春嵐 東横本線で渋谷から七つ目、多摩川を越える二つ手前に「田園調布」という駅がある。大正の末に出来た当時は「調布」と言ったこの駅は、東京の真中に家を買えない、またあえて東京の中に家を買おうと思わない、モダン指向の中堅の勤め人を相手に作られた新興住宅地の入り口だった。当時はまさしく「田園」そのものの田舎風景の中に、中欧風の小さな二階建ての駅舎が建っているばかりだったのだが、それから十三年も経つと風景はすっかり見違えた。駅の西側にはパリのそれを模したという扇状に区切られた道路が縦横に走り、これに沿って植えられた街路樹が葉を茂らせた。建物面積は敷地の五割以下にするという方針ともあいまって、田園調布は少し日本離れした、洒落た住宅地になっていた。 浅草の洋菓子店に菓子職人として勤めていたアイリスが独立して店を持つにあたり、この街を薦めたのは大神だった。彼女の洋菓子はその修行場所の効果で、味も材料もそして値段も、いささか浅草風のアレンジがかかっていた。本格洋菓子店が軒を並べ、舌の肥えた高級な客を相手にしなければならない東京の真中よりも、こういう住宅地の勤め人家庭の舌と懐を相手にした方がアイリスの菓子には向いている、そして 「君は東京の真中にはいないほうがいい。ただでさえ、君の外見は人目を引く」 と大神は言った。 「君の・・・・『力』の事を気取られるのが何よりも問題だ。」 そうして、この街の駅からさほど遠くない場所にアイリスは小さな店を構えた。人を雇う余裕がないので、午前中は自分で菓子を作り、午後は自分で店に出て菓子を売った。いかに新興のモダンな住宅地とはいえ、外国人そのものの容貌をしたアイリスの店にはなかなか客が付かなかった。が、やがてそういう住宅地だからこそ居る「他人が行かないから行ってみたくなる」嗜好を持った夫人連が店を訪れ始めると状況は変わった。この金髪碧眼の小柄な女店主が、実はちょっと下町なまりの歯切れの良い日本語を喋ること、置いてある菓子もそれほど油や砂糖がきつくなく、なにより値段が手ごろなことが街に知れるようになった。よくある駄菓子屋ほど庶民的ではないが、銀座の高級洋菓子店ほど気取っても居ない。それでいて、どこかモダンな洋菓子の店・・・・こういう評判が立てばしめたもので、店を開いて数ヵ月後には常連客も付き、さらに駅の2階にある席数が十に満たない小さなフランス料理店へも菓子を収めることが出来るようになった。 苦労はしたけれども、それだけの成果を得ることが出来たと、アイリスはそう思った。そんな時、彼らがやって来たのだった。 初めて彼らが店に入ってきたときのことを、アイリスは忘れられない。ドアに付けた鈴の音に顔を上げた彼女の視線に入ってきたのは、対象的な二人組だった。一人は背が高く、柔らかな髪を左からなでつけており、顔も鼻筋も唇も眉毛も細く鋭く、目だけが猛禽類のそれのように大きい。にもかかわらずその目にはこれといった生気が感じられないのだ。もう一人の男はやや小柄、しかし肩も胸も張っていて、固めの髪の毛をこちらは右から分けており、鼻は丸く色黒で口も大きい。逆に目は小さくて細かったが、とても強い光を放っていた。 アイリスは不吉な予感に背中がぞくりとした。 「大森憲兵分隊の・・・・」 と、背の高い方が言った。低く良く伸びる美声と言って良かったが、それが逆に不気味だった。 「泉川憲兵曹長と言います。こちらは上田憲兵伍長。」 紹介されて上田は会釈をしたが、その間も油断なく目が光っていた。 「・・・・・なにか、お探しですか?」 生気の無い泉川の目に気圧されそうになりながら、それでもアイリスは精一杯の皮肉を込めて言った。 「いや。」 泉川は微笑したが、ひどく剣呑な笑顔に思えた。 「あなたは、イリス・シャトーブリアンさん。間違い無いですね?」 「・・・・そうです。」 憲兵だから警察の台帳なり何なりを見て知っているのは仕方が無いのだろうが、普段は使っていない本名を尋ねられて、アイリスはいっそう警戒した。 「そう警戒しなくともよろしい。」 泉川は笑って言った。