君の明日を  (2)








 赤ん坊は可愛かった。

 可愛くないわけがない。生物学的に、赤ん坊は可愛らしさを訴えるように出来ている。
 そこに父性を直撃された新次郎は、眼も当てられないほどにめろめろだった。

 山のようにおもちゃを買ってきて与え、何時間でも明日美の相手をし、いとけない仕草の一つ一つに見入った。手間と時間のかかる離乳食も億劫がらずにつきあい、満腹した明日美が眠れば、飽きることなく寝顔を眺めて相好を崩していた。ピアノを弾く昴の指が荒れないようにと、おむつの洗濯を甲斐甲斐しく担い、明日美をおぶって楽しそうに干し物をした。
 明日美はすぐにはいはいを始め、家中を這い回った。新次郎はアヒルの子のように後を追いかけ回し、異物を飲み込んだり汚れた物を口にしないように気遣った。
 明日美が高熱を発したことがあった。新次郎は寝ずに寄り添って看病し、手を組んで涙を流した。
「ああ、神様。こんな小さな子を苦しめないでください。今すぐぼくと代えてください。なんでもしますから。お願いです」

 やがて明日美がちんまりとお座りをするようになると、新次郎は、
「そうだ、どうしてもっと早く気づかなかったんだろう」
 と叫んで、カメラを買ってきた。たらたらと涎を垂らしながら、得意げにがらがらを振る明日美を、新次郎は何枚でもきりもなく撮影した。
 そして言った。
「昴さん、ちょっと明日美を抱っこしてください。一緒に撮ってあげます」




 昴は、ずっと黙って新次郎を手伝ってきた。
 新次郎が明日美の発育を不安がれば、育児書を調べて適切なアドバイスをし、離乳食の栄養配分を考慮した。
 寝ぐずって泣く明日美を新次郎が持て余せば、
「貸してごらん」
 と明日美をベッドに寝かせ、添い寝して、心を込めて子守歌を歌った。


 おどまぼんぎりぼんぎり、ぼんからさきゃおらんと…


 なつかしい蝶々夫人の子守歌に、新次郎までもがうっとりと眼を閉じた。
 いつの間にか泣きやんで、穏やかな寝息を立て始めた赤ん坊を、新次郎は感嘆の眼差しで見守った。
「すごい…流石昴さんです」




 しかし、この時だけは、昴は拒絶した。
「断る。昴は写真は嫌いだ。知っているだろう」
「でも、一枚くらいいいじゃないですか。記念に」
「…新次郎、…」
 昴は、失望を押し隠して言った。
「明日美のためでもあるんだ。昴と一緒の写真など、残してはいけないよ」

 新次郎がはっとして、すみませんでした、と詫びるのを、昴は待った。
 しかし、新次郎はさっぱり堪えた様子がなかった。
「そうだ、今度三人で記念写真を撮りましょうよ」
「聞いていないのか、新次郎」
「昴さん、ぼくは、本当はもっと昴さんと一緒の写真がほしかったです。明日美だって、きっとそう思いますよ」
「君と明日美は違う」
「でも、同じ家族です」
 辛抱強い鍔迫り合いのような沈黙が続いた。
 自分と新次郎との間に入り込んだ異物は、日を重ねる事にその地位を確固たるものにし、最早抜き去ることは不可能なまでになっていた。
 しかし、いつか明日美との関係が破綻すると信じている昴と、正反対の確信を持つ新次郎とでは、平行線の口論をしても無駄だった。
「新次郎、たいがいのことは昴が譲ろう。だが、写真は駄目だ。明日美のことを大切に思うなら、二度と言うな」
 厳しい声で、昴が話を封じた。


 諦めたようにカメラを置き、新次郎は問うた。
「昴さん、明日美が可愛くないですか?」
「…可愛いよ」
 昴はしみじみと答えた。嘘ではない。手を差し伸べ、明日美を抱き上げる。
 口の周りの涎を拭いてやり、顎をくすぐると、明日美は甲高い声で楽しげに笑った。そして昴の手をつかみ、指を口に入れて、生え始めた歯で熱心に噛んだ。
「こら…痛いよ、明日美」
 笑って咎めながらも、そのまま好きに噛ませてやる。見つめる眼差しは慈愛に満ちているが、そこには頑なな痛みが宿っていた。
「昴さんは、人を好きになるのに臆病すぎると思います。ほら、明日美は昴さんのことが大好きですよ」
 新次郎の言葉がわかるかのように、赤ん坊はことんと昴の胸に頭を預け、涎だらけの手で昴の髪を引っ張った。

