君の明日を (3)
オックスフォード駅のプラットホームで、西へ向かう列車に乗る昴を、新次郎は見送った。 「絶対いなくなったりしないでくださいね。幻も見ちゃ駄目ですよ」 「君こそ、いい年をして子供みたいにパニックを起こすなよ」 言ってから、二人は同時に小さく笑った。新次郎が身をかがめ、昴を抱いてこつんと額を合わせる。 「もう、僕たちは大丈夫だよ」 「だいぶ年季も入ってますしね」 「ああ、そうだね…」 新次郎の白髪交じりの髪をいとおしげに撫でて、昴はしみじみと言った。 明日美がつらくないようにと、見送りに来られない時間の列車を選んだ。平日の昼の駅は、人影もさほど多くはない。発車を告げるベルが鳴ると、新次郎はきょろきょろと周囲を見回し、さっと小さくキスをした。 「毎日電話します。週末には明日美と一緒に行きますから」 「ああ、待っているよ」 「約束ですよ!」 遠ざかっていく列車に向かって、新次郎はいつまでも手を振った。 昴は遠方への留学が急に決まったことにして、エクセターとプリマスの中間にあるダートムーアへと一人移り住んだ。 そこで牧場を経営すると聞いた時、新次郎はひどく心配した。 「だって力仕事ですよ?肉体労働ですよ?汚れることだってあるし…昴さんには似合わないです!」 真顔で力説する新次郎に、昴はころころと笑ってみせた。 「大丈夫だよ。昴一人で何もかもやるわけじゃない」 昴は傾いた牧場を買い取り、そのままもとの牧場主や従業員を置いて作業を任せることにしたのだった。 「それに昴は、昔アラバマの農家でひと夏過ごしたこともあるんだ。乳搾りくらいできるんだよ」 「ああ、そんなこともありましたねえ」 なつかしそうに新次郎が表情を和ませる。 「だから何も心配はいらない。週末には君たちを馬に乗せてあげるから、楽しみにしておいで」 その言葉のとおりに、牧場で過ごす週末は、三人にとって待ち遠しいものとなった。 ヒースの荒れ野と緑の森、牧草地がパッチワークのように並んだ丘に、石の遺跡群が散在し、青々とした貯水池の水面が輝いていた。 広い牧場には、乗馬用の馬の他に、乳牛とサフォーク種の羊、牧羊犬のボーダーコリーと、鶏と鴨がいた。生き物嫌いだった昴が多種の生き物と暮らしている光景に、新次郎は眼を見張った。 「毎日、やらなければならないことがたくさんあって、忙しいのがいいんだ」 だから思い悩んだり淋しくなったりする暇もない、そう言って、昴は新次郎を安心させた。 もっとも、ほとんどの作業をしているのはもとからいる牧場主と牧童たちだった。彼らは、牧場を立て直してくれた昴に心から感謝しており、昴の客人である新次郎たちを精一杯歓待した。早速ふるまわれた新鮮なホットミルクの味に、新次郎は子供のようにはしゃいで喜んだ。 明日美は最初は気まずそうにしていたが、昴が何事もないように接してくれるので、やがて親密さを取り戻した。牛乳を搾ったり羊の毛を刈ったりする初めての作業は、十代の明日美にとってこの上なく新鮮で楽しいものだった。乗馬もすぐに覚え、三人でどこまでもヒースの丘を遠乗りした。 日曜の夕方、別れる時はやはり互いに名残り惜しさを耐えた。新次郎は毎週のように、明日美と一緒の新しい写真を持ってきて、昴の部屋に飾った。そして、 「昴さん、写真じゃなくて声ならいいですよね?」 とテープレコーダーを運び込み、昴の歌を録音して帰った。それを繰り返し聞いて平日の夜を過ごし、次の週末をじっと待ち侘びた。 「向こうの丘まで競争しましょうよ」 馬の手綱を握って、明日美が指さす。十五才になった彼女の、高い鼻梁が薄日に影をつくり、冬が間近い夕暮れ時の風が、緩く波打った長い髪をなびかせていた。 「お父さんはちょっと疲れたから、やめておくよ。二人乗りだしね」 新次郎は今日は昴を前に乗せていた。年老いて穏やかな性質の馬には、明日美との競争は酷だろう。 「じゃあ、ケント、おまえと競争よ」 明日美が足もとに声をかけると、すっかりなついた牧羊犬が、うおん、と威勢良く応じた。 