緩雨   紫月




 夜10時を過ぎると、帝劇の周囲はとても静かになる。
まるで、昼間の喧騒が嘘か幻だったのではないかと、そう感じるほどに。
外だけではない。
帝劇の中も、とても静か。
私の靴音が、そう、建物の隅々までしみ込んで行くよう・・・。
灯が落とされ薄暗くなった帝劇は、人によっては不気味に映るかもしれないけど、私は、そうは感じない・・・。
なぜなら・・・ここが私の・・・家だから。

 それに、私は今、一人で見回りをしている訳ではない。
こんな事を言うと人は笑うかもしれないけれど、私は今、隊長と一緒に見回りをしている。
・・・やっぱり笑うでしょうね。
どこから見ても一人だから。
でも良く見て?
私の右手には、隊長が愛用していた・・・いえ、隊長が愛用しているランプがあるでしょう?
ただのランプだけど、巴里に行ってしまった隊長を、私に感じさせてくれている。
だから、私は隊長と一緒に見回りをしているのよ。
笑われてもいいわ。
自分でもどこかで馬鹿みたいだと思っているから。
でも・・・こうでもしないと・・・私は・・・・。

 見回りを終えた私は、必ず隊長室にランプを置きに行く。
決して自分の部屋には置かない。
隊長の部屋を、最後の見回り場所にする為に・・・。
 机の上にランプをそっと置いて、いつものように、隊長のイスに両手をかける。
そこに隊長が座っている、そんな気分で、今日一日の事を報告するの。
もちろん一人芝居よ。
・・・そうね・・・本当に馬鹿みたい。
でも、一つ言い訳をさせて。
これも舞台の練習なのよ。
・・・・・・・・。
ふふ、やっぱり、無理があるわ・・・困ったものね。
・・・ふふ・・・ふふふ・・・。

 隊長、聞いて下さい。
夏公演の配役で、またすみれと織姫が衝突しました。
毎度の事ですが、いい加減に彼女達にも大人になってもらわないと・・・。
 それからアイリスですが、理数系の勉強の進みが、あまり良くありません。
今はレニにも協力してもらっていますが、ちょっとでもきつく言おうものなら、むくれてしまって言う事を聞かないんです。
かえでさんは「反抗期」だとおっしゃっていましたが、彼女も、そういう年頃なのでしょうか。
恥ずかしい話ですが・・・私は、反抗期という時期を、経験していません。
だから、よくわからないんです・・・。
え? 「隊長失格」ときつい事を言っていた時期が、私の「反抗期」だろう、ですって?
・・・・隊長、そういう事を言っていると、帰ってきた時優しくしてあげませんよ?
ふふ、冗談です。
他のみんなは、あまり変わりはありません。
 そうそう、さくらのお母様から「ずんだ餅」が送られてきました。
初めて食べたのですが、とても美味しかったですよ。
さくらったら、隊長に食べさせたいって、ずっと言っていました。
巴里に送れないかって。
・・・・でも、無理、ですよね。
地球を半周ですものね。
着いた頃には、きっと腐ってしまっているでしょう。
え? ちょっと疲れていないかって?
・・・・誰のせいだとお思いですか?

『たまには、ズル休みもいいじゃないか』

「え!?」
私は、思わず声を上げて周囲を見回した。
今、隊長の声が聞こえたような気がしたから・・・・。
「そんなはずは・・・ない・・・・」
私はもう一度見回す。
ふと、鏡の中の自分と目が合った。
なんて顔をしているんだろう。
顔色は褪せ、表情は無様に引きつっている。
私は自分を見るのが辛くなって、急いで隊長の部屋から自室に戻った。
ドアを後ろ手に閉めると同時に、ポロポロと涙がこぼれ出てくる。
みっともない・・・あんな空耳に、こんなにも敏感に反応するなんて・・・。
やっぱり、疲れているのかしら。
「うっ・・・ううっ・・・」
嫌だわ、今度は嗚咽?
でも止めようとすればするほど止まらない・・・・。
みっともないわ・・・。
こんな事では、隊長の代理なんて務まらない・・・。
しっかりしないと・・・・。
せめて、キネマトロンの電波が届いたら・・・あの人の、元気そうな姿が見られるのに・・・。