 これが二十歳の新次郎なら、無神経だと誹るのは簡単だ。しかし、年を経てしたたかな今の新次郎は、昴の苦悩に気づいていながら、それを乗り越えろと告げている。

「……努力はしているよ」
 痛みと愛情の共存できる方角を、昴はじっと模索していた。何かささやかなきっかけが見つかればいいのに、と。




 やがて明日美は一歳になった。
 明日美の正確な生年月日はわからない。なので、拾った日から五ヶ月逆算して誕生日を設定した。昴がケーキを焼いてやり、小さな蝋燭を一本立てる。新次郎はまたどっさりとおもちゃを買い、写真を撮りまくった。明日美は得意げにケーキに手を突っ込み、キスする隙間もないほどに顔中をべたべたにした。
「風呂に入れないと寝かせられないな」
 拭いてやりながら昴が苦笑すると、新次郎は喜んでその仕事を引き受けた。

「昴さーん、明日美お願いしまーす」
 間もなくバスルームから新次郎が呼び、昴は読みかけの新聞を置いて、タオルを手に取った。
 新次郎が明日美と一緒に風呂に入れば、体を拭いて着替えさせてやるのが昴の役目だ。風呂に入る順番によっては逆の場合もあった。

 ほかほかと湯気の立つ赤ん坊は、口を開けて、ほよんと昴を見上げている。タオルでくるむようにして受け取ると、明日美は気持ちよさそうにきゃっきゃと笑った。
「ふふ…綺麗になってご機嫌だね」
 絨毯の上に広げたタオルとおむつの上にのせ、服を着せてやる。明日美は幸福そうにタオルを引っ張ったり咥えたりして一時もじっとしていない。身繕いが終わるとさっそくころりんと転がって、自力での移動を試みた。


 くりくりとまるい瞳、いつもにこにこと楽しそうにしている様子は、新次郎にそっくりで、まるで新次郎の本当の娘かと思うほどだった。
 明日美は日々成長していた。服はどんどん小さくなり、食べる量が増えた。昨日できなかったことが今日はできるようになった。昨日無反応だったものに今日は興味を示した。


 このときも、明日美は昨日と違う動作をした。
 んっ、んっ、と唸りながら、まるい尻を突き上げ、脚を踏ん張る。そして、そうっと両手を地面から離すと、ぐらぐらと上体を起こした。
 昴は目を見張った。

「立った!明日美が立った!」
 思わず、昴は叫んでいた。
 そのまま、赤ん坊は人生で最初の一歩をよろよろと踏み出した。
 二歩目でよろめいて、昴の広げた腕の中に倒れ込む。


 濡れた頭のまま飛び出してきた新次郎に、昴は言った。
「新次郎、今、明日美が立って歩いたんだ!」
「ええっ、本当ですか?」
「ああ、ほんの少しだけど」
 おそらく、子を愛するすべての親が、生涯忘れ得ぬ瞬間。
 それを、新次郎と昴は共感した。

 ただ横たわって泣いていた赤ん坊が、自分の力で立ち上がり、歩き始める。
 たった半年の時間で。
 子供が成長するというのは、こういうことか。

 昴は唇を噛みしめた。
 喜びとも悲しみともつかない、名状しがたい感銘だった。

 明日美はやがて最初の一言を発し、己の意志を持って自己主張を始める。
 五才になり、十才になる。
 そして、友人を作り、誰かを愛し、自らの人生を切り拓いていく。

 昴の苦悩に、明日美には何の責任も咎もない。無心な全幅の信頼のままに、自分に向かって一歩を歩いた子供を抱きしめて、昴は思った。



 美しいものをたくさん見せてあげたい。
 なりたいものになれるように。幸福をつかめるように。強い力を与えてやりたい。
 新次郎が愛するこの子に。
 こんなにも無邪気に昴を頼る子供に。

