ひぐらし








 裏通りに面したボクの部屋は、直射日光が射さないので、さほど暑くはなかった。それでも、夏の昼さがりの光は強く、部屋に窓枠の幅の明暗の層を作っていた。
 遅い梅雨明けを迎えた帝都は、その埋め合わせをするかのように、連日の猛暑が続いていた。
 この炎天下を、それでも休日を楽しもうと、織姫はお父さんのところへ、他のみんなは浅草へ活動を見に、隊長と紅蘭だけはかえでさんと仕事で花やしき支部へと出かけていった。1階の事務室は午前中の業務を終えて、今は無人のはずだった。
 だから、今この帝劇にいるのはボクたちしかいない。ボクと、マリアのふたりだけ。


 外では蝉がやかましく鳴いている。陽光に混じって降り注ぐ雨のようだ。蝉時雨とはよく言った。壊れた機械のノイズのように、少し苛立たしく鼓膜を震わせる。
 その蝉時雨にまぎれて、かすかにドアを開閉する音がした。すぐ近く。向かいの部屋。マリアの部屋から。間を置かず、静かなノックの音がした。
「…どうぞ」
 声が喉に絡んでうまく言えなかった。ボクは緊張しているのだ。期待と不安で心拍数が跳ね上がる。
 ドアが開いて、マリアの顔が、高い位置からのぞいた。
 その手に白いタオルを見つけ、ボクは息が止まりそうになった。二人きりで過ごすのはいつ以来だろう。2週間?1ヶ月?飢餓感が胸を苛んだ。
 ボクの顔をじっと見つめ、マリアはにっこりと笑って言った。
「待っていてくれたのね」
 頬がかっと熱くなるのがわかった。ボクはそんなにあからさまにあさましい表情をしていたのか。
「恥ずかしがらなくてもいいのよ」
 子どもの粗相を許す母親のように、マリアが少し苦笑する。ボクの思考はすべて見抜かれてしまう。一度コントロールを忘れると、感情とはなんとも表情と直結して制御しにくいものだ。
「来てくれるって、思ってた。だって…とても、久し振りの機会だから…」
 ボクは悪びれずに言った。マリアを前にして虚勢を張っても無駄だ。堪えかねてマリアの腕の中に倒れ込み、ふわふわした胸に顔を埋めると、体中の骨がゆるゆるに溶けてしまいそうな気がした。マリアはボクの頬を手のひらで包むと、小首をかしげるようにして、そっとキスしてくれた。
 白い指が、ボクの夏用のシャツのボタンを一つずつ外していく。時折胸元に触れる指先は、この暑さにもかかわらず、ひんやりと冷たい。
 緊張がボクの胸に溜まって、先端を固くしこらせていた。恥ずかしさに、背中がどっと汗を噴くのがわかった。
 部屋の温度がいくぶん上がったようだ。服をすべて脱ぎ去っても、ちっとも涼しく感じられない。なのに、マリアはといえば、喉の一番上までぴったりとボタンを留めていながら、一滴も汗をかいていなかった。

