幸いの宿  (4)






 先に命がけの思いをしたのは、勿論昴のほうだった。
 捕まれば、レニとの関係や居場所を問われ、拷問されるかもしれない。何より、昴の正体…欧州と紐育の星組隊員だった過去と、強大な霊力に気づかれれば、事態はもっと厄介なことになる。
 かといって、あっさり追っ手をまいてしまっては意味がない。自分をレニと思いこませ、最低五日間は追われ続けなくてはならないのだ。幾度も追いつめられては、変装がばれないギリギリのところで逃れるという危険な綱渡りを、しかし昴は完璧にやってのけた。


 日付を数えつつ追っ手を引き付け、汽車や車を乗り継いでスイスへと向かい、最後に目の前でチューリッヒ行きの汽車に飛び乗って見せる。個室で変装を解き、服やかつらは汽車の窓から谷底に投げ捨てた。
 チューリッヒで待ち受けた者たちの慌てふためく様を横目に見ながら、昴は少年の装いで傍らをすり抜け、ジュネーブ行きの汽車に乗り換えた。
 勿論、昴もレニと同じく、自分の存在が知られてマークされる可能性も考えていた。
 まずはレマン湖を挟んで反対側の小さな山村へ行き、警戒しながら身を潜めた。不審な者の影がないことを確認し、さらにはジュネーブをぶらついて「プレアデスという日本人」を探しているドイツ人がいないかどうかを探り、安全を確信して初めて、昴は西部のはずれの湖まで戻った。




 傍らに新次郎がいないことを、昴がようやく切実に感じたのは、家のドアを開けた時だった。

 まるで違う世界に迷い込んでしまったかのように、それは奇妙な感覚だった。
 この数年、新次郎のいない時間などなかった。
 新次郎と昴は何もかも共有していた。食べる時も、眠る時も、一緒に笑い、悩み、視線を交わし、同じ空気を呼吸した。新次郎が授業中の時のことも、後で逐一話をしてくれるので、自分が生徒になって教室にいたかのように知っていた。
 新次郎のいない家に一人で立っていると、まさに半身を削ぎ取られたような気がした。


 昴はまず日数を勘定した。
 ハンブルクから日本まで、無事に航海が進めば四十日ほど。日本に着いて、レニを送り届け、仮にすぐに新次郎が日本を発ったとして、最短ルートは釜山からシベリア鉄道を使って約二週間。
 ここへ帰ってくるまで最低でも二ヶ月。次の船を待って海路で戻るなら、三ヶ月はかかってもおかしくない。
 三ヶ月もの新次郎の不在は寂しいが、かつての三年間を思えばささやかなものだ。
 そう思って自分を宥め、次に昴は当時のことを思い出そうとした。いったいどうやって昴は一日を過ごしていたのだろう。新次郎と離れて三年も一人でいた時期があったなど、とても考えられなかった。
 いつも新次郎のことを考えていた。彼の一日を。その記憶に習って、朝目が覚めてからの細々とした様子を想像した。
 船は最初の寄港地のマルセイユを目指している。ああ、新次郎は日本までずっとレニと一緒なのだ。同じ部屋で寝起きしているのだろうか。一緒に食事をとり、叔父の話などを聞きながら…欧州時代の昴のことを尋ねているかもしれない…目の不自由なレニを気遣い…きっとお節介なくらいに世話を焼き…時には頬を染めるようなこともあるだろう…。
 襲いかかった激しい嫉妬心に、昴は自分で仰天した。
 九条昴ともあろうものが、まったく、なんと俗物的な感情に、容易く捕らわれてしまうものか。
 やれやれ、と息をつき、昴はこの方法を諦めた。

 今からこんなふうでは先が思いやられる。
 何、ほんのわずかな期間のことだ。
 思いながら、昴は早くもこの作戦に重大な難点があったことに気づき、一人呻いた。
「参ったな………昴は、待つのは性に合わないんだ…」





