異邦にて








 マリアは何も着ていなかった。
 身につけているのは、手首にはめられた重い金属の枷と、それにつながる鎖だけ。そして、首からさげられた値札が、わずかに胸元を隠してくれているだけだった。
 その顔は、衆目の前に肌を曝された羞恥に紅く染まり、屈辱にゆがんでいたが、碧の瞳にはまだ不屈の意志が宿っていた。この先何が待ち受けていようとも、隙あらば、自分を貶めた者たちに牙を剥いて噛みついてやる。その眼はキラキラと光りながら、そう叫んでいた。
「次なる奴隷は、あの悪名高い帝国華撃団花組の副隊長だったというこの女、マリア・タチバナ!本来なら京極様にたてついた大逆の罪で当然処刑されてしかるべきを、京極様のお情けで、他の隊員と同じく奴隷として生きることを許されたわけだ。射撃の腕を買ってボディガードにするもよし、何よりかつて大帝国劇場で花形女優を張ったこの美貌と体、用途はいろいろありましょう…」
売人のもってまわった口上を、マリアは不快げに眉を寄せて聞いていた。何がお情けだ。死の安寧よりも、生きながら辱めの地獄を味わわせようというだけではないか。ああ、今この手にエンフィールドがあれば、こんな下司など一発で黙らせてやるのに。マリアは戒められた手をきつく握り込んで、手のひらに爪を食い込ませた。だが、負けるものか。諦めるものか。必ず生き抜いて、行方不明の仲間たちを探し出し、助け出すのだ。そして、自分たちをこんな境遇に追いやった黒鬼会に、一矢報いずにはおくものか。そして何より、あの裏切り者に…
「その女、私が買いましょう」
人垣から進み出て、とりすました声を出したのは、火車だった。
「その女には出会い頭に因縁がありましてね。あの時の御礼をじっくりさせていただきたいと常々思っていたのですよ」
片手で持ち上げた弦なしの眼鏡の奥で、小さな瞳孔が冷酷に光っていた。
 マリアの厳しい表情は変わらなかったが、胸の内側で、心臓は危機感に高鳴った。思わず、喉がごくりと鳴る。
「さあ、おいでなさい。ゴミごときが私に無礼をはたらくとどうなるか、たっぷり思い知らせてあげましょう」
売人に札束を渡しながら、火車が残忍な笑みを浮かべてマリアに手を延ばした。


「待て。その女は俺が買う」
その時、人垣から声がした。
 好奇の目で眺めるもの、あるいはいたましげに見やるもの達の中から、黒髪の頭が近づいてきた。
「隊長…!」
マリアは思わず声をあげ、それからぐっと唇を噛み締めた。
「倍の値段を出そう。この女は帝国華撃団にいたころから俺が眼をつけていたんだ。おいそれとは他人に譲れないな」
大神は、京極の新政府軍の軍服を着込み、これみよがしに肩章をさげていた。
「残念でしたね大神君。この女はもう私が買ったのですよ。割り込みはいけませんよ」
火車がふんと鼻を鳴らした。
「じゃあ、三倍だ。俺を優先してくれたこと、京極様にも、よく伝えておいてやるからな」
無造作に投げられた札束を、売人は喜々として拾い上げ、マリアを繋いだ鎖と枷の鍵を大神に手渡した。
「京極様が何をお考えでおまえのような者を重用するのかわかりませんね。かつての部下たちを買い集めて何を企んでいるんですか。まさかハーレムでも作ろうと言うわけではあるまいに」
火車が憎々しげに鼻筋にしわを寄せた。
「あいにくだが、そのとおりさ。言っただろう?俺はこの女を狙ってたんだ。だけどガードが固くてね。こうして大手を振って自分のものにできるなんて、いいご時世になったよ」
飄々と切り返しながら、大神はマリアに歩み寄った。
 かつて、深い思慕を秘めて見つめた黒い瞳を、マリアは碧の炎を吹きつけるように見返した。
「隊長…いえ、あなたなどもう隊長でもなんでもありません!大神少尉!あなたは恥ずかしくないのですか…」
マリアは怒りに眼を燃え立たせ、大神を詰った。その顎を、大神がぐっと掴んで黙らせた。
「ちょっと検分させてもらうよ。なにぶん、体を見るのは俺も初めてなんだ」
値札の下の乳房に、大神の指が触れ、その先端を摘み上げた。
「あっ…!」
突然のことに、マリアは思わず声を上げ、身をすくめた。
「うん。いい感度だ。肌の艶も昔のままだし」
驚きのあまり喘ぐ肩を押され、足を払われて、マリアは尻餅をついた。その前に大神が屈み込み、足首を掴む。
「こっちも見せてもらおうか」
いきなり足を開かれ、マリアはもがいた。
「い、イヤ…っ………ああっ!」
いきなり大神の指が進入してきて、マリアは全身を硬直させた。
「きれいな色だ…締まり具合も最高だ。いい買い物をしたよ」
大神が眼を細めてマリアを見下ろした。火車がその後ろで、大げさに肩をすくめて見せた。
 マリアは声を発することもできず、驚愕に見開いた眼でただ大神を見上げていた。



