シンデレラは夢を見ない

(1)











「Happy Birthday to You……」

 部屋が薄暗いのは、灯りを落としてあるからだった。もちろん、24本のろうそくの炎を際立たせるために。

「Happy Birthday to You……」

 ホワイトチョコレートのクリームでコーティングされたケーキを前に、男は低い声で歌っていた。眼を細め、歌詞の一言一言を発音する己の唇の動きを噛みしめるように。そして、ケーキの表面に、チョコレートで細く優雅に書かれた文字を、メロディにのせて口ずさんだ。

「Happy Birthday Dear Maria……」

 ビブラートのように、愛おしげに声が震えた。スロウになったテンポが、長い一呼吸の間止まる。

「Happy Birthday to You……」

 拍手はできなかった。右手が、ぐるぐると巻いた包帯に包まれていたからだ。
 男は深々と息を吸った。そして、ふううっと吹きまわしてろうそくの炎を消した。
 部屋はすっかり暗くなった。
 左手で逆手に持ったナイフが閃き、ぐさりとケーキに突き刺さった。勢いで皿が跳ね、デコレーションのバラが散った。
 引き抜いたナイフについたクリームをぬるりと舐め、バレンチーノフは微笑んだ。





「紐育華撃団の機密が盗まれた?」
 支配人室に呼ばれたマリアは、怪訝そうに、聞いた言葉をおうむ返しに言った。
 大神が頷く。
「武器開発室から機密書類が盗まれたんだ。先月のことらしい。紐育本部は自力で解決を目指したようだが、未だ犯人を特定できていない」
 総支配人を引き継いで2ヶ月余り。慎ましくも「見習い」だと主張し続けてきた彼だったが、広い机に座って構えた様はなかなか板に付きつつあった。
 マリアは大神と出席した紐育の会議で挨拶を交わした、紐育華撃団の幹部の顔ぶれを思い起こしていた。自分たちが帰った直後に、そんな事件に見舞われたのか。
「それで、なぜ私に?」
 大神はわずかに言いよどんだ。
「その…こんなことを君に聞くのは、あまり気が進まないんだが…」
 仕方なく、といった風に、机の上の四角い封筒を押し出す。
「君に見てほしい写真がある。気持ちのいい写真ではないが…」
「死体ですか」
 平坦な声でマリアは言った。
「…そうだ。紐育から送られてきたものだ。マフィア相手の武器の改造屋だそうだ。君に何か心当たりがあれば教えてほしいと」
 マリアの表情は静かだったが、ふっと空気が陰るのがわかった。それでも、事務的な手つきで封筒を取り上げ、写真を引き出した。

 体をつなぐことが出来ないほどに大きく撃ち抜かれた胴体。両の肩に埋もれた死に顔は、驚きの表情を浮かべたままだった。
 大神はじっと見守っていた。
 マリアは顔色を変えずに、写真を封に戻した。
「知っている顔かい?」
「…はい。一応は」
 一瞬の躊躇のあと、マリアは答えた。
「敵対していたマフィアのグループに出入りしていた男です。なので、私もそれ以上の事は知りません。…そう言えば、マッドサイエンティストの気味があるとの噂でした」
「この男は、銃弾ではなく、何か特殊な強い衝撃で腹を打ち抜かれている。つまり、盗まれた機密を応用した武器で殺された可能性があるんだ。おそらくは、自分の作った武器で、そのまま実験台にされたんだろう」
 総司令も兼ねる男は表情を引き締めた。
「華撃団の技術が悪用されるのを見過ごすわけには行かない。武器を入手した人物をつきとめなければ…いったい誰が、何の目的で使おうとしているのか」
 マリアはしばらく無言で、過去の記憶を探っているようだったが、やがて口を開いた。
「あの界隈では8年もたてば様相も勢力図もまるで変わっているでしょう。最近の情勢までは私には見当がつきかねます」
「そうか…確かに、そうだろうな」
 そっと息をつくと、大神は背もたれに体を預けた。その様子は、幾分ほっとしているようにも見えた。
「すみません。お役に立てなくて」
「いや、とんでもない。こっちこそ、不愉快な思いをさせてすまなかった。許してくれ」