 不在の間に荒れた庭に手を入れる合間にも、新次郎のことが脳裏に浮かぶ。そうすると自ずとレニと過ごす姿が連想されて、忌々しげに手を止める。なんとか別のことを考えようと本など開いてみてもさっぱり内容に集中できない。
 だが、自分がかつて新次郎にした仕打ちを思えば、これはまだ余程ましなのだ。新次郎がどこにいて何をしているか、ちゃんとわかっている。必ず新次郎が戻ってくると知っている。
 むしろ、今苦しんでいるのは新次郎の方だろう。以前は、ちょっと昴の姿が見えないだけで、迷子の子供のようにパニックを起こした。今頃、どれほどの不安と戦っているのだろうか。
 余程、陸路を追いかけて合流しようかと考えたが、昴は思いとどまった。
 それでは何にもならない。昴はここで待つと約束したのだから。
 新次郎の心の強さと強運を信じよう。きっと、立派にやり遂げて、元気な姿で帰ってくる。
 そうしたら、もう僕たちの間には不信も不安もなくなるはずだ。



 新次郎が帰ってきた時に、やつれた姿など見せたくない。昴は毎日きちんと食事と睡眠をとった。部屋を清潔に保ち、三ヶ月めに入ったその日から、おそらく空腹で帰って来るであろう新次郎のために常に二人分の食材を用意した。しかしそれは、虚しく次の食事に使い回されるのが常だった。

 毎日、町まで降りて、以前のように新聞に目を通した。
 五日後の船が満員で乗れず、一ヶ月待たなければならなかったかもしれない。同じ可能性は復路にもある。そもそも長旅にアクシデントは付き物だ。船の故障や気象条件、遅れる要因は数え上げればきりがなかった。海難事件や汽車の事故などの記事をおそるおそる読んでみても、そこに新次郎が居合わせたかどうかまではわからない。町の小さな郵便局に立ち寄っても、新次郎からの手紙はない。もっともこの時勢、遠方から郵便物が届くまでの時間が長いのは致し方のないことだ。それに、レニが用心のために連絡を止めさせていることも推測できた。
 やがて、日独同盟延期の見出しに、レニが無事に日本に着いたことを知る。完全な中止ではなく延期だが、彼女の当面の目的は果たされたと言える。個人の願いが容易く国家を動かすはずがないが、大神や花小路伯の尽力もあったのだろう。あるいは、レニのもたらした情報に、日本が同盟を尻込みするような深刻なものがあったのかもしれない。
 レニはもう目が見えるようになって、ドイツに戻っているのだろうか。ならば新次郎は今どこにいるのだろう。

 不安定な欧州は、場所によっては移動が制限されたり、路線が封鎖されたりしている。どこかで足止めされている可能性もある。急いだ新次郎がシベリア鉄道でモスクワから東欧を抜けて戻ろうとすれば、それが裏目に出ることもあるかもしれない。心配なのは、新次郎が無理をして体を壊したり、危険な目にあっていないかということだ。
 あるいはレニのために、彼女の目的の達成を待って復路も同行したのかもしれない。夫婦連れを装う方が格段に安全だ。そのくらい新次郎にもわかるだろう。あるいは正義感の強い新次郎のこと、レニを放っておけず、ドイツでの抵抗運動に身を投じてしまう可能性もないわけではない。そうでなくても、レニと一緒にいるところを見つかれば、協力者としてドイツの秘密警察に逮捕されてしまう…。
 日を追うごとに、悲観的な予測ばかりが昴の脳裏に渦巻いた。
 肋骨がずきずきと胸の奥を締めつけ、呼吸するにも喉がつかえるようだった。

 昴はこんなに心が弱かっただろうか?もっと強い人間だったはずだ。
 自問の答えは容易く返ってきた。
 昴が強かったのは、何も失って惜しいものがなかったからだ。
 大切なものを為すすべもなく失うかもしれないと思えば、昴とて弱くもなる。

