PUCHI☆KONG (5)






 頭が重く、ぐるぐると地面が回っているような感じがした。意識も視界もぼんやりとして、気分が悪かった。強い光が当たっていてやたらに眩しい。
 騒々しい音をどうにかしたくて、手を動かそうとしたコングは、自分が冷たく硬いものに締めつけられていて動けないことに気づく。

 ぶんと頭を振ると、ひどい頭痛が襲ったが、おかげで意識がはっきりした。
 眼を凝らしたコングが最初に見つけたのは、あの「大事な小さな生き物」だった。しかしそれはとても不安そうな顔をしていて、両手が棒に繋げられている。あたりには騒々しく動き回る、同じように小さな生き物が沢山いた。それらは、「大事な小さな生き物」に手を伸ばして詰め寄り、苛めているように見えた。
 コングは唸りをあげて威嚇した。彼らは一瞬驚いて動きを止めたが、また騒々しい音に促されるように動き始めた。
 コングは吠えた。体に力を込め、自由になろうと抗う。ざわざわと波のような音が、どこからか湧き起こった。
「みなさん、ご安心ください!この鎖はとても頑丈にできております!どうぞ安心してご観劇ください!」
 頭に毛のない男が、何やら大きな声で叫んでいた。
 恐竜に噛まれた傷が痛んだが、かまわずに藻掻いた。やがて、ぶちん、と音をたてて、冷たい輪が一つ割れた。大きく息を吸ってさらに力むと、輪はぶちぶちと続け様に切れていき、じゃらんと耳障りな音をたてて床に落ちた。
 拘束から解き放たれたコングは、胸を叩いて雄叫びをあげた。


 甲高い悲鳴がそこら中から響き、沢山の鳥が一斉に飛び立つように、小さな生き物たちはばたばたと逃げ出した。見れば、光の当たっていない暗がりに、小さな生き物たちが身動きできないほどぎっしりと蠢き、先を争って逃げようとしている。不快な扱いに腹を立てていたコングは、腕を振り回して暴れた。垂れ下がっていた薄いものを引き裂き、鱗のように並んだものを薙ぎ払い、逃げ惑う生き物たちを追いかけて叩きつぶそうとした。
「いけない、コング!」
 それが、「大事な小さな生き物」が自分を呼ぶ声だと知っていた。コングは我に返り、急いでとって返した。小さな体を掴んで引き寄せようとすると、繋がれた腕が引っ張られて痛そうにする。これはとても弱い生き物なのだ。思い出したコングは、細い紐を慎重に指先でつまみ、切ってやろうとした。
 それはコングにとって、とても骨の折れる作業だった。力を入れる場所を間違えれば、「大事な小さな生き物」の腕のほうをちぎってしまいかねない。時間をかけて、ようやく左右の紐を断つことができた。
「ありがとう、コング」
 笑顔を見て、コングもうれしくなった。大切に胸に抱えて、さてここはどこだろうと見回す。恐竜と戦って怪我をしたのは覚えているが、その傷はもうそれほど痛まない。どこか細かく揺れる冷たい床に寝ていたような気もするが、あとはずっと眠っていたようで覚えていない。
 狭い洞窟のようなこの場所は、もう他の生き物たちは逃げ出して、すっかりがらんとしていた。緩く坂になった床を上ったところに、小さな穴のような出口がある。ごんごんと何度も殴りつけると、薄い壁ががらがらと崩れ、やがてコングが通れるほどにまで壊れた。


 外は、ひどく寒かった。冷たい粉が空から振ってきて、地面を薄く白く覆っている。
 空は夜なのに、地上には光が溢れていた。小さな生き物たちが、相変わらずきゃあきゃあと気に障る悲鳴をあげながら逃げ惑っている。中には、眼を光らせて素早く走る甲虫のような生き物たちもいた。
 無造作に足を踏み出したコングは、「大事な小さな生き物」が止める声を聞いた。
「駄目だ!コング!気をつけて!」
 見れば、足もとに、座り込んで動けなくなっている小さな生き物がいて、もう少しで踏みつけそうになっていた。
「お願いだ、街の人たちを傷つけないで!」
 必死に首を振り懇願する様子に、この生き物たちは仲間どうしなのだと察する。だが、先ほど自分たちを戒めていた奴らは許し難いし、何より、「大事な小さな生き物」が自分以外のものを気に掛けているのが気に入らない。
 早くこんな居心地の悪いところを抜け出して、邪魔者のいない二人だけの巣穴へ帰ろう。
 コングは不服を抱えたまま、直線でできた冷たいジャングルへと分け入った。




