魔法の家
ぼくは絶体絶命のピンチだった。 溝に突っ込んだ足は泥だらけでぐちゃぐちゃのびしょびしょ。破れた羽目板で擦ってしまい、膝のあたりがひりひりする。ぼくを脅かした大きな犬は、まだわんわんと恐ろしい勢いで吠えていた。 柵の向こうから、今にも飛びかかってきそうだった。めくりあがった唇の下から、真っ黒な歯茎と鋭い犬歯がぎらぎら光っている。恐怖のあまりぼくは溝から足を引き抜くことも出来ないでいた。 ちゃんと学校へ行けばよかった。学校をさぼったから罰が当たったんだろうか。 どうしていいかわからなくて涙が出てきた。先生もお母さんも、男の子は泣いちゃいけないって言ってたけど、泣けちゃう時はもうどうしようもないんだ。 大声をあげて泣き出しそうになった、その時だった。 「こらっ、ケリー、静かになさい!」 後ろの垣根ごしに、女の人の声がした。犬は、くうんと鳴いて、ぴたりと静かになった。 「大丈夫?お向かいのケリーは誰にでも吠えるから…あらあら。溝に落ちちゃったの?」 ぼくは振り向いて、びっくりした。 すごく大きな女の人だった。お父さんよりも大きいと思った。なによりびっくりしたのは、その女の人が外人さんだったことだ。 金色の髪。白い肌。眼はソーダ水のびんみたいな緑色だった。そして、とてもきれいな人だった。女神とかお姫様とか、そんな言葉が頭に浮かんだ。 ぼくは馬鹿みたいに黙って女の人の顔を見ていた。横浜は外人さんがいっぱいいる町だから、ぼくも初めて見るわけじゃない。でも、やっぱりちょっとおっかなかった。どうしよう。英語なんかわかんないよ。そう思ったけど、考えてみたらこの人がしゃべっていたのは日本語だったような…。 「まあ大変、膝から血が出てる。ちょっとおばさんのおうちにいらっしゃい。手当してあげるから」 何も言えないぼくを、女の人は溝から引き上げてくれた。そして、肩を抱いて、小さな門を通してくれた。 そこは、とってもきれいなお庭だった。広くはないけど、ピンクや黄色や紫の花がたくさん咲いている。煉瓦で区切ってあったり、素焼きの丸っこい鉢が並んでたり。隅には小さな池があって、睡蓮の花がぽっかり浮かんでた。金魚か鯉がいるかなあ。ちょっとのぞいてみたいな。 三色すみれとバラはぼくも知ってるけど、あとはもう名前のわからない花ばっかりだった。でも、白い花をつけてる小さな木はカラタチじゃないかと思った。学校の庭にもあるから知ってる。 庭ばかり見てると、おばさんの呼ぶ声がした。 「坊や、入ってらっしゃい」 ぼくは振り向いて、家を見上げた。洋風の、えんじ色がかった赤い屋根と白い壁。窓の桟も白くて、掛けがねやドアの取っ手はにぶい金色だった。 ぼくは、このあいだ読んだグリム童話の中のお菓子の家を思い出していた。あんなにおもちゃみたいにごちゃごちゃしてるわけじゃないんだけど、すごく不思議な感じがしたんだ。ぼくはおとぎ話の世界に入っちゃったんじゃないかって。こんなにきれいな家もお庭も、この世の中に本当にあるんだろうかって。 おばさんは玄関で、濡れたぼくの靴を脱がせて、綺麗なタオルで足を拭いてくれた。それから、絨毯のしいてある部屋につれていってくれた。 蒸気蓄音機とラヂオが置いてあって、ソファの向こうには小さな暖炉もある。台所にはおなべやフライパンが並んでて、そっちには小さなテーブルと椅子が二つあった。おばさんはぼくをソファに座らせて、救急箱を持ってきて傷に絆創膏を貼ってくれた。 「ちょっと待っていてね。靴を洗ってくるから。そうだわ。おやつでも食べていて」 おばさんはそう言って、ミルクの入ったコップとクッキーを持ってきてくれた。クッキーはほんのりオレンジの香りがして、固くて甘いオレンジの皮みたいなつぶつぶがついていた。こんなの初めてだ。 「わあ、いただきます!」 ぼくはもううれしくって、すぐにおやつに手をのばした。そこでようやく、まだお礼を言ってないことに気がついて恥ずかしくなった。 