血も愛も








 蒼白く月が昇った。
 絹のような雲をまとった、冷たい満月。その光を浴びながら、レニはうっとりとつぶやいた。
「今宵こそ…」


 白い大理石の城郭の、高い塔の部屋ながら、まるで地下室のようにひんやりとした空気が浸していた。四隅の柱の上には、妖しげな彫像が鎮座して見下ろしている。
 その窓辺にたたずむ年若き城主の、凍った瞳の奥底には、思い人への炎が熱くゆらめいていた。
 老いも死も脅かすことのない長い永劫の時を、矮小な人間たちを塔の上から見下ろし永らえてきた。菓子でもつまむように気まぐれに城下の女を襲い、その生き血を啜って糧とする吸血鬼。この高貴な魔の眷族が、思いもよらず心を奪われたのは、城下に現れた女拳闘士だった。

 町はずれに住み着いたその女を、レニは「食事」に出た夜に見かけた。こうこうと光る月明かりに照らされて一人鍛錬に励む姿に、一目で魅せられ、魂を奪われた。
 驚くほどの長身にも関わらず、引き締まり、それでいてしなやかに丸みをおびた肢体。赤銅色に灼けた肌。燃えるような赤い髪と、紫水晶のように爛々と輝く瞳。何より、すべてが己と正反対の、真昼の太陽と、生命に満ちあふれた生き生きとした女だった。

 その日から、レニは恋に落ちた。寝ても覚めても、胸の内には凛々しい拳闘士の姿が離れなかった。

 だが、この恋は多難極まりなかった。思い人はことのほか腕が立ち、諾々と自分の牙のもとに下ってはくれなかった。幾たびもの激しい戦いを経てもなお、今に至るまで勝負がつかず、レニは悶々と日々を送っていた。
 狂おしいまでの渇望を紛らわそうと、レニは片端から城下の美女を襲い、むさぼった。金髪の美女も、黒髪の乙女も、その渇きを満たしてはくれなかった。レニは失望し、乱猟をやめ、薔薇の雫だけを啜りながら、赤毛の猛き姫の血に思いを馳せつづけた。
 力強い首筋に流れる、熱くたぎる血潮を思っただけで、レニは陶酔の余り目眩を覚えた。赤毛の頭をこの腕に抱き、つややかな肌に唇を寄せ、そっと牙を食い込ませる。その瞬間に、彼女の長い四肢に走るおののき。口の中に広がる、この上なくすこやかでエナジーに満ちた極上の血の味。ただただその瞬間を夢見て、レニは自らの肩を抱きしめ、せつない吐息をこぼした。体に潤いすら感じた。


 今夜は満月。
 己の魔力の高まりを感じながら、冬薔薇のような唇に、うっすらと微笑が浮かんだ。
「今宵こそ、手に入れる…」
 自信に満ちた決意とともに、レニは、高い塔楼の窓から、夜鳥のように飛びたった。




「今夜、来る…」
カンナも、時を同じくして月を見ていた。裏庭の短い草の上に立ちつくし、静かに呼気を吐いて気を溜める。
「きっちり決着をつけなきゃ、気がすまねえからな…」
ふっくらとした唇が楽しげにつぶやいた。

 相手にとって不足はない。女たちを怯えさせ、城下を騒がせる魔物を、退治してやろうという気持ちもあったが、紫の瞳には、類い希な好敵手を得た喜びが隠しきれずに滲み出ていた。一見小柄な吸血鬼は、今まで戦ったどんな相手より手強かった。接戦のあまり、勝負がつかないままいつも朝を迎えることとなっていた。
 だが、今夜こそは。
 夜空を統べる満月を見上げ、カンナは高鳴る予感に身を引き締めた。