 コングが不機嫌そうなので、新次郎は心配だった。通りに張り出した信号機を邪魔そうにへし折り、街灯、看板、水道栓、道路標識と、眼につくものを片端から壊していく。だが、幸いなことに、新次郎の注意をわかってくれたのか、人を襲うようなことはしなかった。勿論、人々がコングの進む先から、命からがら逃げ去ったからでもあった。
 だが、折角守ったこの街が、これ以上壊されるのはつらかった。運転手の逃げ出した蒸気タクシーを踏みつぶした時は、新次郎は強い声でコングを叱った。それでも、青物のワゴンを倒して、散らばった果物を砂利でも掴むようにして食べ始めた時は咎めなかった。コングはどんなにか空腹だったはずだ。しかも、コングはリンゴを一つ指で摘み上げて、新次郎に分けてくれさえした。
 そうやってうろうろとブロードウェイを南下したコングは、六番街との鋭角にあった公園に入り、噴水の水で…あまりの冷たさに驚きながらも…喉を潤した。乾きを癒して通りに出たところで、走って来たバスにぶつかりそうになって、避けるように東へと折れる。
 三十三丁目の通りはコングにはやや狭く、路肩に停まっていた車を何台か壊してしまった。だが、目の前に高くそびえる絶壁に気づいたコングは、急に足を速めた。そして、故郷の断崖を思い出したのか、その垂直なエンパイアステート・ビルの壁をよじ登り始めた。


 建設中に、信長によって安土城へと作り変えられてしまったエンパイアステート・ビルだったが、破損箇所の補修も終わり、外装部分はほとんど完成していた。コングは、嵌め込み窓の枠に手をかけて、新次郎を片手に握ったまま、するすると体を上へ運んでいく。そして、ビルの天辺が細くなる手前の、八十六階の屋根に辿り着いたところで、そこに腰を下ろした。


 いつのまにか雪は止み、雲が途切れていた。夜空には満月が顔を出し、煌々と静謐に輝いている。
 逆に、地上は喧噪に満ちていた。消防車、梯子車、パトカーなどがサイレンを鳴らしながら集まってきて、幾筋ものサーチライトが、コングの姿を求めてぐるぐるとさまようように走り回る。
「あー、キングコングに告ぐ!君は完全に包囲されている!人質を解放して、今すぐ降りてきなさい!」
 ソルト警部の杓子定規な声が、拡声器を通して遠く聞こえたりした。

「こんなことになって、ごめん…君を助けたかっただけなのに…」
 新次郎は項垂れ、詫びた。地上でこれ以上暴れるよりはと、コングがビルに登るのを止めなかったが、この騒ぎでは降りるに降りられない。

 コングは、帰り道を探すように、じっと黙って暗い海の向こうへと視線を向けていた。
「ここからは、君のふるさとは見えないよ」
 言って、新次郎もコングと同じように途方に暮れた。仮に下へ降りられたとしても、シアターに戻るわけにもいかないし、ブロンクビルまでの道のりを、コングと二人だけで穏便に移動するのは不可能だ。
 エイハブが来てくれたら。でも、意識のあるコングを乗せるのは難しいだろう。それ以前に、なぜ誰も助けに来てくれないのだろうか。キャメラトロンがないのが心細くてならなかった。

 尖塔部分の四隅の、トンボの羽を重ねたようなアールデコ調のガラス装飾が、月明かりを反射して幻想的に煌めいている。何より、紐育で一番高いビルの天辺から見おろす街の夜景は美しかった。目の前のクライスラー・ビルの、三角とカーブで出来たクリスマスツリーのような頭部。砂金の流れのような通りの灯り。イースト・リバーとハドソン川の河面は平らな鏡のようで、その上を船の灯りがゆっくりとたゆたっている。
 だが、高所の夜風は凍るようだった。新次郎がふるえていると、コングはしっかりと胸に抱き寄せ、風が当たらないように両手で包んでくれた。一方コングは、傷の縫い目の引きつれが気になるらしく、しきりに掻こうとする。新次郎はやさしく宥め、痒そうなところをさすってやった。