「そうそう、昴、弁論大会の原稿と生物学のレポートがあるんだけど、後でアドヴァイスしてほしいの……あっケント!フライングは反則よ!」 犬を追って走り出した明日美の背中を見ながら、昴は新次郎に問うた。 「明日美の様子はどうだい」 「ご覧の通り、元気ですよ」 「学校のほうは?」 「今は弁論大会で勝つことで頭がいっぱいみたいです。生徒会長が強敵なんだそうで…」 「…勝つこと、か…」 昴は低く呟いた。 「…昴が間違っていたのか…。明日美は、時々、昔の昴のように見える…」 「昴さん?」 冬枯れた丘は、どこかもの悲しく、荒涼たる印象を与える。風が昴の頬を冷やし、その色を白くしていた。 「知識も、能力も、昴の持てるものを、すべて与えたかったんだ。できるだけ早く…一緒にいられる間に…少しでも多くのものを…」 昴の声には、抑えがたい苦悩が滲んでいた。 「明日美に、強い人間になってほしかったんだ…幸せになれるように……あの子の願いを、何だって叶えてやりたかった……それだけなのに…」 うなだれた小さな肩を、新次郎が片手でそっと抱いた。 「でも、ほら、あんなに楽しそうに笑ってますよ。それに、明日美にはぼくたちがいます」 馬を下りて犬と戯れている、すらりと長身な少女を見ながら言う。 「思うようにいかないことは、たくさんあります。でも、いつまでも続くわけはないんです。明日美にもきっと、レボリューションがありますよ。…なんて言ったって、まだあんなに若いんですから」 「君は…昔とまったく変わらないな……いつも無邪気なくらいに前向きで…」 手綱を取る、老いてきめの粗くなった手の甲を、昴はそっと撫でた。新次郎がくすぐったそうに笑う。 「ぼくが昔のまま変わらずにいられたとしたら、それはきっと昴さんのおかげですよ」 「なぜだい?」 「…世知辛い話ですけど、人は生きていくためにお金を稼がなきゃならない、そのために己をすり減らすこともあります。不本意な指示に従ったり、余裕をなくしたり、何かを犠牲にしたり…でも、ぼくは昴さんのおかげで、生活のために自分を削らなくてもよかったんです」 背中で、新次郎が幾分照れたような口調で言った。 「愛するものを守って生きていくために、いろんなものを引き替えに無くしていく、それも崇高な姿かもしれない。でも、ぼくはそれをしなくてもよかった。昴さんを、明日美を、愛するままに愛し、自分の生きたいように、生きてくることが出来ました。それは確かに、昴さんのおかげです」 「そうかな…やはり君が純粋な心の持ち主だからだろう。富は人の心を醜くもする」 「あはは…ぼく、根が庶民なもので。それだけですよ」 淡い夕陽を浴びて、二人を乗せた馬は、ぽくぽくと蹄を鳴らして進んだ。広いなだらかな荒れ野を、影がゆっくりと移動していく。 同じリズムで馬の背に揺られながら、風に紛れない声で、新次郎はしっかりと言った。 「こうして、あなたと一緒にいられる。ぼくは、それが一番幸せなんです」 その日の夕食には、グレービーソースをたっぷりかけたソーセージとマッシュポテト、フライドオニオンのサラダを三人で作った。パンに添えた丁度食べ頃のチーズは、明日美が昨年作ったものだ。 夜になって強く吹き始めた風が、窓枠をかすかに揺らしていたが、昴の部屋の暖炉は赤々と燃え、小さな食卓を暖めていた。 「明日美は、将来何になりたいんだい」 料理を皿に取り分けながら、昴が尋ねた。 「…まだわからないわ」 明日美はあっさりと肩をすくめて言った。 「このぶんだと生物学者かな?明日美は美人だから女優にだってなれるぞ」 わくわくと楽しそうに新次郎が話しかける。 「お父さんは私くらいの頃、何になりたかったの?」 「お父さんか?お父さんはね……でっかい男になりたかったんだ!」 ソーセージの刺さったフォークを握る真顔の新次郎に、ぷっ、と明日美は小さく吹き出した。 「なあに、それ…じゃあ私はでっかい女になるの?大きいのは身長だけで沢山だわ」 「夢はでっかいほうがいいんだぞ」 昴はスタウトを飲みながら、楽しむように二人のやりとりを聞いていたが、ふとグラスを置いて言った。 