 ボクは黙って背中を向け、腰の後ろで手を交差させて差し出した。するとマリアは、ボクを向き直らせ、違う、と言うように軽く首を振った。そしてボクの手をとって前にまわして揃えた。
 ボクは少し困惑した。本当は後ろ手に縛ってくれるほうがよかった。肩が背中に引き寄せられて、否応なく胸が反らされるあの姿勢。体のどの部分をも、隠すことも守ることもできない。それに、手が体の前にあると、反射的に振り上げて抵抗してしまうかもしれない。それでマリアを傷つけてしまったりしたらどうしよう。
 しかしマリアは、ボクの心配など気付かないように、淡々と持ってきたタオルでボクの手首をくるみこんだ。
 マリアはやさしいから、ロープの下にタオルを巻いてくれるんだ。肌に跡が残らないように。女優という職業柄、体の傷には気をつけなければいけない。もちろん、他の誰かに気付かれて取り沙汰されてもいけない。だから、こういうことは確実に二人っきりの時にしかしてくれない。マリアはちゃんとボクのことを考えてくれている。ボクは安心して、うながされるまま、膝を曲げて床にぺったりと座った。
 ボクの左右の膝に、同じようにタオルを巻きつけ、もう1本のロープの端をそれぞれ結びつける。マリアが後ろでロープを引き絞るとボクの膝はこれ以上開けないくらい開かれた。日頃、舞台稽古のための柔軟体操は欠かさない。それでも股関節が軋んで、少しずつ引き裂かれるような痛みを感じた。
 でも、ボクはギリギリまで我慢した。ボクが痛そうにすると、マリアが悲しそうな顔をするからだ。痛みとの付き合い方なら知っている。戦うのではなく、受け止めて、自らの内に取り込めばいい。痛みが自分の一部になってしまうまで。それに、このささやかな痛みは、これからもたらされるであろう快楽を増幅させる貴重なエッセンスになるだろう。
 だけど、ボクの思惑は大きくはずれた。マリアはボクに触れて来ようとはしなかった。
 代わりに、ボクの手をとって導いた。
「今日は、自分でやってごらんなさい」
 その言葉の意味を理解すると、ボクは不覚にも狼狽した。手を前に縛ったのはそのためだったのか。
「そんなことは、できない」
「大丈夫よ。私の言うとおりにして…」
「無理だ」
「いいから、やってみて。むつかしくなんかないのよ…」
 ものわかりの悪い生徒に辛抱強く諭す教師のような口調だった。マリアはボクの指に指を添えて、ほとんど水平に近いくらいに開かれた脚の間に潜り込ませた。
「うあっ…」
 指を噛みつかれたかのように、ボクはびくんと飛び上がった。そこは自分の体の一部とは思えないくらい熱かった。
 怖じ気づくボクの指を操作して、マリアは複雑な構造をたどらせた。
「もっと奥よ…そう。もっと深く…1本じゃだめよ」
「きつい…」
「大丈夫よ。あなたの指は細いから…」
 そこはボクとは違う別の生き物のようだった。ボクの指に吸い付いて、とろとろと溶かして、飲み込んでしまいそうだ。背中を丸め、肩をきつくすくめて、自分自身の内部のうねった隆起を探った。初めて触れるその感触に、恐怖に近い戦慄を感じ、ボクは思わず喘いだ。
「指を曲げて。曲げるの。それからこうして…そう…上手よ…」
 マリアは何を考えているんだろう。どうしてこんなことをさせるんだろう。ボクの思考はすぐに続かなくなった。
 教えられたとおりのリズムを刻むと、体の内側を熱が、表面を寒さが駆けのぼった。二の腕が暑さに反してざわざわと泡立ち、頬の筋肉がのぼせたように弛緩する。
「はっ…ふうっ……」
 呼吸が断続的に引きつれる。束ねられた左手が所在なくて、右手を助けるように握りしめた。油蝉のじくじくという耳障りな声に混じって、ひぐらしが高く細く鳴いている。なぜだろう。ひぐらしは日暮れ時にしか鳴かないはず…もうそんな時間なのか…?
「レニ、うつむかないで、顔をあげて。あなたのかわいい顔をようく見せて…」
 ボクは言われるままに、重力が増したように自ずとうなだれる頭を、どうにか持ち上げた。
 マリアはかがみ込み、胸の下で腕を組んでボクを見ていた。気のせいか、マリアの頬もいくぶん紅潮しているように見えた。つやつやした唇は、薄く閉じられて笑みを浮かべている。碧の瞳は雨に濡れた若い葡萄の実みたいにキラキラしていた。
「どんな感じがする?何か話して。あなたの声を聞かせて…」
「蝉の、声が聞こえる。…あっ…頭の中で…ひぐらしの声が…」
 ボクは熱に浮かされたようになって、からからに乾いた喉からようやくかすれた声を出した。
「ひぐらし?」
 マリアが顔を寄せ、耳を傾ける。
「ひりひりして、甲高い声。耳鳴りみたいな…」
「そう…。ああ、だめよ、手を止めないで…」
 マリアは眼を細めて微笑んでいた。石膏像みたいにすべすべした指の背で、ボクの頬や喉をそっと撫で上げてくれる。猫のように喉を鳴らせたら、ボクは狂ったようにぐるぐると鳴いただろう。
 摩擦熱と水音。息が切れて苦しい。頭の中が沸騰して蒸発していくみたいだ。暑さのせいか、それとも涙か、視界が磨りガラスのようにくもって、マリアの顔がゆらゆらと揺らいでいる。慈愛に満ちた眼差し。じっとボクを見守っていてくれる。腕や肩が疲れて来ていたけど、もう少しだと思ったので頑張った。
 ひぐらしの声が強くなる。ボクはなんて愛されているのだろう。嬉しくて涙が出そうになった。
「ああっ…マリア…ボク…ボ…ク…っ」
 どんどん高く大きくなった蝉の声は、錆びた自転車のブレーキのように、きいんと鼓膜を焼いて、消えた。