 翌朝、私は米田支配人に休暇届けを出していた。
目が腫れているのを、支配人は見て見ぬフリをしてくれている。
すみません・・・支配人。
「朝っぱらから何事かと思ったが・・・・マリアにしちゃあ、珍しいな」
「急なことで、ご迷惑だと思いますが・・・」
「気にするな、今日一日ゆっくりと羽根を伸ばしてこい。疲れているようだし・・・あ?」
届けに目を通していた支配人の顔が、一瞬だけ変わった。
「あの、何か書き間違いがあったのでしょうか」
「いや、何でもない。言いたかねぇけどよ、トシのせいか目がカスみやがるんだよ。かえで君は、酒を控えれば元に戻る、なぁんて言って、俺を騙そうとしやがるがな。しかし、その手は桑名の焼き蛤ってやつさ。だぁっはっはっはっはっ」
「はぁ・・・」
「とにかく、気をつけて行って来い。キネマトロンも置いていけ。いいな」
「ありがとうございます」
 私はお礼を言って支配人室を出ると、食堂を通らずに、来賓用の玄関から帝劇を出た。
まるで夜逃げでもするよう。
でもそうしないと、みんなも来てしまうから・・・・。
多分・・・だけど。

 運良く帝鉄が来たので、私は思わず飛び乗った。
肩越しに帝劇を見ると、誰も外には出ていなかった。
良かったわ、これで今日一日、私はのんびりできる。
誰の世話も焼かない、誰にも干渉されない、誰の事も考えない・・・そんな、自分本位の時間を楽しまなくちゃ。
支配人、感謝します。

 ほっと一息をつくと、景色に色彩が戻ってきた。
木の淡い茶色と、シートの深緑。
手すりの銀と吊り革の取っ手の白。
コールタールを染み込ませた暗い色の床板と明るい灰色の天井。
そして、通勤客の衣服。
まだ早朝という事もあって、乗客はそれほど多くはない。
まばらに席が空いているので、私は手近な空間に腰をかけた。
少し長く息を吐く。
もう鼓動も息も落ち着いている。
やや後ろめたいものを感じているせいだろうか、なんだろう、違和感を感じる・・・・。
あ。
顔が湿っぽい。
顔だけじゃない、私の体全てが、薄っすらとした湿気に覆われている。
私はシートをこれ以上濡らさないように慌てて立ち上がった。
あ・・・・。
車窓に幾筋もの水滴が流れていくのを見て、私はようやく今日の天気が雨だとわかった。
よっぽど慌てていたのね。
天気も見ずに飛び出したなんて・・・ふふ、馬鹿みたい・・・。
傘は・・・そうね、途中で買えばいいわ。
この程度の雨なら、まだ傘は必要ではないもの。

 しばらく帝鉄に揺られていると、今この時間の帝劇がどうなっているか、つい考えてしまう。
その事を考えない為に、今日一日帝劇を離れたというのに、なんて矛盾しているのかしら。
理由は、隊長の、あの人の一言。
『マリア。みんなを、よろしく頼む』
何かあったらキネマトロンで連絡を、なんて言っていたけど、未だに巴里との交信は出来ないまま。
紐育には届いていたから心配していなかったのに・・・・。
紅蘭の話では、巴里に渦巻いている妖力が原因らしいけど、なんだか納得がいかないわ。
かといって、電話は・・・・。
自分でも馬鹿げていると思う。
でももし、隊長以外の声が聞こえてきたらと思うと、私の指はダイヤルを回せなくなってしまう。
あの人を信じていない訳じゃない。
でも・・・・。


 『ホォォォォォォ・・・・・・』

 さらさらと降る雨に混ざって、入港してきた貨客船の汽笛が鳴り響いている。
そう。
私はあれから列車を乗り継ぎ、横浜に来ていた。
 駅舎で黒い紳士用の傘を買い、取り立てて当てのないまま港を散策していると、中型客船の出航風景に行き会った。
こんな天気でも、船のスケジュールは変わらない。
桟橋と船の間を、何本もの色とりどりのテープがつないでいる。
やがてあのテープが手を離れ、しばしの、人によっては今生の別れになるのね。
私も・・・いえ私達も・・・ほんの数ヶ月前にそれを体験した。
 あの時はただの留学だと、誰もが信じていた。
でも、すぐにそれは擬装であった事を、私達は知った。
巴里で新しい華撃団を発足させる事。
それがあの人に課せられた使命だった。
 ただの留学なら、命の心配なんて必要ない。
でもあの人は今、見知らぬ街で、見知らぬ人達の為に命をかけて戦っている。
「巴里なんて、どうなったっていいじゃない・・・」
思わず本音が口をついて出てしまう。
そう、巴里の事は、巴里の人達に任せておけばそれでいいはず・・・・。
プライドの高いフランス人の事、きっと日本人のあの人を、生ゴミでも見るような、そんな目で見ているはず・・・。
それなのに、どうしてあの人が命を懸けなくてはならないの?
おかしいじゃない。

