ラスト・デイズ  (1)






 最初、バスルームの鏡が水蒸気で曇っているのだと、新次郎は思った。


 明け方まで続いたニューイヤーパーティーから帰宅し、一眠りする前にシャワーを浴びたのだった。
 肋骨の間の五輪の痣が、濡れたインクの文字のように滲んで見えた。ふれると、何やらひんやりと心臓が冷えるような感覚があった。甲板に長時間いたのがいけなかったか、妙な寒気もする。これはしっかり休養を取らねばと、新次郎は朝日の差し込む窓のカーテンを閉め、ベッドに潜り込んだ。今日は、シアターは一日休みということになっている。
(午後に眼が覚めたら、夕飯を一緒にと昴さんを誘ってみようかな…)
 ぼんやり考えながら、新次郎は幸福だった。

 金鎖のように連なる船の灯りの下、甲板で昴と踊った。
 繋いだ手のぬくもり。夜風になびく黒髪。穏やかに満ち足りた、昴の笑顔。
 そして、別れ際に交わした、小さなおやすみのキス…。

 戦いは終わった。これからは平和な日々が始まる。
 今日は昴の夢を見て眠ろう。








 夢の中に、果たして昴の顔が現れた。
 しかし、その姿は、灰色の修道服をまとっている。
 前世で失われた、名もなき異教の修道女。
 彼女は跪き、指を組んで、新次郎のために祈っていた。

(かくも良きもののふの、虚しく失われるより他にすべもなしとは、なんとも惨き五輪曼荼羅のさだめ…)
 修道女の頬を、憐れみの涙がつたう。
(迷いなく曼荼羅の真中に立たれたその心根の強さ、天晴れではございますれど、報われることはありませぬ)

(どういうことですか)
 夢の中とわかっていながら、新次郎は問いかけた。

(五輪曼荼羅は、その真中に立つものの命を使い、喰い尽くして、初めて達せられる呪法…)
 悲しげな顔で、修道女が答えた。
(貴方様の今永らえるは、必ずや生きて帰ると誓ったお心の、その強さゆえの残り火に過ぎませぬ。やがて燃え尽きるでありましょう)

(…ぼくが、もうすぐ死ぬっていうんですか)
 昴と同じ顔が、静かに頷いた。
(貴方様のお命は、既に失われているのです)
(そんな…馬鹿な)
(五輪の痣の滲みが心の臓に達するとき、貴方様の残り火はついえまする)
 新次郎はこの不吉な夢から覚めようと必死に藻掻いた。藻掻きながら、同時に問わずにはいられなかった。
(教えてください。ぼくは、あとどのくらい生きられるんですか)
 か細い声が、最後に聞こえた。

(およそひと月…)





 キャメラトロンの呼び出し音で、新次郎は眼が覚めた。
 いやな夢を見た後の常、心臓がばくばくと鳴っている。
 部屋の中は暗くてよく見えない。慌てて枕元のスタンドランプを点け、キャメラトロンに手を伸ばす。
 スイッチを入れると、昴の顔が映し出された。
「やあ、新次郎…まだ眠っていたのか…?起こしてすまなかったね」
「あ、いえ…」
 答えながらカーテンを開けると、外はもう夕焼けが消えかけていた。随分長い時間を眠ってしまったようだった。
「その…昴の部屋で、夕食でも一緒に、どうかと思ってね…。君の、都合さえよければ、だが…」
 昴の言葉に反応して、新次郎の心は躍った。
「よろこんで!…実は、ぼくからも、誘おうと思ってたんです。支度をして、行きますね。何時頃に着けばいいですか…」

 通話を切って、新次郎はしばらくぼんやりしていた。
 ひどい寝汗をかいていた。出かけるなら、もう一度シャワーを浴びなければ。
 ベッドを降りてバスルームに向かい、寝間着を脱ぐと、再び鏡に五輪の痣が映った。
 鏡が曇っているのではない。小さな花の形は、滲んだような分だけ、広がっているように見える。
(きっと、皮膚が炎症を起こしてるとか…そんなことに違いない。これのせいで、あんな縁起でもない夢を見てしまったんだ。明日、ダイアナさんに診てもらって…塗り薬か何かもらって…)
 指でごしごしと擦ってみるが、周辺が赤くなるだけで、痣に変化はない。代わりに、指にはひんやりと冷たい感覚が残った。





