読書中








 カンナがいけないのだ。
 と、マリアは思った。
 いつもそうだ。人の都合などおかまいましで、気の向いたとき、かまって欲しいときだけ、猫のようにすり寄ってくる。まったく、大きな猫もあったものだ。



「見たらわかるでしょう?今は読書中なの。やめてくれないかしら」
 寝しなに、ベッドで本を読んでいたマリアに、ふらりと入って来たカンナが身を寄せてきたのだった。
 本を持った手を、抱きすくめられないように肘をあげて逃れながら、マリアは迷惑さを隠そうともせずに言った。
「本なんかいつだって読めるじゃねえか」
 マリアのまるい胸を枕にして頭を預けながら、カンナはまったく気に留めない風だった。手をさしこもうと敷布の端を探してもぞもぞしている。
「今読みたいのよ」
 マリアが手にしているのは、アメリカで流行の女流作家の新作だった。折しも、物語の中では、主人公の女性が男の愛を受け入れるか否かで悩んでいるところだった。

(私には、あなたの求めているものを与えることはできません)

 拒絶できないわけではないが、拗ねた大猫を後でなだめるのは大変だ。だが、読書を中断して、勝手気ままな求めに諾々と応じるのも癪だった。
 そこでマリアは、このまま無視を決め込んで読書を続けることにした。
 平然とページをめくるマリアに、カンナはその思惑を察したようだった。そういうことなら、という風ににやっと笑うと、カンナはゲームを開始した。




 カンナの舌が肩口をなぞっている。
 懐炉を抱いたように、ほっかりと胸の上があたたかい。大きな手が、さらりと胸を包んでいる。かき混ぜるように動く指の腹が、ぱたぱたと先端を弾く。その度に伝わる甘美な刺激を、活字を追いながら、マリアは密かに楽しんだ。

(あなたのそばにいると、自分がどんどん脆くなってしまうような気がするのです)

 だが、それを教えてつけあがらせてやることもない。カンナを相手に、大げさに感じているふりなどしない。平気な限り、マリアは眉一つ動かさずに、つまらなそうにしている。
 それがわかっているから、カンナも容赦がない。かすかに噛みしめていたマリアの唇が、刺激に慣れて緩むと、すぐに他の敏感な部分を探す。そうやって、マリアが反応せずにはいられないように、確かに、着実に、マリアを追い込んでいく。
 素知らぬ風を装って息を吐きながら、次第につのっていくほの暗い期待を、マリアは否応なく意識していた。

(私もあなたを愛しています。心から…。でも、私はこの愛を乗り越えて生きていかなければ)

 腿を撫でる指が、脚の付け根の近くに触れる。そのたびにくらむ眼を、すがめるようにして、かたくなにページを睨み続ける。
 壊れた映写機のように、活字が目の前で空回りしている。

(乗り越えて)(乗り越えて)(乗り越えて…)

 何を乗り越えるのだったろう?もう、ほんの少し前に読んだ内容が思い出せない。意識のすべてが、カンナが触れる部分に集中している。
 カンナの健やかな歯を、その白さまでつぶさに感じる。
 唇はあたたかいけれど、さらりと触れる髪はつめたい。
「マリア…」
 もう一度名前を呼んでほしくて、わざと返事をしないでいる。
「なあ、マリア…」
 ああ、カンナの声で唱えられると、自分の名前はこんなにもあたたかい響きを持っているのか。
「濡れてきてるぜ…」
 やわらかく入り口を撫でながら、カンナがくすりと笑う。まだだ。もう少し優位を保っていたい。
「ばかなことを…頭の悪い男みたいなことを言わないで。わかるでしょ…暑かったら汗をかくのと同じよ…」
 かろうじて、気のないそぶりで言ってみせたが、すでに視線はページを上滑りしていた。いつしか文字は意味をなさなくなり、得体の知れない文様となって泳ぎ始める。       今や、マリアは待ち受けていた。次にカンナが何を言うのか。どこに触れてくるのか…。

「イヤか…?」
 カンナがくぐもった声で囁きかけた。
「イヤなら、そう言えよ。やめてやってもいいぜ…」
 やめる?やめるなんてとんでもない。先へ進みたい。
 もう、眼をあけているのもつらくなってきた。今にも本を取り落としてしまいそうだった。
 いったいいつまで、愚かな女の物語を読み続ける必要があるのだろう。
 差し出されている悦びを、このまま無視し続けるほうが、よほど愚かではないだろうか。

 そう思って、マリアはついに本を閉じた。
 溜息をつきながら、億劫そうに腕をのばしてカンナの頭を抱く。
「仕方ないわね…」
 渋々という風に言ったつもりなのに、風邪でもひいたようながさついた声が出てしまった。マリアは慌てて咳払いをした。だが、マリアの喉を干させた渇望を、カンナはめざとく悟ったようだった。
「絶対、本を読むよりこっちのほうが楽しいって」
 自信ありげにカンナが笑った。宝石のような瞳が、落とした灯りの中できらめいている。
 ああこの瞳。この瞳にこうして見つめられることこそが、満ち足りた現実ではないか。

「でも、もう眠くなってきたわ…」
 ちいさくあくびの真似をして、マリアは最後の抵抗を試みたが、そこまでだった。






《了》






こんだけです;;



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