 身を寄せ合い庇い合ったまま、無為な時間がのろのろと流れていく。ただ待つ時間がつらかったが、他に何もできることはない。警官隊がビルの中から上がって来るのではと案じたが、後の策がないのか、その気配はなかった。
 だが、間もなく夜が明けるだろう。そうしたら、アメリカ空軍が出てくるかもしれない。そんなことになったらコングは無傷では済まないだろう。
 これはもうなんとかコングを説得して、一か八か降りるしかない、と新次郎が思った時だった。

 きいいん、と耳鳴りのするような音が、夜空の彼方から聞こえてきた。
 瞬く星々の間に、ぽつんと見えた小さな点は、薄雲を切り裂きながら大きくなり、何やら銀色のポッドのような形をはっきりと表した。
「プっっチミントさあーーーーーん!!」
 ぱんと開いたハッチから飛び出したのは、白スーツ姿の加山だった。ぱあっと花のように開いたパラシュートには、盛大なハートマークと「I LOVE PUCHIMINT」の文字が書かれている。
「加山雄一、リボルバーカノンにてただいま参上!今すぐお助けしまあーーーーーす!!」
「はあっ?加山さん?」
 新次郎が眼をぱちくりさせていると、加山は背負ったバズーカ砲をコングに向けて構えた。
「おのれ、化け物!プチミントさんを返せーっ!」
「駄目です、加山さ…」
 新次郎が止めに入るまでもなかった。ひょいと腕を伸ばしたコングは、ふわふわと落ちてくるパラシュートをくしゃりと掴み、ぽいっと投げ捨てた。
「あーーれーーーー」
「ああっ、加山さーん!」
 身を乗り出して下をのぞき込むと、出動していた消防隊員たちが、トランポリンを広げて受け止めるのが見えた。
「何だったんだ?今の…」
 どうして巴里華檄団の秘密兵器でやってきたのかまではわからないものの、加山が来たということは、月組が動いているということだ。ならば、シアター側は確かに状況を把握してくれている。間もなく助けがやってきて、この事態を打開できるのでは。

 希望を抱いた新次郎の耳に、聞き慣れた飛行音が聞こえた。





 白々と明け始めた空を背景に、尖塔を迂回して、紫色のスターが飛来した。




「あっ、昴さん…!」
 救いの神のごとく現れた姿に、喜びに輝いた新次郎の顔は、即座に凍りついた。
 タタタ、と無機質な発砲音をたてて、ランダムスターの二連装機銃がコングを掃射したのだ。

「昴さん!」
 何発かが確実に当たり、コングは顔を歪めて足や腕を押さえた。
「…そんな、昴さんが…、昴さんがコングを撃つなんて…!」
 先ほど武器を向けた加山は、何も事情を知らなかったようだから致し方ないかもしれない。だが昴は、自分がコングを大切に思っているのを知っているはずだ。
 コングは唸りながら、飛び去る紫の機体を睨みつけた。そして、ここにいろ、というように新次郎を壁際に押しやり、ランダムスターを追うように尖塔を登り始めた。
 旋回して戻って来たランダムスターが、再び掃射を浴びせる。
「昴さん!攻撃はやめてください!」
 新次郎は必死に叫んだ。コングは片腕でアールデコ装飾の段差に掴まりながら、ぶんと腕を振り回し、接近したスターを殴りつけようとした。間一髪ですり抜ける様に、新次郎の肝が冷える。
「君も、昴さんを攻撃しないでくれ!」
 怒りに駆られているコングは、新次郎の声を聞かず、さらに上へと登っていってしまった。

 慌てて周囲を見回すと、階下は展望デッキになっていた。デッキへ飛び降り、中へ入るドアを体当たりでこじ開け、大理石張りの床を駆けた。エレベーターはまだ稼働していなかったので、階段へと向かう。誰も見ているものがいないのをいいことに、新次郎はスカートの裾をからげて、二段抜かしで階段を駆け上がった。
 最上階の円形の展望台に辿り着き、デッキに飛び出して頭上を振り仰いだ。鉢を伏せたような円錐形の屋根部分にコングが仁王立ち、ランダムスターを威嚇している。
 
