青色の騎士





 その城は、スイス国境近くの山あいにあった。いつの時代のものかは分からないが、ドイツの深い森と山の中に立つそこは、秋雨のせいもあって、ひどく陰気に見えた。
 司令部差し回しのジープに乗ったまま門をくぐり、建物の内部に入ってからの風景が異様に感じたのは、衛兵が皆、毒ガス防護衣を着込み、ガスマスクをしていたことだった。

・・・・あんなもの・・・
 マリアは内心呆れながら彼らを見た。

 その衛兵の一人に案内されて通された部屋は、がらんとした中央が木製の机で区切られ、その机から天井までは鋼板で塞がれ、机に面して座った上半身の部分だけが見通せるように、ガラスが嵌められていた。むろん、机の下も鋼板でふさいでいる。
 仕事柄、捕虜の面会所には何度と無く足を運んだが、面会者と被面会者とをこれほど厳重に区切っているのは初めてだった。
 衛兵に促されてガラスに面した椅子に座ると、卓上には受話器が置いてあった。これでガラスの向こう側と話をするわけだ。これなら、別室で記録を取る立会い者が、どんな小声のやりとりも聞き取ることができるわけだ。

 石造り壁の、天井の高い広くて薄暗い部屋にぽつねんと座っていると、足元からじわじわと冷気が這い上がってくるようだった。マリアは軍用コートの襟を一番上まで閉じ、それから足元の鞄からノートを取り出して机の上に広げた。ノートには、付箋やメモやその他の紙片類が貼り付けられたり、挟まれたりしていて、原型よりもだいぶ分厚くなっていた。自分でつけた見出しに助けられて、該当人物のページを開いた。既に何度となく読み直した書き込みや、証拠や、資料を眺めながら、マリアは内心恐れていた。これから向き合う相手が、見る影も無くやつれ果てているかもしれないことを。