 マリアが連れてこられたのは、あのかつての大帝国劇場だった。
「なつかしいかい?ここの一部が今も俺の家なんだ」
美しい煉瓦の建物を切なげに見上げるマリアに、大神が笑いかけた。マリアははっとして表情を引き締めた。
「カンナ!おいで」
玄関を入ると、大神が手を打った。
(カンナ…!?)
マリアは緊張した。捕らえられ、ばらばらに引き離されてから、初めて聞いたかつての親友の名だった。
「はい、ご……ま、マリア!?」
「カンナ!!」
廊下の奥から現れたカンナの姿に、マリアは愕然とした。
 全裸の体にマントを掛けられたマリアのほうが、まだましな格好だった。カンナは腰に布を巻いているだけで、豊かな上半身はあらわなままに曝されていた。何よりマリアの眼を捕らえたのは、その体中に、擦り傷や青黒い痣が所狭しと散らばっていることだった。
 二人は、絶望的な沈黙の中、ただ互いに見つめあっていた。
「マリアも連れてきたよ。ちょっと埃まみれだから、綺麗に洗ってあげて。終わったら俺の部屋に連れてくるように」
「……はい。ご主人様」
我に返ったカンナが、苦虫を噛みつぶしたように答えた。そして、詰問するように眼を見張るマリアを、もう見ようとはしなかった。


 地下の浴場も以前のままだった。マリアは手枷をはめられたまま、洗い場に座らされ、カンナにごしごしと洗われた。
 二人とも無言だった。マリアは洗い場の鏡に映るカンナをじっと見つめていた。ガラスに跳ね返される視線に、非難の色を感じ取ったカンナは、うつむいたまま、小さく呟いた。
「すまねえ………あたいがさからうと…アイリスが…」
マリアは頬をこわばらせた。
 そして納得した。カンナが、諾々とこんな状況に甘んじるわけがないではないか。この体の傷は、きっと散々抵抗したからだろう。カンナなら、どんな暴力にも簡単には屈しまい。だが、そのカンナを屈服させるには、もっと簡単な方法がある…。
「アイリスもここにいるのね?」
状況は最悪だったが、アイリスの消息がつかめただけでも朗報だ。マリアはそう思ってカンナに問いただした。
「あまりしゃべるな。マリア、一つだけ言っておく」
カンナが低い声で囁いた。
「誰も信用するな。あたいのこともだ…いいな」




「おや、きれいになったじゃないか。マリアはもとからきれいだものね」
ようやく肌が透けない程度の薄い布を纏わされ、マリアは大神の前に立たされた。
 先ほどのカンナの言葉が、まだマリアの頭の中をぐるぐると巡っていた。だが、大神を見ると、マリアはありったけの非難と蔑みを込めて睨みつけた。
 そんな視線などものともせず、大神は満足げにマリアを眺めまわしていた。
「俺の寝室に繋いでおいて。繋ぎ方は…わかってるよね?」
大神が意味ありげに言うと、カンナは殴られたようにぐっと息を詰まらせ、真っ赤になった。
「ふふ…君の胸も素敵だけど、やっぱりマリアの胸は魅力的だからね」
大神が、からかうようにカンナの傷だらけの胸に触れたが、カンナは払いのけることもせず、されるままになっていた。