 それはふいに舞い降りた。死と恐怖を引き連れた、魔の気配。
 闇がすぼまって影となり、ゆらりと黒いマントが立ちあがった。

「ごきげんよう、わが姫君」
現れた吸血鬼の、凍った水面のような瞳に長いまつげが影を落としていた。蒼白い肌に銀髪がけぶっている。その姿を、カンナは不吉ながら美しいと思った。
「来やがったな」
凄みの効いた笑みを浮かべて迎えたが、レニは動じる様子もなく、かすかに首を振って、いとおしげに嘆息した。
「ああ…なぜあなたはかくもボクを魅了するのだろう…」
夜が空を染めるように、レニが暗いマントを広げた。
「愚かなあがきはやめて、素直にその喉をさしのべるがいい…」
レニの瞳が蒼白く光った。だが、どんな人間も己を失う魔眼も、この女闘士には効かなかった。
「ぬかせっ!さっさとかかってこい!」
カンナは腰を落として身構えた。

「あなたを傷つけずに手に入れたかったが、やむを得まい…」
ばさり、とレニがマントを翻すと、その下からごおっと黒い嵐が巻き起こり、カンナに襲いかかった。蝙蝠の群が、竜巻のように長身な姿を包み込む。
 だがカンナはひるまなかった。
「こんなまやかしにひっかかるか!」
覇気とともに腕を払うと、黒い群れは散り散りになった。
「でりゃあっ!」
気を込めて突きだした拳が空を切る。レニの姿はかき消えたようになくなり、むなしく背後の木がめりめりと倒れた。
 即座に、カンナは地面を蹴って横に飛んだ。今まで自分がいた場所の空気が、すさまじい妖気の固まりに弾かれて飛び散った。草や土がばらばらと舞う。
 眼にも止まらぬ早さでレニは移動していた。体勢を立て直して振り向いたカンナの胸元を、鋭い爪が赤いすじをつけていった。
「くっ!」
わずかだが血しぶきがあがり、レニは血の匂いに酔った。指先についたわずかな血糊を、舌先でぺろりと舐める。その蒼い瞳が、情欲にも等しい飢えに濡れた。
「ふふっ…血は熱い方が甘くて美味なんだ。戦いでたぎったあなたの血はさぞや…まして、敗北の恥辱に灼ける味は、きっと極上の美酒のようだろうな」
「うるせえ!まだ勝負は途中だぜ!」
「じゃあ、早く終わりにしよう。少しでも苦しみが短いようにしてあげるよ…」
レニは慈愛すら感じさせるような声で言った。

 再びマントが翻った。すさまじい突風が巻き起こり、鬼気がカンナに叩きつけられる。カンナは腕を顔の前で交差させてしのいだ。それでも、全身を業火に焼かれるような苦痛を感じた。
「ぐうっ…」
踏みしめた足がよろめくのを見て、レニは勝利を確信しほくそ笑んだ。だが、その一瞬の隙を、歴戦の拳闘士は見逃さなかった。
「でええいっ!」
カンナは溜めた気を一気にはなった。妖気が一瞬にして浄化され、掻き消える。間をおかず、覇気の一塊が、まぶしいほどの輝きとなってレニを直撃した。
「うあっ!」
悲鳴とともに、レニは跳ね飛ばされ、地面に叩きつけられた。黒いマントがずたずたに裂け、丸くへこんだ地面に細い体が半ばめり込んだようになった様は、その衝撃の強さを物語っていた。

「勝負、あったな…」
カンナが肩を上下させながら言った。疲労を感じさせつつも晴れやかな笑顔だった。見上げて、レニは密かに感嘆の息を漏らした。
 しょせんは、報われぬ恋だったのだ。
 吸血鬼が、太陽の光にだけはかなわないように。
 だが、長い退屈な人生の最後を、こんなに熱い思いで過ごせただけでも、幸福だったと思うべきだろう…。
「とどめを、さすがいい。早く…」
薄い胸をあえがせ、レニが眼を伏せた。
「そして、陽の光にさらせば、この肉体は塵となって滅び、二度と蘇ることはない……さあ」

 カンナは黙って、敗れた吸血鬼を見下ろした。
 蒼く繊細な美貌は、よく見れば思いの外あどけなさを残していた。華奢な体を無抵抗に投げ出した様は、先ほどまでの妖気をたたえた姿とは打って変わり、痛々しくはかなげにみえた。

