6.19.1925


山崎あやめ





 ヅー、ヅー、ヅー…。
キネマトロンの呼び出し音で目が覚めた。
(緊急事態…?)
跳ね起きてサイドテーブルに飛びつき、蓋を開けて受信する。隊長の顔がモニターに揺らいだ瞬間、間一髪で気がついてシーツを羽織った。
「や、やあ、マリア。えーと、そっちは…こんばんわじゃなくて…」
少し照れたような笑顔で頬を掻く隊長の様子から、緊急の用ではないらしく、ほっとする。もっとも、この有り様では寝起きだということは隠せない。気恥ずかしくなり、時計を確認しながら、寝乱れた髪を撫でつける。
「こちらは朝です。今…六時になるところです」
「うわっ、そんなに早かったのか、ごめん。…じゃあ、まだ…」
「は?」
「あ、いや、いいんだ。夜にでもまた通信をいれるよ。じゃあね。起こして悪かった」
「…?」
誕生日おめでとう、と言ってくれるわけでもなく、隊長はそそくさと通信を切ってしまった。
 何の話だったのか気になったが、たいしたことではなさそうだ。一瞬甘えた期待をした自分を戒めながら、私はそっと蓋を閉めた。

 そう。今日は六月十九日。私の誕生日だ。三日前、花小路伯に言われるまで、自分でも忘れていた。
「十九日は君の誕生日だったね。ちょうど会議の予定もないし、休暇をあげるから、一日ゆっくり好きなように過ごすといい」
その言葉をありがたく受けることにして、今日はひさしぶりの自分だけの時間を満喫しよう。


 ロケットを探しに行こうか、それとも、帰国する日のために服を新調するのもいい。考えながらホテルを出て五番街へ向かう。服は気になるものがいくつか目につくが、ロケットはなかなか丁度よい物が見つからない。ごてごてとレリーフのついたもの、大きすぎるもの。どこかで妥協点を見つけねばと思いつつ、何軒かの宝飾店をまわる。カフェスタンドで軽くランチをとった後、四十八丁目のスクリブナ−ズ書店でつい足が止まってしまい、予定外の時間を使ってしまった。

 こうして一人でニュ−ヨ−クの街並みを歩いていると、否応なく昔の事が思い出されてくる。
 巨大な自由の女神像の他に、誰一人出迎えるもののない港に降り立った、十四歳の少女だった自分。入国審問官の質問を並べ立てた嘘で通り抜け、当て所なくさまよった街角。
 最低の人生を生きようという、当時の幼い決意を、今は愚かだと思えるが、まだ笑う事ができなかった。
 ウインドウのガラスに映る自分に、あの時の自分の姿と思いがよみがえる。この子供っぽい顔がどうにかならないだろうかと、髪の分け目を変えて、片目を隠してみたのだった。これで少しは年がごまかせるだろうかと…。

 背後に人影が重なった。
 振り向こうとした矢先に、腰骨にごりっ、と硬いものが押しつけられた。
 銃口だった。
「いよう。マリア。ひさしぶりだなあ」
ウインドウに映ったやぶにらみの顔が、にやりと笑い、煙草くさい息を吐いた。名前は覚えていないが、『グレッグ・キャンドルの店』で見たことのある顔だ。一度言い寄られて、手厳しく撥ねつけてやったことがある。
 三番街には近寄らないようにしていたのに。どこで私を見つけたのだろう。そして、この銃はどういうつもりだろう。
「何の用?」
「用があるのは俺じゃねえよ」
顎をしゃくって私をうながす。
「穏やかじゃないわね」
言いながら、素早く周囲に目を走らせる。人通りはまばらで、助けを求めるにも、まぎれ込むにも足りなかった。他人を巻き込むのも本意ではないので、やむなくおとなしく従った。
「ずいぶんと立派になったじゃねえか。見違えたぜ」
男が、私の胸のあたりを、舐めるようにじろじろと見るのを、不快に思い、睨みつける。もっとも、銃の威勢の前には効果はなく、悔しい思いをした。
「乗りな」
路肩に止まっていた型の古い蒸気自動車の後部座席に、銃口に小突かれて押し込まれる。
 中に人影があった。後ろから私を挟み込むように、男が銃を向けたまま乗り込んでくる。
 ドアが閉じられ、車が走り出した。

