幸いの宿 (2)
新次郎は、直接レニと会ったことはなかった。紐育に赴任する前に訪れた帝劇の、ロビーに貼られた華やかなポスタアで見たことがあるだけだ。赤と青の将校の衣装を身につけたレニは凛々しい青年の姿、ダイヤのついた帽子を被り、鳥籠を下げた姿は健気な少年だった。 しかし、今目の前にいるのは、その記憶よりもずっと女性的ではかなげに感じられた。肩まで伸びた髪と、シンプルなスカートのせいかもしれない。寒そうにショールを羽織った立ち姿は、ドイツ人にしては小柄で、新次郎のほうがまだ背が高かった。そして、その瞳が何も映していないことを、新次郎もすぐに悟った。 「入って」 小声で促して二人を招き入れると、レニはドアを閉じて施錠した。すると、地下なので窓がない部屋は唐突に真っ暗になった。 「わひゃあ、何も見えません」 「ああ、すまない…気がつかなくて。ドアの横に蒸気灯のスイッチがあるはずだ」 その言葉は、確かにレニの視力が冒されていることを証明していた。昴は黙ってスイッチを探り、点けた。 弱い光に照らされた一間だけの部屋は、家具と呼べるものは簡素な寝台と一脚の椅子とテーブルがあるだけだった。 「ひさしぶり…昴。来てくれてありがとう」 レニが昴に向き直って言った。 「まったく、見えないのか…?」 「これは霊的な負荷によるものだから、治すことができる。同情は不要だ」 淡々と答えると、新次郎の立っているほうに顔を向け、ふわりと頬をゆるめた。 「君が…大河新次郎…だね…?」 透明で冷たい貴石のような容貌は、微笑むと、驚くほど暖かな雰囲気になった。すっと手をのばし、新次郎の顔にふれ、細い指先で頬骨や顎を撫でる。 「…ああ、隊長に少し似ているね。鼻すじや頬のあたりが…。でも、隊長よりやわらかい面差しだ」 見えない瞳を眩しそうに狭め、うっとりと囁くようなレニの様子に、新次郎がどぎまぎと頬を染める。それを見て、昴は幾分強く唇を結んだ。 すると、レニは横顔を向けたまま、面白そうに唇の端を持ち上げた。 「すごいな、昴が嫉妬するなんて…君は本当に大した人物のようだね、大河さん」 「昴は問う…なぜ、僕がスイスにいるとわかったのか…と」 憮然と昴が尋ねると、レニは楽しむような笑顔を引っ込めた。 「座って…と言いたいところだけど、すまない…椅子が一脚しかないんだ」 新次郎が椅子を譲ろうとするので、昴はベッドに座ったレニの横に腰をおろした。 「ラチェットと最後に連絡を取った時、君たちが上海から欧州に向かったらしいって聞いた。あとは推理だ。今の世界情勢で、昴は欧州のどこにいるだろうか。昴なら、あまり中心から遠くへ離れず、かつ安全を確保できる場所にいるんじゃないかってね。ならばスイス、それもドイツ国境から離れたフランス語圏…そう思った」 「当たったからいいようなものの、随分と雑把な賭けだな……可能性が他にないわけじゃない」 「最後は勘だ。君が、資産をスイスに移してるだろうってね」 「やれやれ、歩く蒸気演算機は健在のようだね」 昴は軽く肩をすくめた。 そして、率直な問いをレニに向かって発した。 「単刀直入に聞こう。君は昴に何を望む…?」 「ボクを日本に連れて行って欲しいんだ」 はっきりした声で、レニは言った。 「目的は二つある。隊長…大神司令に会って、この国の現状を説明し、賢人機関に働きかけて、準備中の日独同盟を阻止したい。日本はボクにとっても第二の故郷で、大切な人たちの住む国だ。ドイツの暴走に巻き込みたくない」 語るうちに、蒼白く無機質なレニの印象が、ほのかに熱を帯びていくように見えた。 「もう一つは、この眼だ。帝都に行ってアイリスに会えれば、治してもらえるかもしれない。