『じゃあ、ロシア生まれのマリアは、どうして命懸けで帝都を守ったんだい? 君にとって帝都は、見知らぬ人々が暮らす、見知らぬ街ではないのかい?』

きっと、あなたはそう言うんでしょうね。
気付いてらっしゃいますか?
ご自分が、帝撃の中で一番ずるい人だという事を。
私がこんなにも弱く、醜い心を持つようになったのは、あなたの責任なんですよ?
私はあなたが好きだから、大好きだから、あなたの愛している街を守ろうと思ったんですよ?
あなたの笑顔が、見たいばかりに・・・・・。
 でも、私はあなたを憎む事が出来ません。
それどころか、あなたが異郷で何か困っていないか、いつも心配しています。
お水は大丈夫ですか?
欧州の水質は限りなく中性に近い日本と違ってアルカリ性が強く、場合によってはお腹を壊してしまいます。慣れないうちは、お茶や湯冷ましを飲むようにお教えしましたけど、ちゃんと守っていますか?
食事は、どうですか?
オリーブオイルも、慣れないうちはお腹を壊しますから気をつけて下さいね。
もっともあなたの事だから、パンとコーヒーだけで食事を済ませてしまいそうで・・・。
それから・・・・それから・・・・。

『ボォォォォォォォォォ』
『シャンシャンシャンシャン・・・・・』

 そのまま放っておけば、日が暮れるまで続いただろう繰言を、汽笛と銅鑼が止めてくれた。
「最低だわ!」
私はそう吐き捨てると、足早にその場を去った。
誰が見ていた訳でもないのに、恥ずかしさで顔が火照っているのがわかる。
雨の湿気でどんどん冷めていっているはずなのに、いつまでたっても熱は治まらない。
何故なら、私の中で二人の私が言い争いをしているからだ。

『みっともない。最低の女だ。いつもの冷静なお前はどこに行ったんだ!?』
『私だって一人の人間よ! 一人の、女よ! 感情に走って何が悪いの!?』

決着のつかない論争。
果てしなく続く水掛け論。
「ほんと・・・最低だわ」
私は感情に任せ、手近な水溜りを、勢いよく踏み付けた。


『カランコロンカラン・・・・・』

 カウベルの付いた、少し厚めのドアを開けると、緩やかなジャズが私を包んだ。
「珍しいな。こんな天気に」
「暇そうね。こんな天気だから」
マスターの声に皮肉を返し、私はカウンターに腰を掛けた。
何度か隊長と来たカフェ。
結局、行き場のない私は、友人の経営するカフェに来てしまった。
「今日は天気のせいか豆が鈍い。ちょいと、勘弁してくれよ」
そう言うと、マスターはブレンドを私に出す。
もちろん、ブランデーを垂らす事を忘れない。
意識を活性化させる香りと、まどろませる香りが絶妙なバランスを保っている。
その時の状況に応じて、マスターの目分量で入れられるのだが、いままでこのバランスが崩れた事は一度もない。
だから、私も安心できる。
湯気をあごに当て、しばらくジャズに身を任せてみた。
少しずつ、何もかもが解れていくような、そんな気持ちになった。
「今日はのんびりなんだな」
「そう?」
「ああ、いつもは時計と相談しながら飲んでいるからな」
「そう・・・そんなに・・・」
気が付かなかった。
私は規律を重んじるばかりに、無意識のうちに自分自身を縛っていたらしい。
これでは疲れるのも当然ね。
だって・・・私はそんな女ではないもの・・・。


「はぁ・・・・・」
 夜8時。
私は帝劇の玄関の前で溜め息をついていた。
今日一日、時間を無駄に使う事ができた。
次にこんな事が出来るのは、いったいいつの事になるのか・・・。
そう考えると、このまま帝劇に帰るのがもったいないように感じてしまう。
でも、いい加減に帰らないと米田支配人の迷惑になる。
「もう・・・充分でしょう?」
私は自分にそう言い聞かせて、玄関の扉を開いた。