例によって、少しも穏やかでない笑顔だった。 「これも通常の憲兵業務の一環なのです。大陸での事変が生起してすでに1年以上、国内に外国から影響を受けた不穏分子が散見されるようになったので、我々憲兵隊としても外国籍の住民の方の状況を確認しなければならなくなりまして・・・・」 横で上田が一言も発せず、ただ目だけを動かして店の中を観察していた。 「それなら、もう地元の警察の方も、特別高等警察の方も来られました。あたしに何もやましいことはありません。・・・・お調べならとっくに付いていると思ってましたけど。」 最後の「ど」に力を込めて、アイリスは答えた。 「おや。見事な日本語ですね。」 泉川は応じた。 「しかも江戸なまりがある。」 アイリスは口を開かなかった。 「警察と私達とは、微妙に管轄が違うのです。観点も違う。・・・・まあ、このような事をお話しても詮の無いことですから・・・・・ともかく、御時勢ということで御理解いただきたい。」 口調は静かだったが、やはり有無を言わせぬ響きがあった。 泉川は、アイリスの生まれとか、家族とか、最近の仕事のこととか、普段の立ちまわり先のこととか、そういったことを尋ねた。無論、生まれや家族やそして経歴に付いては、大神が「創って」くれて役所に届けたとおりの事を答えた。 嫌になるくらいゆっくりと時間をかけて、聞き取った内容を手帳に書きつけてから、泉川たちは店を去っていった。とうとう上田は一言も喋らなかった。店を出た二人が街路を曲がっていき、視野から消えた時、アイリスは思わず安堵の溜息を付いた。とてつもなく長い時間を懸けられたような気がしたが、時計を見るとほんの十分弱の出来事だった。 それから、だった。 少なくともアイリスにはそう思えた。 泉川たちは時々ふいにやってきた。そしてどうでも良いことや、今のアイリスには理解できない軍事上のこと、特に技術関連のことを尋ねた。なぜそんなことを尋ねるのかといえば、それはもちろん、彼らがアイリスの正体を知っているか、少なくとも疑っているからに違いなかった。 そして、年が明けて間もない寒い日曜日の朝。遠くの方から、何か大声で怒鳴る声が聞こえてきた。一人ではない、何人もの男が声を揃えて怒鳴っている。それが近づくにつれ、軍歌だと分かった。軍歌の高唱というより、無遠慮な怒声の集団はどんどん近づいてくる。いやな予感がした。店の奥の厨房から表をうかがっていると、軍歌の正体が現れた。黒い帽子に黒いネクタイを締めた黒い制服、腰には斜革の付いた革ベルト、足には黒ブーツを履いて、それは新聞やニュース映画で見るドイツのナチスの制服にそっくりだったが、そういう服装の男たちが十人近くも、隊列を組み軍歌を歌いながら歩いてきた。 ・・・右翼、だわね。 アイリスはつぶやいた。 彼らは店の前にやってくると、軍隊のような所作で一斉に店に正対した。そしてそのなかのひとりが叫んだ。 「この店はぁーっ!!」 他の男たちが唱和した。 「このみせわあああ!」 「我が皇国の置かれた状況をかえりみもせずぅーっ!!」 「かえりみもせずうう!!」 「いやしい洋風の菓子をつくりならべえええ!」 「つくりならべえええ!!」 「我が皇民をあざむいておおおる!」 アイリスの頭にかっと血が上った。 「あまつさええええ!」 男の怒声、と言うよりも罵声は続いた。 「この店の店主は得体の知れない外国人でありぃいいい!」 「外国人でありいいいい!!」 「いずこかの国に我が皇国の内情を伝えておる薄汚いスパイである疑いがありいいい!!」 アイリスは厨房から一気に駆け出し、ほとんどドアを蹴破るような勢いで飛び出した。 「なんだいなんだいなんだいなんだいあんたらは!」 突然駆け出してきた金髪碧眼の口から、恐ろしく伝法なタンカが飛び出したものだから、流石の男たちも一瞬あっけにとられて声が止まった。 「なんだってえ?黙って聞いてりゃあざむくのスパイだの、冗談じゃないよ、寝言は寝て言いな!!こう見えてもあたしはね、東京は浅草で鍛えた江戸前だよ。なんだイ?