 胃の底に、常に消化しきれない重い物を溜めたような日々に、昴はすっかり疲れていた。
 孤独を愛し楽しむことの出来たかつての昴はどこへ行ってしまったやら。いっそ元の僕に戻してくれと理不尽な抗議をしてみても、瞼の中の新次郎は困ったように笑うだけだった。




 一日に何度も自分に言い聞かせる。新次郎なら大丈夫だ、と。きっと今頃スイスの国境に近づいている。
 日本の土産を持っているかもしれない。何もいらないから、身一つで戻ってきてくれればそれでいいのに。
 あるいは人の良い君のこと、誰か困っている人を助けて道草を食っているんだろう。やれやれ、仕方ないな。




 それとも。




 故国の空気、故国の言葉。日本の土を踏めば否応なく新次郎の胸を郷愁が縛るだろう。新次郎はそこで踵を返して去ることが出来るだろうか。

 すぐに戻る、と新次郎は言っていた。だが、もし知り合いに会えば。例えば大神司令に、家族の誰かが病気だとか、そんな話を聞かされたらどうだろうか。
 病の床にある親を捨てて来るような不孝を新次郎にさせたくない。そのくらいなら、どれだけ帰りが遅れてもかまわない。そう思った。
 しかし、故国の土を踏み、懐かしい人に会って引き留められ、それでも新次郎は帰ってくるだろうか?地球を半周して、こんな異国の山奥の、昴しかいない小さな家に。








 五ヶ月目にさしかかる頃、昴はカレンダーを壁から外し、暖炉にくべた。
 日付の数字の羅列を見るのが、耐え難い苦痛となっていた。町に降りても、新聞を読むのはやめた。
 遅くなってすみません、という一言の手紙も来なかった。
 のろのろと流れる時間が、じわりじわりと昴の胸を苛み、蝕んでいた。





(すぐに、あなたのところに戻ります)
 
 新次郎の声が耳の底に残っている。
 最後に押し当てられた、熱くやわらかな唇の感触。

(僕たちはすぐにまた会える。そうだろう?新次郎)
 強がった自分の声が、呪わしくこだまする。



 自分はとてつもない間違いを犯してしまったのではないだろうか。
 なりふり構わず新次郎のそばを離れずにいればよかったのだろうか。

 淡々と、息を吸い、吐き、食べて眠ることを繰り返しながら、時間の感覚がだんだん朧になっていく。

 眠りは次第に間遠くなり、夜が更けても寝付けない昴は、物憂げにテーブルに頬杖をついて、深夜の静寂に漂っていた。

 テーブルの向かいの、無人の椅子をぼんやりと眺める。
 いつもここに座っていた人はどうしてしまったのだろう。
 毎日毎日、変わらぬ笑顔で微笑みかけながら、童顔の少年は、いつしか青年の大人の顔になっていた。
 その変わりゆく様を、ずっと間近に見つめてきたのに。

 新次郎と過ごした日々は、描いたばかりのフレスコ画のように、鮮やかで、それでいて固く薄く昴の脳裏に貼りついていた。

 二人で一緒にキッチンに立つ。新次郎の好きなハチミツ入りのホットミルク。夕食の後は、今はドイツ語の勉強に時間を割いていた。
 時折、新次郎が、昴の歌が聞きたい、舞が見たいとねだる。新次郎のためだけに、昴は歌い、舞う。ぼくはなんて贅沢なんだろう。うっとりと感嘆の息を吐いて、新次郎が抱きしめる。
 寒い夕暮れ、二人で暖炉の前の毛足の長いラグの上に寝そべって、温めたワインを飲みながらいつまでも踊る炎を見つめていた。
 新次郎の腕に包まれ、互いの体液を循環させるように、体をつないだまま眠った夜。