彼女はまだ現役だ」 「シャトーブリアンの令嬢か。なんでも霊子甲冑ごと瞬間移動できるほどの強い霊力の持ち主だそうだね。そして高い治癒能力がある…」 昴の言葉にうなずいて肯定する。 「この隠れ家と、昴に連絡を取るところまでは仲間の力を借りた。でも、日本へ行くとなると時間も費用もかかる。これ以上仲間を頼れない」 レニは新次郎のいるほうへ僅かに注意を向け、それから見えない目でじっと昴を見つめた。 「今、昴が大切な人と平穏に暮らしていると知っていても…ボクの命運を預けられる能力があって、しがらみに束縛されない人物は、昴しか思いつかなかったんだ」 「昴は理解した。引き受けよう」 詳しい説明を何も求めずに、昴は答えた。 「とりあえず、交通手段の確保だ。君の旅装も必要だな」 鉄扇を取り出して軽く顎を叩き、暫しの間思案すると、昴は腰を上げた。 「レニ、ちょっと立ってくれ」 黙って立ち上がったレニを頭の天辺からつま先まで眺め下ろすと、昴は一人うなずいた。 「買い物に行ってくる」 「ぼくも行きます」 即座に新次郎も席を立つ。 「君はここにいてくれ」 「昴さん…?」 途端に不安そうな顔になった新次郎の肩を、昴は軽い調子でぽんと叩いた。 「レニについていてくれ。それに、東洋人の二人連れは目立つ」 「でも」 「新次郎、昴は…」 新次郎の瞳には、根深い恐怖の色が揺らいでいる。言いかけた昴の顔に、困惑と罪悪感、願望といった複雑な感情が、浮かんでは消えた。 やがて昴は噛んで含めるように、やさしく辛抱強い声で言った。 「買い物をして必ず戻ってくる。だから、ここにいてくれ」 「昴は日本語だとあんなふうに話すんだね」 心配そうな新次郎を残してドアが閉まると、レニが言った。 「え?」 「欧州時代は主にドイツ語で会話していたから」 「ああ…なるほど…」 納得してみれば、新次郎は目の前にいる人物に興味を覚えた。昴と離れた不安を紛らわすように話しかける。 「あの…レニさんはいつ日本からドイツへ?」 「そろそろ三年になるかな」 「花組は、辞めちゃったんですか?」 「呼び戻されたんだよ。ボクの国籍はドイツにあるからね。欧州星組の記録は抹消されたはずだけど、帝都での実績に目をつけられたんだ」 「え…じゃあ、どうして隠れてるんですか…?その、仲間とか…いろいろ、よくわからないんですけど」 「詳しく話すこともできるけど、君たちの立場を危うくするだけだし、気分のいい話ではないよ」 訝しそうな新次郎に、レニは固い声で言った。 「ボクはただ、今この国を席巻する嵐を止めたいんだ。既に自由は失われつつある。特定人種の排斥、徹底した優性主義、戦争準備…このままでは沢山の命が失われる。何千、何万…それ以上…」 苦い言葉を、注意深く選びながら語る。 「知ってしまったことを、知らなかったことにはもうできない。だからボクは進むしかない。でも、君たちに深入りさせたくないんだ。巻き込んでおいて詳しい事情を説明しないのは卑怯かもしれないけどね」 そう言われると、新次郎もどこまで踏み込んだものか判断がつかず、沈黙を避けるすべを失った。 長い不在の時間の後、ノックの音とともに昴が帰ってきた。 新次郎は心から安堵の様子を見せ、小さな両手にいっぱいの紙袋や包みをいそいそと受け取った。 「ふう、少し買いすぎたかな…食料まで買い込んだものでね」 軽く肩を回すと、昴は荷物から厚手の布を取り出し、折り畳んでドアの隙間に挟むことを始めた。 「何してるんですか?」 「目張りだよ。そろそろ暗くなってきた。灯りが外に漏れたらまずいだろう」 「ああ、なるほど、気がつきませんでした」 「…しっかりしてくれ、新次郎。