 傍らの壁に、かすがい型の梯子がついているのに気づき、新次郎は飛びついた。強い風が吹き付け、髪とスカートがばさばさと翻る。這いつくばるようにして天辺に辿り着くと、よろよろと立ち上がった。
 凄まじいまでの高さの、手すりも何もない、円形の狭い空間だ。あまりの危うさに足ががくがくとふるえ、自分の足ではないようだった。一瞬気が遠くなったが、歯を食いしばって堪える。

 向かってくるランダムスターと、吠えるコングの間に立ち塞がり、新次郎は声の限りに叫んだ。
「わたしのために、争わないでーーーーっ!」
「…ふざけていないで、そこをどけ!!」
 緊張感が解けるどころか、地獄の底で聞くような昴の怒声がスピーカーから響いた。


「昴さん、こんなのあんまりです!もうやめてください!」
「危険だと言ってるんだ!邪魔にならないように伏せていろ!」
「いやです!」
「怪我をしても知らないぞ!」
「構いません!」
 コングを守るように両手を広げ、新次郎は叫んだ。
「コングを撃つなら、ぼくを撃ってください!」

 一瞬、打ちのめされたように昴機は沈黙した。
「君は…君ってやつは…どうして…!」
 スターのハッチの内側から、歯ぎしりするような昴の痛憤が伝わってくるようだった。




 ふいに突風が吹き付け、プチミントのスカートがぱあっとめくれ上がった。
「わひゃっ!」
 思わず甲高い声をあげて抑えようとした弾みで、新次郎はバランスを崩し、よろめいた。
 強い風に体を押され、あっ、と思った時には足もとがなくなっていた。
「新次郎!!」
 昴の声を聞いた気がした。だが、悲鳴をあげるよりも先に、ぶんとコングの腕が伸びて、新次郎を掴んだ。
 心臓が口から飛び出しそうで、声も出なかった。コングは手の中の新次郎の置き場に困り、小さな足場よりはと、己の肩にひょいと乗せた。そうして両手を空けると、頭上に滞空しているランダムスターに向かって猛然とジャンプした。

 不測の攻撃に、ただでさえ新次郎の転落で動転していた昴の反応が遅れた。コングはランダムスターの鼻面を捕まえ、ハッチを殴りつけようとした。スターは、コングの半分ほどの大きさしかない。如何にファーレンハイト鋼のハッチが頑丈でも、コングの怪力で拳がめり込めば……。
「やめろーーーっ!」
 新次郎…プチミントは、コングの顔に飛びつき、その黒い唇にキスをした。



 キスと言っても、巨大な唇の端に顔を押しつけただけにしか見えなかっただろう。だが、コングは驚いたのか手を放した。

「なっ…!」
 ランダムスターがよろよろと失速し、あやうくビルの壁にぶつかりそうになるのが見えた。
 機首をあげ体勢を直したのを確認し、新次郎は真剣な眼差しで、心からコングに訴えた。
「あれには、ぼくの一番大切な人が乗っているんだ!だから、乱暴しないでくれ!」



 コングは暫しきょとんとしていたが、ふと眼をすがめ、重く呻いた。そして、いきなりがっくりと膝を折った。
「コング…!?」
 ずるずると滑り落ちそうになりながら、大儀そうに腕を持ち上げ、新次郎を掴んでどうにか屋根の上に戻した。苦しげに息を吐き、屋根を抱え込むようにしてかろうじて掴まる様子に、新次郎の血の気が引いた。
 いったい、昴はどれほどの掃射をコングに撃ち込んだのだろう。小さな銃弾でも、大量に当たっていれば相応のダメージになる。
 恐怖が新次郎の心臓を掴んだ。コングの体は次第にずり下がっていく。この高さから落ちたら、たとえコングでも助からない。

「コング!しっかり掴まって!」
 次第に力を失ってほどけていく指を、新次郎は無駄と知りつつも必死で引っ張った。
「いやだよ…こんなのってないよ!」
 コングはぼんやりと開けた眼で、じっと新次郎を見つめていた。
「駄目だ!コング!死なないで!」
 新次郎は涙声で叫んだ。黒い指に取りすがる。