「今日の君は、なんだか妙にはしゃいでいるな」
 昴に指摘され、新次郎はナイフとフォークを持つ手を止めた。
「え…そうですか?…ああ…昼間に、いやな夢を見ちゃったので、その分、楽しくしていたいのかもしれません」
「ふうん…どんな夢だい?」
「……」
 新次郎は躊躇った。前世で五輪曼荼羅の犠牲になった修道女さんが出て来て、ぼくはあとひと月で死ぬって言うんですよ。誰も犠牲にしないってぼくは誓って、ちゃんと生きて帰って来たのに、やっぱり駄目だったって…。
「…やめておきます。折角の美味しい食事が台無しになっちゃいますから」
 窓辺にセッティングされたディナーテーブルの片側には、セントラルパークの夜景が広がっている。シェフの腕の振るわれたコース料理の味は申し分なく、目の前に座る昴はこの上なく美しい。
 こんな幸福な時間が、あと三十日で終わってしまうなんて、どうして信じられるだろう。夢見が悪いにもほどがある…。不安を払うように、新次郎は笑顔を作って明るい声を出した。
「なんだか、夢みたいです。戦いが終わって、平和になって、こうして昴さんと二人で過ごしているなんて…」
「ふふ…だが、あまり浮かれるなよ。ホテルのロビーを通ったなら見ただろう?家を失った人々に、空き部屋を無料で提供しているんだ。瓦礫で埋まった通りもあるし、病院は負傷者でいっぱいだ。まだまだ、この街がもと通りになるには遠いよ」
「そうですね。早くみんながもとの生活に戻れるよう、ぼくも頑張ります」


 食後のコーヒーを飲み、蒸気テレビの映画を見終えると、日付が変わる時間も近かった。
「今日はありがとうございました」
「リムジンで送るよ」
「いえ、大丈夫です。タクシーがありますから」
 外套を着込み、マフラーを首に巻いて、新次郎はドアの前で昴に向き直った。
「…じゃあ、おやすみなさい」

 昨日と同じ、軽いキスを、するつもりだった。
 だが、昴の肩を抱いた途端、急に不安の波が襲いかかった。

 あの夢が、真実だったらどうしよう。
 まだ死にたくない。
 もっと、もっと、こうして、昴とふれあっていたい…。
 死ぬのは怖い…!

 抱きしめる手に力が入った。
 深くなったキスが、ついと鉄扇で遮られた。
「…性急だな、新次郎。調子に乗りすぎてや、しないかい…」
 咎める昴の声は、硬い。
「す、すみません…どうか、してました…」
 恥じ入り、殊勝に詫びると、昴は許容の笑みを浮かべてくれた。
「また明日、シアターで会おう」










 痣が大きくなっている。

 翌朝、ベッドの中で己の胸を見おろした新次郎は、石のように硬直した。
 五輪の痣は、そもそも親指の爪の先ほどの小さなものだ。それが、今はどう見ても軽く倍の直径になっている。そして、何やら色も黒ずんでいた。


 ざあ、と音をたてて血の気が引いた。
「そんな…」
 修道女の言葉は、真実だったのか。
 このまま、日々痣が広がり、やがて三十日目に心臓に達すれば…。
「ちょっと待って…待ってくれよ…!」

 新次郎は無意識に叫んでいた。
「冗談じゃないぞ…!」
 こんな痣、引き剥がしてやる。思わず爪をたてると、背筋が凍るほどの冷たい痛みが指先に走った。
「うあっ…!」
 黒くなった皮膚の裂け目から血は流れず、同じ色の肉がのぞいている。
 それは、まごう事なき、死の色だった。



「医者へ…」
 ベッドを飛びだそうとして、動けなくなる。
 無駄だ、という確信が新次郎を打ちのめす。
 医学で治るものではない。この死の刻印を、人の力で消すことはできないのだ。

 どうしよう。

 どうしよう。

 長い時間、新次郎はそのまま根が生えたように動けずにいた。何も考えられなかった。
 何も見えず、何も聞こえず、息をすることも忘れたように、うつろな眼差しのまま凍りついていた。


 ようやく動けるようになると、うろうろと狭い部屋の中を歩き回った。
 鍛錬にパークへ行く気にもならない。キッチンに、朝食用にと買ったパンが置いてあるが、食欲も勿論ない。
 なんとか、なんとかならないのか。何か方法はないのか。
 相談すべき相手の顔を探した。昴、王、ダイアナ…。
(貴方様のお命は、既に失われているのです)
 修道女の声が耳に甦り、新次郎は刺されたように呻いた。