レニのハンデは君にカバーしてもらうからね。少し有事用の神経を研ぎ澄ましておいてくれ」 「え、あ…すみません!粉骨砕身の覚悟で頑張ります!」 直立する新次郎に厳しい顔でうなずくと、昴はテーブルに置いた包みを広げた。 「二人とも、空腹だろう。夕食を買ってきたから、食べながら話そう」 スライスしたソーセージとピクルスのサンドイッチ、数種のデニッシュを取り分け、ミルクの小瓶を配る。 「日本へのルートだが、シベリア鉄道で陸路を行くより、多少時間がかかっても海路のほうが安全だろう。ハンブルクから神戸までの定期船がある。月に一度の運行だが、幸い次の出航は五日後とすぐだ。明日にはハンブルクに向けて出発しよう」 レニの手にサンドイッチを持たせてやりながら、昴が続けた。 「君の変装道具も用意してある」 「流石だね、昴。心強いよ」 「今夜はここに泊めてもらうよ」 「了解。ボクは椅子で眠れるから、ベッドは二人で使って」 レニの言葉に新次郎が当然猛反対し、紳士的な自己主張を通して、レニから椅子と毛布の権利を奪い取った。 その間、昴は関心なさそうに食事を終え、自分の荷物から着替えを出すと部屋の設備を調べて言った。 「バスルームを使っていいかい。明日から慌ただしくなりそうだ」 「…ボクも一緒に入る。手伝ってほしい」 昴はかすかに眉をあげてレニを見たが、すぐに、ああいいよ、と答えた。 レニが立ち上がりバスルームの前まで来ると、何の間仕切りもない部屋の事、昴が新次郎に向かって言った。 「そんなわけで、ちょっと後ろを向いていてくれないか」 「あっ、はい」 慌ててもぞもぞと方向転換しようとする背中に、昴は服のボタンに手をかけながら言い足した。 「体が勝手に、はやめておけよ」 「ちょっ…!そんなことしませんです!」 まっ赤になって猛然と抗議する新次郎の様子に、ぷっ、とレニが吹きだした。 「ふ、はは、あはは…」 口と腹を押さえ、眦に涙を滲ませて笑う。 その様子に、昴は得心がいった様子で、新次郎に聞こえないように呟いた。 「なるほど…血は争えないというわけか」 背中を向けた新次郎だけが、デニッシュをくわえたまま幾分不満そうに小首を傾げていた。 「ああ…こんなに笑ったのはいつ以来だろう」 目元を拭うレニの服を、昴が脱がせてやる。昴にとっては、こんなレニの笑い声を聞くこと自体、初めてだった。 露わになった白くなだらかな背中には、不自然な傷跡がいくつかあった。昴は無言のままレニの手をとり、バスルームへ導いた。 バスタブの縁の高さを教え、湯の温度を調節し、傷ついた背中を注意深く流してやる。 「昴は何も聞かないんだね」 レニがドイツ語で言った。新次郎がドアの前で聞き耳をたてているなどとは思わなかったが、昴も倣ってドイツ語で答えた。 「ある程度察しはついている。君の力を、利用しようというのだろう」 「ボクの霊力はもう昔ほど強くはないけど、それでもまだ貴重なものらしい。それに、兵士としての能力と経験もね」 代わるよ、と差し出された手を断り、昴は自分で体を洗った。眼の見えないレニの前では裸を晒しても関係ない。それでも、声のする位置から、自分の身長が変わっていないことを、レニは気づいているだろうと思った。 「だけど、人間相手の戦争の道具にはなりたくないんだ」 「わかるよ」 「仲間の手引きがあったから脱走できた。ただ、その時研究中の霊子兵器で眼をやられたんだ」 水音の合間に、レニが言葉を綴る。 「仲間に借りを返し、この国の自由のために、力になりたいんだ。こんな状況でも…ここは、ボクの生まれた国だ」 巨大な力を相手に戦おうとする覚悟と同時に、レニの声には既にかすかな疲労が滲んでいる。