「おばさん、どうもありがとう!」 慌てて言うと、 「いいのよ、久しぶりのお客様でおばさんもうれしいわ」 と答えてくれた。 白いエプロンをしたおばさんは、庭に出て、水道の水でぼくの靴をごしごし洗ってくれていた。 「坊や、お名前は?」 「山口一郎です!」 おばさんはちょっとだけ、靴を洗う手を止めた。 「…そう、一郎くんていうの。何年生?」 「3年生です!」 「今日は学校は?」 靴を拭いて新聞紙を詰めながらおばさんが言った。おいしいおやつでご機嫌になっていたぼくは、急に重たい気分になった。 「…今日は早く終わったんだ」 嘘だった。 学校に向かって歩いてたんだけど、ダイスケくんの顔が浮かんで来たら、だんだん行きたくなくなってきた。それで、つい、学校と反対方向に歩いて来ちゃったんだ。坂道をどんどんのぼって来たら、大きな犬に吠えられてびっくりして、そのはずみで溝にはまってしまったのだった。 「あら、じゃあ靴が乾くまでゆっくりしていらっしゃい」 おばさんがにこにこして言うので、ぼくはちょっと悪い気分になった。でも、まだここにいていいんだと思うとうれしかった。だって、ソファはふかふかだし、おやつはおいしいし、おばさんはとてもきれいでやさしくて、なんだか居心地がよかったんだ。 ぼくは大好きな新型蒸気自動車の話をたくさんした。神崎重工のもかっこいいけど、独逸や亜米利加製のもすごいんだ。おばさんは「一郎くんは自動車に詳しいのね」と言って、ずっと聞いててくれた。 気が付いたら、ずいぶん長い時間がたったような気がして、さすがにぼくは帰ることにした。靴はまだ生乾きだったけど、履いてもそんなに気持ち悪くない。 「また遊びにいらっしゃい」っておばさんは言ってくれた。 おばさんは何歳くらいなんだろう。大人の年って本当にわかんないや。お母さんと同じくらいかな。本当はおばさんなんて呼んじゃいけないのかもしれない。 帰るとき、ぼくは初めて表札を見た。 「大神」 どっちも知ってる漢字だ。おおかみ?おおがみかな? 外人さんなのにどうして日本の名前なんだろう。 「それはね、日本人の男の人と結婚したからよ」 次に会ったときに、ぼくが聞いてみると、おばさんは目を細くして答えてくれた。ぼくってばうっかりして、このあいだおばさんの家に帽子を忘れて来ちゃったんだ。ちょうど日曜日で学校もおやすみだったので、取りに来たのだった。おばさんはちゃんとぼくの帽子をとっておいてくれた。 「おじさんがいるの?」 「ええ」 おばさんは幸せそうにうなずいた。 「じゃあ子供は?」 おじさんとおばさんがいれば当然子供がいるんだと思った。でも、おばさんはさみしそうに笑った。 「いないのよ。残念だけど。おじさんとおばさんだけなの」 「なあんだ…」 子供がいたら一緒に遊べたかもしれないのになあ。ぼくは少しがっかりした。 「一郎くんみたいな子供がいたらよかったわね…」 おばさんは白くて綺麗な手をのばして、ぼくの頭を撫でてくれた。それから、ちょっとうれしそうに言った。 「あのね、おじさんの名前も一郎っていうのよ」 「へえっほんと?ぼくとおんなじだね!」 「そうなのよ」 「ぼく、会ってみたいな!おじさんに!今日はおやすみだよね?」 なんだか楽しくなってぼくは言ってみた。 「ちょっと待ってね。…隊……こほん。…あなた…一郎さん」 おばさんは奥の部屋に向かって声をかけた。 すごくやさしい声だった。ぼくがちょっと照れちゃうくらいに。きっとおばさんは、おじさんのことがすごく好きなんだろうなと思った。 しばらく返事を待って、おばさんは思い出したように言った。 「あらいけない、忘れてたわ。おじさんはさっきお散歩に行ったんだったわ」 「じゃあすぐ帰ってくるよね?ぼく、待っててもいい?」 「そうね…帰りにお買い物を頼んじゃったから、遅くなるかもしれないわ。また今度ね。…それより、さっきケーキが焼けたところなの。食べていかない?」 「ケーキ?うん!