チョコレートの秘密 時刻は深夜の12時5分前だった。もうすぐ日付が変わる。 マリアは足音を忍ばせて廊下を進み、そっと隊長室のドアをノックした。 誰何の声もなく、待ちわびたようにドアが開く。 「夜分にすみません、隊長。ちょっとお邪魔してもよろしいですか?」 声をひそめるマリアを、大神が笑顔で迎えた。 「ああ、かまわないよ。入ってくれ」 「失礼します」 ドアをくぐりながら、マリアは心の片隅で誇らしく思っていた。帝劇の中ではこうして職務上の関係を続けていても、こんな時間に隊長室に入ることができるのは私だけ。 勧められた椅子に座ると、ちょうど時計が12時を打ち始めた。 「ぎりぎりでバレンタインに間に合いましたね」 リボンのかかった小箱を差し出して、マリアは微笑んだ。 「ありがとう。開けてみていいかい?」 「どうぞ」 丁寧に包装を解きながら、大神は苦笑いを浮かべた。 「…ほんとはね、少し心配だったんだよ。マリアはもう俺にはチョコレートはくれないんじゃないかって」 「まあ、どうしてですか?」 「ほら、釣った魚に餌はやらないって言うし…」 大神がまじめくさった顔で言うので、マリアは小さく吹き出した。 「そんなわけないじゃないですか」 そして、少しだけそっぽを向いてみせる。 「私のことをそんな女だと思ってらしたんですか?」 「い、いやそんなつもりじゃなくてね」 のんびりした時計が、ようやく12時を打ち終えた。マリアは舞台の上から観客に微笑みかけるように、優雅に言った。 「真打ちは最後に登場するものでしょう?」 ほんの2〜3年前の自分が、このような言葉を口に出来ただろうか。いや、出来なかった。 だが、今は違う。今の自分は、帝劇の若き総支配人の、自他共に認めるパートナーなのだ。マリアは笑顔のまま唇を噛みしめた。 そう思いながらも、心のどこかで、変わりきれない心配性の自分が、まだ不安がっているのを感じた。こんな大胆な言葉を口にして、ほんとうによいのだろうか…。 「そのとおりだ」 大神も笑った。満足げなその笑顔が、愚かしい不安をこともなく吹き飛ばす。マリアは密かに救われる思いだった。 「綺麗なトリュフだね。…すごい、マリアのお手製かい?」 包み紙と箱を裏返して、大神は眉をあげた。 「はい。うまくできてるといいのですが…」 大神は慎重に指先で一粒つまみ、口に運んだ。ゆっくりと頬を動かす。 「…うん、おいしいよ!」 「ほんとうですか?」 マリアの顔が輝いた。 「もちろん本当だよ。マリアも食べるかい?」 カカオパウダーのついた指先でもう一つつまみ、マリアに差し出した。 「いいえ、私は…」 「食べてみなよ。本当においしく出来てるから」 言うなり、大神はトリュフを口にくわえ、マリアの唇に押しつけた。 突然だったので驚いたが、しっかりと首に手を回されていて逃れられない。大神のすばやさに内心舌を巻きながら、マリアはそっと力を抜いて、たくましい腕に体を預けた。 大神の唇の感触。香ばしいカカオの香り。何度も味見したはずなのに、まるで違う未知の味がする。 唇と唇の間で、チョコレートの固まりを、舌先で譲り合うように味わった。 「ね?おいしいだろ」 ようやく一粒のトリュフを飲み下し、マリアはほうっと息をついた。 「はい…」 カカオには媚薬に似た働きをする成分があると、何かで読んだのを思い出す。たかだか菓子のたぐいが、たいした効果のあるはずもない。だが、今自分が嚥下した甘露は、熱くのぼせるような変化を確かにもたらしていた。 「口元にチョコがついてる」 大神が再び口づけてきた。マリアの口のまわりを、唇に添って、縁取るように舐める。 マリアは息を詰め、震えを堪えた。膝の萎えるような感覚と同時に、周囲の空気が変わっていくのを感じる。重く、濃密になって、陽炎のように揺らぎはじめる。 大神が首をかしげ、笛でも吹くように、マリアの白い喉を指先でたどり、唇をすべらせていく。 「隊長…そんなところにまでチョコレートはついてませんよ」 「いや、ついてるよ」 「そんな嘘ばかり…」 「マリア、まだどこかにチョコレートを隠し持ってるんじゃないのかな」 喉もとのブラウスのボタンを、大神が探っている。 「いいえ、持っていません」 「ほんとうかな」 「ほんとうです。…あっ…」 大神はマリアの体を抱きかかえると、ベッドに連れて行った。 「探してみなきゃ…」 いたずらを思いついたように、得意げにきらめく黒い瞳が見下ろしている。 そんな口実なんかいらないのに。 黒く短い髪に、マリアはそっと指を差し入れ、自ら大神に口づけた。 あなたが求めてくれさえしたら…私はそのつもりで… 邪魔なシャツ。もどかしいボタン。競い合うように手を動かして、互いの束縛を取り去っていく。その合間に、照明を落としてくれとマリアは訴えたが、大神にあっさりと却下された。 ようやく自由になった胸のふくらみを、男の手がつかまえる。 「見つけた…」 太く、固く、力強い指先。この指がこれから自分の胸にもたらすであろう感覚を思うと、眼がくらむようだった。 期待したとおりに、指先がやわやわと動き、マリアは溜息をついた。熱く湿った舌先が、胸の谷間に滑り落ちる。 