レニの挑んだ困難な道を思い、昴の胸は痛んだ。 「そのためにはこの眼を治さなければ…どうしても日本に行かなければならない」 「見えないにしては、君はスムーズに動くし、周囲の様子をよく把握しているね」 「覚えてるでしょう…?完全な暗闇での戦闘訓練もあった。それに、他の感覚が敏感になるからね」 「なるほどね…本当は、昴の手伝いなどなくても風呂くらい入れるんだろう?」 昴が促すと、レニはバスタブの縁に背中を預け、そっと息を吐いた。 「…こんなふうに話をするのは久し振りだね」 ふと、つぶやくようにレニが言った。 「昴とは、戦闘の話しかしたことがなかった。…だから、それ以外の話をするのは不思議な気がする」 互い違いに座ったバスタブの中、膝と膝がふれている。二人とも身動きしないので、湯の表面は水平に凪いでいた。 「巻き込んですまないと思ってる」 「いや…、そのために来たんだしね。君の信念には敬意を表するよ」 答えながら、昴は、レニが二人だけで何を話したいのだろうと、密かに計っていた。 「昴は変わったね」 「君もな」 短く応酬して、昴が小さく笑みを浮かべた。 「ラチェットもそうだ。新次郎といい、大神司令といい、あの血筋には人を変える遺伝子が備わっているのかな…?」 その名が出るのを待っていたように、レニが微笑んだ。 「大河さんは、本当にいい人だね。純粋で、善良だ」 「あれでも、いざと言う時には結構頼りになるんだよ」 「わかるよ。紐育華撃団の活躍は聞いている。確かに、血は争えない…だね」 曇った瞳をやさしく和ませ、レニはしみじみと言った。 「昴は、貴重な人に巡り会えたんだと思うよ。……でも…」 言い淀み、気を悪くしないで、と前置きをして、続けた。 「君たちは、お互いに信頼し合っていない」 ナイフで胸を刺されたような痛みが昴を襲った。 会って間もないレニに見抜かれたのが悔しく、バスタブの中で湯を握りしめる。 「見えなくても、わかるんだ。ちょっとした息づかいや、気配でね」 急に浴室の湯気が濃くなったように感じて、昴は息が詰まった。 「君たちのことは、主にラチェットから聞いている」 「そうか」 レニは知っているのだ。昴の姿が最後に会った時から変わっていないことを。昴が姿を消し、それを三年かかって新次郎が探したことを。 「これでも、随分ましになったんだ…」 昴は観念し、溜息とともにこぼした。 「そうして、ずっと、彼に詫びながら生きていくの?」 核心を突いたレニの問いに、薄い唇を一文字に結び、昴は答えなかった。 「レニさん、起きてください、大変です」 新次郎の声に、レニは即座に跳ね起きた。しかし、 「昴さんがいないんです」 続く言葉に、あっさりと緊張を解き、力を抜いた声で答えた。 「ああ…用事があるからって早い内に出かけたよ」 「用事って…そんな…一人でどこへ…探さなきゃ…!」 おろおろと手を振り回し駆け出そうとする新次郎を、レニが呼び止めた。 「落ち着いて。すぐに戻ると言っていた」 ベッドを降りて、何ごともないように伸びをすると、テーブルに向かう。 「昴が用意していった朝食があるはずだ。一緒に食べよう」 レニの誘いにも、新次郎はドアの前から動かなかった。 「もう少し、昴を信じてあげられないの」 やさしい声でたしなめられ、新次郎は悔しげに唇を噛み、うなだれた。 「あなたは…あなたは知らないから」 靴先に眼を落としたまま、言葉を絞り出す。 「愛する人が、気がついたらもうどこにもいなくなっている、その怖さを知らないから言えるんです」 「離れていても、互いに信じ合うことは出来ると思うよ」 レニは穏やかに言った。 