抱擁 ニューヨークの秋は終わろうとしていた。 その東洋人の男は、いつからか3番街の古アパートに住みつき、日雇いの仕事をしてひっそりと暮らしていた。 稼いだわずかな金のほとんどを、ただその日を過ごすためだけに費やし、他に使い道といえば、何かを紛らわすかのように、時に安酒を飲むくらいだった。友人を作るでなく、金をためるでなく、日常の何ものにも関心を持つまいとしているかのように、笑顔の消えた悲しげな様子で、彼は灰色の街をさまよっていた。 そんな彼が、唯一瞳に輝きを取り戻す瞬間があった。長身な金髪の女性が視界を横切ると、彼は息を飲み、眼をこらし、その姿を追いかけた。だが、その表情は、やがて失意に変わるのがつねだった。 その度に、彼は…大神一郎は自問した。 俺はどうしてこんなところにいるんだろう。 ここで何をしているんだろう。 面影の幻が消えていった雑踏の中に立ちすくみ、大神は、何度も繰り返した同じ答えを、口の中で呟いた。 帝都に、帝劇にいたくなかった。 いつもマリアがいた光景に、もうマリアがいないことに慣れてしまいたくなかった。 仲間、仕事、故郷。彼を支え、なぐさめ、悲しみを紛らわせてくれるいっさいを捨て、彼はここまで流れてきた。それは同時に、想い出の詰まった部屋が、テラスや舞台が、愛しい人を思い起こさせ、その度に喪失感に苛まされることが耐え難かったからかも知れなかった。 だから彼は、マリアを偲ぶためのものを、何一つ持ってこなかった。写真も、手紙も。すべて、帝都にそのままに残してきた。 決して、思い出したくないとか、君のことを忘れたいからじゃない。そんなものがなくても、君のことを思わない日はないのだから。 確かに、このまま君のことを忘れてしまえたら、俺が俺でなくなってしまえたら、どんなにか安らぐだろう。この、心臓がかたく石化したような胸の痛みを、もう感じなくても済むのだろう。 でも、そんなことはできないから。だから、俺は君を探し続けるしかないんだ。 君が死んだなんて信じない。俺が信じたら、君は本当に死んでしまう。 この地上のどこへ行っても、もう二度と君に会えないなんてことを認めるくらいなら、俺は一生君を探して さまよっているほうがいい。でないと、俺は苦しくて生きていけない…。明日は君に会えるかも知れない。明後日は君を見つけてみせる。そう思って初めて、虚しい夜を越え、朝をしのぐことができるんだ…。 摩天楼に、最初の雪が舞い落ちる。 あえかな雪のひとひらを手のひらに受け、大神は白い雪原を思い起こした。 天から差し込む、幾すじもの光の帯。小さな橇で、身を寄せ合い、息を凍らせながら、二人だけでたどった白い道。 こんなに探したのに、この街では君を見つけられなかった。それとも、君はあの雪の世界にいるのかい? 雲のたれ込めた空を見上げ、彼は思い立ったように歩き出した。 なけなしの金をかきあつめ、大神はロシアまでの船の切符を買った。去るのに惜しむものは何もなかったので、わずかな家財や日用品を売り払い、旅費の足しにした。 港に向かう途中、大神は理髪店の前でふと立ち止まった。無精ひげの伸びた顎を撫でて苦笑する。 いけない。こんな顔じゃ君に会えないな。 だらしないですよ、って怒られてしまいそうだ。 彼はドアを開けて店に入り、主人に声をかけた。 久しぶりに恋人に会うんだ。さっぱりさせてくれないか。 大神は胸の高鳴りさえおぼえた。きっと会える。信じていれば、きっと君を見つけられる。こんなに君のことを思っているんだ。この思いが、かならず俺を君のところへ導いてくれるはずだ。 長い船旅を、彼は耐えた。 安い大部屋の船室の片隅で、体をまるめて眠ろうとつとめながら、大神ははやる気持ちを抑えた。 マリア、君に会いたい。早く会いたい。 でないと、君がいたことを疑ってしまいそうだ。 君のことを夢かなにかだったと思ってしまいそうだ。 俺達は、なんのために出会ったんだろう。 離ればなれになるためじゃない。こんなふうに、悲しみに苛まされて生きるために、出会ったわけじゃないはずだ。 俺達は奇跡のように出会い、結ばれて、家庭を持って…、同じ喜びを分かち合い、時にはいさかい、そうして静かに二人で生きていくはずだった。俺の力のすべてをもって、君を幸せにしたかった。君の人生のつらかった分を、俺の手で取り戻してあげたかった。 君を守ると言ったのに。守って、守って、守り抜いて、そのためだけに俺の人生を費やしてよかったのに。 すり切れた映画のフィルムのように、光景が大神の脳裏によみがえる。マリアが自分の前から姿を消した、あの瞬間。 大神は歯を食いしばった。気の狂うような後悔と自責の思いがこみあげ、全身が張り裂けそうだった。 君を、守れなかった。 ごめんよ。マリア。俺を許してくれ。 許してくれ…。 あれからの年月にも関わらず、訪なうものの誰もいないのか、マリアのロケットは墓標の上にそのままになっていた。