 大神は、支配人の顔から穏やかな恋人の顔になって言った。
「それより、もうすぐ君の誕生日だね」
「あ、…はい。憶えていてくださったのですか」
 マリアもぎこちなく微笑んだ。
「当然じゃないか。ここのところ忙しくて、あまり二人でゆっくりできる時間がなかったからね。埋め合わせをさせてもらうよ」
「そんな…どうかご無理はなさらないでください」
 遠慮がちに言うマリアの気を晴らすように、大神は楽しげに誘いかけた。
「どこかへ食事に行こうよ。行きたい店はないかい?」
「ありがとうございます。…そうですね…考えておきます」


 支配人室を辞したマリアは、ドアを閉じると同時に笑みを潜めた。
 胃のあたりが重く、落ち着かない。中庭から漂ってくる青草の匂いに、息詰まるようだった。
 大神の笑顔がどこか固いように感じたのは気のせいだろうか。
 たとえそうだとしても、血なまぐさい話の後だっただけに、仕方がないことだ。

 だが、今の話は、否が応にも自分の過去を大神に思い起こさせたに違いない。上層部の人間なら皆知っている。帝国華撃団花組のマリア・タチバナは、もとは紐育の暗黒街をさまよっていたならず者だと。
 そんな女が、総支配人にして司令官たる男のパートナーとしてふさわしいのだろうか。
 何度となく繰り返した自問とともに、間もなく24歳になる花組の副隊長は、深い溜息を漏らしたのだった。





 そして迎えた6月19日は、シンデレラの再演の舞台稽古が始まる日だった。
 昼食の時に仲間たちが催してくれたささやかなパーティーの後、マリアは稽古着に着替えて舞台へと向かった。

「帝劇の補修工事もやっと終わったし、ええ公演になりそうやなあ」
 足場の外された天井を、紅蘭が晴れ晴れと見上げている。
「がんばろうね、レニ」
「うん。がんばる…」
 今度のシンデレラはレニだった。さしもの冷静沈着な少女も、初のヒロイン役で少々気負っているようだった。さくらは、テナルディエの妻役の経験を生かして、織姫といっしょに意地悪な姉を演じる。紅蘭が魔法使い、アイリスはシンデレラを慰める友だちのネズミ役だった。
「マリアだけまた王子で配役変更なしか」
「今更何も言わないわ…」
 カンナの声に、マリアは軽く溜息をついて苦笑した。
「あたいと代わってくれたら丁度いいのにな。どうも衣装のスカートがすーすーしてさあ」
 カンナはなんと継母の役だった。マリアはぽんと親友の背中を叩いて笑った。
「なかなかコミカルでいい継母になってるわよ」
「そ、そうか?へへっ。…でもマリアのほうが絶対はまると思うんだけどなあ。きっとすげ〜おっかねえ継母で…」
「何が言いたいの?カンナ」
「なっ、なんでもねえよ!あ、そうだ。今度再演するときはマリアがシンデレラなんてのはどうだ?あたいが王子をやってやるからさ」
「…私は遠慮しておくわ」
 マリアは少しさみしげに微笑んだ。
「大丈夫!絶対ドレスも似合うって!」
「違うわよ。こんな上背のあるシンデレラを、どうやって継母がいじめるの?」
 カンナの勘違いを、マリアは別の答えではぐらかした。
 12時の鐘と同時に崩れ去る魔法。きらびやかなドレスは消え、馬車も馬も、現実のしなびたカボチャとネズミに戻ってしまう。
 何もかも失って、ひとりぼっちで取り残されるヒロインの姿に感傷を憶えるなど、気恥ずかしくてとても言えなかった。
(昨日の恋は忘れましょう…あれは魔法の時間…)
 レニの美しい歌声が響いていた。哀切を帯びた旋律が、しいんと胸を締めつけた。