「遅かったな。ちょっと心配したぜ」
 玄関のほの明かりの下で、カンナが複雑な笑顔を浮かべて立っていた。
私は一瞬入るのをためらってしまったが、彼女の笑顔に手招きされてようやく中に入った。
「いつから、そこに?」
「ん? 大して待っちゃいないさ。ホントだぜ?」
退屈が苦手なカンナ。
彼女のぎこちない笑顔から、どれだけの時間が経過しているのかが、少しだけわかる。
「ごめんなさい・・・」
私は彼女の目を見る事が出来ず、下を向いたまま謝る。
「おいおい、何謝ってんだよ。マリアは今日一日、花小路伯の手伝いで出かけてたんだろ? 謝る事無いって」
「え!?」
私は思わず声を上げ、カンナの顔をまじまじと見てしまった。
彼女の顔には、何の迷いも無い。
いえ、考えてみれば、そういう事が一番苦手なのがカンナのはず。
では・・・・米田支配人が?
私のわがままを皆に隠す為に、わざとそんな事を?
「どうしたんだよマリア。あ、そうか、疲れてるんだよな。でもさ、ちょーっとだけ付き合ってくれよ、な?」
ニコニコしながら私の肩をしっかりと掴み、食堂の方に向けさせる。
「あの、カンナ、食事は済ませてきたから・・・」
「いいからいいから。さ、ちょいと息を吸って」
しょうがない。
今は私が悪者ですものね。
私はカンナの言う通り、少し息を吸って食堂に入った。

『パンッ』
『パパンッ』

「きゃっ!?」
 いくつもの破裂音に、私は思わず声を上げて一歩退いてしまった。
驚きから覚めて食堂を見渡すと、何かの祝い事をするような飾り付けが施されていた。
そして私の目の前には、花組のみんなやかすみ達、かえでさんに米田支配人までがクラッカーを持ってこちらを見ていた。
「あの・・・・これは・・・・?」
困惑する私の肩を、カンナが軽く叩く。
「なぁに呆けてるんだよ。今日はマリアの誕生日じゃねぇか。みんな、待ってたんだぜ」
「ええ? 私の誕生日は明日のはずよ?」
私の言葉に、皆が一瞬呆ける。
「やーれやれ。マリアさん、働きすぎて日にちの感覚がズレてしまったようでーす」
織姫がオーバーに肩をすくめてみせる。
「まぁ、無理もありませんわね。色々と面倒をかける方が多いですものねぇ」
・・・・すみれ、あなたもよ。
思わずそう言いそうになってしまったが、何とか喉の所で留めた。
「まあまあまあまあ、ここは一曲」
月組の加山隊長がいつものギターを持って現れ、伴奏を始めた。

ハッピー・バースデー・トゥ・ユー ハッピー・バースデー・トゥ・ユー

ハッピー・バースデー・ディア・マリア

ハッピー・バースデー・トゥ・ユー

ごくありふれた誕生日の歌。
何の変哲も無い歌。
なのに、心の中に、雨のように染み込んでいく。
今、みんなの心の一滴が、歌声の河となり、私の心に海のような慈愛となって届いた。
「・・・ありがとう・・・ごめん・・・みんな・・・」
私は、みんなを厭うた自分を恥じ、そしてみんなに感謝した。
ここが私の家。
みんなが私の家族。
私は・・・今の私には、帰る場所がある・・・。
そうだ。
私は自分の家族を守る為に戦ったのだ。
どうして忘れていたのだろう・・・・。
 その事に気付いた私は、涙が止まらなくなっていた。
みっともない。
でも、どうしても止らない・・・・。
「ほら、泣くなよ、このくらいでさ」
カンナが肩を抱いてくれた。
「マリアさん・・・」
さくらが涙を拭いてくれた。
米田支配人が嬉しそうに頷いてくれた。
「マリア、こっちだよ」
アイリスが私の手を引き、席に着かせてくれた。
「おめでとう」
みんなが、私を祝福してくれていた。
隊長・・・こんな贅沢・・・そうは無いですよね?
私・・・皆に会えて本当に良かったと思います・・・。
隊長・・・私をこんな風に変えて下さって・・・本当にありがとうございました・・・。

でも隊長。
やっぱりあなたは・・・帝撃一の、酷い人です。
こんな日に、私の傍に、いてくれないのですから・・・・。
ふふ・・・・。




おわり



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