春を呼ばないで





「舞台は、さっきのぞいたら、カンナとさくらが稽古をしていたよ」
レニに呼び止められ、一階へ降りていこうとしたマリアは足を止めた。
「彼女たちも一生懸命ね…。一緒に稽古しにいく?」
「…いい。直接カンナたちと絡むシーンは少ないし…。大きく動き回るわけじゃないから、部屋で練習できる」
「………じゃあ、私の部屋でやりましょうか」
「うん」
マリアの一瞬遅れた答えを、待っていたかのように、レニは即答した。マリアは少し困ったように微笑み、自室へと足を戻した。


 『幸福の王子』の配役が発表され、台本が配られてまだ間もなかったが、平和のもどった帝都で、花組の面々は舞台の稽古が一番の日課となっていた。だから、正規の稽古時間が終わっても、各々が個別に稽古にいそしむ姿は、べつにめずらしいものではなかった。
 主役となったマリアとレニも、その晩はそうして練習場所を探していたのだった。



 レニは、余計な前置きめいた雑談などしない。それはマリアにとっても気が楽だった。
「2幕の最初から始める…」
部屋の中央に位置を決めたマリアから少し離れて立ち、背を向けると、レニは眼を閉じ、力を抜いて、ゆっくりと息を吐いた。そうして役に入っていく。

「寒い…」
レニの絞り出すような呟きは、それだけで吹きつける北風を感じさせた。
「…リッケンブラウンの冬は寒い…。凍えてしまいそうだ…」
なんてせつなく胸をしめつける声だろう。マリアは思った。こんな声を聞いたら、鉛の心臓の銅像も、命を得て声をかけずにはいられまい。
「つばめさん。…つばめさん」
「…誰だろう…わたしを呼ぶ声が聞こえる…」
「ここだよ、つばめさん。呼んでいるのは僕だよ」
「…あなたは…」
レニが顔をあげ、まぶしげに自分を見つめる。その戸惑った心細げな様子には、マリアは自分の胸が痛むようだった。
 広場の王子の銅像となりながら、この小さな凍えた鳥を守ってやりたい。抱きしめ、暖めて、元気づけてやりたい。
「僕のポケットで休まないかい?…さあ、早く…」
だから、王子の言葉はたやすくシンクロした。
「今は、それがいちばん大切なことさ」

「ああ…あなたのポケットはなんて暖かいんだろう…」
見えないマントの端を持ち上げ、レニをくるみこんだマリアは、ふと顔を曇らせた。
「あなた…ほんとにつめたいわ…レニ…」
「寒いんだ…少し…」
そう言って、レニがかすかに身震いする。
「何か羽織る?」
「大丈夫…こうして、王子様のポケットにいると、暖かいから」
レニが、マリアの胸に頬を寄せ、きゅっとしがみつく。
「わたしは、王子様のやさしい、暖かい心に惹かれる…」
レニの抑えた、だが明瞭な声は、いつも耳に心地よかった。
「この気持ちは、もしかしたら…」
蒼い瞳が問いかける。だが、ここで王子の答える科白はない。マリアはただレニの瞳を見つめかえすしかなかった。


「さあ、どうすればいいんです?教えてください」
「それじゃ、僕の体の金箔を、そのくちばしで剥がしておくれ。そして、リッケンブラウンを大空から見渡し…」
喉元に、レニが唇を寄せ、浮いた鎖骨を小鳥のようについばんだ。やわらかな髪が、ふわりと顎の先に触れる。
「く…くすぐったいわ、レニ…」
「つばめは手が使えないから、しょうがない。くちばしで、って台本にも書いてある」
「ここ、効果音がいるわね…くちばしの…。でないと…なんだか…」
口づけを浴びているように見えそうだ。その想像に、マリアは一瞬身を固くした。
 気がつくと、かりかりと小さな音をたてながら、レニが歯と舌先で器用にブラウスのボタンを外していた。
「レニ、ストップよ」
「王子様、町にはまだ貧しい人がたくさんいるんだ…」
「ダメよ、そんなこと言って…」
「マリアは銅像なんだから、じっとしてて…」
「レニ?悪ふざけが過ぎるわよ。ちゃんと練習する気あるの?」
厳しさを含んだ口調で言うと、レニが顔をあげて、じっとマリアを見た。
「マリア…いや…?」
媚びる様子のあるでない、平坦な声だったが、大きな瞳でまっすぐに見つめられると、眼をそらすだけで傷つけてしまいそうな気がした。
「困ったつばめさんね…」
やむなく、マリアが苦笑混じりにため息をつく。部屋にレニを招き入れた時から、こうなることは心のどこかでわかっていたのだから。
 レニの口元がふっとやわらいだ。
「よかった」
この笑顔。レニの乏しい表情の中で、貴重な宝石のような、安堵の笑顔。このためなら、自分は一体何を惜しむだろう。
 そうして、いつも結局拒み切れずに受け入れてしまうのだ。マリアは、レニが手間取りながらも口だけでボタンを外していくのを、じっと身動きせずに待っていた。