「少なくとも、ボクは、隊長と信頼で結ばれている。…そう思っている。たとえ、常に彼の傍らにいることができなくてもね」 何も映していないはずの瞳が、今かの人の姿を見ているのか、微かに輝いたようだった。 「隊長は、きっと助けてくれる。そう信じてるから、ボクは日本まで行くんだ」 新次郎はうらやむようにレニを見つめ、やがて小さく首を振った。 「昴さんは……やさしい人です。やさしすぎて、わからないんです。何がぼくにとって本当の幸せなのか」 苦笑いのような笑みが一瞬だけ浮かび、すぐに消える。 「いつまた、ぼくのためには自分はいないほうがいいと、そう思ってしまうかもしれない。それが、不安なんです」 レニが何か言いかけたとき、丁度昴が帰って来た。 「頼んでいたものが出来たので取りに行っていた」 問われる前に答えると、幾分非難のこもった新次郎の視線に構わず、昴は抱えた荷物を慌ただしく解き始めた。 「それより、事態は急を要するようだ。このアパートは監視されている」 さっとレニの頬に緊張が走る。 「通りの向こうにそれらしい人影が幾つかある。この部屋まで特定しているかどうかわからないが、時間の問題だ。急ごう」 昴は、紙箱から、自分とレニにそっくりなかつらを一つずつ取り出した。 「僕たちは変装して入れ替わる。昴がレニになって追っ手の注意を引く。その間に、レニは昴として新次郎とハンブルクへ行くんだ」 「え…?」 「亡命すると見せかけて、スイス国境まで追っ手を引き付ける。君たちの船が出航するまで」 昴の言葉を、理解するのを拒否するように、新次郎はぽかんとしていた。 「新次郎、レニを無事に日本へ送り届けてくれ。頼んだよ」 まるで重い石で殴られでもしたかのように、新次郎がよろめいた。 「だめです」 苦しげに胸を押さえ、荒い息を吐き、ぶるぶると首を振る。 「そんな計画、危険すぎます」 「敵の目を逸らすにはこれしかない」 次々に昴が取り出す変装道具を見て、新次郎の瞳が険しくなる。 「昴さん、最初からそのつもりだったんですか」 「…いや、君たちにはハンブルクで待っていてもらって、後で合流するつもりだった。でも、最早そんな悠長なことで済みそうにない」 「いやです!そんな作戦認めない!ぼくは、絶対に昴さんのそばを離れません!」 「しっ、声が大きい」 人差し指を唇に当て、昴が声を潜めた。 「新次郎、昴の話を聞いてくれないか。大事なことだ。…これはいい機会だと思う」 荷を解く手を止め、新次郎に向き直り、二の腕をぎゅっと掴む。 「昴はかつて、君を置き去りにして傷つけた。だから、今度は昴が、君に置き去りにされなければ…その苦しみに耐えなければならないんだ」 「そんなの屁理屈です。ぼくはそんなこと望んでいない。あなたを罰したいなんて思ってない」 「いや、罰ならもう受けているよ」 昴が言った。 「…昴は、君の美しい資質を一つ損ねてしまった。君は常に不安を胸に抱えて、本来の明るさを失ってしまっている。そうさせてしまったのは昴だ。それを思うと、昴も、自分に誇りを持つことができない」 青ざめた新次郎の顔にじっと目を注ぎ、昴は揺るぎない口調で続けた。 「僕たちは、互いに問題を克服しなくてはならないんだ。このままでは、いつかきっと、行き詰まる。二人でずっと生きていくために、これは必要な別離なんだよ」 「ぼくは…ぼくはどうしたらいいんです」 「君は昴を信じてくれ。昴は、必ず君を待っている。昴に、それを証明する機会を与えてくれないか」 返す言葉を失い、新次郎は顔を覆って座り込んだ。指の間から、ただ息の漏れる音だけが聞こえた。 作業に戻った昴に、レニがそっと言った。 