 かつてのサロンが改造され、広々とした大神の寝室になっていた。部屋に一歩はいるなり、マリアは異様に大きな金色の鳥籠を眼にして立ちつくした。
 天井から吊り下げられた釣り鐘型の籠に入っている鳥は、銀色にけぶる髪をして、むき出しの膝を抱えてうずくまっていた。
「レニ…!!」
マリアが叫ぶと、レニは少し顔をあげ、マリアを見た。その眼には驚愕の色があったが、それはすぐにあきらめの色に変わってしまった。
「レニ…あなたまで……」
マリアは顔を歪めた。
「カンナ、教えて。ここには誰と誰がいるの?火車が言ってたわ。昔の部下を集めてるって…」
カンナは答えずにマリアの鎖を引いて、豪奢な寝台へと引き立てた。そのまま、背もたれの金色のパイプにくくりつける。
 マリアはうろたえた。
「か、カンナ…やめて」
抵抗しようとしたマリアの腕を、カンナは押さえつけ、難なく作業を終えた。
「諦めろ、マリア…」
カンナが小さく言うのを、マリアは信じられない思いで見つめ返した。




 カンナが出ていくと、マリアとレニは二人だけで残された。
 重苦しい沈黙の中、時間だけが、苛むようにのろのろと流れていた。
「レニ、あなたはいつからここにいるの?他には誰がいるの?…ねえ、答えて」
マリアは話しかけた。レニは、寒いのか、体を縮こめてじっとしていた。大きいといっても、レニがうずくまって入っているのがやっとの大きさの籠だった。姿勢を変えることはできても、立つことはできまい。
「レニ…!」
「忘れた。カンナしか見たことない」
マリアが言いつのると、レニはうつむいたままわずかに唇を動かした。
「ボクたちは負けたんだ。…仕方ない」
マリアは激しく首を振って見せた。
「だめよ、レニ!諦めないで!きっと脱出してみせるわ。そして、みんなを助け出して、もう一度帝国華撃団を…」
「想い出話に花が咲いてるのかな?」
ふいに遮った声に、マリアは押し黙った。裸の肩にガウンを羽織り、大神が入ってきて近づいた。
「さあ、お楽しみの時間だよ、マリア。覚悟はいいかい?」
大神は、何かピクニックに行く相談でもしているように、朗らかに笑いかけた。その笑顔は、マリアのよく知っている懐かしい笑顔となんら変わりはなかった。
 マリアは胸を塞がれる思いで声を発した。
「隊長、どうか思い出してください。一緒に戦っていたときのことを…!今からでも遅くはありません!京極を倒すために、もう一度…」
パン!とマリアの頬が鳴った。大神は笑顔をひそめ、かわりに冷たい眼でマリアを見据えた。
「少しは身の程をわきまえろよ、マリア。君は俺の奴隷なんだ。まず口のききかたから教えてあげないといけないようだな」
「隊長…いえ、大神少尉、あなたは…本当に…」
マリアは怒りと悲しみの入り混じった眼で大神を睨み返した。
「ご主人様、とお呼び、マリア。カンナに教わらなかったのかい?」
「ふ、ふざけるな!あなたを、軽蔑するわ、心から…!」
憤りのあまり喘ぐマリアに、大神は少し残念そうに首をかしげてみせた。
「やれやれ、君たちはそろいもそろって強情だね…。君にも、誰かに犠牲になってもらわないと、言うことを聞かせられないのかな。………仕方ないね」
大神は、サイドテーブルから、何かスイッチのようなものを取り上げ、手のひらの中でボタンを押した。
「はうっ!」
突然、レニが悲鳴をあげた。がしゃん、と籠の柵を鳴らし、細い体をぶつけて仰け反る。
「何を…やめて!何をしてるの!?」
マリアが叫ぶと、大神が再びスイッチを切り替えた。レニは、体を投げ出すようにして柵にもたれかかり、ずるずるとくずおれた。