食べる食べる!」 おばさんはココアを入れて、クルミや干しぶどうのいっぱい入ったカステラみたいなケーキを切ってくれた。もちろんすごくおいしかった。 「このあいだお母さんとお姉ちゃんと見たキネマにね、おばさんによく似た人が出てたんだよ」 幸せにケーキを少しずつ食べながら、ぼくは気になってたことを言ってみた。 「紅蜥蜴っていうんだ。ぼくが生まれるちょっと前のキネマなんだって」 おばさんはにこにこと笑っていた。 「そう…面白かった?」 「うん!とっても!明智小次郎っていう探偵がねえ、最後に紅蜥蜴と対決するんだよ!でも、紅蜥蜴は明智を撃たないで死んじゃうんだ。かわいそうなんだよ。お母さんが泣いちゃって、ぼくびっくりしたんだ」 「まあ…」 「それでね、警部をやってた人がおばさんに似てるんだよ。警部も明智小次郎も男の役だけど、女の人がやってるんだ。…でも、やっぱりちょっと違うかな…だっておばさんはあんなに声も太くないし、おばさんのほうが全然やさしそうだし、美人だし…」 おばさんはぷっと吹き出して、くすくす笑い出した。 「どうしたの?」 「いいえ、なんでもないのよ…ありがとう、一郎くん」 おばさんはまだ笑っている。 お母さんがファンだったっていう女優さんはなんて言ったっけ。確か外国の名前だったような…。そういえばおばさんの名前は大神なんて言うんだろう。まだ知らなかったことに気がついて、聞いてみようとしたとき、おばさんの方が話しかけてきた。 「一郎くん、学校は楽しい?」 まただ。楽しい気分が消えてしまった。ぼくは下を向いた。 「あんまり楽しくないんだ…」 「あら、どうして?」 「だって、みんなぼくのことをちびって言うんだ。ダイスケくんなんか、いっつもぼくにイジワルするんだ…」 「まあ…それは大変ね。…でも、負けないでがんばらなきゃ」 「だって、勝てっこないよ。ダイスケくんはすごくでっかいんだ」 ぼくはちょっとおもしろくない気分になった。やさしいおばさんだけど、やっぱり他の大人とおんなじだ。いつだってできっこないことばかりやらせようとする。ただがんばれって言うだけで、できなくてもなんにも助けてくれないんだ。 「おばさんにはきっとわかんないと思うよ。おばさんは大人だし、そんなにおっきいんだもん」 ぼくがむっつりすると、おばさんはちょっと眉をあげて、秘密の話をするように顔を近づけて言った。 「あら、おばさんだって、おばさんよりももっともっと大きい相手と戦ったことがあったのよ」 「ええっ??」 おばさんより大きい人なんているんだろうか。ぼくはジャックと豆の木に出てくる巨人を思いだした。 「おばさんだけじゃなくて、おじさんもね。あなたと同じ名前の一郎さん。とっても強い敵と戦ったのよ」 そう言って、おばさんは少し真面目な声で言った。 「…苦しい戦いだったの。とても勝てないと思って…負けそうになったこともあったわ。でもね、絶対に負けるものかって、信じる気持ちがあれば…きっとがんばれる」 「でも…」 ぼくがもぐもぐ言うと、おばさんは手をのばして、ぼくの手を握った。 「人間はね、ほんとはとっても強くできてるのよ。どんなつらいことがあっても乗り越えていけるように。…だから、一郎くんもがんばって」 それから、おばさんは向こうを向いて、じっと窓の外の庭を見ていた。 おばさんはなんとなくさみしそうだった。なんだかとても悲しいことを我慢してるみたいに見えた。 ぼくが大人だったら、何かおばさんを元気づけてあげる言葉を知ってただろうか。何も出来ないことが、ぼくはとても残念だった。 「そうだわ。おばさんが秘密兵器を教えてあげる」 おばさんはぱっと振り向くと、ちょっといたずらっ子みたいな顔をして台所へ行った。 「秘密兵器?」 「そうよ」 おばさんは、割り箸と輪ゴムの箱を持ってきた。それから、ボール紙とはさみ。 「特別製の輪ゴム鉄砲なの。連射式なのよ」 「連射式って?」 