「感謝の言葉もない。本当にありがとう」 「礼を言うのは僕たちのほうかもしれないな。君は、僕たちが互いの問題に向き合うこの上ないチャンスをくれたんだ」 言いながら、昴は着替えを終えた。体の線を誤魔化すぶかぶかのコート、底の厚いブーツと、それを隠す長いズボン。 次に昴は自分とレニに手早く化粧を施した。昴は白人の淡い薔薇色に、レニには明るいオークルの東洋人の肌色に。 最後にぴったりとかつらを被り、色の濃い眼鏡で目元を覆うと、二人は並んで立ち上がった。 「え…あれ…?」 新次郎は目を見張って驚嘆の声を漏らした。 新次郎には、当然、どちらがどちらだかわかっている。それなのに、レニの姿をした昴は、独特の硬質な佇まいを醸し、レニは昴の雅やかで謎めいた中性的な雰囲気を漂わせた。 「何を驚いているの、新次郎。僕たちは役者だよ…ね、レニ」 口調までがレニのように昴が言う。 「はあ…ちょっと、びっくりしました」 素直に認めながら、新次郎は、この二人がそもそもとてもよく似ているように感じた。姿形ではない。ともに、天才の名を頂く戦士であり舞台俳優であり、孤高で冷徹な部分があると思えば、繊細なやさしさや情熱を心の奥底に秘めている…。 「レニの着替え等の旅装はそこの鞄に一式詰めてある。現金をドルで用意した。二人で分けて持っていてくれ。こっちは当面必要なマルクだ」 分厚い財布と封筒をテーブルに置きながら、昴はてきぱきと指示を出した。 「レニ、新次郎のドイツ語はどうにか読むところまでだ。フォローしてくれ」 「了解」 レニが短く答えると、昴は次に新次郎を見上げた。 「必ず、彼女を大神司令のもとへ送り届けてやってくれ。昴はスイスのあの家で、君の帰りを待っているからね」 最早動かしがたい事態に、ようやく新次郎も覚悟を決めたようだった。 「気をつけてくださいね。昴さん。無理をしないで」 「昴の力は知っているだろう。案じるな。大変なのはむしろ君の方だよ。長旅の間、レニを、頼む」 そして、幾分声のトーンを和らげて言い足した。 「折角日本まで行くんだ。一度、ご家族ときちんと話してくるといい。君は、昴を愛するのと同じくらいに、心からご家族を愛しているはずだ」 しかし、新次郎ははっきりと首を横に振った。 「昴さん、ぼくは、すぐにあなたのところに戻ります」 「新次郎…」 まるい瞳をいっぱいに見開き、思いの丈を全身に漲らせる。 「昴さん、忘れないでください。ぼくの幸福はあなたにあるんです。他の場所にはない…あなたが、ぼくの幸せなんです」 「ああ、わかっているよ…何度も聞いたからね」 しかし新次郎は納得せず、もどかしげに拳を握り込み、唇を開きかけては、言葉を探しているようだった。 唐突に昴の頭を引き寄せ、新次郎が深く口づけた。 身を屈めて背中を抱き、昴のつま先が宙に浮きかける。息もできないほどのキスの激しさに、昴の首が大きく後ろに倒れ、眼鏡が額の上までずれ上がった。 「ああ…化粧が取れてしまったじゃないか」 ようやく唇を離した新次郎を、昴は渋い顔で咎めた。 「す、すみません」 「愁嘆場は嫌いだ。何ということはない。僕たちはすぐにまた会える。そうだろう?新次郎」 手早く唇を塗り直すと、昴は好戦的な笑みをその口の端に浮かべ、余裕ありげに言った。 「昴が先に出る。…新次郎、久し振りに、号令を頼むよ。欧州と紐育混成星組の出撃だ」 新次郎は唇を左右に引きつらせ、涙を堪えるような笑顔を作ると、顎に力を込めて低い声で唱えた。 「レディ、ゴー…!」
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