 その指が、そっと頬を撫でたように思った。


 新次郎の腕の中から、ずるりと指が抜け、コングの体が屋根の下へと消えていった。


「コングーーーーーっ!!」





「今だ!行ったぞ!」
「「「「ラジャー!」」」」


 昴の声に、四人の答えが響いた。





「え…?」
 顔をあげる新次郎の前に、スターの飛行音が下から上がってきた。
 金色に輝く太いベルトのようなものの両端を、スターが二機ずつで吊り下げている。たわんだ中央はまだわずかにバウンドしていて、そこにコングの巨体が引っかかっていた。

 そのベルトに見覚えがあるような気がした新次郎は、眼を凝らしてようやく理解した。エイハブのスリングショット型発射装置の、超強化ゴムベルトだ。
「遅くなって、すみませんでした」
「これを外して持って来るのに、時間がかかっちゃたんだ」
「急ごしらえじゃあ、コングサイズのトランポリンは無理だからね」
「リカ、ナイスキャッチー!いししししっ!」

「ちなみに、昴が撃ったのは麻酔弾だ」
 ランダムスターから昴の声がした。
 見れば、足もとにいくつか落ちているのは、薬液の入った注射筒弾だった。
 確かに、コングの体のどこからも、血は流れていない。


「み、みんな…」
 呆然としていた新次郎の耳に、ようやく地上に湧く歓声が聞こえてきた。
 本当にコングは助かったのだ。
 津波のように安堵が押し寄せ、新次郎は息が苦しいほどだった。



「じゃあ、ボクたちはコングをもとの格納庫に運んでおくね!これにて、一件落着!」
 スターの機首を北北東に向けて隊列を組み、ジェミニが朗らかに宣言した。
「昴!新次郎の回収、頼んだよ!」
 そう言ってマイクを切り、ついでに仲直りもしろよ、とサジータは付け足した。







 四機のスターが飛び去ると、昴がランダムスターを滞空させて、尖塔の屋根に横付けした。ハッチを開け、高所をものともせず、ひらりと降り立つ。
「君ってやつは…!」
 昴は焔でも吹きそうなほどに怒っていた。間近に迫り、ぐい、と胸ぐらを掴まれた。
 荒々しい剣幕に、また叩かれるのだと思って、新次郎は眼を瞑った。




 だが、頬を打つ痛みの代わりに、甘い髪の香りと、仄かなぬくもりをふわりと感じた。

「無茶をするなと言ってるんだ…!」
 新次郎の胸に、額を押し当てるようにして、昴が呻いた。
「君が、死や危険を仄めかすたびに、昴の心は引き裂かれる。頼むから、命を粗末にするような事はやめてくれ……危険な真似は、しないでくれ…!」



 悲痛な昴の声が、新次郎の胸を深々と衝いた。



 自分が、コングの島からずっと、心配をかけたことを一言も詫びていないのにようやく気づいた。
 さらには、目の前の事件…コングのことに夢中で、すっかり仲間たちを…昴を蔑ろにしていたことも。
 なのに、迷惑をかけた自分を、誰も疎まずに、当たり前のように助けてくれた。そして、自分は一人では何もできなかった…どんなにか助けを心待ちにしていた…。


 寒風に凍えた体が、かあっと熱くなった。それは消え入りたいほどの強い羞恥でありながら、その根底に、紛れもない喜びと感謝を包んでいた。




「…すみませんでした」
 新次郎は深く頭を下げた。
「心配ばかりかけて、本当に、すみませんでした。ぼくは、みんなに支えてもらってたのに…それが見えなくなっていた」
 戻ったら、みんなにも謝ろう。思いながら、しかし新次郎は顔をあげて言った。
「でも、もし、どうしても必要な時は……ぼくは、やっぱり危険を冒してでも、戦います。大切なものを守るためなら」

 昴は一瞬面食らったように眼を剥いたが、じっと新次郎を睨みつけ、やがて冷静さを取り戻した声で言った。
「…わかった。ならばその時は、昴も、全力で君を守る。…いいな」
「はい!」
 無邪気な笑顔で、新次郎は元気いっぱいに答えた。昴に気持ちを伝えることができた。昴がそれをわかってくれた。そう思うと、心がゆるゆるとほぐれて、幸福が満ちてくるのがわかった。