 振り切れたボクの意識は、やがてもとの蝉時雨の中に呼び戻された。
「はあっ……」
 ボクは大きく息をついた。ひぐらしの声は止んでいた。
 額に、髪の毛が汗で海草のように張り付いて気持ち悪い。足の先が痺れて、電流のようにびりびりと神経を苛んでいた。

「一人でできたわね。レニ。えらいわ」
 マリアはその綺麗な指先で、べたべたのボクの髪をひとすじずつ剥がしてくれた。体の芯に、まだもやもやとした余韻が残っていて、下肢の痛みとせめぎ合っている。
 膝のロープを解かれると、どっと血液が流れ込むのがわかった。唐揚げにされるみたいな激しい痛みとともに、足先の感覚が息を吹き返した。ほどけ落ちたタオルは、ぐっしょりと汗を吸って重くなっていた。
 ボクは細く息を吐いて痛みを受け入れながら、そろりそろりと足をゆるめた。伸びきった股関節の腱が灼けつくようだった。

「これからは、もう一人でできるわね」
 マリアの言葉に、暑さも汗も吹き飛んだ。
「もう、私がしてあげなくても大丈夫よね」

 ボクは耳を疑った。
「どうして?マリア。どうしてそんなことを言うの?ボクが嫌いになったの?」
「聞き分けてちょうだい、レニ」
 マリアは小さな子どもをあやすように、まなじりを下げ、穏やかに言った。
「あなたのためなのよ。私たち、もうこういうことはやめたほうがいいわ」
 膝ががくがくと震えた。痺れたまま萎えた足で、いざるようにしてマリアにしがみついた。
「そんなこと言わないで!お願いだ、マリア。マリアのためならなんでもする。なんでも言うことを聞く」
 ボクは戒められたままの手をのばして、マリアの手に取りすがった。白い手のひらに頬をすりよせ、唇を押し当て、額におしいただいた。
「痛くても恥ずかしくても我慢する。だから、お願い。マリアの手で触れて」
 涙が、おもしろいくらいにこんこんと流れて止まらなかった。
「マリアに触れられると、ボクの体に血が通う。芯まで凍っていたようなボクの体が生き返るんだ。それを失ったら、ボクはまた機械みたいになってしまう」

「レニ…」
 マリアはそれきり沈黙した。
 長い沈黙に感じられた。ボクはずっとマリアの手にぶらさがって、ゆらゆらしながら泣きじゃくっていた。
「仕方ないわね…わかったわ」
 吐息とも溜息ともつかないような声が落ちてきて、ボクの髪に積もって溶けた。
 心臓が、甘い希望にずきんと跳ねた。
 マリアなら、ボクのこうした反応を予測していたはずだ。何もかもマリアの思惑通りなのかもしれない。それでもよかった。何の不都合がある?マリアはボクになんでもできる。なんでもしてくれる。…目眩がするくらい素敵なことではないか。
「じゃあ、これから私の部屋にいらっしゃい。ああ、服は着ないで、そのままでいいわ」
 ボクの手を引いて立たせ、マリアはまぶしいものでも見るように目をすがめてボクを見た。ちらりと舌先をのぞかせて、唇を舐める。
「日暮れまでは、まだ随分間があるから…」

 確かに、日はまだ高かった。だけど、ボクの耳の中で、また薄青い翅のひぐらしが、透きとおった腹を震わせて鳴き始めていた。






《了》






なんだこりゃ〜。



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