風雪にさらされ、金色の細い鎖は、今はボロボロに傷んでいた。 でも、君は確かにいたんだ。大神は唇を噛み締めた。夢なんかじゃない。君は確かに、俺といっしょにここに立っていた。 跪き、うつむいて祈るマリア。振り向いて見せた、溶けいるような微笑み。この手で受け止め、抱きしめた、マリアのしなやかな重み。何もかも、昨日のことのように鮮やかに思い起こされるのに。 「おおい…」 大神は小さく声に出して呼んでみた。 おおい、マリア。どこにいるんだ? 君をさがして、君の故郷の国までやってきたよ。 もうかくれんぼはやめて、出てこないか? 俺、少し疲れちゃったよ…。 「おおーい…マリア…」 その名を口にすると、頬の奥がぐっと固くなり、灼けるような痛みを持った。大神は瞳を見開いて涙をこらえた。癒えることのない悲しみが、喉元からせり上がる。 俺も、行きたかった。君といっしょに。 君のいない世界になど、どうして生きながらえていたいものか。 俺も連れていってくれ。君のいるところへ。君のそばに行きたい。 マリア。もう一度君に会いたいんだ。 かつて、俺の体には、君といた時間がいっぱい詰まっていた。君とともに生き、戦い、支え合い、ひそやかに思いをはぐくんだ、そんな時間が俺の中に満ちていた。もう一度、その時間を、この空っぽの体に取り戻せるなら、俺は他の何も惜しくはない。 滲んだ瞳で、大神は白い地平を見渡した。 この雪原をどこまでも歩いて行けば、君のもとにたどり着けるだろうか。 大神は橇を置いたまま歩き始めた。 今行くぞ、マリア。すぐに君のところへ行くから。待っていてくれ。 冬を迎えたツンドラの原野は、厳しい寒さをもって大神を迎えた。 手足の感覚が、だんだん麻痺していく。肺は凍りつき、眼は痛み、睫毛がぱりぱりと音をたてた。衣服を剥がれるかのように、大神の体から、急速に体温が奪われていった。 「マリア…!」 嗄れた声で、大神は叫んだ。 「マリア…!…マリア…!マリア…っ!」 君の名を呼んで君が戻るなら、俺は喉が破れるまで呼び続けよう。声が枯れれば、この眼で君を呼ぶ。眼が見えなくなれば、心で君を思う。それで、君のところにたどり着けるなら。俺はいくらでも君の名を虚空に唱えよう。 「マリア………!」 大神は歩き続けた。暗く曇った空は、いつ暮れたのかわからぬまま、夜になったようだった。だが、彼は、引き返すことも立ち止まることもしなかった。自分がどこにいるのか、どこまで歩いたのか、もうわからなくなっていたが、微塵も恐ろしいとは思わなかった。 雪原に、人影があった。 静かに降り始めた雪にまぎれるように、金色の髪がかすかに揺れた。白い頬に、白い雪がふわりと落ちて、沁みいるように消えていく。 「マリア…」 大神は、かすんだ眼をこらした。 マリアは、おだやかに微笑んで、だが少し心配そうに大神を見ていた。 俺は幻覚を見ているんだろうか。大神はぼんやり考えた。寒さで、おかしくなったのでは…。 だが、マリアの姿は、降る雪に薄れて消えたりはしなかった。夜の底にほの蒼く積もった雪の中、マリアは大神を待つように、ひっそりとたたずんでいた。 「マリア…会いたかった…会いたかったよ…」 声のふるえは押さえようもなかった。大神は雪の中に足を踏み出した。重く雪を吸ったはずの靴が、軽々と持ち上がり、すべるように雪の中を歩けた。寒さすら、不思議と感じなくなっていた。 マリアはゆっくりと、やさしく手を広げ、差し伸べた。 「マリア…やっと、会えた…」 大神はマリアを抱きしめた。腕の中いっぱいに感じる、マリアのやわらかな体。涙が止めどなくあふれ出て、大神の頬をつたい落ちた。 「隊長?」 マリアが言った。 「今までどこを探してらしたんですか?私はずっと隊長といっしょにいたのに…」 ちょっと拗ねたように、そしていたわるように、マリアはなつかしい声で囁いた。 ああ、そうだった。大神は思い至った。 君はいつも俺のそばにいてくれたね。ニューヨークの安宿で、潮風の吹き付ける甲板で、君はいつだって俺といっしょにいてくれた。俺さえそう望めば、いつでも好きな時に君に会うことができたんだ。なのに、気がつかなくてごめんよ、マリア…。 金色の髪に頬を押し当て、大神は強く、強くマリアを抱きしめた。 長い間、ほうっておいてごめん。 もう、離さない。これからも、ずっといっしょだ。マリア。 生も死も、容赦ない時も、すべてを越えて俺達は結ばれている。いっときの別れの悲しみも、この永遠の中ではほんの一瞬でしかない。誰も、俺達を引き離したりはできないんだ。 マリア。どこまでも、二人で生きていこう。 抱き合う二人の肩に、白く静かに、雪が降り積もる。 音のない白い世界に、二人の思いが満ち渡る。 無限に続く再会の一瞬を、そうして互いを抱きしめながら、大神とマリアは、いつまでもともにいた。 |