 沢山の人と出会い、満ち足りた生活を送り、やがてこの子は昴の到達できないところまで行くだろう。



 何も知らない明日美は、だー、ぶう、あっきゃ、と独自の言葉で何やら話しかけ、ぱちぱちと手を叩いた。
 どんどん豊かになる喜怒哀楽の表情が、鮮やかに顔に浮かぶ様も、新次郎に似ているようだった。


 いつか、自分と明日美が別れる時が来たら。
 新次郎は自分ではなく、明日美を選ぶのだろう。
 それでも、かまわない。と昴は思った。





***************************







 私は、四才で欧州へ渡り、巴里郊外で八才までを過ごしました。
 イル・ド・フランスの田園風景の中にあった家は、とても大きかったと記憶しています。そこにはピアノを据えた音楽室と膨大な蔵書の図書室があり、離れには道場もありました。
 養父母はとても教養深い人たちでした。文武両道に秀で、語学に堪能で、その上昴は歌舞音曲の才もありました。二人は日本人でしたが、家の中では日本語と同じように、英語とフランス語、時にはドイツ語が使われ、幼かった私は容易く吸収していったようです。
 早い時間に起床する父と、道場で剣道の朝稽古をしました。父は、巴里で語学学校の教師をしていて、朝食をとると出かけて行きます。あとは私と昴の二人の時間でした。

 父も博識な人でしたが、昴はまさしく天才というべき人でした。
 昴はあらゆることを教えてくれました。子供用の絵本だけではなく、歴史書から新聞まで様々な書物を読んで聞かせ、広いテーマに渡ってわかりやすく話してくれました。ピアノのレッスンがあり、日本舞踊を習いました。各国語の読み書き、数学や科学から行儀作法にいたるまで、持てるすべての時間を私のために費やし教えてくれました。
 丁寧だけれど厳しい昴についていけず、拗ねたりしたこともありましたが、昴は私の扱いがとてもうまかったのです。気がつくと、私は無気になったり得意になったりしながら、全力を傾けていました。それに、昴が教えてくれると、複雑な数式や難解な文章も、まるで極上のなぞなぞのように面白く感じられたものでした。
 また、昴は沢山の歌を歌ってくれました。昴は容姿も端麗な人でしたが、その歌声の美しさは特筆すべきものがありました。何カ国語もの歌を、私は一緒に歌って覚えました。
 夕方、父が買い物をして戻ると、私も夕飯の支度を手伝います。そして小さな食卓を囲む時間が、私はとても好きでした。その日の成果を報告すると、父はいつも眼を見張って褒めてくれました。
 休日は父の出番でした。父は私を小川へ連れて行き、川遊びをし、並んで橋桁に腰掛け釣りをしました。野原で花や虫を採ったり、森で木に登りました。巴里動物園や移動遊園地に連れて行ってくれたこともありました。
 今こうして書いていて気づいたことがあります。人は、子供の頃に親がしてくれたことを思い出して、自分の子になぞるのではないでしょうか。父はきっと、同じように親に遊んでもらって育ったのだと思います。一方、昴にはそうした経験がなかったのかもしれません。昴はずっと、親というよりは家庭教師のようでした。


 この手紙の中でも、私は「母」ではなく「昴」と書きます。
 物心ついて、世の中に「お父さんとお母さんと子供」という構成があることを最初に認識した頃、私は、新次郎をお父さん、昴をお母さんだと思いました。けれど、昴は私が「お母さん」と呼ぶことを固く禁じました。だから、私は一度も昴を「お母さん」と呼んだことはないのです。
 その理由は、やがて自ずとわかりました。


 私が五才になった時、そろそろ同年代の子供たちと遊んだほうがいいと判断した二人は、私をブリュノワの幼稚園に入園させました。
 父が出勤前に私を送っていき、午後に昴が迎えに来てくれます。そこで私は初めて、自分が養子であることをはっきりと知り、昴が父の子供で私の義理の姉だと名乗るのを聞きました。
 肌の色が違うのはわかっていたし、なんとなく理解していたので、ショックをうけることはありませんでした。実の親子に劣らないほどに、父が私を愛してくれているのを知っていたからです。父も隠していたわけではなく、あえて意識することがなかったのだと思います。