 ベッドに戻って、毛布を頭から被った。
 もう一度、夢であの修道女に会って、何か方法がないか尋ねることができれば。
 しかし、緊張しきった心臓の音が耳にやかましく、さっぱり眠れそうにない。それに、そんな方法などないのだと、心のどこかで悟っていた。
(貴方様のお命は、既に…)
「やめろおっ…!」
 耳を塞いで、叫んだ。

「ぼくは、死ぬのか」
 呆然と呟いた。
 まだ二十と…半年に満たない。
 あんまりではないか。これから先の人生は。
 この見知らぬ異国に来て、必死に戦って、紐育の街を守り抜いた。
 その代償が、これか。

 ひどい。
 まだ死にたくない。
 ぼくはまだ若い。
 やりたいことがたくさんある。死ぬには早すぎる。

 涙が溢れた。
 毛布の中、芋虫のようにまるまって、新次郎は嗚咽した。
「母さん…助けて…」
 故郷の母を思い、子供のようにその名を呼んで助けを求めた。
 どうしたら死神の刃から逃れられるのか。
 荷物をまとめて日本に逃げ帰りたい。
 しかし、逃れる場所などないのだ…。





 どのくらい、そうしていただろうか。
 ふいにキャメラトロンが鳴り、新次郎は飛び上がった。
 スイッチで現れたのは昴の顔。
「おはよう、新次郎。…まだアパートか…どうしたんだい…?具合でも悪いのか?」

「す、昴さん…ぼく…ぼくは…」
 空気が、ぐつぐつと煮えたぎるようで、うまく息ができなかった。
「すみま、せん、今日は休みます。体調が悪いので」
 どうにか言葉を紡ぐと、小さなモニタの中で、昴の顔が心配そうに曇るのがわかった。
「大丈夫か…?待っていろ。今、そちらへ行く」
 ただならぬ気配を感じ取ったのか、唐突に通信が切れた。

 新次郎は、荒い息を吐きながら、キャメラトロンを握りしめて立ち尽くしていた。
 そちらへ行く、と昴は言った。シアターのエレベーターを降り、今頃タクシーを捕まえている頃か。間もなくここに昴がやってくる…。

 新次郎はぶるぶると頭を振った。そして、深呼吸を幾度も繰り返した。
 ようやく呼吸がいくらか落ち着くと、机の引き出しから、叔父にもらった布袋を取り出した。
 中から取りだした鏡に、己の顔を映す。



 ひどい顔だった。
 負け犬の顔だ。涙に汚れ、怖じ気づき、尻尾を巻いてふるえている。
 叔父に倣って海軍を志願したときに、紐育に赴任したときに、…何より、決戦に赴く前に、自分はとうに死を覚悟していたではないか。
 人々を守るために、この命を投げ出す覚悟があった。生きて帰る、という誓いは、死を賭して初めて生まれる言葉だ。
 なのに、なぜ自分は今になって、こんなにも醜く情けなく死の影に怯えているのか?

(もう少し、未来を見てみたかった…)
(平和になったら報告してくれ…)

 あの日の、舞台袖での昴の声が耳に甦った。

 あの時、昴は死ぬつもりだった。
 昴が立とうとした場所に自分は立った。

 そうだ。自分は昴の代わりに死んだのだ。
 いとしい人の、その命に代われるのなら、自分の命がどうして惜しいだろう。

 自分は既に、あの戦いの中で死んだ。
 けれど、頑張った褒美に、特別に三十日の猶予をもらえた。
 そう思えば、どうにか心穏やかに、最後を迎えられるのでは…。




「…新次郎?」
 ノックの音とともにドアが開き、昴が入って来た。
「大丈夫か、新次郎…!ひどい顔色だ…風邪か?」
「…昴さん」
 昴は心配そうにしながらも、てきぱきと動いて新次郎の額に手を当て、手首の脈を取った。
「熱はないな…だが、心拍数があがっているし、体も冷えている。もっと部屋を暖めなくては…」
 蒸気ヒーターのスイッチを入れ、新次郎に毛布を巻き付ける。
「何か食べたのか?…いいから、君は寝ていろ。今、昴が何かあたたかいものを作ってあげよう…」
「昴さん」
 キッチンへ去ろうとする昴の手を握った。
「昴さん……ぼく…」
 昴の心遣いが、やさしさが、新次郎を揺さぶっていた。



