深爪






「待って、レニ。その前に爪を切らないと…」
 マリアに呼び止められ、レニはひらりと手を広げて自分の爪を見つめた。
「指先が大事な部分なのはよくわかったでしょう。爪を整えておかなくてはいけないわ」
「そうだね。肌に傷をつけたりしないように」
 真剣なレニの表情を見て、マリアは小さく苦笑した。
「座って。きれいにしてあげるから」


 ベッドに腰掛けたレニに向かい合って座ると、膝と膝が触れた。なにげない風を装いながら、マリアはその感触を深々と意識した。
 帳面から破り取った紙を広げた上に、レニの手をそっと引き寄せる。
 華奢な指先の様子を矯めつ眇めつしながら、マリアは細い裁縫用の鋏を使って、レニの爪を切り始めた。
 無骨な爪切り鋏は嫌いだった。厳ついくちばしのような刃先で切断するのではなく、爪の形に合わせて自在にカーブできるし、何よりレニの繊細な指先にはこちらのほうが似合うと思った。
 陽ざしをかすかに反射させる淡い白濁色の光沢の中で、細かなピンクとコバルトグリーンが、レニの指先を彩っている。
 まるで薄く延ばしたオパールのようだ、とマリアは思った。
 左手の親指から始めて、人差し指、中指と切って行く。レニは黙ってマリアに手を預け、その作業をじっと見守っていた。
 このまま、いつまでも切り進まなければいい、とマリアは思った。やがてこの指先が素肌を撫でる。喉をすべって胸の頂へ登る。この宝石のような爪でこすられる乳首は、どれほど幸福で甘やかな疼きをもたらすだろうか。唇や舌先と共謀して敏感な部分に触れる美しい爪の先。熱いうねりに締めつけられながら、奥へ、奥へと入って行く…。
 漏れそうになる喘ぎをマリアは堪えた。
 いっそわざと手元を狂わせて、この爪の先にするどい傷をつけるのはどうだろう。この指先がもたらすものなら、痛みすら甘美ではないのだろうか。

「痛っ…」
 まるでマリアの心中を読んだかのように、レニがわずかに顔をしかめた。
「ご、ごめんなさい。痛かった?」
 右の人差し指の先に、少しピンク色の濃い部分が覗いていた。
「深爪しちゃったわ…ごめんなさいね…痛いでしょう」
「…大丈夫。たいしたことはない」
 レニは既に平静な様子に戻っていたが、マリアは眉を寄せて唇を湿した。
 痛みはレニのものになってしまった。もっとも、指先の繊細な神経のもたらす痛みの煩わしさも、レニは気にせずに、この爪先で肌をつま弾くのだろう…。

 ああ、この指に、すべて自分が教えたのだ。どこを撫で、どう触れればいいか。指先の果たす役割、持てる威力、もたらす悦楽を。この美しい少女を腕の中に抱きすくめ、請われるままに、文字どおり手をとり足をとって、自分が教えてやった。百科事典のような抱負な知識に比べると、レニの体は面白いほどに白紙だった。マリアはそこに、口づけから始まる艶やかな物語絵巻を写していった。レニの探求心は飽くことなく、熱心な生徒であり、優秀な素材だった。
 それはなんと輝かしく美しい時間だっただろう。思い起こして、マリアは長い睫毛を伏せた。そう、軽く、やさしく円を描くように。だんだん強く、早く…深く…そう…上手よ……。


 マリアは思わず、鋏を捨ててレニの手を引き寄せ、人差し指の先を口に含んだ。
 歯の裏に指の腹を押さえつけ、舌先で爪の表面をつるつるとなぞった。舐めて、舐めて、飴玉のように舐め溶かして、この爪先の奏でるめくるめく時間ごと、飲み干してしまえたら…。
 レニは少し困惑した表情で、それでも指を引き抜こうとはせずに、大人しくマリアに任せていた。
 マリアは我に返って、慌てて唇を離した。居住まいの悪さをどう取り繕おうかと思案していると、レニがにっこりと笑って言った。
「ありがとう。もう痛みはないから」
「…そう。そうね。よかったわ」
 そう。自分は傷ついたレニの指をいたわっただけ。レニはどこまで私の気持ちに気づいているのだろう。彼女なりのフォローだろうか。だとしたら、自分はとんだ道化だ…。


 口の中に残る渋い羞恥を飲み込みながら、マリアはレニの爪を爪やすりで丁寧に磨いてやった。薄く、なめらかに、華麗な刃物のように。整っていく爪先を見ていると、胸の奥が甘苦しくしめつけられた。いいのよ。好きにすればいい。あなたの好きにしていいの。それがあなたの望みなら、私はなんだってかまわない…。
 頭の中は、レニの爪先の紡ぎ出すまばゆい悦楽の想像で満ちあふれた。マリアは平静を保つのに苦しみながら、どうにか手入れを終えた。

 紙を少し折ると、爪の切り屑がさらさらと寄せ集められた。先ほど深爪した爪の先はどれだろう。そこにはピンク色の薄い皮膚の欠片が付着しているのだろうか。ほの白く積もった爪の滓は、何か媚薬か毒薬の材料のようだった。マリアは狂おしくじっと紙の上を見つめていた。
 やがて小さく吐息をつくと、マリアはくしゃくしゃと紙を丸め、素っ気なく屑籠へ落とした。
 窓から差し込む春の午後の日射しは生ぬるく、熱くこみあげる思いを持続させるには不向きだった。


「ありがとう。マリア。とてもきれいになった…」
 レニは立ち上がり、
「じゃあね」
 という一言と微笑みだけを残して出ていった。


「…がんばってね」
 マリアは一瞬口ごもったが、どうにか笑顔を保って、レニをカンナの部屋へ送り出した。






《了》












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