「みんな、頑張ってるね」
 大神が、厚紙の筒を数本抱えて舞台袖から顔を覗かせた。
「支配人、おでかけですか?」
「ああ、浅草おかみさん会に、次回公演のポスターを届けにね」
「そんな、言ってくだされば誰かに頼みますのに」
「いや、まだあっちに総支配人就任の挨拶をしてなかったから、それも兼ねてと思ってね」
 少し照れくさそうに笑うと、大神は顔を近づけ、小声で囁いた。
「今日、6時に玄関で待ち合わせだったね。一日ゆっくり時間が取れればよかったんだけど、すまない」
「いいえ、私のことは…私も稽古がありますし」
 やさしさと愛おしさがこみ上げるのを感じながら、マリアは柔らかく微笑んだ。
「まだいくらでも時間はありますから」
「そうだね。ゆっくり行こう」
 大神の眼差しも、暖かさに満ちていた。

「マリアさん、次、お城のシーンですよ!」
「では、支配人、お気をつけて」
「ああ、すぐに戻るよ」
 大神は軽く手を振って去っていった。その後ろ姿を、マリアはただ見送った。





 玄関の階段を降り、大神は帝鉄の停車場に向かって歩道を歩いた。6月の空は薄曇りで、湿った風は涼しいようだが、少し歩くとすぐに汗ばむほどに暑くなった。
 角を曲がろうとした時、背中で声がした。
「Hello,Are you Mr.Ohgami?」

「Yes…」
 英語なら不自由はなかった。大神は振り向いた。
 初老の外国人の男が立っていた。古そうなロングコートとスーツ。痩せこけた長身な体に、分厚く包帯を巻いた右腕を三角巾で吊っていた。髪も髭も真っ白で、血色の悪い顔色の中で、ブルーグレーの瞳だけが炯々と光を放っていた。
「Nice to meet you.My name is…」
 男は左手を差し出した。右腕が不自由なら仕方ないと思いながら、大神もつられて手を出した。先日紐育へ行った時の関係者の顔ぶれを頭の中で照会する。

「…Valentinov」

 その名前の意味するところを思い出し、はっと大神が目を見開いたとき、手のひらにちくりと小さな痛みを感じた。
(しまった)
 ばらばらとポスターの筒が落ちた。
 意識を失いながら、男のほくそ笑みを最後に見た。
(マリア…)
 倒れ込む大神を、旧友のように親しげに肩を抱きながら、バレンチーノフは路肩に止めてあった蒸気タクシーに乗り込んだ。





「ありゃ?どうしたマリア」
「大神さんはまだなんですか?」
 帝劇の玄関で、ぼんやりと往来を眺めているマリアに、さくらとカンナが声をかけた。
「ええ、そうなの…」
「きっと向こうでおかみさんたちに引き留められたんですよ。大神さんはけっこう人気者なんです」
 売店の片づけを手伝っていたかすみが、慰めるように言う。
「それにしてもずいぶん遅いなあ。もうすぐ6時じゃねえか」
「やっぱり着替えてこようかしら。隊長は着替える時間がないかもしれないわ。私だけこんな…」
 マリアは自分の装いを見おろした。
 群青色のベアトップのミニドレスに、薄手のシルクのストールを腕にかけ、胸もとには二連のパールのネックレスが輝いている。つまさきはドレスと同色の靴で、手には白いビーズ細工のポーチを抱いていた。
「いいじゃんか。せっかくオシャレしたんだからさあ。隊長に見せてやれば喜ぶぜ」
「そ、そうかしら…」
 マリアがわずかにはにかんだその時、6時を告げる鐘が鳴った。