 ぼくは死ぬんです。あと三十日で。
 そう言えば、昴はどうするだろう。
 驚き、悲しみ、そして、最後の日まで、ありったけのやさしさを注いでくれるだろう。
 そのやさしさに甘えたい。
 ぼくはもうすぐ死ぬんですから。
 そう言えば、昴はなんだって許してくれるだろう。
 どんな子供じみた我が儘も、不埒なことも…。

 ぶらんぶらんと振り子のように揺れる心がもどかしい。ようやく固まりかけた覚悟が、昴の姿にぐずぐずと崩れてしまう。

 ぼくはもうすぐ死ぬんです。だから、慰めて。やさしくして…。死ぬのは怖い。一人にしないで…最後の瞬間まで、そばにいて…。




 だが、その言葉で、昴の笑顔は消える。




 命の尽きる最後の瞬間まで、もう二度と、昴の心からの笑顔を見ることはなくなるのだ。
 ただ、絶望と悲しみに堪える、忍耐強い苦しい笑顔か、腫れ物にさわるような、いたたまれない気遣いが司るやさしさだけ。




 いやだ。




 新次郎ははっきりと思った。

 たとえ鉄扇で冷たくあしらわれても。
 悲しい顔でやさしくされるよりは、昴の普通の笑顔を見ていたい。
 昴の涙を、苦しむ顔を、見たくない。





 新次郎は眼を閉じ、ゆっくりと呼吸した。
 そして、顔をあげ、昴を見つめ、微笑む。

「いえ、なんでもないです…。来てくれてありがとうございます」

 そう言って、そっと手を離した。





 最後の日まで、可能な限り、普通に過ごそう。
 新次郎は固く心に誓った。
 この体が動く限り、シアターへ行って働こう。
 三十日後に人生が終わることなど、知らないように生きよう。
 多分、それが最も贅沢で最適な時間の使い方だろう。



 本当なら、あらゆる手段を尽くして、すべての人に助けを求めて、生き延びるすべを探したい。
 決して諦めずに、無様でもいいから生きるために足掻きたい。

 だが、最早この身が死んだものなら、無駄な足掻きに時間を割くのは惜しい。

 そしてなにより、死期を明かすことは、大切な人々の心と生活を傷つけるだろう。
 不安と悲しみをもたらし、心をすり減らし、笑顔を奪うだろう。

 そんなことになるくらいなら。

 誰にも知らせずに、自分は普段通りに生きてみせる。

 いつもどおりに。
 何事もないように。





 そして、願わくば、最後の三十日で、何か出来ることがあればいいのに…。
 そう思いながら、昴の作ってくれたハチミツ入りホットミルクを飲んでいると、傍らに座った昴が言った。
「そうそう。朝食ミーティングでね、サニーサイドの提案なんだが…チャリティーショウをやろうという話があってね」
「何のチャリティーですか?」
「紐育復興支援のためだ。この間のクリスマス公演みたいに、一月三十日の土曜日に、一日限りの…」
「待ってください、何日ですか」
「だから、一月三十日だよ。ほぼ一ヶ月後だ。慌ただしいが、復興は急務だからね。急いで広告を打って準備をすれば…」
 日付の数字が、天啓のように、新次郎に響いた。

「やりましょう!」
 拳を握り、力強く、新次郎は言った。
「ぼくも、全力で手伝います。だから、みんなでやりましょう!」
 新次郎はカップを置き、起き上がった。
「ぼく、もう元気になりました。だから、今からシアターに行きます。詳しい話を、サニーさんに聞きたいです」
 突然の勢いに、昴は唖然としていた。
「いったいどうしたんだ、新次郎。もう少し休んだほうが…」
「いえ、そんな時間、ぼくには…」
 言いかけて、声が萎みかけた。咳払いで誤魔化し、続ける。
「時間、勿体ないですから。一ヶ月ですべて準備するんですからね」
 もう既に一日、無駄にしてしまった。寝てなんかいられない。人生の最後に成し遂げるべき仕事を見つけたのだ。



 自分の、最後の三十日を、この舞台にかける。





《続く》 




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