『こうみんをあざむく』だァ?ちょいとあんた、意味わかんなくて言ってんだろう?わかんなくて言ってんなら大目に見るよ。意味わかってて言ってるってンなら、ただじゃおかないよ」 ぽかんと口を開けてアイリスを見ていた男の顔が驚きで青くなり、次には怒りで赤くなった。 「貴様、きっさまぁ!毛唐女の分際で、何を、何をぬかすか!」 「何をぬかす、だァ?こいつはおどろいた、あんた日本語がわかんないのかい。ははあん、日本語がわかんないから、自分でも訳の解らない事をほざいてたってわけだね?」 「キサマー!!」 頭のてっぺんから突き抜けるような甲高い声を出して、男は激怒した。男たちの整列が乱れ、てんでにアイリスに駆け寄ると、四方八方から突き飛ばした。たまらずアイリスは道に倒れたが、ばねのように跳ねて起き上がった。白い作業ズボンもエプロンも土ぼこりだらけになった。 「なにしやがんだいっ!」 なおも突き飛ばそうとする腕の一つを掴んで思い切り引き下ろした。毎日の菓子作りで、腕力には自信がある。男の一人がつんのめって倒れ、ドアに頭をぶつけて大きな音をたてた。 気がつくと、街の人々が遠巻きにしてこの様子を見ていた。 しかし誰も止めには入ろうとはしなかった。 人々の後ろに、制服を着た地元の巡査が立っていた。アイリスと視線が会うと、具合が悪そうにうつむいた。悔しくて涙が出た。 そのとき、 「元気そうで何よりだな、君たち。」 という声がすぐ近くでした。低音のよく伸びる声。静かだが、他人を威圧する声。 男たちもアイリスも、お互いに突き飛ばし合う姿勢のまま動きを止め、声の主を見た。 「憲兵」という腕章を腕に巻き、今日は軍服を着た泉川と上田が立っていた。 「・・・・」 男たちは少しの間、互いに顔を見合わせていた。どうしたものか、目顔で相談しているようでもあった。 「その元気は、ぜひ戦地でお国の為に発揮してもらいたい。」 「・・・・いや、・・・我々は、・・・我々は皇国本土において皇民の指導を・・・・」 男たちの代表らしき人物がもごもごと言い返そうとした。その時、 「皇民の指導をされるのは、畏れ多くも、」 と言って泉川は長靴(ちょうか)の踵を音を立てて合わせた。上田もそれに倣った。 「上御一人(かみごいちにん)のみが、気をつけええ!!」 ぼんやりと立っていた男たちは、泉川の裂帛の号令に撃たれたように姿勢を正した。軍人ではない彼等が、そのような事をする必要は無いのに。 「上御一人のみがなされる御仕事である。」 そして再び、泉川の口調は静かに戻った。上田も引き付けていた踵を開いた。 「臣民は皆平等に臣民である。そうではないのかね。」 「それは・・・それはそうではあるが・・・・」 代表らしき男はぶつぶつ言った。それから、 「憲兵殿がこやつを取り締まるというのであれば、我々にも異存のありようも無い。いかがか。」 と言って、アイリスに向かってアゴをしゃくってみせた。 ・・・なにが『いかがか』だい。チャンバラ映画じゃあるまいし。 アイリスは胸の中で毒づいた。 「それは、勿論、戦時の国内の治安維持には、我々憲兵にも重要な任務が課せられている。」 泉川は答えた。 「だからここは我々に任せて、あんた方は穏便に立ち去りなさい。だいたい、日曜の朝にこのような住宅地で軍歌演習などするものではない。」 ふん、と右翼団体の男は鼻を鳴らした。 「このような所でこそ軍歌演習が相応しいのだ。腑抜けた奴らどもに、大和魂の何たるかを見せてやるためにな。」 ようやく心の態勢を立て直したのか、男は肩をそびやかして配下に命じた。 「整列!ではただいまより撤収する!!」 そうして、男たちは再び軍歌をわめきちらしながら、足音を荒々しく鳴らして去って行った。 さっき男の一人がぶつかったせいで、ドアのガラスが蜘蛛の巣状に割れていた。 泉川と上田は少しの間、黙ってそこに立っていたが、アイリスはもう彼等を見なかった。 悔しかった。本当に悔しかった。 憲兵と右翼とが裏でつながっているというのは、今時誰でも知っている事だ。 ・・・・今回の事も、きっと彼等が・・・ 背中に、遠巻きにしている街の人々の視線が刺さっているような気がした。 ふいに、 「あの・・・」 と、小さな声がした。常連の、大人しい奥さんだった。まだ小さな男の子を連れて、時々店に来てくれていた人だった。街の人たちが見ている中で、ここまで出てくるだけでも勇気を振り絞っているのがよくわかった。 「あの・・・もし、手伝える事が・・・・」 と、消えそうな声で言った。アイリスは微笑して首を振った。ただ、今度はこの夫人の勇気に涙が出た。 そうして、アイリスの店の客足はばったりと落ちた。右翼が押しかけ、憲兵が出入りするでは、静かな住宅街の客は敬遠する。駅の2階のフランス料理店も、もともと採算が厳しかった上に遠からず物資統制が始まるという話を聞いて、店をたたむ事になってしまった。もう少ししたら人を雇おう、そして1日中店を開けていようと考えていたアイリスは、がっくりとうなだれた。時々店の前をあの夫人や、かつての常連客が気の毒そうに会釈して通り過ぎて行くのが、かえってこたえた。知らぬ顔をしてくれていた方がよっぽど気が楽だった。 やがて、本当に「国家総動員法」による物資の統制が始まって、砂糖やクリームの入荷量は減った。そうした中で作った菓子なのに多くが売れ残り、生ものだから捨てるより無かった。田園調布は厚生も整っていて野良犬や野良猫をめったに見ない街だったけれど、少し歩いて多摩川べりまで出ると何匹か居た。 ・・・・人の代わりに犬猫相手のお菓子屋さんか・・・ しゃがんで犬に売れ残りの菓子をやりながら、アイリスは時々泣いた。 春が来て、桜が咲き始めた。 その日もアイリスは川べりに売れ残りを持って出かけていった。なんだかもう、人と話すよりも野良犬や野良猫と話す方が気が楽に思えた。川辺の枯れ葦の脇に座り込み、よく見る犬に菓子をやって、さて帰ろうかと立ち上がると、少し離れた所でざわめきが起きた。なんだろうと視線をやったとき、悲鳴に近い声が上がった。 「誰か、誰か助けて!」 女性の声だった。ざわめきの元は何人かの人垣で、女性の声で人垣は揺れたけれども、何かそれに応じるという風は見えなかった。アイリスは人垣に近づいて行った。 「お願いです、誰か・・・誰かお医者さんを・・・・」 「呼びに行ったよ、行ったけど・・・」 人垣の誰かが答えた。 人垣の後ろから、中を覗き込んでアイリスは息が止まりそうになった。 あの夫人だった。頭からびしょぬれになって地面に座り、そしてその膝元には彼女の小さな男の子が、やはり全身びしょ濡れで横たわっていた。 その全身に、すでに血の気は無かった。あの独特の、「土気色」という肌の色を、アイリスは随分久しぶりに見た。二度と見たくない物だったのに。 ばたばたと誰かが駆け戻ってきた。 「お医者、すぐ来るよ。救急車も来る。」 アメリカ製の救急車が導入されて、数年しか経っていない。来ると言ってもどこから、どれくらいの時間でこの多摩川べりまでやってくるのか怪しかった。 「誰か・・・だれか・・・」 夫人は身もだえして訴えたが、人びともどうして良いか分らない。ただわかるのは、横たわる男の子の生命は明らかに危機に・・・というよりも、すでに呼吸も心臓も止まっているように思われた。すぐ来るという医者の姿は一向に見えない。これ以上、処置が一瞬でも遅れれば、取り返しのつかないことになってしまう。 ・・・・・あたしなら、できる。 ふいにアイリスの心の中で叫ぶ者があった。 冗談じゃない!! 即座にアイリスはその声を打ち消した。 ・・・・できるって、どこで?こんな人目のあるところで私の『力』を使ったら・・・ 「お願いします、誰か・・・」 「おいおい、医者はどうしたんだ?」 「おかしいなあ、でもあの先生、年寄りだったから・・・」 ・・・・・どこか人目の無い場所に男の子を連れていけば・・・でもなんと言って?私が医者に連れて行くからと言って? 「おい、ありゃあもう、駄目だぜ・・・」 かさつく小さな声で人垣の人同士が喋っていた。 「舌出して、白目むいてるし。