 ゴーン…ゴーン…ゴーン…






 帝劇の大時計と、表の和光ビルの時計台が、低く重く唱和する。

 マリアはふとシンデレラの12時の鐘を思い出した。


 幸せな魔法が消える。
 帝劇も、仲間たちも消え、ドレスも化粧もなく、この手に血まみれの銃を握って、凍てついたスラムの片隅で立ちつくしている自分。
 肩に降り積もる雪。血と汚泥と、裏通り特有のすえた匂い。凍った息は小さな雲のようだ。誰もいない。愛するものも、信じるものもない、飲み過ぎた酒が痛みとなって残る頭で、死と破滅を願う、自分一人だけ…。



「あのう、マリア・タチバナさん」
 はっと夢想から冷めると、目の前に一人の少年が立っていた。
 この界隈でよく見かける靴磨きの少年だ。美貌のスタアを間近に見て、瞳をきらきらさせている。
「あら、寅ちゃん、久しぶりね」
「あっ、さくらねえちゃんだ」
 顔見知りらしいさくらが声をかけると、少年はようやく緊張を解いたように笑顔を見せた。

 傍らで、マリアは軽く首を振った。
 すぐに不吉な符丁に結びつけて考えてしまう、悲観的な自分の悪い癖だ。このごろはそんなことも少なくなったと思っていたのに。先日の紐育の話のせいだろう。
 何も変わりはない、いつもの帝劇の光景を確かめて安堵する。シンデレラだって、魔法が消えても、ちゃんと後で王子の使いが迎えに来てくれるではないか。
(このガラスの靴を履ける娘は、この家にいますかな?…)

「おいら、マリアさんにこいつを届けてくれって頼まれたんだけど…」
 王子の使いならぬ貧しい勤労少年は、ガラスの靴の乗ったクッションのかわりに、華やかにリボンのかかった包みを両手で差し出した。
「すごおい!マリアさん、またファンの方からのプレゼントですね!」
 椿が売店から首をのばして言った。
「お部屋に運んでおきますよ」
 かすみの申し出に、マリアはしばらく箱を矯めつ眇めつしてから言った。
「いいえ、ちょっと開けてみるわ…どこにも差出人の名前がないのが気になるの」
 慎重に真っ赤なリボンをほどき、蓋を開ける。
 そしてはっと息を飲んだ。




 切り刻まれた緑のネクタイ。
 マリアの背中を、氷のような恐怖が貫いた。



「こっ、これは大神さんの!」
 のぞき込んださくらが、悲鳴まじりに叫んだ。
「なんだって!?」
「待って!みなさん落ち着いてください。悪質ないたずらかもしれません」
「あたし、おかみさん会に電話してきます!」
 かすみの言葉に、椿が事務室に向かって走っていった。
「寅坊、これを持ってきたのはどんな奴だった?」
 カンナに険しい声で問いかけられ、少年は身をすくませながらたどたどしく答えた。
「が、外国人のおっちゃんだよ。右腕を怪我してた。へったくそな日本語で、帝劇のマリア・タチバナに届けてくれって言って、そんで、駄賃をくれたんだよう」
 箱の底に紙片が入っているのに気付き、マリアはネクタイの残骸を掻き分けた。ロシア語で書かれたカードに眼を走らせる。



   親愛なるマリア・タチバナ。
   24歳の誕生日おめでとう。
   君のためにプレゼントを用意してある。
   浅草田圃にある『Aurora』というバーに一人で来たまえ

                   バレンチーノフより愛を込めて




「その男はどこへ行った!?」
 マリアは思わず少年の肩を強くつかんだ。
「し、しらねえよう。蒸気タクシーに乗ってどっかに行っちまったんだ」
 そこへ椿が駆け戻ってきた。
「大変です!今おかみさん会に確かめたら、今日は大神さんは一度も来てないって…」


 帝劇の中を恐慌の嵐が吹き荒れた。







続く
inserted by FC2 system