 しばらく待った後、その人物はガラスの向こうの部屋の、奥のドアから現れた。やはりガス防護衣で全身を包んだ兵士に両側を固められ、緑色の米軍の作業服を着て、しっかりした足取りで歩いてくる。その姿を見て、マリアは密かに安堵の息を吐いた。10年前ベルリンで会ったときの豊かな髪は、少年のように短く切られていたが、それはかつて異国で共に戦った頃の容貌を髣髴とさせた。
 マリアは静かに立ち上がった。相手は机の数歩先で一度立ち止まり、衛兵に手錠を外してもらってから机に近づいた。微笑みながらマリアに何か話しかけたが、二人を隔てるガラスは思いのほか分厚いらしく、それは音にならなかった。
 ガラスを挟んだ二人は互いに見詰め合ったまま席についた。ゆっくりと受話器を取った。マリアに、少しだけ躊躇があった。
「お久しぶりね。」
「・・・・!」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、日本語だった。マリアは虚を衝かれたように一瞬息を呑んだ。
「お元気そうでなによりだわ。」
もう何十年も使っていないはずなのに、その日本語は流暢で美しかった。男言葉でさえなく、年齢相応の女性が使う言葉遣いであることにも、マリアは気づいた。
「あなたも・・・・レニ。」
マリアはようやくそう応じると、一度深呼吸をして息を整えた。
「・・・日本語を?」
「日本は友邦だったもの。通訳にも使われたし、資料を・・・日本語の資料を読む必要があったし・・」
微笑みながらレニが答えかけた時、受話器から男のくぐもった声が警告した。
「373号。ドイツ語と英語以外の言葉を使うな。」
マリアは横目で、彼女の右手の壁にある窓を見た。別室の中から数人の男がじっとこちらを監視していた。
 レニは首を傾げて微笑し、沈黙した。
「申し訳ないけど、レニ。今日は仕事できたの。」
「分かってる。そうでなければ、こんなところに来られる訳無いものね。」
英語のレニは、日本語で話すよりも少し快活な気がした。
「でも・・・驚いたわ。」
マリアは手にしたたペンの尻で、ノートを太鼓のように軽く叩きながら言った。
「呆れた重武装ぶりね。」
「ああ、ここの警備のこと。」
レニは微笑したまま答えた。
「怖いのよ、霊力が。彼等には得体の知れないものだから。毒ガスか生物兵器と同じと思ってるのよ。」
「そう。アメリカもイギリスも、霊子兵器には早くに見切りをつけてしまったから・・・オペレータの素養に左右されるし、偏りも大きいし。大量生産には向かないもの。現代戦のキーワードは、大量、平均、安定、でしょ?だから今のアメリカ軍内では、霊力に関する知識が殆ど無いの。無知は恐怖の母よ。・・・・でもだからといって、ゴム引きのガス防護衣で霊力が防げると思うなんて。呆れたわ。」
「米軍は今のあなたの職場よ?」
レニはからかうように言った。
 今はね、と、マリアは声を出さず、口の形だけをガラス越しにレニに見せて答えた。レニは目を細めて笑い、それから、言った。
「私がナチスに入ったのも、そのせいよ。」
見抜かれていたか、とマリアは思った。もとより、自分がここに来た目的を隠蔽できるはずも無い。マリアは座りなおし、ペンを握りなおして言った。
「続けて。」
「その話を聞きに来たのね、やっぱり。」
「・・・・回顧談をしに来たとでも?」
レニは笑って首を振った。
「帝国華撃団が解散になって、ドイツに帰ってきて、私は自分の力を何かに生かしたいと思った。その・・・誰かのために役に立つように。」
マリアはだまって頷いた。
「でも、ドイツは大戦に敗れて、それこそひどいありさまで。皆その日その日をやっと生きている感じだった。ヨーロッパの国という国がドイツにたかっていたわ。ハイエナさながらにね。」
「そこにヒトラーが現れた。」
レニは受話器を握ったまま、しばらくじっとマリアの顔を見つめていた。マリアもその目を見返した。先に目をそらしたのはレニのほうだった。
「そう。・・・ただね、マリア。あなただってあの時ドイツ人としてドイツにいれば、きっとナチスに希望を見たわ。そして、世界中が霊力を否定して、日本でさえ米田将軍自らが霊子兵器を葬ってしまったあの頃、私達はどんな扱いを受けていた?」
レニがこんな風に自分の感情を明らかにするのを、マリアは初めて見たような気がした。もっとも、レニの口調自体はとても静かで、淡々と昔話を聞かせている母親のような響きさえした。
「魔女、そのものだわ。ここの警備の兵士と一緒。得体の知れない力を持った魔女。世界のどこにも、私の居場所は無かった。」
「私も、紅蘭も、さくらも、力のことは隠していたわね、あの頃は。そんな力、何も無い振りをして暮らしていた。」
マリアはそう答えた。
「・・・私にはそれはできなかった。だってあの力は、私に与えられた唯一の才能だわ。私から霊力を取ったら、何が残るというの?イギリスもアメリカもフランスも、霊力を否定した中で、たった一つ、ドイツの・・・ナチスだけが霊力を研究したい、生かしたいと言ってくれた。」