「わしを覚えているか?」
人影が声を発した。
 黙ったまま、じっと顔を見る。中年を過ぎようとしている、痩せた男。どことなくうらぶれた感じがする。眉間に、大きな傷痕がある。
 ほんの一瞬だったが、見たことがある。その時は、この男はもっと恰幅が良くて、その隣には、私に愛をささやいたのと同じ口で、私を欺き、死にいたらしめようとした男がいた…。
「グリフ・レイノルズ…?」
「ほう、覚えていたか。六年ぶりだな」
もうそんなになるのか。その時私のいた、スーホイの一家を襲撃した、アイルランド系の組織のボス。
「わしは、この六年間おまえの顔を忘れたことなどなかったぞ。マリア・タチバナ」
口元が歪んで吊り上がったが、眼はちっとも笑っていなかった。
「女二人に襲撃されて壊滅したとあっては、わしの面子は丸つぶれだ。おとしまえをつけようにも、おまえはすでに行方をくらましていた。今日、スクリブナーズに入るおまえを、こいつが見つけて知らせてくれたのだ。のこのことニューヨークに舞い戻ってきたのが運の尽きだ」
 思わず溜め息が出た。面子。この世で一番どうでもいいことではないか。こんな世界にいた自分に嫌気がさす。
 私の反応にかまわず、レイノルズが詰問する。
「あの時もう一人いた女はどうした?わしにこの傷をつけた女だ」
 あやめさん。あの時、私の隣で白刃をふるい、私を助け、導いてくれた人。黒い羽。白い光臨。今となっては夢まぼろしのような光景も、この喪失感を拭ってはくれない。
「………死んだわ」
その一言を言うのにも、私の胸はきりきりと痛んだが、彼は、ふん、と鼻で笑っただけだった。
「ならばその分もおまえに購ってもらおうか」
レイノルズの眼には憎しみとともに残虐さが滲んでいた。

 車はどんどんひと気のないスラムの奥地へ入っていく。
 このまま黙って座っていても、待っているのは決して楽しい事ではなさそうだ。敵の戦力を確認する。この二人の他に運転手と、助手席にも男が一人。
「銃をよこしな。まだあの不細工なやつを使ってんのかい?改造エンフィールドをよ」
やぶにらみの言葉に、私は黙ってゆっくりと脇のホルスターに手をのばした。
「へんな気をおこすなよ。こっちに銃床を向けな」
言われた通りにした。
「いい子だ。へへ…こんないい女になってやられに戻ってくるたあ…」
銃を受け取ろうと手を延ばした男に、最後まで言わせなかった。私はひとさし指で素早く銃身を半回転させ、銃口を男に向けた刹那、撃ち放った。
「ぐあっ!」
私に向けた銃を握る、彼の指先が吹き飛んだ。間髪いれず、肩で体当たりをして、男の体ごとドアを破る。
「きさまっ!」
レイノルズが銃を抜く気配がしたが、私はすでに走る車から転げ落ちていた。
 左肩をひどく地面に打ちつけた。体が回転し、目がまわったが、すぐに体を起こし目にとまった路地をめがけて走る。背後から銃声が幾重にも重なり、私の耳もとを強い風圧が吹き抜けていった。跳弾がかすったらしく、鞭で打たれたような痛みがこめかみを叩いた。足もとが一瞬よろめいたが、立ち止まったり、振り返ったりはしなかった。
 遮蔽物がほしい。そう思って駆け抜けた路地の先は、小さな広場になっていた。古びた教会が忘れられたようにたたずんでいて、そのドアが、招くかのように半開きになっていた。背中に銃声が迫ってくる。迷う暇はなかった。
 体をすべりこませたドアの内側は、幸い、無人だった。湿った朽ち木と石のにおいの、薄暗い礼拝堂。窓から差し込んだ淡い光の帯に、ほこりがガラスの粉のようにきらめきながら漂っていた。
 ぱりぱりした唇を舌で湿し、息を整えながら私は礼拝席の影に身を沈めた。
 銃撃戦など、ひさしぶりだ。全身の血が下がっていくような、不思議な、冷たい高揚感。五感が皮を剥かれたようにひりひりする。

