。それが、昴の決めた昴の人生だった。



 この子に、昴が持てるものすべてを与えてやろう。
 時間を無駄には出来ない。あまり長くはかからないのだから。

 いつか、この子が昴を憎むその日まで。









《続く》 





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