レニは受話器を持ち替えた。そこで一呼吸置いてから、続けた。
「ドイツ人がドイツ人としての誇りを失って、何もかも投げやりに、こんな国、どうにでもなってしまえ。欧米に食い尽くされて、奴隷のようになってしまえと思っていたときに、総統は言ったわ。そうではない、我々は、今からでもやり直せる。豊かになれる。希望を持とう、働こう、考えようと。・・・・あの時、皆誰かにそう言って欲しかった。ただ、誰もそう言う勇気が無かったんだわ。うそ臭くなるような気がしてね。でも総統は違った。自信をもって、はっきりと言い切ったわ。私達には未来があるって。皆その言葉を待っていた。そして、その未来のために、私のこの力を生かせるんだと言われたの。それはすばらしい提案だったわ。」
「あの頃、あなたは確かに輝いてたわね。」
マリアは言った。1935年のベルリン。米国務省のタイピストとして訪独団の随員だったマリアを、ナチス党本部の上級科学部員として迎えたレニの美しい姿を思い出していた。豊かな髪を長く伸ばし、それを絹のリボンでまとめ、耳にはイアリングをし、上等なブラウスと優雅なタイトスカートを着、襟元には誇らしげにナチス党のシンボルをあしらったブローチをつけていた。自分の能力と地位に誇りを持って毎日を暮らす姿は、当時のマリアにはひどく眩しかったのを覚えている。
「それが、間違いだったと気づいたのは・・・いつ?」
マリアは訊ねた。
「間違い、とは今でも思っていない。」
レニは意外な答えをした。
「間違いだとは思わないわ。あの時、私は正しい判断をしたわ。ただ、」
レニは言葉を切って考え込んだ。マリアは先を急がせなかった。
「・・・・・ただ・・・」
レニは再びそう言い、沈黙した。
「ただ?」
マリアは繰り返した。レニは首を振って口を開いた。
「さっきあなたは言ったわね。霊子兵器は現代戦に向かない。オペレータの素養に左右されるし、偏りが大きすぎるって。ドイツの答えも同じだったわ。何千、何万という単位で押し寄せてくる敵兵と戦うには、10機やそこらの霊子兵器ではお話にならない。まして、なまじドイツは科学技術が発達していたから、さまざまな性能の突出した少数の兵器を開発したわ。その結果、工場のラインは複雑になり、いろんな種類の、いろんな部品を作らなければならなくなり、生産性はがた落ちになった。原料も外国から入ってこなくなって、最後は原料の奪い合いのようになってしまったわ。霊子力を応用した機械どころではなくなってしまったの。」
マリアはだまって頷いた。
「戦争も最後の2年ともなると、私達の霊力に関する報告書は、総統お抱えのジプシー占い師の『お告げ』と同じフォルダに入れられて、しかも扱いはそれよりも下になっていた。」
レニは力なく続けた。
「その頃から、私達の仕事は親衛隊本部勤務になったわ。レーベンスベルクの古城を親衛隊が買い取って、そこを本部に改装したの。ホールは中世のハインリヒ1世時代そのままのものだそうだけれど。そこでね、親衛隊の入隊宣誓式をやるのよ。」
マリアはじっとレニを見つめていた。ガラス越しのその姿は、話している間にもみるみる小さくなっていくような気がした。
「わざわざ深夜を選んで、中世のホールに新入隊者と親衛隊幹部が集まって、親衛隊旗と剣に、忠誠を誓うのよ。『忠誠こそ我が誇り』。そう宣誓者が言った時、祭壇の裏に隠れた私たちが『力』を使うの。するとね、祭壇と、祭壇に触れている旗ざおと、剣と、剣を持った者の身につけた金属が・・・剣帯や勲章やバックルや、ヘルメットが青白く光るの。熱も、音も無くね。素晴らしい演出でしょう?・・・この不思議な光を目の当たりにして、彼らは、自分達が選ばれた聖なる騎士だと信じることができるのよ。」
長い沈黙があった。
「お笑いね。私達の信じた、私達の力で作る未来が、よりによって中世騎士ごっこをやりたかった総統と、親衛隊長官の特殊効果係だったなんて。」
マリアは、今が本題に入る時だと思った。
「あなたは、それからもっと恐ろしいことを依頼されたわね。」
レニは身じろぎもしなかった。そして小さく首を振った。
「断ったわ。私ははっきりと断った。」
「・・・・断った。では知っていたということね?」
意識的にマリアは声を絞った。感情をあらわにしてはいけない、どんな時にも冷静に、ある意味冷淡と言ってよいほどに。
レニは一度天を仰ぎ、床に視線を落とし、首を振った。見ているマリアのほうが息苦しくなるようだった。
「話は・・・・聞いたことがあったわ。・・・ダッハウやアウシュビッツの・・・施設の話も聞いた・・・普通の人間に、霊力がどんな影響を与えるか、それが検証できるとも・・・・・でも私は断った。絶対にダメだと、」
「そのあなたが、なぜ?なぜ最後になって?もうベルリンにソ連軍が侵入して、勝敗ははっきりしていたその時になってなぜ?・・・・」