 カンナの手がのびた。レニは、息を詰め、鋼のような指がのど笛に食い込むのを待ち受けた。
 だが、ふいにふわりと体が宙に浮いたのに、驚いて眼を開けた。
「吸えよ」
抱き上げたレニの前に、くいと顎をそらせて、カンナはすらりとしたのど元をさらした。
 レニはぽかんとしてカンナを見上げた。
「あたいの血を吸え。ただし、もう他の人間を襲うなよ。あたいだけだ。…いいな」
「無茶だ」
咄嗟のレニの声に、カンナは莞爾と笑ってみせた。
「あたいは血の気が多いくらいだからな。おまえ一人に吸わせてやってもどうってことないさ。蚊に刺されるみたいなもんだ」


 呆然としたままのレニを、カンナが揺するように抱き直した。
「ほら、早く」
「ほ、ほんとに…いいの…?」
「くどいぜ。いらないならやめるか」
「ま、まって!」
 小さな深呼吸が聞こえた。
 おずおずと、震える唇が触れ、カンナの喉がかすかにぴくりと動いた。やがて感じた小さな痛みを、カンナは眼を開けたまま、月を眺めながら味わっていた。

 やがて、ほうっ、と吐息をこぼして、レニが唇を離した。
「…もういいのか?」
「なんだか…胸がいっぱいで…」
「胸?腹じゃないのか?」
頓狂な声に、レニは小さく吹き出した。
 くすくすと笑うレニの頭を、カンナが乱暴に撫でる。
「なんだ、そうやって笑ってるとけっこうかわいいな、おまえ」
カンナの言葉に、レニはぽっと頬を赤らめた。
「しっかり食って、もっとたくましくなれよ。腕なんか折れそうじゃねえか」
「本当に…?本気で言ってるの?」
「ああ、腹が減ったらいつでも来な」
やさしげに微笑みかけられ、レニの瞳がかすかに潤んだ。
「ああ…夢のようだ…」
レニは、カンナの首に抱きついてつぶやいた。永劫の時にもかつてない喜びを噛みしめながら。





 次の夜。
 日課の走り込みから戻り、カンナは井戸の前でざっと水をかぶって汗を流した。ちょうど月が昇った頃だった。
 がしがしと濡れた頭を拭きながらカンナが部屋に戻ると、寝台の上にレニがちょこんと座っていた。

「おはよう、カンナ」
「よう。…て夜じゃねえか。…おっと、おまえさんにとっちゃ朝なのか。ややこしいな」
「昨日の話だけど…その…本当にいいのかな…」
体に巻きつけた黒マントの裾をもじもじといじりながら、レニがはにかんで言った。
「ああ、朝メシか、いいぜ。来な」
カンナは笑って、昨夜の噛み痕がぽつりと残る喉を気安げにさらした。
 だが、レニの唇は、その喉ではなく、カンナの唇に触れてきた。
「んむっ…!?」
驚くカンナにかまわず、レニは舌先で唇をくすぐって開かせ、素早く中に侵入した。たやすく口の中を征し、カンナの舌を翻弄する。
「なっ、何すんだよ。血を吸うんじゃないのか?」
顔をもぎ離し、カンナは呼吸を乱して言った。
「もちろん、いただくよ。でも、言ったでしょう?血は熱い方が甘くて美味しいんだ」
「今走ってきたから十分熱いぜ」
「ダメ。もっともっと熱くならなきゃ…」
レニは妖しく笑うと、カンナの首に抱きついたまま、絡め取るようにして寝台にもつれ込んだ。
 白い小さな手が、胸元を押し広げて触れてくる。ひんやりとした指先で胸の先を摘まれ、カンナはびくりと震え上がった。
「よっ、よせよ!」
慌ててレニの手を制すると、黒い蝙蝠のようなマントの下から、ほの白く透きとおった肌が眼を射て来た。幼さの残る小さな胸を、レニがカンナの胸にそっとこすりつける。
「見て。同じ色だね…ボクたち。カンナのも、綺麗なうす桃色だ」
その光景の淫靡さと、もたらされる刺激に、カンナは呻いた。
「ううっ…おまえ、なんてことを…」
「血を吸ってもいいって、言ったよね。カンナ」
「い、言ったけど…でもこんなの」
「じゃあじっとしてて…」
するりと頬をなであげ、甘くしたたるようにレニが耳元で囁いた。