「続けて何発も撃てるのよ」 おばさんは割り箸を割って、輪ゴムを巻いて組み立て始めた。 「おじさんに教えてもらったの。学校ではやってたんですって」 ボール紙を丸く切って、縁に切れ目を入れ、歯車みたいにして間に挟む。そして、切れ目の一つ一つに輪ゴムをひっかけた。 「できたわ。見ててごらんなさい」 おばさんは完成した鉄砲を持って立つと、花瓶の花に狙いをつけて構えた。背中がぴんと伸びて、なんだかすごく決まってた。次の瞬間にはひゅんひゅんひゅんと輪ゴムが飛んで行って、花びらがぱらぱらと飛び散った。 花瓶の花が軸だけになると、おばさんは、ほんとの銃みたいに、ふっと銃口を吹く真似をして片目を瞑ってみせた。無茶苦茶かっこよかった!ぼくは思わず拍手していた。 「すごいや!おばさん!西部劇のガンマンみたいだ!」 「ふふ…昔取った…いえ、なんでもないわ」 おばさんはちょっと照れくさそうに笑った。 「一郎くんは、慣れるまでは肘を固定して撃った方が狙いを定めやすいわね。ほら、こうして机に肘をついて…」 それから、おばさんは午後中かけて、鉄砲の作り方と撃ち方をみっちり仕込んでくれた。 「顔や眼を狙っちゃ絶対ダメよ。おばさんと約束してね。それから、学校が終わってから使うこと。先生に怒られたら困るでしょ?」 「うん!約束するよ!ありがとうおばさん!」 ぼくは勇んでおばさんの家を後にしたのだった。 ダイスケくんの顔を見せてやりたかった。ぼくがぴゅんぴゅんて輪ゴムを5連発命中させたんだ。もちろん、ちゃんと顔じゃなくておなかを狙った。 みんなびっくりしてた。見せてって集まってきたから、作り方を教えてあげて、みんなで一緒に遊んだんだ。 なんだか急に人気者になったみたいな気分ですごくうれしかった。ダイスケくんも、前みたいにあんまりいじわるしなくなった。ぼくがやられてばっかりじゃないってことがわかったんだ。 ぼくでもダイスケくんに勝てるんだ。おばさんの言ったとおり、がんばってみてよかったな。 でも、おばさんたちが戦った大きな敵ってどんなやつだろう。ぼくが生まれる前に、降魔っていう魔物や怪蒸気が帝都を襲って大変だったって、お母さんに聞いたことがある。そのことだろうか。特殊部隊が戦ってやっつけたって聞いたけど…。もしかしたら…? 次の日曜日に、ぼくはまたおばさんの家に行ってみた。輪ゴム鉄砲の話もしたかったし、何よりぼくと同じ名前のおじさんにとっても会ってみたかったんだ。 「おばさんこんにちわ!今日はおじさんいる?」 垣根ごしにのぞくと、ちょうど庭にいたおばさんは、水やりの手を止めて言った。 「あらいらっしゃい。…ごめんなさい。おじさんちょっと風邪ひいて寝てるのよ」 「えっそうなの?じゃあぼくお見舞いするよ!」 「でも…一郎くんにうつったら大変だし」 「大丈夫だよ!」 「…ちょっと待ってね」 おばさんは玄関を抜けて、奥の部屋のドアを開けて入っていった。 「…あなた…一郎さん…」 あのやさしい声が聞こえた。ぼくまでやさしい気持ちになっちゃうみたいだった。 「…ええ、そうなの。かわいいお客さんなんですよ。………そうですか…じゃあ無理をしないでくださいね」 おばさんが戻ってきて、すまなそうに言った。 「ごめんなさいね。おじさんは頭が痛いんですって。ご挨拶しなくてすみませんって」 「ううん。いいんだよ。ええっと…お大事に!」 「ありがとう。伝えておくわ。それより、今日はおやつはいかが?」 「わあい!ぼく、おばさんのおやつ大好き!」 「ふふ…手を洗って座ってて頂戴。今お茶をいれるから」 キッチンの椅子に座って、ぼくが輪ゴム鉄砲の話をしてたら、キンコン、とドアのベルが鳴った。 「はあい…ちょっと待っててね一郎くん」 おばさんが玄関に出て行った。 「…あら、印鑑が見つからないわ…」 がたがた、ごそごそと引き出しを開けて探す音がした。 ぼくはぼんやり座って待っていたが、ふと、おじさんの部屋のドアがちょっと開いたままなのに気付いた。 