「マリア!おまえは袋の鼠だ!諦めて出てこい!」

外から、追いついたレイノルズの怒声が響く。黙っていると、バタン!とドアが開き、銃を構えた人影が飛び込んできた。私は身を低くして椅子の列の間をすり抜け、祭壇の影に、銃を撃ちざまに飛び込んだ。
「ぎゃあっ!」
助手席にいた男が、肩を撃ち抜かれてドアの向こうに吹き飛んだ。同時に、サブマシンガンのリズミカルな音とともに、私をめがけて弾丸が発射された。折れた燭台と、蝋燭の破片が、身を伏せた私の頭上にばらばらと降ってきた。
 銃声の数からして、あと二人。レイノルズと、運転手か。あのやぶにらみは、指を飛ばしただけで、追ってくる気力もなかったのか。密かに鼻を鳴らし、銃声が途切れるのを待って、太い柱の影に走る。
 再び、耳を聾する銃声がして、私の足もとで床板が爆ぜた。しかし、敵の位置は確認できた。
「うおっ!」
膝を撃ち抜いた。男はマシンガンを放り出し、足を抱えて床の上を転げ回った。
「ううっ、い、いてえっ!」
「静かにしろ!馬鹿野郎!」
レイノルズの、焦れたような罵声。零落したマフィアのボスの人望がどれほどのものか知らないが、たいした手勢は集められなかったようだ。
 あと一人。

 鼻腔を満たす硝煙のにおいに酔いながら、それでも、心のどこかがひどくうろたえているのに気づいた。こんな修羅場は幾度かくぐってきたが、その時には感じたことのないこの怯えは、新鮮にすら思えた。
 あの頃は、私はただ死に急いでいた。飛んでくる銃弾が自分を貫く瞬間を、福音のように夢見ていた。
 だが、今は違う。今は、私は死にたくない。
 来月には、日本へ向かう船に乗るのだ。そして、一年ぶりに会えたのに、ほんの一瞬で別れなければならなかったあのひとのもとへ戻るのだ。
 だから、死ぬことが恐ろしい。隊長にもう会えない。そう思っただけで、背骨が氷の柱に変わったように、きいんと冷たく痛んだ。

 息を殺して互いの位置を探る、緊張した静寂。額に、虫の這うような感覚があって、汗が一筋つたわり落ちた。
 私はコートのポケットから、買った本を取り出し、宙に放り投げた。
 銃声とともに、本はずたずたに飛び散った。その瞬間を逃さず、垣間見えた銃を撃ち飛ばした。
「うっ!」
衝撃に見舞われた手を押さえて、レイノルズがうずくまるのが見えた。私は柱の影から姿をあらわし、銃口を向けながら歩み寄った。素手になった彼は、私と床に転がった銃とを交互に見やり、間合いを測ってためらっていた。私が先に銃を拾い上げると、かつてのマフィアのボスは、しりもちをついて後ずさった。

 なんだか情けなくなった。
 私は何をしているのだろう。しっくりと右手に馴染んだ鉄の塊の重さを感じながら、私を死神のように見上げる男を前にして、外出した理由をぼんやりと思い出す。
 とんだ誕生日もあったものだ。
 さっきまでの弾は、全部急所をはずしてある。この男も殺さずに済めばよいのに。思い浮かんだ考えは、吐きそうなほど甘かった。
 確かに甘いかもしれない。でも、こんな日にまで、人を殺したくない。もうたくさんだ。
「私は、もうすぐこの地を離れる」
レイノルズの眼を見ながら、静かに言った。
「この世界に二度と関わるつもりはない。だから、おまえも二度と、私の前に現れるな。あの、聖母にかけて誓え。信心が少しでもあるなら」
古びた教会の、曇った薔薇窓の中央に、おさな子を抱き、慈愛の笑みで見下ろす私と同じ名の聖母。だがその御手はあまりに遠い。
「…ち、ちかう…」
かすれた声がレイノルズの唇から漏れた。

 私は背を向けて、立ち去ろうとした。その瞬間、レイノルズが突進してきた。
 突き出されたナイフを、身をひるがえしてよける。同時に、さらされた首筋に肘を落とし、床につっぷしたところで手首を踏みにじった。ほぐれ落ちたナイフを奪い、起き上がろうともがく頭に銃を押しつけた。
「せっかく拾った命を粗末にする、愚か者…」
両目の間に銃口を向け、小さな穴の奥の、冥府へと続く深い闇を、ようく見せてやる。
 殺せ。
 頭の中で自分の声がする。
 この男は屑同然だ。生かしておいてもろくなことはない。性懲りもなくまた狙ってくるに違いない。早く殺せ。何が誕生日だ。今さら一人二人の命では何も変わらない。この血濡れた手も、背負った罪も。
 私は引き金にかけた指に力を込めた。