「違った。マシュマロだった」 おどけた声音に、マリアは軽く睨んで見せた。 「もうっ…」 自分が戸惑ったり慌てたりする反応を楽しんでいるのだ。 もっとも、マリアとてそれを待っているふしがあった。 もっと戸惑わせて。私を困らせて…。 つるつると舌先が動いていく。白い山稜の頂にたどり着き、愛おしげに包み込む。 「あっ…」 小さく声をあげ、マリアは伏せた睫毛の隙間からそっと胸の上を盗み見た。大神に、見ていることを気付かれないように。恐ろしいキネマでも見るように。眼の隅で、こっそりと、魔法のような口の動きを確かめる。 すぼまった大神の唇の隙間から、雨に濡れた紅玉のような自分の乳首が、こぼれ出ては吸い込まれる。その様を見ていると、とろけるような胸の奥のうずきが、頬に、手のひらに、足指の先にまで広がっていくようだった。 体の芯から滲んでくる熱に、内側から炙られ、溶けていく。この感覚は何かに似ている。最近間近に見たばかりのもの。 湯煎にかけたボウルの中で、じわり、じわりと形を崩し、茶色い裾を広げていったチョコレート。とろとろと長くなって落ちる、甘く、濃く、ほろ苦い液体。 右に左にと首を振りながら、マリアはぼんやりと思い浮かべていた。その温度は40度…水が入らないように注意して…ゴムべらでかき混ぜて……絶えずかき混ぜて… 大神の舌が動く。小さく弾くように。 転がして…コーティングしたガナッシュを… 軽く歯が当たる。マリアはうっとりと眼を閉じた。 フォークの先で、そっと、ころころ、ころころ… 「おかしいな…見つからない」 脇のくぼみを探り、臍の周りに円を書き、大神が当然の帰結というように脚を持ち上げてのぞき込む。 マリアは息を飲み、羞恥のあまり両手で顔を覆った。 知られてしまう。自分がかつえていることに。狂おしいほどに大神を求めていることを見抜かれてしまう。 視線を感じる。食い入るような、熱い眼差し。 ちろりと舐め上げられ、マリアは震え上がった。 視線にとってかわった舌先が、やわらかく動いていた。押し上げ、広げ、捻る。その部分を味わい尽くすように。 「んっ…あ…んんっ…」 むずかるようなうめき声が、喉から漏れるのを押さえられない。強い快楽に耐えきれず、マリアは逃げ出したいほどだった。だが、男の腕ががっしりと腰を捕らえて離さなかった。 チョコレートムースのようだ。 舌先にこそげおとされて、口の中でふわふわと溶けていく。甘く舌にからまって、飲み下される。 いっそそのほうがいい。マリアは切に願った。胸が苦しい。こんな、もう少しで手が届かないようなところに留め置かれるくらいなら、このまま溶けて、吸い込まれて、大神の一部になってしまいたい…。 「まだ探してないところが…」 茶化すにしては余裕のない声を、マリアは上の空で聞いていた。 大神が、じっとマリアの顔を見つめながら、ゆっくりと探るように入ってくる。その瞬間の、少しせつないような表情を、マリアは眼に焼き付けた。 熱い渇望がゆらいでいる黒い瞳。こんな大神の瞳に見つめられていると、自分が急に美しくなったような気がして、マリアは陶然とした。 自分を欲しがっている瞳。剥き出しの欲望が肌を刺す。豪雨に打たれるように。暖炉の火に近づきすぎた時のように。ぴりぴりと痺れるような、痛みと、心地よさ。 慎重な動きは、蒸れるような熱と湿度をかきたて、ことさらにマリアを焦らした。 探すものなどない、とマリアは言いたかったが、もはや言葉を発することができなくなった。大神の動きが早くなったからだ。 体の内側から揺さぶられ、振り回される。突き上げられるたびに、脳裏で白熱灯が点滅する。 「隊長…早く…もう…」 ようやく出た声は涙声になった。大神が、マリアの頭を押さえるように抱いた。荒い息とともに、早口で低く呻く。 「まだだ…もう少し…」 その腕にマリアはしがみついた。奔流が襲いかかる。強い波。押し流される…。 自分の上に崩れ落ちる大神を、マリアはしっかりと抱きとめた。上下する肩を指先で撫でながら、筋肉の隆起と、脈打つ喉の血管の動きを、余韻にかすんだ眼で見つめていた。 「…重く、ないかい…?」 まだ整わない息の合間に、大神が気遣うように問いかける。さっきまで獰猛なまでに猛々しかったというのに。もうやさしいあなたに戻っている。 「平気です」 この重みが幸せなのに。 骨が軋んで、ベッドに体が沈む。このかすかな息苦しさが、幸せの重さ。 動こうとした大神を、そっと押し留め、囁く。 「もう少し…このまま…」 「チョコレート、見つからなかったな」 大神が、言い訳がましさを押し隠すようにぼやいた。 まだ言っている。もうそんなことどうだっていいのに。マリアは口の端を少しだけゆがめて笑いをこらえた。ほんのわずかの差で、スマートに格好が決まりきらない。そんな不器用さも…愛おしい。 「だから言ったじゃないですか」 肩のくぼみに顔を埋め、マリアは夢見心地で思っていた。 でも、私は見つけてしまいました。 私の中に隠れていたチョコレート。
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