秋刀魚を焼く
「まずは美味しいサンマを見分けるのが肝心なんだ」 ざるに敷いた緑の笹の上に、青く細長いサンマを並べながら、カンナは得意げだった。 「たとえば背中に厚みがあるとかな。脂がのってる証拠なんだ。それから、腹がピカピカで固ければ鮮度がいいってことだ。どうだい、見ろよこの銀色の腹!ホントに刀みたいだよな!」 しっぽを握って持っても、魚は刃物のようにびんと長く立っている。だが、食堂に集められた仲間たちの反応はどれも今ひとつだった。 「アイリス、おさかなきら〜い」 「青い魚は生臭くて好きくないで〜す」 「わたくしも白身のお魚のほうが好みですわ。だいたいおやつにサンマもないのではありませんこと?まったくカンナさんの大食らいには呆れますわ〜」 「なんだとお?てめえには旬を味わう粋ってものが…」 「ボクは食べたい」 意外な賛同者に、カンナはうれしそうに眉をあげて振り向いた。 「おっ、レニ、サンマ好きか?」 「Kurzschnabel-Makrelenhechtは栄養価が高い」 「くる…?」 「ドイツ語でサンマのこと。サンマにはドコサへキサエン酸…いわゆるDHAが多く含まれている。DHAは人間の体に欠かせない高度不飽和脂肪酸で、血栓を作りにくくする作用があり、最近の研究では記憶学習能力を保つ効果があるとの報告もある」 「うひょう…なんだか大した魚だなあ、サンマって」 目を丸くするカンナに、レニが淡々と続ける。 「タンパク価も、牛肉や豚肉より高く、青魚の中でもサンマが最高だ。そういう優れた食物を摂取するのにやぶさかではない…」 「素直にうまそうだから食いてえって言えよ。蘊蓄もいいけどよ」 手頃な高さにあるレニの頭をわしわしと撫でながら、カンナは機嫌よく言った。 「サンマが出ると按摩が引っこむ、ってことわざがあるんですよ、カンナさん。昔から健康にいいって知られてたんですね」 「じゃあさくらも食うか?」 「あ、いえ…あたし、今日はこれから紅蘭とあんみつ食べに行く約束してるんで…」 「そういうこっちゃ。ぼやぼやしてるとお汁粉に変わってまうよってな。すんまへんなカンナはん」 連れだって出ていく二人を見送って、カンナはもう一度食堂を見回した。 「えっと、あとは…マリアはどうだい?」 「魚は好きだけど…昼間からあまり脂っこいものは」 「サンマに含まれるパントテン酸は分解ビタミンと呼ばれ、体内の脂質を分解してエネルギーにするのに有効。すなわちダイエット効果のある…」 「いただくわ」 きっぱりと答えたマリアだったが、そこでかえでに資料整理の手伝いを言いつけられ、残念そうに去っていった。 「七輪、七輪がいるんだよ!七輪がいちばんサンマをうまく焼けるんだ!」 結局レニと二人だけになったカンナは、厨房の棚を騒がしく捜索していた。 「七輪は放射熱でサンマを熱し、その際赤外線を発するので、むらなく焼ける…」 「さすがレニ、詳しいじゃねえか」 ちょっと振り向いたものの、カンナはすぐに棚に首を突っ込むように戻した。がらがらとズンドウ鍋やらフライパンやらを引っかき回す。 「変だなあ〜。確かに去年ここから七輪を出してサンマを焼いたんだよ。どこにいっちまったんだろう」 途方に暮れたカンナが座り込んでいると、レニがふと思い出したように口を開いた。 「そういえば、昨日、米田司令が中庭でするめを焼いていた…」 「それだ!」 果たして、中庭の入り口で七輪を見つけ、カンナは喜々として駆け寄った。 「あったあった!しょうがねえなあ米田のおっさんも。ちゃんと片付けねえとよ」 「うちわ、持ってきたよ」 「おっ、気が利くな、レニ。火をつけるのにちょっと時間がかかるんだけど、扇いでてくれるか?」 「了解」 カンナは新聞紙の切れ端を燃えさしにして、用意した木片に火をつけた。熾き火になったところで、小さめの炭を隙間を取りながら並べていく。 炭が燃え上がったところで、レニがしゃがんでぱたぱたとうちわで扇いだ。そのままレニに七輪を任せ、カンナはサンマのざるに向かって腕まくりした。 「塩をふるタイミングも重要なんだ。あんまり早くふると旨みが逃げちまうからな」 「浸透圧だね」 「うん、まあ、よくわかんないけどそんなとこだ。それから、網に油をこう、ちょいちょいと塗っておくと、皮がくっつかないで綺麗に焼けるんだぜ」 「炭には十分火が回ったけど、もう焼いていいの?」 「ちょっと待った。火がおさまって灰をかぶり始めてからだ。…もういいかな?よし!焼くぞ!」 大切な儀式のように、カンナはサンマをつまみ上げると、丁寧に2匹並べて置いた。 「じっくり焼くより、強火でさっと焼くほうがいいんだ。だからひっくり返すのは1回だけだ。このタイミングがけっこうむつかしいんだよな」 「たしかに、何度もひっくり返すと熱効率が悪い」 「そうそう、その効率。だからこうしてちょいと網を持ち上げてのぞいてみて…おっ、いい感じに焼けてきてるぜ!」 