 つめたい唇が胸の線をなぞる。氷の切片でなぶられるような感覚に、カンナは思わず息を飲んだ。小さく尖らせた舌先が震えるように胸の先に絡みついたかと思うと、次には薔薇の刺のような牙が、肌を傷つけないぎりぎりの強さで食い込んでくる。
「いつっ…やめてくれよ…」
「痛みと快楽を同時に与えると、人間の脳は痛みを軽減するために快楽の方を大きく感じさせる。…どう…?気持ちいいでしょう?」
そう言って微笑むと、レニは再び顔を伏せた。
「おいっ…そんな…あっ…」
抗議しかけたカンナの声は、もう言葉にならなかった。
 双の胸を公平にいつくしんだ後、端正に並んだ腹筋のゆるやかな隆起をなぞり、唇が這っていく。たどり着いた先で、細い腕が重そうにカンナの脚を持ち上げ、押し広げた。
「うはっ…」
細やかな舌の動きの合間に、かすかに牙の先が触れる。小さな刺激は大きな波となってカンナの体を駆けのぼった。
 長い指が敷布を握りしめて震えるのを見て、レニは顔を離し、カンナの胸に手をかけてよじ登るようにして、表情をのぞき込んだ。カンナはすっかりとろんとなった眼で、物足りなげにレニを見やった。
「も、もう、しまいか…?」
「ふふっ…カンナ…せつない顔をしてる…そうしてるととてもかわいいよ」
昨日のお返しとばかりに、レニが眼を細めて微笑んだ。
「ばっ…」
反論しかけたカンナの唇を、レニが軽く噛んで塞ぐ。ちくりと牙がささり、滲み出た血をレニは舌の上で転がした。
「ああ…素敵だ…熱くて…甘くて…」
カンナの胸にきゅっとしがみつくようにして、重ねた肌の下で沸き立つ脈流を感じていた。だが、焦らされたカンナは歯ぎしりするように声を上げた。
「いいから、早くしてくれ…!でないと、あたい…」
その様子に、レニは艶然と笑い、細い指を伸ばして、奥深くに触れた。
「はあっ……!」
カンナが四肢を引きつらせた瞬間、レニがうなじに食らいついた。トーンの違う二人の荒い息が、耳元で絡み合う。
 舌を痺れさせ、喉を焼きながら、愉悦に熟したカンナの血が全身に染み渡るのをレニは感じた。同じ快楽が身を焦がすに任せ、歓喜のうちにレニも果てた。


 少し息が治まると、レニの顔をあげさせて、カンナが言った。
「おいおい…血を吸うのに、いちいちこんなことしなきゃならねえのか…?身がもたねえぜ」
すると、レニはふいにしょんぼりした顔になった。
「カンナ、いやだったの…?気持ちよくなかった…?」
不安げな子供のような顔は、カンナのもっとも弱みとするところだった。
「いや、そりゃ、まあ…たまにはいっか」
無論、カンナにもたらす快楽は他ならぬレニ自信の快楽のためなのだが、カンナは頓着しないことにして、またくしゃくしゃとレニの髪を撫でてやった。




「さて、おまえの腹ごなしも済んだし、あたいもメシにすっかな」
長々と伸びをすると、食休み中(笑)のレニを寝台に残し、カンナは竈の前に向かった。
 やがて、漂い始めた匂いに、レニが飛びあがった。
「かっカンナ!これはいったい何…」
「何って、ニンニクだぜ。スタミナつけるにはこいつがいちばんだ。食欲がわくいい匂いだろ。おまえも食うか?」
木匙をもってカンナが振り向くと、レニがほうほうのていで逃げていくところであった。







《ちゃんちゃん。》










[Top] [とらんす書院]

inserted by FC2 system