 えへへ、と昴の顔を見て笑う新次郎。
 幸せだなあって、思ったんです。
 こうして、昴さんと一緒にいられて、ぼくは幸せです。


 そう言いながらも。


 ウィンダミアの道場を畳む時、新次郎は防具や竹刀をすべて生徒たちに無償で配った。
 生徒たちと別れる寂しさを、昴の前では必死に見せないようにしていた。
 教師の仕事は性に合っているが、今度はもう少し実用的な事を教えたい、と新次郎は言った。
 その言葉の意味がわからない昴ではなかった。短い期間しか教えられないのに、剣道では他に引き継ぐ相手も続けて習う機会もない。

 それを思うと、昴が新次郎から奪った沢山の物が思い起こされ、無数の刃となって昴を切り苛んだ。家族、将来性、子孫、昴以外の人との長く深い交流、昴さえいなければ得られるはずだったいくつもの幸福、人生の充足、愛…。




 冴え冴えとした寂寥が、昴の小さな体を満たした。

 新次郎は帰ってこないのかもしれない。
 幾通りも考えた理由のどれかで、新次郎は昴のもとへは戻らなくなったのだ。



 そう思うと、ふわりと足が地を離れたような気がした。
 か弱く不確かな希望に、血の滲む細指ですがり続けることを思えば、それはいっそずっと楽な心持ちだった。




 満月の照らす窓の外は、常世の真昼のような明るさだった。
 昴は立ち上がり、ふらりと外に出た。

 鏡のように凪いだ湖面に、まるい月が、金色に輝いている。



 あの、お月様が映っているところには何があるんでしょうね。
 湖面の月を指さして、新次郎が言ったのはいつのことだったか。

 何か、素敵なものがありそうですね。

 素敵なものって、なんだい。

 ええと、そうですね、月の世界への入り口とか、妖精の宝物とか、そんな、夢のような、何かです。








 もう二度と新次郎には会えないのだ。
 ふと、そう思った。

 不思議な磁場に迷い込んだように、足元がぐらぐらした。

 そこで新次郎が待っているとでも言うように、湖面の月に向かって昴は足を踏み出した。


 あの月のところまで行こう。
 素敵なものがあるんだろう、新次郎。
 昴が、とってきてあげるよ…。


 水の冷たさが、くるぶしから背筋を這い昇り、昴の肩をふるわせた。
 靴を浸した湖水は、やがて膝を濡らし、華奢な腰を冷えた手で包んだ。
 それでも、昴は足を止めなかった。



 このまま泡になって消えてしまいたい。
 愛する者を傷つけることなく海に身を投げた、物語の人魚の姫のように。
 人は死ねばどこへ行くのだろう。天国でも十万億土の彼方でもなく、この世界との薄皮の向こうにいられたら。水に溶け、風に漂い、木々のさんざめきとなって新次郎を包み、見守っていけたらいいのに。


 湖面は今昴の胸を冷たい直線で撫でていた。
 もう少しだ。もう少し進めば、湖水は昴の肺を満たし、その呼吸を止めてくれる。
 これでいい。新次郎は幸福に生きていく。昴という頸木から放たれ、自由にその命を、人生を謳歌する。
 今からでも遅くはない。昴が奪った沢山のものを、新次郎は取り戻す。愛すべき新次郎の資質を受け継ぐ誰かが生まれるだろう。

 新次郎の笑顔を思った。元気に、幸福そうに、建て直した人生を生きていく新次郎を。人々を愛し、愛され、社会に認められ、家族に囲まれ………。




 だが、思い浮かばなかった。




 どんなに想像を巡らせても、昴のいないその世界で、新次郎は微笑まなかった。愛くるしい瞳を和ませなかった。

 なぜならば、新次郎の最高の笑顔は、いつだって昴に向けられていたからだ。











 昴は唐突に理解した。
 自分は新次郎の幸せなのだと。
 このちっぽけな、新次郎にもたらすものを何も持たない、時に見捨てられた体ごと。
 他のものでは駄目なのだ。
 新次郎が昴の幸せであるように、新次郎を幸せにできるのは、この世にただ一人、昴だけ。
 何度も繰り返しそう唱えてくれた、新次郎の言葉の意味が、今ようやく昴の胸に届いた。