慎重に魚を裏返すと、石英のようにキラキラと光っていた腹は、金色に焦げ目をつけていた。しっぽに塗った化粧塩が、雪のように白く浮かび上がる。えらのまわりでは脂がこまかい気泡をぷつぷつとはじけさせ、ジュ、ジュ、と食欲をそそる音を小気味よく立てていた。 「う〜ん、うまそうだなあ〜」 カンナはうっとりと眼を閉じて、深々と息を吸い込んだ。魚の焼ける香ばしい匂いが、帝劇の中庭に漂い始めていた。 「黒目が白くなればだいたい焼き上がりだ。…よし、こんなもんかな?さあて食おうぜ!」 焦げ目のついたサンマを1匹皿に乗せ、箸を添えてレニに手渡してやる。 「最初に表の背中から食べ始めるんだ。ワタが苦手なら残してもいいぜ。でもこの濃厚な苦みが通の味なんだけどな。ほんじゃ、いっただっきまあす!」 「いただきます」 レニも唱和して、箸をとった。 「骨はしっぽから剥がせよ。ひっくり返して食うのはルール違反なんだぜ」 「それを言うならマナー違反」 「ルールでいいんだよ。旬のサンマってのは、日本人の浪漫と醍醐味…」 言いかけたカンナの手が止まった。 「少し生焼けだね…火が弱かったんだ」 僅かに半透明なピンク色の肉をつつくと、紅い血が滲んできた。 「ちっきしょう…やっちまったぜ。つい気がせいちまった」 カンナは頭を抱えた。 「あああ…なさけねえ…一人でばっちり上手く焼いてみせるつもりだったのに…」 悔しげなほどに、きゅっと唇を噛みしめ、カンナは肩を落としていた。そんなカンナに、レニは明るい声で言った。 「大丈夫。カンナ。アルミ箔を巻いて焼き直せばいい」 「おっ、そりゃ名案だ!助かったぜレニ!」 ぱっと顔をあげたカンナは、アルミ箔を取りに飛んでいった。 「うんめえ〜!うめえな!この脂の乗り具合が最高じゃねえか!いや〜やっぱ9月はサンマを食わなきゃだよな!こんなにうめえもんを食わないなんて、どいつもこいつも勿体ねえよなあ」 アルミ箔をがさがさとほどき、ようやくしっかりと焼けた魚を、カンナはむしゃむしゃと頬張った。 「このアツアツのところが…はふ、むぐ、たまんねえよな。汁気がたっぷりで…ちょいと酒が、ほしくなったりもするけどな」 「カンナ、まだ昼間だよ」 「へいへい。ほんとに、こんなにうめえサンマを食わないなんてバカだよな。どいつもこいつも…まったくよう」 小骨をつまんで除けながら、カンナは自分に言うように同じ言葉をくりかえした。 「レニ、お代わりするだろ?もう2〜3匹焼こうぜ。今度はちゃんと焼いてみせるからさ」 「ボクは1匹で十分」 箸で綺麗に半身をたいらげながら、レニはにっこり笑ってつけたした。 「でも、とても美味しいよ」 「だろ?絶対今年もうめえサンマを焼いて食おうって決めてたんだ、ずっと前からさ」 「カンナ…ダイにもちょっとあげてもいい?」 いつのまにか、白い犬が傍らに来てじりじりとしっぽを振っている。 「ああ、いっぱいあるからな。どうだ、うまいかダイ」 レニに半身の残りをわけてもらって、中庭の主はわうわうと気持ちよく吠えた。 「おっ、サンマの味がわかるのかよ。おめえは賢いヤツだなあ。まだまだ焼くからたくさん食えよ」 網の上では、第2弾の魚の皮がぱりぱりとつぶやいていた。 「は〜天気はいいし、空は高くて風が気持ちいい。そんでサンマはうまいし、言うことなしだぜ。日本の秋はいいよなあ」 天を仰いでしみじみとカンナは言った。残暑をはらうさわやかな風に、七輪の煙がたなびいていく。その煙の行方を追うように、じっとカンナは空を見上げていた。 「…サンマ。日本からアメリカ太平洋岸にいたる北太平洋亜寒帯水域のみに分布する冷水性の回遊魚。日本近海のサンマは、太平洋側では春から夏にかけて北上し、8月下旬から9月上旬に本州の太平洋を南下する」 ふと、レニが箸を置いて唱えた。 「出たな、百科事典」 厨房から持ってきた麦茶を飲んでいたカンナは、からかうように笑って眼を細めた。 レニは表情を変えないまま続けた。 「九州以西の海域には、冬から春にかけて稚魚が出現する。まれに沖縄まで行くサンマもいるだろうけど、9月に脂肪分の増加したサンマを食べる習慣は、沖縄地方にはないはずだ…」 カンナは黙って湯飲みを置くと、七輪の前にかがみ込んだ。 「火加減に注意しねえとな…またさっきみたいに…」 口の中でもぐもぐ言いながら網の下の火をのぞいた。熾き火が、陽に灼けた頬をかすかに紅く照らす。 「カンナ、ボクよりも、本当は一緒に食べたかった人がいるんじゃないの?カンナに、サンマの焼き方を教えてくれた人…」 「うあっち…いけねえ、煙が目に染みやがった。…次も焼けたみたいだぜ。さあ、じゃんじゃん食うぞ!」 目元をぐいと拳でこすると、カンナは焼けた魚に、豪快に箸をのばした。
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