だいたい、川にはまって10分近くも経ってから上がったんだろ?」 「上がっただけでも幸せってもんさ。死体の上がらないことだってよくあるんだから。」 「ああ、どうか、誰か・・・・」 夫人は男の子の上につっぷした。 「おい、医者、来ないぞ?」 「変だなあ、道間違えたかな?」 ・・・・どこかへ連れ出そうとしても、動かす事でかえって怪しまれる。だいたい、母親の目をどうする?彼女の目までは遮れない。・・・駄目、絶対に駄目。あたしには、できない! 「・・・ちゃん、・・・ちゃん」 夫人が男の子の名前を呼びながら慟哭していた。男の子の体は、しだいに冷たくなっていくようだった。 「こりゃあ、医者よりも・・・・」 さすがにその先は言わなかったが、誰もが救急車よりも霊柩車を呼んだほうが良いと思っているのがありありと分った。 ・・・それでも、私には出来ない。ここでそんなことをしたら、私は・・・・私にはできない! 「私が、私が代わりに、私が代わりに・・・・」 消え入りそうな夫人の声が聞こえた。 その時。 アイリスは、叫んだ。 彼女を凄まじい光が包んだ。 人びとがどよめいたが、その声は音にならなかった、 あたりの何もかもが光に包まれ、人々の目の前で男の子の体が2,3メートルも浮き上がった。 その動きに押しのけられた夫人が、呆然と見上げていた。 再び男の子が地面に横たわった時、彼は息を吹き返していた。 そして、人びとはアイリスを、はっきりとした恐怖に満ちた目で見つめた。その中にはあの夫人も混じっていた。今度は彼女も、声をかけては来なかった。 「魔女・・・・」 と誰かが囁きかけ、それが途中で切れた。 呼吸が出来ないほど緊迫した静寂の中、気配に後ろを振り返ったアイリスは、少し離れた場所に私服の泉川と上田が立っているのを見た。彼らの目にも、激しい驚愕の色が見えた。 なにもかもが、終わった。 アイリスは店をたたむことにした。店の建物や、機材や什器やショー・ケースの一切合財を売ったが、買い叩かれてほとんど二束三文だった。 ・・・魔女の持ち物なんか気持ち悪くて買い取れないって訳ね。 彼女に話し掛けるものはおろか、彼女の店に近づく者さえいなくなった。 店を閉じ、街を去る日がやってきた。皮肉な事に、街の桜が満開になった暖かい朝だった。 ・・・・こんなにきれいな朝なのに・・・・ 口をへの字に結び、いったいこれから何処へ行こうかと考えながら店のドアに鍵をかけていると、何か異様な雰囲気がした。振り返ると、街路の向こうに街の人達が立っている。ぎょっとして反対側を見ると、やはり人びとが集まっている。それはちょうど、道をふさぐ形になっていた。そしてその両方に、あの黒服の男たちが・・・・手に手に棍棒を持ち、また腰のベルトには軍刀拵えの日本刀を下げ、ある者は拳銃まで下げているのが見える。彼らの表情は一様に不気味に引きつり、街路全体が禍禍しい雰囲気に満ちているように感じられた。そして、「・・・魔女・・・」「・・・魔女・・・」という聞こえよがしの話し声がアイリスにまで届いてきた。 アイリスの全身から血の気が引いた。 群集は少しづつアイリスに近づいてくるように思えた。そして更に彼女をぞっとさせる事態が起きた。片方の人の群れが割れ、その後ろから1台の車が近づいてきた。その運転席には、軍服姿の上田が座っていた。後部座席には、やはり軍服の泉川が座っているのが見えた。 憲兵隊の車だった。 アイリスは思わず、持っていた旅行鞄を地面に落とした。 車は静かにアイリスの前に止まり、後席から泉川が降り立った。軍刀を釣るグルメットが、カチャカチャと音を立てた。泉川は左右の群集を静かに見てから、アイリスを見下ろした。アイリスの口の中はからからに乾いた。 「・・・・乗りたまえ。」 地面に落とした鞄を拾いながら、泉川は言った。 「・・・・乗るって・・・乗るって、どこへ・・・」 アイリスは言ったが、それは独り言にしかならなかった。 後部トランクにアイリスの旅行鞄を収め、泉川は後部ドアを開いてアイリスに座席を指し示した。 