Lovin'You

〜前編〜

 マリアの誕生日から1週間ほど経ったある日。マリアの部屋に大神がやってきた。
「マリアいるかい?」
「隊長…外出着なんか来て、どうなさったんですか?」
「今日、暇かい?」
「ええ…特に用事はありませんが…」
「よかったら今日は俺につきあってもらえないかな、かえでさんにはちゃんと許可をもらってきたから。」
「え…」
一瞬、戸惑うような表情を見せたがすぐにマリアは輝くような微笑みを浮かべた。
「はい。喜んで。」
「よかった。じゃあ、俺は玄関で待ってるから。用意が出来たら降りてきてくれ。」
「はい。隊長。」
大神を見送ったあと、鏡の前に立った。スーツの襟を整え、髪を念入りにブラッシングして、いつもよりすこし明るい色の口紅をつける。鏡の中の自分がひどくうきうきしてるのを感じて、マリアは思わず微笑んだ。しかし、次の瞬間ふとマリアの表情が曇った。

 果たして自分はこんなに幸せでいいのだろうか。

 今で自分の上を通ってきた人々の姿が走馬燈の様に頭をよぎる。しかし、その度にうち消してくれる声が聞こえた。

 『いいのよ、あなたは生きているんだから。』

それはマリアを破滅から救ってくれた藤枝あやめの声だ。マリアはその声に元気づけられるように、そっと紐育で新しく買ったロケットに手をやってそっと瞼を閉じた。


 玄関に行くと、大神は蒸気タクシーを止めて待っていた。梅雨の中休みの日差しよりも、大神の笑顔がまぶしくてマリアはちょっと眼を細めた。
「すみません、遅くなって。」
「いや。さあ、乗って。」
促されるままに乗り込むと、行く先を告げることもなく、タクシーは静かに発車した。
「あの…隊長、今日はいったい…」
「マリアの誕生日はみんなでパーティだったからね。今日はそのやりなおし、二人きりで。」
「…隊長……」
マリアは眼を見開いた。
「迷惑…だったかな。」
「いいえ、そんな迷惑だなんて…とても、うれしいです。」
少しはにかんだようにいう大神にマリアは輝くような笑顔で答えた。

 タクシーは横浜港の入口で止まった。
「やっぱり僕らの想い出の場所というとここしか思いつかなくてね。」
少し照れたように大神が言う。
「…そうですね…。ここには色んな想い出があります。」
二人はだまって穏やかな海を見つめた。
「レストランを予約してあるんだ。時間があるから少し歩こうか。」
大神の言葉にマリアは頷いた。
レンガ造りの建物が建ち並ぶ道を二人は他愛もないことを話しながら歩く。しかし、二人ともそんな小さなことが幸せと感じていた。

大神の予約していたレストランは港を望む一流ホテルだった。仏蘭西料理のフルコースのディナーを食べながら、マリアは声を潜めて言った。
「いいんですか?隊長。こんなところ…なんだかとても高そうで…」
「大丈夫だよ。ちゃんと今日のために貯金してきたんだから。心配しないでくれよ。前のようなことはないさ。」
「…今日のためって…私の誕生日のために…ですか?」
「ああ。いつかこんな風に二人っきりでお祝いしたいと思ってたんだ。」
「…隊長………」
二人の手がテーブルの上でそっと重なり合った。
 食事を済ませた二人は地下のバーでグラスを傾けていた。
「こんな風に隊長に誕生日を祝ってもらえるなんてなんだか夢みたいです。」
「俺もさ。」
「…隊長、本当に今日はありがとうございました。こんな素敵なプレゼント初めてです。」
「待ってくれよ、マリア。まだ、これで終わりじゃないんだ。」
「え?」
大神はポケットからホテルのルームキーを出して驚いているマリアの前にそっと置いた。
「…隊長……」
「ここに部屋を取ってあるんだ。本当のプレゼントはそこで。」
「……困ります…隊長………そんな……」
「ちゃんとかえでさんと長官には外泊許可はもらってあるよ。今日は朝までつきあってくれるね。」
真摯に見つめる大神の瞳に促されるようにマリアは小さく頷いた。
「ありがとう…マリア…」
大神の手がそっとマリアの肩を抱いた。