 大人のものでも子供のものでもない、今まで自分の肌に触れたどれよりも小さなレニの手。その細い指は、まるで特別な磁力でも持っているかのように、いたたまれないほどのざわめきを肌の上にもたらしてくる。
 マリアは、口元を結び、息を乱さないようにつとめながら、レニの指が敏感な部分を通るたびにふるえそうになる体をこらえ、軽く喉をそらせていた。
 それは、行為と呼ぶにはあまりに稚拙な、ただレニがひたむきにマリアの肌に触れていくだけの、ささやかな交歓だった。夢見る少女のような、あるいは母の胸を探る赤子のようなレニの仕草は、マリアの胸にせつないまでの保護欲をかき立て、抵抗を封じていた。
 あの、露に濡れた花弁のような、つややかなレニの唇が触れているのかと思うと、そこから体がすうっと透明になっていくような気がした。だが、清しいまでの陶酔と同時に、レニの飽くことない探求に身を任せることは、中途半端な快楽と羞恥が相まって、マリアを常に困惑させていた。

(もう、やめましょう、レニ)
その一言を言うだけで、このひそやかな時間は、ガラス細工のように粉々に砕けてしまうだろう。
 レニのために、どうするべきなのか。ただ、傷つけることだけはしたくない。そう思うと、マリアは何も言えず、ただレニのしたいようにさせてやるしかなかった。そんなマリアの胸の内を、別の者への罪悪感が、針の先でなぶるように、ちくちくと苛んでいた。

「…マリアも寒い?」
ふいに胸の先を吸われて、マリアがこらえきれずに体をふるわせたのに気づき、レニは無邪気に問いかけた。
「…い…いいえ…私は平気よ…」
とても説明できず、マリアは慌てて微笑んでみせた。
「王子様を暖めてあげることのできない、わたしの小さな体が悲しい…」
つばめが不安げにうなだれる。
「わたしのしたこと…いけなかったでしょうか…」
「…そんなことない…そんなことないわよ、レニ…」
隙間なく身を寄せるレニの、冷えた肩を、マリアはしっかりと抱きしめてやった。





 ベッドに身を横たえたまま、胸の上のレニの頭を、そっと撫でる。
 やわらかな髪の固まりは、銀色の猫が丸まって寝ているように見えた。マリアには寝苦しい体勢だったが、呼吸を圧迫するその重みすら、大切なものに感じられた。
「キスして…マリア」
眠っていたのかと思ったレニが、小さく呟いた。寝言かと思ったが、レニは顔をあげ、軽く目を伏せて唇を差し出してきた。
 黙って、そっと唇を重ねてやる。
 だが、離れようとしたマリアの顔を、レニが頬を抱いて捕らえた。
「このあいだしてくれたのがいい。あの…長いの…」
マリアはしかめつらしく眉を寄せてみせた。
「変なことを覚えさせちゃったわね…」
言いながらも、体を起こし、レニの顎を持ち上げて、深く唇を合わせる。
 レニの口の中は緊張していて、肩が小さくふるえていた。おずおずと寄せてくる舌先を、マリアはやさしく絡め取った。
 望み通りに長い時間をかけてやってから、唇を離すと、レニは、はあっと深い息をついた。
「頭がぼうっとして、気持ちいいんだ。なんだか、胸の奥がふわふわして…」
あどけなさののこる顔を、わずかに染めるレニは、この上なく愛らしかった。

 いっそ、知っている限りの愛撫を凝らして、レニの細い姿態がふるえる様を見てみたくもあった。あの美しい声がせつなく喘ぐのを想像するだけで、胸を締めつけるほどのいとおしさが込み上げ、マリアの体が熱くなる。
 だが、この無垢な心の年下の少女に、自分がそれを教えてしまうのは酷というものだろう。


「わたしは…あなたのおかげで今日まで生きることができました。王子様…」
マリアの胸に、再びレニがもたれかかった。
「…僕も…」
稽古の途中だったことを、マリアはぼんやりと思い出し、続けた。
「ほら、もうすぐ春が来る。風が春を運んでくる…」
「春なんか来なくていい。王子とつばめの時間は、ここで永遠に止まるんだから」
それは台本の科白ではなかった。

「時々、怖くなるんだ…」
確かめるように、細い指先が手に絡んできた。
「隊長がいないと、さびしい。でも、隊長が帰ってきたら、マリアはまた隊長のものになっちゃうんだね…」
マリアは答える言葉を持たなかった。
「それも、ボクはさびしい…」
胸のつまる思いがして 、マリアの指先がぴくりと動いたが、そのまま、手を握り返すことはしなかった。
 行き場のないレニの言葉が、ただ夜の空気に溶けていった。


 少し不安になる。いつまで、このままでいられるだろう。
 後戻りできないほどに、求めあってしまうのか。それとも、こんな思いはいずれ煙のように消えてしまうのだろうか。
「ずっと…ずっとあなたとともにいたい…」
つばめの科白に、マリアは王子の言葉で答えた。
「僕も…初めて心のかよったあなたと…永久に…」
 レニは寂しがってるだけ。人の肌に触れて、安心したいだけなのだから。レニの孤独だった過去を思い、マリアは自分に言い聞かせた。
 …それを許す自分も、また寂しさを紛らわせているだけなのだろうか。



 一抹の後ろめたさとともに思い浮かべた面影は、レニの髪のきらめきの中で、朧に揺らいで見えた。




《了》




[ Top ] [ とらんす書院へ ]

inserted by FC2 system