冬の終わりに





 
 冬の終わり、ジュネーブの空は夢のように晴れていた。
 木々はまだ枝だけの姿だったが、湖面を渡ってくる風は穏やかで、少しも冷たくなかった。
 マリアは、ひとりでに踊りだしそうになる自分をこらえるのに苦労していた。
 年甲斐も無く、
・・・・マリアは自分でそう思った。
 年甲斐も無く胸がわくわくしていた。
 なにしろ、十年ぶりに大神に会えるのだ。いつもより多少化粧が濃くても、ときどき湖に向けた視線が緩んで、ひとりで微笑を浮かべ、たまたまそれを見た通りすがりの人にいぶかしげに見られても、それは仕方の無いことで、彼女らしくないはしたない振る舞いだと責めるのはいささか酷というものだろう。

 十年経った。中尉だった大神も、いまや中佐だという。海軍省軍務局で軍縮事務担当になったと聞いた。今日こうしてここで出会えるのも、軍縮条約の調整のために各国の担当者が国際連盟本部に集まるからだ。アメリカ国務省のタイピストであるマリアはアメリカチームの随員として、大神は日本海軍の代表のひとりとして、このスイスの湖のほとりの美しい町にやってきた。
 そして、今日会える。
 会ったらどうしよう。なんと言おう。
 湖の向こう、頂に白く雪を載せた山を見やりながらマリアは考えた。まず一緒に湖のほとりを歩こう。いろいろ話そう。大神のことも、自分のことも。かつての仲間の消息のことも。もし許されるならば、仕事が終わった後、一日かニ日、共にここに残りたい。さくらの事は、今日は聞くのはやめよう。大神とどういう生活をしていて、ふたり間の子供がどうでなどという家庭的な事をこんなところで聞きたくない。だいたい、外で女性と会っている時に、自分の妻のことをぺらぺら話す男に魅力的な男がいたためしがない。
・・・・それから、どうしよう?探しておいたレストランに行くには少し早いだろうか。いくらなんでも宿に一緒にいくわけにはいかない。お互い、異国のアタッシェ同士、他の目もあるし。でも誘われたらどうしよう?

 そこまで考えて、いきなりマリアの鼓動は早まった。思わず両手が頬に伸び、顔が赤らんだ。
・・・・・そうなったら、ほんとうにどうしよう?
 
 そんなふうに一人で勝手に興奮していたので、さっきから左の視野の隅を、こちらに近づいてくる物体について、マリアは少しも意識していなかった。その「物体」は確かに視野には入っていたが、マリアの脳はそれを見ることを求めなかった。だから、いきなり
「やあ、マリア」
と声をかけられたとき、彼女はほとんど悲鳴をあげそうになるほど驚いた。それは大神の声だった。興奮と喜びと、いろいろな思いがごっちゃになった。彼女は体をめぐらし、と言うよりも正確には跳んで空中で体を回転させて、声の主を振り返った。体の奥から声にならない声が飛び出してきて、それが喉を通過しようとしたところで止まった。
 居ない。
 大神が何処にもいない。
 そして目の前には、その「物体」があった。茶色のソフト帽、茶色のコート、茶色のズボンと靴。それらが皆、なにもかもが丸い。たとえて言うならば茶色の雪だるま。上下二段に積み重なった丸い茶色い雪だるまだ。
 マリアは口を半開きにし、片方の眉を額の上のほうへ引き上げ、首を突き出してその異様な物体を凝視した。
「やあ、マリア。」
その茶色い雪だるまが大神の声で話すのを見て、マリアは両手で口を押さえた。悲鳴がそこから洩れないように。
「やああ、どうもどうも、すっかり太っちまってさ。見違えたろ?」
その茶色い雪だるま、もとい、帝国海軍中佐大神一郎は照れ臭そうに笑いながら帽子を取った。その頭頂部がすっかり禿げ上がっているのを見て、マリアの目は局限まで開かれたまま、まばたきを止めた。自分の心臓が止まればいいと、そのとき思った。