 ふと、隊長の顔が脳裏をよぎった。隊長は、こんな私をどう思うだろう。こんな、殺意にかられ、無慈悲に殺戮を繰り返す姿を見ても、私の事を許してくれるだろうか。
 死を覚悟したレイノルズは、犬のように激しく喘ぎ、だらだらと油汗を流して震えていた。その様子は醜悪ながら、生に執着する、命あるゆえの所業に見えた。
 隊長ならこんな時どうするだろう。きびしく、とどめを刺すだろうか。それとも…。
 答えは出なかった。
 でも、私は銃を降ろした。
 隅のほうから、まだうめき声が続いていたが、私は後を見ずに立ち去った。
 甘い。愚か者はおまえだ。後悔するぞ。もう一人の私が罵る。
 でも、私は殺したくなかったのだ。今日だけでも。どうしても…。



 彼らが追ってくる様子はなかった。随分遠くまで来ていたことに気づく。ひと気のない路地を早足で走り抜け、大通りに出た。
 落ち着いてみると、服は泥と埃にまみれ、あちこちが裂けていた。打ちつけた肩や膝が、今さらのようにずきずきと痛んだ。車から飛び下りたのだから、我ながら無茶をしたものだ。こめかみの跳弾の傷に触れてみる。大したことなさそうで、思わずほっとした。これなら痕を残さずに消えてくれるだろう。
 蒸気タクシーを拾おうかと思ったが、ふと歩きたくなった。へとへとに疲れ切っていた体は痛みをもって抗議したが、このささくれ立った心を鎮める時間が欲しかった。

 いつしか、摩天楼の間に陽が落ちようとしていた。街の賑わいを耳にしながら、雑踏の中をゆっくりと歩いた。帰国まであと二週間ほどだ。その間、ずっと警戒し、緊張しながら過ごさねばならなくなった。それでも、あの時、レイノルズを殺していたら、今頃別の後悔をしていただろう。それなら、自分の気の済むようにしたほうがいい。
 これで私も二十二歳か。カンナが九月生まれだから、それまで花組で最年長ということになる。とはいえ、たかが二十二年の人生が、どれほどの重みを持っているやら。私はまだまだ未熟だ。人はいったいいくつになれば、迷わず、自分に自信を持ち、あやまちを数えずに生きられるようになるのだろう。それとも、そんな日は、どれだけ年を重ねようと、一生来ないのかもしれない。




「マリア、どこに行ってたんだね。随分おそかったじゃないか」
ようやく帰りついたホテルのロビーに、花小路伯の姿があった。私の様子を見て、白い眉を上げる。
「怪我をしたのかね?何があったんだ…大丈夫かね?」
心配そうな声をありがたく思ったが、説明しようと考えただけで、どっと疲れが押し寄せた。
「すみません…ちょっと転びました…」
私の答えに、伯爵は鼻で息をついて苦笑しただけで、この場はそれ以上聞かないでくれた。
「君に、大神君から預かってるものがあるんだよ。それを渡したくて帰りを待っていたんだが…」
「えっ…?」
隊長の名に、私の心臓は勝手に反応した。ずきん、という甘いような痛みとともに、突然高鳴り出すのを抑えきれない。
 花小路伯が上着のポケットから取り出したのは、細い緑色のリボンが花のように美しくかかった小さな箱だった。
「私宛に先週届いていたんだ。船便では、誕生日当日に届くような保証はないから、私から今日君に渡してくれとね」
今朝の通信はこのことだったのか。ふいに、なんだか泣き出したくなった。
「さっき、私の方に通信があったよ。早く君に受け取ってほしくて、仕方がないらしい」
「ありがとうございます…伯爵」
手渡された箱の小さな重みに胸がいっぱいになって、それだけ言うのがやっとだった。
「お礼は大神くんに言いたまえ。この大きさだと、何かアクセサリーかな。明日でいいから、つけたところを見せておくれ。さあ、早く行きたまえ」
「はい…!」
私は踵を返し、小走りでエレヴェーターに向かった。だが、待ち切れず、階段を駆け上がった。不思議と、膝の痛みが消えているように感じた。
 胸に抱きしめたその箱は、何もかも、そこから癒されていくように、ほのかな光とぬくもりを持っているようだった。




《了》



HAPPY BIRTHDAY DEAR MARIA…!



[ Top ] [ 花組文庫1 ]

inserted by FC2 system