「勉強ができるというのは、なりたいものになるための力があるということだ。他人に勝つために勉強するのではなく、自分が何を目指すのか。そろそろ君は考えてもいい頃だよ」 明日美は黙ってフォークを口に運んでいた。 *************************** 何を目指すのか。 そう問われて、私が最初に思ったのは、医学の道に進むことでした。 医師になって、昴の体を治したい。 昴に放った一言が、自らに斬りつけた刃となって、ずっと胸に刺さっていたのです。 もう、今からでは父の時間に追いつくことはできなくとも、居たいと思うところに好きなだけいられるように。離れて暮らさなくてもいいように。 それが私の拙い望みでした。 私がそれを父に話すと、父はとてもむつかしい顔をして考え込みました。 そして、長い時間をかけて、父と昴がどのように出会い、結ばれ、時を過ごしてきたのかを話してくれました。 その詳細をここであなたに話すことはできません。あなたを信頼していないからではなく、誰にも話さないと父と約束したからです。そして、それは父と昴の物語であって、私の関わる余地のないものだからです。 けれどその中で、昴の体が医学では治らないことを、私は知らされました。 「昴さんには、異常だとか、治すとか、そういう考えはいらないんだ。姿が変わらないことも全部ひっくるめて、それが昴さんなんだよ」 父は最後にそう言いました。 「でも、医師を目指すのはいい考えだと思うよ。人の役に立つ仕事、人の命や健康を守る仕事だ。昴さんじゃなくて、沢山の苦しんでいる人たちを治してあげるんだ。明日美が医師になったら、お父さんも昴さんもきっと誇りに思うよ」 一方で、私はイギリスで学問を続けることに限界を感じ始めていました。 古き悪しき時代、女性は学位を取ることはおろか、図書館の施設も使えなかった国です。 様々な条件を考慮した結果、私はアメリカの大学を目指すことにしました。 自由の国。移民の国。様々な民族。 きっとアメリカのほうが、自由に学び、研究することができる、と。 私がアメリカに渡ってからのことは、あなたのほうがよく知っていると思うので省きます。 初めて会った頃は、あなたは私をさぞ鼻息の荒い頭でっかちの小娘だと思ったのではないでしょうか。弁解すればそれはこうした経緯があったからなのですが、こちらに来てからの私は、まさに水を得た魚の心持ちでした。 それはやはり、何にでもなれるこの国の自由な空気と、そして何よりも、あなたと出会えたことが、私に大きな変革をもたらしたのだと思います。 父と昴は、カリブ海の、バハマはニュープロビデンス島に移り住みました。 マイアミから飛行機で一時間の距離だったので、夏期休暇のたびに私も一緒に過ごしました。 若い頃海軍にいたという父は、大好きな海のそばでの暮らしに満足しているようでした。 家族と離れ、一人で寮生活をして、初めて私は父と昴のことを深く考えるようになりました。 あなたを愛するようになって、その思いはひときわ強まりました。 もし私が父なら。子供のような外見のまま成長することのない人と、一生を添い遂げようと思うだろうか。間柄を親子と偽り、転々と住み処を変え、自分の子供を持つこともなく。 そして私が昴なら。心から愛する人がいても、その愛を貫けるだろうか。自分の存在が、どれほど枷になるか。相手を不幸にするのではという恐れを、克服できるだろうか。 昴もやはり、一度父の前から姿を消したのだそうです。父は三年かかってアメリカ中を探しまわり、ようやく再会したのです。 その後も、老いることのない昴をめぐって、二人はいくつもの困難を乗り越えてきたのでした。 でも、父はいつでも幸せそうでした。引っ越す時も、いつも希望に満ちていました。一度たりとも、昴を責めたり、嘆いたりすることはありませんでした。 そんな父だから、昴もずっと一緒にいることができたのでしょう。 そう考えていると、私を拾ってくれた時のことに思い至り、胸が詰まりました。 