 ただ、父と昴が親子だというのは、子供心にも納得できませんでした。二人は常に対等であり、むしろ父のほうが昴に深い敬意を払っているのがわかりました。仲むつまじいその姿は夫婦という関係なのだと、私は察していました。
 私が追求すると、父は困ったように答えました。
「本当は親子じゃないんだけど、それを人に説明するのはとても大変なんだ。だから、明日美もお友達には内緒にしておいておくれ」
 私は父と昴が好きだったので、了解しました。ですが、外界にふれるにつれ、自分の家族がいかに奇妙なのかわかってきました。
 父には「亡くなった妻」がいることになっていましたが、そんな人は本当はいないのです。そして、父と昴は家の中では互いに名前で呼び合うのに、人前に出ると、昴は父を「お父さん」と呼んで、さも娘らしく振る舞います。

 小さな子供にとって、大人は大人というひとくくりで認識され、その老若や年齢まで判別するのはむつかしいことでした。それに、父は目が大きく若々しい容貌をしていて、昴はとても大人びた雰囲気を持っていました。それでも、周囲の大人に比べて昴がとても小柄なのはわかったので、だから人は彼らを夫婦ではなく親子と見なすのだろうと、当時の私は思っていました。いずれにしろ、五才の子供にはさほど思い悩むことではありませんでした。





 六才になると、私は巴里十三区の公立小学校に入りました。
 昴の教育のおかげで、私の学力は同学年の子供たちよりずっと先へ進んでいました。入学して一週間で一学年飛び級をし、二週間目にはもう一学年上になり、一度に三学年飛び級をした例はないとの理由で三週間目以降は同じ学年にとどまりました。私は背が高かったので、二才年長の子供たちに混じってもあまり違和感はありませんでした。
 この頃の思い出は楽しいものでした。サーカス、クリスマス、マルディ・グラの祭りでの仮装…生徒のほとんどは欧州系でしたが、アジア系の子も数人いました。仲の良い子も悪い子もいましたが、友達も出来ました。


 だから、突然イギリスに引っ越すと言われた時は、驚き、残念に思いました。
 けれど、父がイギリスへ行くことをとても楽しそうに話してくれるので、私もいつのまにか乗せられて、楽しみに思うようになりました。引っ越す理由を、父は、仕事のため、としか説明しませんでした。




 イギリスで、私はオックスフォードのはずれにある通学制のプレップスクールに編入しました。公立小学校では飛び級ができなかったためだと思います。ここでも私はもう一学年飛び級し、九才でシニアスクールに進みました。

 ウォルバーコートの家では、イル・ド・フランスにいた頃と同じように過ごしました。
 なだらかな丘と森が靄にかすむ中、庭の芝生で父と朝稽古をし、学校から帰宅すると昴に勉強を見てもらいました。私は結局音楽の才能はあまりなかったようですが、この頃から科学や生物に興味を持つようになりました。花を育て、虫を観察し、細胞の構造図に見入り、進化論について昴に教えを請いました。



 一方、学校は私にとって些か試練の場でした。

 所謂名門校だったこともあり、階級意識の強い人が多かったのです。
 たとえ資産家であっても、東洋人の父は、父兄が名を連ねる慈善委員会にも招かれませんでした。そして、子供の世界ではもっと問題はシビアでした。
 モロッコ人の私は、人種的にはアラブ人かベルベル人、もしくは両方の混血でしょうか。浅黒い肌の、三つも年下の子供に席次を脅かされるのは、良家の子女にとっては我慢がならなかったのでしょう。気がつくと、私はモロッコ人の蔑称のモロと呼ばれ、肌の色や孤児であることでからかわれるようになっていました。

 家ではこの問題について私は話しませんでした。心配をかけたくないという思いもありましたが、弱みを抱えていると明かすのは、プライドが許さなかったのです。
 誰に似たのか、私はとても負けず嫌いでした。
 一度、男子生徒にランチボックスをわざとひっくり返されたことがありました。口論から喧嘩になり、私は箒とモップの柄を使って男子生徒と加勢した仲間を叩きのめしました。父は学校に呼ばれ、私は謹慎を食らい、事情は家族の知るところとなりました。父は学校に強い抗議を訴え、私には剣術の用途について長々と説教しました。昴は深刻に受け止め、転校を提案しましたが、私はそれを拒否しました。逃げ出すようでいやだったのです。
 やがて私は、私を見下す同級生たちを、学力で打ち負かすことに喜びを見いだすようになりました。
 モロッコの歴史について学び、フランス植民地時代、ムハンマド五世がドイツの迫害からユダヤ人を守ったことをあげて、からかいに反論しました。戦いを挑むように、一人一人の得意科目で相手より高得点をとってみせ、ついには学年首位の座を揺るがないものにしました。
 誰も、表立って私を嗤うものはなくなりました。教師も一目置いてくれ、「ミス・タイガを見習いなさい」とクラスに言い渡した時には、胸の空く思いでした。
 友人も、気になる男の子もなく、孤独でしたが、私は築いた地位に誇りを持っていました。