レニは再び沈黙した。俯いたまま口を硬く引き結び、為に口の両端に皺が寄っていた。
「教えて、レニ。私はそれを聞きに来たの。だってあんまり愚かじゃないの。あなたらしくないにも程があるわ。強制収容所の死体を消滅させて、虐殺の証拠を消そうだなんて、どうして?今までのあなたの話ともまるで辻褄が合わないわ。」
マリアは身を乗り出して叫んでいた。
 レニの沈黙は破れなかった。
 受話器の向こうで、監視者が息を呑んでいる気配が伝わってきた。
 沈黙は、無限に続くように思えた。レニはまるで石にでもなったようだった。
「・・・私は、レニ。あなたを救いに来たんじゃないの。」
マリアは静かに言った。
「あなたも薄々分かっていると思うけれど、戦争裁判では、判決は始めから決まっているわ。どんなに決定的な反証を提示しても決まっている判決は覆せない。はっきり言うわ、あなたの死刑は動かせない。」
レニがゆっくりとこちらを見た。
「だから、あなたに有利な証拠を揃えようとか、あなたを助けてあげようとか、そんなことじゃないの。ただ私は、本当のことが知りたいの。いずれこの時代のことも、顕彰や糾弾の対象でなく、歴史になる時が来る。その時にまで、本当のことを隠したままでいたくないから。生き残った私の、それは義務だと思うの。」
レニの口元のかたくなな力は、ようやく抜け始めていた。
「・・・部下が、いたの。」
レニは口を開いた。マリアは頷いた。
「優秀な、部下だったわ。明るくて快活で、思いやりがあって。真面目で。力も素晴らしかった。」
マリアは脱力したように椅子に座り、そして机の上のノートを見た。
「・・・でも、・・・いいえ、真面目だから、だったのね。ユダヤ人はドイツの病巣だという言葉を心から信じていた。ユダヤ人を一人消すことが、ドイツの栄光を高めることだと・・・信じていたの・・・」
レニは大きく息を吐いた。
「でもね、たった14歳の女の子よ。そのまじめな女の子に、毎日毎日ユダヤの恐怖を教え込み続けたら、・・・無理も無いでしょう?しかも彼女の友人は、ユダヤ人に乱暴され、殺されたのよ。」
その事件は、親衛隊が仕組んだ捏造事件だったことが、マリアのノートには書き込んである。親衛隊がユダヤ人のやくざ者をそそのかし、少女を襲わせた。
「だから彼女は、自分から進んで収容所の・・・その・・・処分の仕事に従事していたの。自分の力を使ってね。むしろ自慢すらしていたそうね。私は、知らなかった。あの時までね。知ったときは、勿論驚いたわ。そして救いたいと思った。彼女を。彼女がやったことが、連合軍に明らかになったら、きっと彼女は・・・・だから、収容所の虐殺の証拠そのものをなくしてしまおうと思った。私の力を使って。・・・でも遅すぎた。間に合わなかったわ。」
マリアは椅子の背もたれに力なくもたれた。
 やはりそうだったか、と思った。
 彼女のノートには、その14歳の少女の告発状が挟んであった。
「私は、私を欺き、利用したナチスを憎み、私を開放してくださった連合軍に心からの感謝を捧げます。今まで私が見聞きしてきたことはすべて嘘であり、誤りであり、連合軍こそが正義であり、真実です。私、××××(名前は黒インクで消してあった)は、この憎むべきナチスの一員であり、私の上司であり、恐るべき虐殺の責任者であるレニ・ミルヒシュトラーセを告発します。彼女は、骨の髄からナチス党員であり・・・・」
この告発状で、米軍の担当検事は勤務ポイントを大きくかせいだ。ナチス幹部を死刑にするのは功績大だ。そしてこの少女も罪を免れた。勇気ある告発者として、賞賛さえされるかもしれない。
 そのことまで、レニに語ることはとてもできなかった。
 告発状の上に、ぽつ、ぽつと落ちるものを見て、マリアは自分が泣いていることに気付いた。
「・・・よく、分かったわ。」
そう意図していないのに、マリアの声はかすれていた。
「安心して。その子は罪に問われない。」
結果として、レニは少女を救うことに成功したわけだ。しかしなんという・・・・
レニは目を閉じ、閉じた目から涙をこぼした。

 面会の時間は終わった。
 二人は黙ったまま座っていた。マリアは、ノートを閉じ、鞄に収めた。
「レニ・・・」
「?」
レニと一瞬だけ目を合わせ、マリアは机に視線を落とし、改めてレニの目を見た。
「ひとつだけ。」
マリアは大きく息を吸い、吐いた。そして言った。
「あなたは言ったわ。私は間違っていないって。でも、やっぱり間違ってる。あなたから『力』を取ったら、あなた自身が残るのよ。あなたは『力』のために存在しているんじゃないわ。」
レニは目を細めて微笑んだ。そして言った。
「そのことを、あの子にも教えてあげて。これから生きていくあの子に。」


 マリアが城の外に出た時、深い霧の間から、日の光が筋のように差し込み始めていた。













おわり





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