ずっと二人で生きていくはずだったところへ舞い込んだ赤ん坊は、その存在だけで昴を苛んだはずです。 昴はどれほど苦しかっただろう。父はどんな気持ちでその苦しみを見守ったのだろう。 私にはただ感謝することしかできません。もし彼らが育ててくれなかったら、私はこうしてハーヴァードのメディカルスクールで学ぶことはできなかったし、あなたに出会うこともなかったでしょう。 でも、長い時間をかけて、私たちは本物以上の親子になりました。 結婚したい人がいる、と打ち明けた時に、昴は迷いもせず、即座に言いました。 「君の妨げになるのなら、昴は二度と君の前に現れない。だから、安心して、君は君の道を行けばいい」 誰よりも私を愛してくれながら、誰よりも距離を置かねばならなかった。 それが昴という人でした。 私を生んでくれた父と母はもういません。 でも、新次郎が私の父で、昴が私の母なのです。 私は父のようになりたい。母のようになりたい。 互いを思いやり、固く信頼し合い、誠実に、勇敢に生きていきたい。 父と母のことを思う時、私はいつもこの思いを新たにします。 彼らの人生を、私の身をもって肯定していきたい。 それが、私の「目指すもの」です。 あなたに、お話ししたかったことは、これですべてです。 もし、私を頭のおかしい人間だと思うのなら、私のことは忘れてください。ひどく悲しく残念なことですが、私の言葉を信じてくれない人とは、私も結婚など考えられません。 それでも、私の本心はあなたと幸せになりたいと願っています。 もっともっとあなたを愛し、あなたに幸せを与えられる人になりたい。 あなたと家庭を築き、やがて生まれてくる子供たちを、私が父と母に愛されたように愛していきたい。 私が幸福に生きていくこと。それが、私が彼らに報いる最大の方法であり、彼らの何よりもの願いだからです。 あなたを悩ませたくはなかったけれど、あなたには真実を話したかった。私を愛し育ててくれた素晴らしい人たちのことを、あなたに知ってほしかったのです。 新次郎と昴が両親であることを、私は誇りに思います。 この思いが、あなたに伝わることを願っています。 愛をこめて。 アスミ・タイガ ********************* 花嫁の父は、その場にいる誰よりも…新郎新婦の次にだが…、誇らしげで、幸福そうで、少し照れくさそうだった。 ボストンの古い教会の、花で飾られた礼拝堂には、パイプオルガンの音色が厳かに響いていた。 白いドレス姿の花嫁は、連れ添う父よりも背が高い。艶やかなカサブランカ・リリーのブーケを胸に抱いて、緋色のカーペットを一歩一歩踏みしめながら歩んでいく。 祭壇の前で待つ花婿は、花嫁と同じハーヴァードの学院を、今年卒業したばかりだった。 栗色の髪を撫でつけ、背筋をぴんと伸ばしている。清々しく澄んだ瞳には、花嫁への深い愛が満ちていた。 最後列の隅の席に、一人でひっそりと座る小柄な東洋人がいた。 短いズボンのスーツ姿は少年とも少女とも知れず、ただ静かないつくしみの眼差しで、花嫁の歩みを見守っていた。 誓いの言葉。指輪の交換。つつがなく式は終わり、新たな人生を歩み出す二人は、ライスシャワーを浴びながら、教会のステップを降りていった。 花嫁を祝福する人々を、昴は離れた場所から眺めていた。笑顔とキス、抱擁。男も女もいて、老人も若者もいた。 いつか昴が仲間たちに出会ったように。 明日美には幸福を喜んでくれる人々がいた。 そして、誰よりも、その傍らに、愛する人が。 誰かを愛しいと思う心を、何ものにも束縛されることもなく、何の負い目を持つこともなく、自由に、力強く生きていく。沢山の人に出会いながら。 そうなってほしいと切に願った明日美の姿が、そこにあった。 「いやあ、緊張しちゃいました」 頭を掻きながら、新次郎が昴のもとへ戻ってきた。隣に花婿を伴っている。 立ちすくむ昴の前に、花婿の手がすっと差し出された。 「今日は、いらしてくださってありがとうございました。