 湖水の沁みた肩を抱いて、昴は満天の星空を仰いだ。


 昴は新次郎の幸福だ。
 昴は新次郎の幸福だ。
 何度も繰り返し唱えるうちに、昴の瞳に涙が溢れた。




 君の不安の正体を、昴はようやくわかったよ。
 いつも心のどこかで、君にすまないと思っていた。
 君がどれほど昴を必要としてくれているのか、ちっとも理解していなかったんだね。
 たった一つの単純なことがわからなかった、昴は愚かだった。長い間苦しめてすまなかった。

 君を信じると言ったのに。あやうくまた君を裏切ってしまうところだった。
 約束どおり、昴は君を待つ。君の幸福はいつまでもここで待っている。

 だから新次郎、早く昴のもとへ戻っておいで。
 もう二度と、失わせない、不安にさせないと誓うから。











 朝に、夕に、日ごと、幻の新次郎の姿を思い描く。
 丘の勾配の向こうに、黒髪の頭が、長旅にくたびれた上着を羽織って現れる。
 戸口に立つ昴の姿を見つけ、よろめく足で走ってくる。
 すばるさん、すばるさんと呼びかける声は歓喜に弾み、荷物を放り出し、両手を広げ、子供のようにはしゃいだ笑顔で、昴の前にたどり着く。
「おかえり、新次郎…」
 昴は口ずさむように唱える。
 新次郎の髪は伸びている。あるいは短くなっている。肌は陽に灼けている。もしくは痩せていたり、どこか包帯を巻いていたりする。
「病気になってしまって、遅くなってしまいました」
「事故にあって、動けなかったんです」
 様々な理由で詫びる。
「いいんだよ、新次郎。昴は君を信じていたから」
 手をのばし、新次郎の頬を撫でる。
「君に伝えたい。ようやくわかったんだ。昴は君と離れてはいけないんだ。だって、昴は君の幸福なのだから」
 幻の新次郎に語りかけながら、昴の頬を涙が伝う。




 待って、待って、待ち続けて、心は風化し、体は石になってしまったようだった。
 もうどのくらい時間がたったのかもわからない。湖を渡る風を冷たく感じるから、ずっと冬のまま世界が止まってしまったのかもしれない。
 浅茅が宿の、帰らぬ夫を霊魂になっても待っていた妻のように、もしかしたら自分もとうの昔に死んでしまって、心の残滓だけが残っているのだろうか。だからきっと、こんなにも新次郎の幻を見てしまうのだ。
 それとも、新次郎も最早この世の者ではなく、霊魂だけが幻となって昴のもとに帰ってくるのだろうか。


 幻でも、霊魂でもかまわない。
 昴は、幾万回でも、君を出迎える。
 僕たちは、奇跡のように出会った、唯一無二の伴侶なのだ。
 心だけになっても、世界が終わってしまっても、いつまでも二人寄り添っていよう。









 そして今日も新次郎は丘の道を登って現れる。
 息を切らせて駆け寄る新次郎に、幻だと思うままに、何度も繰り返した言葉を口にする。
「おかえり、新次郎。約束通り、昴は君を信じて待っていたよ」
「遅くなってすみません。でも、ぼくも約束通りちゃんと戻ってきました」
 いつもの想像通りに幻が語る。

 なのに、今日の幻は少し違う。なんだか妙に力があって、昴を抱きしめるのだ。
 幻にそんな力があるはずがない。ああ、これ以上昴を騙さないでくれ…。
 頬に滴る涙の雫は、昴のものではない。見上げれば、新次郎の幻が泣いている。
「昴さん、ありがとう、待っていてくれて…どこへも行かずに、ぼくを、待っていてくれて、ありがとう…ありが、とう…」


「…いいから、お入りよ。夕飯の用意がしてあるよ…」
 今日の幻は随分と涙もろいと思いながら、昴はいつものようにドアを開けて招き入れた。










《了》





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