 ホテルの部屋に向かうマリアはまだ迷っていた。このまま大神と部屋に泊まるということは一夜を伴にするということ…つまりは大神に抱かれるということだ。大好きな大神に抱かれることがイヤなわけではない。むしろ、とてもうれしいことだった。しかし……。マリアは処女ではなかった。そのことがどうしてもマリアのとまどいを覚えさせていた。
 マリアはロシアから一人アメリカに渡り、紐育のハーレムに住み着いた。そこで用心棒をやっている時、酔ったその組織の幹部に無理矢理犯されたのだ。自らの破滅のみを望んでいたマリアにとってその時にはそれほどの出来事ではなかった。しかし、愛する人を得た今、そのことが重い枷となっていた。

(私の身体は穢れている…)

 毛足の長い緋色の絨毯を大神に肩を抱かれながら歩きながら、マリアはそう感じずにはいられなかった。


「さぁ、マリア。」
大神に促されたものの、マリアは最後の1歩が踏み出せないでいた。
「どうしたの?マリア。」
「…隊長…やはり、私……ダメです。私なんか……私なんか隊長にはふさわしくありません。」
呟くように言う、マリアの肩にそっと大神は手を置くと、穏やかに語りかけるように言った。
「マリア…それならせめてその訳を聞かせて欲しい。とにかく部屋に入ろう。」
しばらく俯いたまま考えるようにしていたが、やがてマリアは小さく頷いて、部屋の中へ入った。
 部屋はオーシャンビューのセミスウィートルームだった。窓の外には港の灯りがまるで地上に散らばった星のように煌めいていた。
 大神はベッドサイドのランプだけつけると窓際のソファーにマリアを座らせるとそっと唇を合わせようとした。しかし、マリアはそれに顔を背けてしまった。
「ダメです、隊長。私には隊長に愛してもらう資格はないんです。」
叫ぶように言うとマリアは両手で顔を覆って俯いてしまった。
「マリア………」
大神はそんなマリアの手をそっと取ると自分の両手でそっと包む。
「…でも……私は…穢れているんです。隊長に抱いてもらえる資格なんてないんです…」
マリアの碧の瞳から涙がこぼれ落ちる。
「こんなことなら、あのときもっと抵抗していればよかった…相手を撃ち殺してでも抵抗すべきだった……」
涙は後から後から流れ落ちて二人の手をぬらしていった。
「マリア……俺も君に話しておかなければならないことがある。」
マリアの返事はない。ただ低く嗚咽が続くだけだ。かまわず大神は続けた。
「俺が士官学校の時…俺は恋をした。」
マリアの身体がびくんと小さく震えた。
「その人は「環」。彼女と初めて先輩に連れられて行った遊郭だった。」
「遊郭…ですか?」
「ああ、その人はもともとは先輩が贔屓にしていた遊女だったが、出身地が同じということで、俺の最初の相手にと紹介されたんだ。とにかく優しい人でね、故郷を離れて1年ぐらい経った頃だったからちょっと淋しくなっていたところだったんだな。その晩は結局二人で故郷の話をしただけ。それからもたびたび遊びに行っては、一緒に酒を飲みながら故郷の話をして、そのまま俺が酔って寝てしまうということが続いた。俺が環さんを抱いたのは数ヶ月後。環さんの身請けが決まったというときだった。『今日が最後です』という環さんを俺は抱いた。しかし、その時わかってしまったんだ。自分が環さんを女として愛しているのではないことが。身体は燃え上がっていくけど、頭の中はどんどん冷めていく。そんな感じで…俺は姉さんのような感じで環さんを慕っていたのだとその時気づいた。次の日俺はなんとも言えない虚しさを抱えて遊郭を後にした。それ以来本当に愛した人としかもう一夜は伴にしないと誓ったんだ。」
「え?…隊長…それは……」
「愛してる、マリア。…君に辛い過去があったことは知っている。それで君が自分を責め続けていたことも。でも、俺が好きなのはそんなこともすべて含めた今のマリアだ。わかるかい?」
大神に強く手を握られ、マリアは涙に濡れた瞳をあげた。
「でも、隊長…私は……私は無理矢理とはいえ、たいして知らない男に身体を許してしまったんです。…そんな私が…」
「マリア…」
大神はすばやくマリアを抱きしめた。
「マリア…君を愛してる。世界中のだれよりも…俺を信じてくれないか?」
「……隊長…」
マリアの瞳から新たな涙が溢れた。

(私はこの人の腕の中で本当に生まれ変われるかもしれない…。)

大神の胸に抱かれ、マリアはそっと眼を閉じた。



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