 それから二人は、すぐにタクシーに乗って食事をし、食事を終えてすぐにそれぞれの宿に戻った。その間、マリアはさかんにさくらの健康や生活のことを尋ね、大神とさくらの子供のことを尋ね、これからの軍縮交渉の見通しについて尋ねた。大神の宿のほうがマリアの宿より少し遠かったので、大神がマリアを送る形になった。その車内で、
「君、今度は少しゆっくりできるの?」
と尋ねながら大神がマリアの手を取ったものだから、マリアはとうとう本当に悲鳴をあげて運転手と大神の肝を冷やさせた。
 逃げるように、いや実際にマリアはタクシーから逃げ去った。自分の宿に飛び込み、部屋に飛び込み、鍵をかけ、ドアによりかかってしばらく呆然としていたが、やがてどうしようもなく泣けてきた。

 その後十日ほど、各国代表の調整は行われたが、いちタイピストに過ぎないマリアにはあまり関係の無いことだった。なにより彼女は、日本の代表団に近づかないように用心した。そして自分の仕事が速めに終わりそうだと知ると、上司の許しを得て、チームより一足早くジュネーブを発った。
 心の底からげっそりとしたマリアは、ニューヨークで船を下りると、セントラル・パークへ向かった。ワシントンD.C.へまっすぐ帰る気にならなかった。
 その日のニューヨークは、雨とも霧ともつかない細かい雨が降っていて、空も裸の木々も摩天楼も暗い灰色だった。ジュネーブより寒く感じたが、それはマリアだけがそう感じたのかもしれない。
 セントラル・パークに面したビルの一角に、織姫が営んでいる小さな楽譜店がある。細長い店の奥でオペラ雑誌を読んでいた織姫は、マリアが入ってくるのを見て鼻眼鏡の奥から笑いかけた。
「あらマリア、ごきげん・・・・・でないですね?」
マリアは声を出して答える気力も失せていて、だた泣いたような顔で笑って見せた。
「どうしたですかー?なんだかさっぱりへったりぐったりというカンジですねえ?」
驚いたことに織姫は、母国語以外は日本語でも英語でもフランス語でも、喋ると皆こういう調子になってしまうのだった。もっともマリアはイタリア語が分からないから、織姫は母国語で喋ってもこうなのかもしれないが。
 マリアは引きずってきた大きな荷物を傍らに置き、織姫の前の椅子に座り込んだ。
「・・・・そうね。・・・・ほんとに、さっぱりへったり・・・?」
「ぐったり。」
「それ、誰が考えたの?」
「モチロン、わたしデース。」
マリアはようやく、声を出して笑った。