「…それから」
 唐突に新次郎の首を引き寄せると、昴が深く唇を合わせた。

 一拍の虚脱の後、新次郎は脳天から湯気を噴いてあわあわとうろたえた。
「すっすっすっすばるさっ…」

「君の唇は昴のものだ。気安く他者にふれさせるな」
 濡れた唇を拳で拭い、むっつりと言い渡しながら、昴の頬も幾分紅いようだった。













 サニーサイドが旗を振るまでもなく、無茶な興業で紐育市民を危険に晒したと、ボーナムは非難の集中豪雨を浴びた。勿論、プチミントを誘拐し、不当に出演させたことも追求された。さらにはコングが暴れた被害額が多大な負債となり、ボーナムは破産して、ブラントンとともに行方をくらませた。なんでも、懲りずにまたコング並みの巨獣を捕まえて儲けようと、紐育港から旅立ったという噂だった。スマトラあたりで巨大な蛾を探しているという噂もあったが、真偽の程は定かではない。いずれにせよ、二人はそれっきり紐育には戻らなかった。









 コングが目覚めた時、そこは懐かしい山上の巣穴だった。気温は暖かく、傷を止めていた鬱陶しい糸もなくなっていて、爽快な気分だった。
 岩穴の張り出しに、「大事な小さな生き物」がいた。その背後には何やら「大きな飛ぶもの」が見え、周囲に五人の小さな生き物たちがいる。うち一人には見覚えがあった。どこかで、「ライバル」として視線を交えた相手だった。
「気分はどう?コング。君の家に帰って来たんだよ」
「大事な小さな生き物」が声を発した。
「君にも、ちゃんと言ってなかったね…何度もぼくを助けてくれて、本当にありがとう」
 その表情から、コングは、これが別れの時なのだと悟った。


 こうして自分の住み処に帰って来てみると、コングにもわかったことがあった。あの寒く硬く、夜なお明るいジャングルが、「大事な小さな生き物」の住まう場所なのだ。この島が自分の場所であるように。そして、この五人が「大事な小さな生き物」の「群れ」であり、ファミリーなのだと。
 ならば、自分たちは互いに、それぞれの場所に帰って然るべきなのだ。

 だが、名残惜しさは拭いがたかった。じっと見つめ合うと、「大事な小さな生き物」は、頭に手をやり、髪を持ち上げるような仕草をした。
「コング、ぼく、本当は…」
 それを、「ライバル」が止めた。
「昴さん…?」
「プチミントは、プチミントのままでいい」
 瞳を見交わし、心を通わせ合う様子に胸が妬けた。同時に、この二人はつがいだったのだと思い至り、コングはようやく諦めがついた。

「元気でね、コング!」
「大きな飛ぶもの」の四角い穴から、「大事な小さな生き物」が、千切れるほどに手を振っていた。
「きっとまた、遊びにくるよ!」
 声の意味はわからなくとも、その思いはコングの胸に伝わった。

 いつか、また「大事な小さな生き物」に会える時がくるだろう。

 遠ざかっていく「大きな飛ぶもの」を、コングは見えなくなるまで見送った。










「さ、帰ろう!ボク、なんだかすっごくラリーに会いたくなっちゃった!」
 メインデッキの椅子で伸びをしながら、ジェミニが懐かしむように言った。
「コング、もうブラントンみたいなやつに会わずに、安心して暮らせるといいな」
 リカの声に、ダイアナがやさしく答える。
「エイハブの蒸気レーダーでもないかぎり、あの霧と磁気では、簡単に船は近づけないでしょう。あの島の秘密を脅かすものは、そうそうないと思いますよ」


「しかし…わからないな」
 サジータが顎を押さえて呟いた。
「コングはなんだってあんなにプチミントを気に入ったんだ?中身が男だってこと、野生動物のコングがわからないはずがないだろうに」

 皆、一様に考え込む。

「わかった!風邪ひいて鼻が詰まってたんだよ」
「もしものゴハンだと思ってたんだな!」
「同性がお好みだったのではないでしょうか…?ふう…」


「違うな」
 昴の声が、りん、と通った。
「きっと性別などどうでもよかったんだよ。所詮、器の問題にすぎないからね」


 新次郎はうれしそうに破顔し、昴の席を振り返って言った。
「なあんだ。案外、昴さんと気が合ったんじゃないですか?」
「…さあて、ね」
 昴は澄まし顔で鉄扇を揺らしながら、小さく微笑んでいた。







《了》 




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