自分の視野がとてつもなく狭く、そしてなんだか白っぽくなっていくのを自覚しながら、アイリスはふらふらと座席に座り込んだ。反対側のドアから泉川がアイリスと並んで後部座席に乗り込み、そして車は発進した。 揺れる車の中で、アイリスはこれまでの自分の人生をぼんやりと思い返していた。 結局、この「力」のせいなんだ・・・・ アイリスはそう思った。なにもかも、この力が・・・・ がたがたと走行音が変わった。見ると、車は多摩川にかかる橋を渡っていた。 「・・・・?」 おかしい。彼らは大森憲兵分隊所属と名乗った。それは確か久ケ原にあった筈だ。それがなぜ多摩川を渡るのか?一度多摩川を渡り、西から回り込むようにもう一度川を渡って久ケ原に向かうのか? しかし車は、そのまま川崎市内を南下していく。やがて横浜市に入った。 ・・・・まさかこのまま、海にでも出て?・・・ アイリスがそう思ったとき、ふいに泉川が口を開いた。 「・・・あんたを守ろうとして、守りきれなかった。」 驚いて顔を見たが、軍帽の下の泉川の目にも表情にも、何の変化も無かった。ただ、前方を見つめていた。 「自分がこの程度でしかなかった事が悔しいが、それはどうでも良い。ただ、あんたには・・・あんたにはいくら詫びても足りんと思う。」 相変わらず表情に変化は無い。ただ、彼が両足の間に挟んで立てた軍刀を握る手の指に、白くなるほど力が入っている事にアイリスは気付いた。 「あの、・・・それは・・・・」 アイリスは問いかけようとしたが、再び泉川は黙り込んでしまった。 やがて車は、横浜駅に着いた。 「ここまで来れば、誰もあんたを追いかけては来まい。警察や憲兵や、役所の縄張りも違うから、誰もあんたを知らない。」 泉川は言った。そして、足元に置いた鞄から封筒を取り出して、アイリスに差し出した。 「これは・・・・あんたの誇りを傷付けたら詫びるが、俺と上田からだ。金が入っている。これでもっと、誰もあんたを知らない所へ行くといい。・・・・こんなことしか、俺たちにはできなかった。」 そう言う泉川の目は、伏せた軍帽のひさしに隠れて見えなかった。 後部トランクから鞄を取り出し、車外に立ったアイリスは、泉川に何か言うべきだと思った。が、何を言ってよいか分らなかった。 「あの時・・・・」 後部座席から泉川が言った。例によって、フロントグラスの前方を睨みつけたままだった。 「あの時、ああすれば何もかも失うと、あんたは分っていた筈だ。」 アイリスは呆然と泉川の横顔を見下ろした。 「それなのに、あんたは・・・・・あんたが本当は何者で、何処から来て、何処へ行くのか、俺たちには分らない。ただ、」 ふいに泉川がアイリスの目を真正面から見据えた。 「ただこれだけは言わせてくれ。あんたは、素晴らしい人だ。」 バックミラーに映る上田が、静かに目礼した。そして車は走り去って行った。 桜の花びらが風を捲いて飛ばされて行った。 (了) ・田園調布が渋谷から七駅目だという点 舞台となる昭和14年当時は、東横の渋谷と代官山の間に「並木橋」という駅がありました。地図で見ると、自由が丘方面から渋谷に向かう場合、現在は高架となって1階が都バスの営業所になっている都営住宅を見ながらカーブしていく場所がありますが、あのカーブを曲がりきったあたりのようです。 その他田園調布に関する記述は、「東京横濱電鐵沿革史」(昭和18年3月東京急行電鐵株式会社刊、昭和館蔵)に拠りました。 ・憲兵の任務と配置について 任務については、「憲兵令」(昭和十九年改正版、復刻「海軍諸例則」収録)、「日本憲兵の概要 」(昭和35年、陸上自衛隊業務学校警務教育課編、昭和館蔵)に、配置については「憲兵隊配置及憲兵分隊管區」(昭和十九年改正版、復刻「海軍諸令則」収録)によりました。 ・民間の右翼団体の件 ああいう制服を着た右翼団体は実在しましたが、無論この団体を指しているわけではありません。また、拳銃を持っているという描写をしましたが、戦前は民間人でも要件さえ満たせば合法的に拳銃を所持する事が出来ましたので、念のため申し添えます。 |