おばさんはまだ印鑑を探してる。ぼくはそうっとドアに近づいた。 頭が痛くて寝てるのにお邪魔したら、おじさんは怒るだろうか。でも、ちょっとこんにちわと言うくらいなら平気だろう。とにかく、ぼくは、降魔をやっつけた強いおじさんに会ってみたかったんだ。 ぼくはそうっとドアを開けてのぞき込んだ。 本棚いっぱいの本。小さな机。花瓶に、黄色とピンクのバラの花が生けてある。 壁に、白い軍服と帽子が、ハンガーに掛かって下がっていた。おじさんは海軍さんだったんだ。だから降魔と戦ってたんだ。 机の上に、おじさんとおばさんの結婚式の写真があった。おばさんは白いドレスを着ていて、お姫様みたいにきれいだった。髪の毛がつんつんした男の人が横に立っている。この人がおじさんなんだ。 おじさんだけ写ってる写真もあった。おじいちゃんのお仏壇の上にあるみたいな大きな写真だ。そんなに強そうには見えなかったけど、やさしそうな人だと思った。 部屋の奥に、大きなベッドがあった。この上でぴょんぴょん跳ねて遊べたら楽しいだろうな。 でも、どこにもおじさんの姿はなかった。 風邪で寝てるんじゃなかったっけ。お手洗いにでも行ったのかな。でも、閉じた窓の他には、ドア以外の出入り口はなかった。 おじさんはどこに行っちゃったんだろう。ぼくと同じ名前の一郎さん。降魔と戦ったおじさん。おばさんに輪ゴム鉄砲を教えてあげた、おばさんが大好きなおじさん。 「あら、こんなところに落ちてたわ…すみません…」 おばさんの声が聞こえて、ぼくは慌てて部屋を出た。元通りの椅子に座って、どうにか知らん顔をした。 おばさんが封筒を手に戻ってきて言った。 「あら、ちょうどお湯が沸いたわね」 おばさんに、おじさんがいなかったことを言いたかったけど、そしたらぼくが勝手に部屋をのぞいたことがわかってしまう。でも教えてあげないと。ぼくは心臓がどきどきしていた。 「あなた…お茶を召し上がります…?」 おばさんがドアを開けて部屋をのぞいてる。 大変だ。おばさんはきっとびっくりするに違いない。だっておじさんがいなくなってるんだから。おばさんは泣いちゃうかもしれない。一緒に探してあげなきゃ。 でも、おばさんは、そっとドアを閉めると、ぼくに向かってにっこり笑って言った。 「おじさん寝ちゃったみたいだわ。お茶は二人で飲みましょう」 ぼくはなんて言っていいのかわからなかった。おじさんはどこにいたんだろう。ぼくには全然見えなかったのに。おじさんは透明人間なんだろうか。それで、おばさんにだけは見えるんだろうか。でもちゃんと写真には写ってたし…。 「はい。ロシアンティーよ。ジャムが入ってるから甘くて美味しいわよ」 カップを出されて、ぼくの注意はそっちに向いた。 「わあっすごいや!ぼく、こんなの初めてだよ!いただきます!…あちち」 「熱いから気をつけてね」 ジャムの甘い香り。クッキーはチョコレートの市松模様が入ってる。 庭に向かって開いた窓から、ふわりと風が入ってきて、レースのカーテンをゆらしてた。 バラの垣根の向こうに、遠く海が見えた。 ここはやっぱり魔法の家なんだ、とぼくは思った。 こんなに気持ちがよくて、素敵なところがこの世の中にあるわけがないんだ。 こんなにきれいでやさしいおばさんがいて、目に見えないおじさんと住んでいる家なんて、きっとおとぎの国から間違えて出て来ちゃったんだ。 ぼくが子供だから入ることができたんだ。きっとぼくが大人になったら、魔法がこわれて、この家も、おばさんも、見えなくなっちゃうんじゃないだろうか。 そう思ったら、ぼくはとってもさびしくなった。 「どうかしたの?」 「ううん。なんでもないよ。ねえおばさん、おじさんの分のクッキーのこしておくね!」 「そうね。……ありがとう、一郎くん」 おばさんはうれしそうに笑って言った。
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