どうしてもお会いしたかったんです」 誠実そうな声には、好奇も不審もない。熱い敬意と、素朴な感謝の気持ちだけがあった。 「アスミと二人で、幸せになります。あなたに約束します」 昴は青年の大きな手を握った。 「僕たちの明日美を、頼みます」 「あら、私だけ仲間はずれなのはどうして?」 白いドレスの明日美が駆け寄ってくる。新次郎と昴にキスをすると、改めて強い抱擁を交わした。 「新婚旅行の前に、紐育へ行くの。お父さんたちの出会った街を、見てみたい」 明日美の言葉に、新次郎は眩しいものを見るように眼を細めた。 「そうか…気をつけて、行っておいで。とても素敵な街だよ」 「幸せに、明日美」 「ありがとう、お父さん…、それから」 小さな昴に向き直り、美しい花嫁は、禁を破って唱えた。 「お母さん…」 祝福の言葉で落書きだらけになったオープンカーが、空き缶をぶらさげて用意されていた。はやされながら若い二人が乗り込むのを、新次郎と昴はひと仕事終えたような感慨を込めて見守っていた。 「知らなかったよ…」 ぽつり、と昴が呟いた。 「何ですか?」 「どうやら…昴は、母親になりたかったらしい…君の、子供の」 燃えるような胸を小さな拳で抑えて、昴は言った。 「自分に、そんな心があったなんて、知らなかった……今、この瞬間まで…」 認めてしまえば、それは酷薄な夢だった。決して叶うことのない願い。だから、自分は今まで知らずにいた。 新次郎の子供。それは、新次郎を未来に繋げる存在だ。母になって、新次郎の美しい明日を育みたかった。 その、決して叶うはずのなかった願いが、今、叶えられたのだ。 昴は、明日美の姿を遠く見つめながら唱えた。 「いつも一生懸命で、前向きで、何事にも全力でぶつかっていく。言い出したら聞かない頑固もので……でも、笑顔が最高に素敵なんだ」 どこまでも真っ直ぐな、愛し愛される新次郎の美しい資質。 それが、明日美の全身に、輝く笑顔に満ちていた。 「あの子は、紛れもない君の娘だ」 「そして、あなたの娘でもありますよ、昴さん」 新次郎が自信たっぷりの口調で言った。 「ぼくはずっと、明日美は昴さんにそっくりだと思ってたんです。頑固なのはお互い様ですけど…あの、凛として誇り高いところとか、完璧を目指すところとか…人にも自分にも厳しいけど、本当はとても思いやりのあるところとか…」 晴れ晴れと胸を張って、新次郎は言った。 「あの子は、ぼくたち二人の、娘です」 ぱっ、と世界が色を変えたように見えた。 新次郎の言葉が、昴の視界を鮮やかに染め上げていく。 二人の、子供。 血肉を分け与えることはできなくとも、魂を分けることはできたのだ。 新次郎と出会い、愛し合ってからの長い年月、決して消えることのなかった負い目が、細かな綿毛が飛び立つように、穏やかに昇華していくのが、昴にはわかった。 「まったく、君ってやつは…」 昴は髪をかき上げ、呻いた。 新次郎が明日美を拾った時。まるで自分の存在を否定されたような気がした。明日美を可愛がる新次郎を見ながら、いつも胸が痛かった。 それでも新次郎は、二十年という歳月をかけて、奇跡を起こしてくれたのだ。 新次郎が意図していたとは思えない。でも、いつだって彼は昴に一番素晴らしいものを与えてくれる。 「…ああ、言葉がない。君は…君ってやつは…本当に…」 からんからんと賑やかな音をたててオープンカーが遠ざかっていくと、幾分淋しげに新次郎が溜息をついた。 「ああ…、お嫁に、行っちゃいましたねえ」 そして、ぱっと明るい笑顔になって、元気のいい声で言った。 「さて、ぼくたちは、今度はどこへ行きましょうか」 伸ばされた手を、昴はつないだ。 その姿が、今はもう祖父と孫にしか見えないのを知っていても。 昴の胸はこの上ない幸福で高鳴っていた。 旅路の果てに、いつか僕たちの命がついえる日が来ても。 この絆は、その明日の向こうまで続いていく。 僕たち二人の娘に、受け継がれて。
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