 五年生になって間もない頃のことでした。夜中に目が覚めると、父と昴がキッチンのテーブルに座って話しているのが聞こえました。

「五年か…長くいすぎたようだな」
「またモロッコへ行くのはどうでしょう。それなら明日美ももっと…」
「彼女の学力を思えば、それは惜しい。充実した教育を受けられるところがいい」
「寮制のある学校へ編入する方法もありますよ。…淋しくなりますけど…」


 二人は引っ越す話し合いをしていたのです。

 その頃には、私にももう理由がわかっていました。
 なぜ、同じ所に住み続けられないのか。
 なぜ、父と夫婦であるのに、昴が私に母と呼ばせないか。





 私はいつのまにか、昴の背丈を追い抜いていました。
 父は六十才を間近にし、髪は灰色になり、若々しかった容貌を少しずつ年齢に合わせていきました。

 けれど、昴は昔とまったく変わっていなかったのです。



 小柄な背丈が伸びることもなく、髪が白くなることも、顔に皺が増えることもない。子供のような容貌のまま、昴の体は時間が止まっていました。
 あなたに信じてもらえないかもしれない、と書いたのはこの事です。写真があれば証明できるかもしれませんが、昴はずっと写真を嫌い、私と父を撮ってくれることはあっても、決して自分が写ろうとはしませんでした。今思えば当然のことだったでしょう。

 その日の午後、庭で家族そろっている時に、近所のおばさんに挨拶をしました。彼女は、
「アスミはまた背がのびたわね。もうスバルよりお姉さんみたいよ」
 と笑って言いました。それから、しげしげと昴を見つめ、不審そうな顔をしたのです。
 日々成長していく私と、少しずつ老いていく父の間で、昴の異質さは一層際立ってしまったのでしょう。


 その事情は理解できても、引っ越すことを考えると、まるで足もとを薙ぎ払われたような気がしました。
 知識はあっても、中身は十三才の、私はまだ子供でした。自分のことで手一杯でした。

「絶対いやよ!転校も引っ越しもしない!どこにも行かないわ!」
 私はキッチンに飛び込んで叫びました。
「折角一番になったのに!また同じことを繰り返すのはいや!どうして私が転校しなきゃいけないの?」
「明日美、お父さんの話を聞いてくれ」
 私を落ち着かせようと、父が立ち上がりました。
 気がつくと、私は叫んでいました。


「昴が、そんな変な体なのがいけないのよ!」







 後にも先にも、父が私を叩いたのはその時だけでした。
 叩かれた私より、父の方が自分で驚いていたようでした。自分の手ではないかのように、呆然と右手を見つめていました。


 私はとても昴の顔を見られませんでした。
 空気が冷たく凍りつき、ガラスみたいに砕けて足もとに散らばっているようでした。
 決して口にしてはいけない禁忌にふれてしまったことを、私は悟りました。



 それでも、私は意固地にも謝りませんでした。自分の部屋に駆け込んで、ベッドに突っ伏して涙を堪えていました。

 長い時間が経ったような気がします。やがてやってきたのは、父ではなく昴でした。
「明日美」
 名を呼ばれてぎくりとしました。こわごわとのぞき見た昴の顔は、聖母の微笑のようにやさしく穏やかでした。

「何も心配しなくていい。君はこのまま学校に通えばいいよ」
 その言葉に、私は跳ね起きました。
「…本当?引っ越すんじゃないの?」
「ああ、君はずっとここで暮らしていていいんだよ」
 昴がはっきりと言いました。

「昴は、君の人生を妨げたくない」



 そして、父と昴は別居したのです。











《続く》





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