 織姫にコーヒーを出してもらい、ぽつぽつと事の始終を話すうち、マリアはだんだん腹が立ってきた。
「だいたいなあに、あの不様な太りよう。あれでも海軍の軍人?ひどいわ、ひどすぎる。」
もともと女性のわりにドスが効いているマリアの声に、怒りが加わるものだから、その響きには凄みさえあった。
「裏切りよ、あれは一種の裏切り。だいたいさくらは何をしてたのかしら。デブで禿で、おまけにいやらしいスケベ親父になんかなっちゃって、もう隊長でもなんでもないわ、あれはだたのスケベ親父よ。変態よ、痴漢よ、ええとそれから・・・」
それから書くのも憚れるような思いつく限りの悪態をつきまくり、それでもまだマリアの気は晴れなかった。
「わたしなんか、わたしなんか、」
と言っているうちにマリアは涙目になってきた。
「わたしなんか、いかに昔と変わらずに居られるか、若い頃の体力や気力を保ちつづけるか、どんなに努力してきたか。それをあのひとは、ただ時間に流されて堕落して・・・・」
黙って聞いていた織姫が、そのとき初めて口を開いた。
「あら、意外デース。」
思いがけないところで口を挟まれて、マリアは口を開けたまま声を止めた。
「マリアさんは、変わらないために努力してたデスか。」
「・・・・・・え?」
「わたしはてっきり、変わろうと努力してるもんだと思ってました。」
目をしばたたかせて黙り込んだマリアを尻目に、織姫はごそごそと机の脇に積んだ新聞を掻き分けて、そのうちの一部を取り出した。それは一週間ほど前の日付の高級紙だった。織姫が音楽紙やイエロー・ペーパー以外の新聞を読んでいることが驚きだったが、彼女が指で示した記事も驚きだった。
「成果を挙げた海軍軍縮会談・事務レベル折衝終わる。」
と、その記事は書いていた。ジュネーブに各国の海軍・外務担当者が集まった軍縮予備会議は、各国の努力の結果もあって、予想以上の成果を挙げて終了できた。特にアメリカにとって重大な関心事である太平洋における海軍力の調整については、日米の当事者がこれまでになく円滑かつ円満に調整を進めることが出来、今後の政治家同士の本交渉の成果に期待を持たせることができた。
「特筆すべきは日本代表団の一員、コマンダー・オオガミである。彼はそつのない話術と人を飽きさせない魅力を発揮し、ともすれば荒れがちになる交渉の場を和らげ、冷静で合理的な交渉を進めるのに貢献した。日本海軍にもこのような人物がいることを知り得、ネイビー・トウ・ネイビーという言葉が軍縮の場でも有益なことを知り得たのは、今回の収穫の一つだったと、我が海軍代表団のキャプテン・マシューズは語った・・・・」
 マリアはもう一度、声を出さずにその記事を読み直した。それから、困った子供のような顔をして新聞紙を眺め、織姫の顔を見、また新聞紙を見た。
「人はみんな変わりマス。でも変わるには理由がある。」
織姫は静かに言った。
「マリアさんがそういうのだから、きっと中尉さん、じゃない、大神さんはいやらしい中年オヤジになったんでしょう。でも、」
織姫はコーヒー・サーバーを持ち上げて、空になっていたマリアのカップにお代わりを注いだ。
「あのころの中尉さんみたいな人が、海千山千の政治家や外交官や政治家みたいな軍人の中に入って、『そつのない話術と飽きさせない魅力』を発揮できると思います?」
「・・・・・それは、・・・・それは・・・・・」
「マリアさんのいう今の大神さんと、昔の中尉さんと、どっちが好きかと言われたら、それはきっと昔の中尉さんでしょう。でも、それは今求められてる大神さんではないんです、きっと。」
「・・・でもそれじゃ、」
と、マリアは反駁した。
「それじゃあんまり悲しいじゃない。そりゃあ、私も子供じゃない、政治家や外交官が喜ぶ話題を提供できる人ってどんな人か、だいたいは分かるわ。でもそのために、人柄や趣味や、そのう、体型まで変えてしまうなんて。」
「そうでスか?」
織姫は意味ありげに微笑した。
「大神さんは、軍縮に成果を挙げたんでしょう?日本が外国と戦争をしなくてすむように、働いたんでしょう?さくらさんやマリアさんや私や、皆が悲しまないように・・・・」
マリアは織姫の顔を、それがまるで偉大な哲学者のものであるように見つめた。
「大事なところは少しも変わってない。・・・・・・ちがいマスカ?」
マリアの体のまん中あたりで重く凍り付いてた氷が、一時に溶けていったような気がした。
「それにマリアさん、私も変わってますよ、見なさい。」
織姫はそう言って立ち上がった。
「私だってこの体型デース。でもこれは、ステージで綺麗に声を響かせるために大事な体型。変わった事、私はちっとも悪いと思いません。」
そういう織姫は、確かに昔とは別人のように丸々と太っていた。かつての鋭角に尖った娘の面影はなく、丸いイタリアのおばさんがそこに居た。
「さっきも言ったでしょ、私は変わるために努力しているって。これが私の努力の成果デス。」
そう言って得意そうに顎をあげたところは、やはり昔のソレッタ・織姫なのだった。

 翌日、ワシントンD.C.の自分の部屋に戻ったマリアは、クローゼットの奥から埃だらけの箱を引っ張り出した。中には、帝国華撃団の制服がしまってあった。改めて広げてみると、昔本当に自分がこれを着ていたんだろうかと思うくらい細かった。
 それを両手で持ち上げ、天井と制服とを交互に睨んでいるうちに、マリアはなんだかとても可笑しくなって、くすくすと暖かく笑った。  













おわり





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