「籠の床に電流が流れる仕組みになってるんだ。…なに、死ぬほどじゃないよ。ちょっと気分が悪くなるかもしれないけどね」
大神はにやりと笑って見せた。レニはがくがくと震えながら、うまく呼吸ができないようで、喉からひきつれた音を出している。
「あ、あなたという人は…!」
 マリアは蒼ざめ、痛いほどに眼を見開いて、ありったけの怨嗟をもって大神に斬りつけた。
「さあ、言ってごらんよ、ご主人様って。簡単だろう?」
大神が手の中でスイッチを弄んでいる。マリアはひりひりする眼をついに伏せた。
「……ご…主人様…」
ようやく聞こえるくらいの声で、マリアが呟いた。
「ようし、いい子だ。君さえいい子にしてたら、君にはよくしてあげるよ。昔のよしみでね」
大神は、マリアに手の届かないところにスイッチを置くと、マリアの纏っている薄ものを、紙のように一気に引き裂いた。
「はっ…!」
息を飲むマリアが、少しでも体を隠そうと首を縮めるのを、大神がとらえて引き寄せた。マリアの体は敷布の上をすべり、頭上に手を戒められたまま、仰向けにされてしまった。
 いきなり大神がのしかかり、口づけてきた。激しく唇を貪られ、マリアは死にものぐるいでもがいた。
「い、いや!」
どうにか顔を背け、ぷはっと息を吐くと同時に、マリアは叫んだ。だが、大神はかまわず唇を胸元にすべらせ、ゆたかな胸を揉みしだいた。
「…素敵だ、マリア。こうして君の胸に存分に触れられるなんて、やっぱり京極様についてよかったよ。あのままじゃ、お堅い君のことだから、いつになったら抱かせてくれたやら」
浮き浮きしたような大神の言葉を聞くに耐えず、マリアはぎゅっと眼を瞑った。大神は、犬のように舌先でマリアの胸をなめ回し、手のひらで体中をまさぐっている。マリアはあまりの忌まわしさに、反射的に膝を蹴り上げた。だが、大神が瞬時に身を引いて避けたので、白い足は空を切っただけだった。
「危ないなあ…。あまり態度が悪いと、もう一度レニに痛い思いをしてもらうよ」
大神が顔をしかめながら、先ほどのスイッチに手を延ばした。
「やめて!やめてください!」
マリアは咄嗟に叫んだ。大神は、マリアの狼狽した様子に、満足げに含み笑いを漏らした。
「じゃあ、大人しく言うとおりにするんだ。マリア。自分で足を開いてごらん?」
胸の上で、まだ大神の唾液がひんやりと揮発している。マリアは大きく息を吸って、吐いた。喉をそらし、天井を睨みながら、膝小僧をわなわなと震わせて、ゆっくりと左右に開く。
「うん、よく見えるよ、マリア。俺の命令はしっかり聞くんだよ」
小刻みに震えるマリアの大腿部をさわさわと撫でながら、大神が弾むほどの声で言った。
「大丈夫、俺だけ楽しんだりしないから。ちゃんと、君も気持ちよくしてあげるよ。ほら、これでどうだい?」
大神の指先が足の付け根に潜り込んでいくのに気づき、マリアの背中から一瞬に血の気がひいた。
「や、やめて……ああっ…!」
体の内側から責め立てる大神の指の動きに、マリアの背中が仰け反り、つま先が折れ曲がる。マリアはこれ以上声を出すまいと、喉に力を込め、必死に息を詰めていた。いやおうなく見開かれた眼の隅に、レニの姿が映った。
 レニは見るに耐えないと言う様子で、視線を逸らしてうつむいていた。その様子に大神が気づき、得意げな声を投げた。
「レニ、ちゃんと見てろよ。もうすぐ君にもしてあげるから。次の誕生日に、君が一七歳になったら、今マリアにしてるのと同じ事を、君にもしてあげる。楽しみに待ってるんだよ」
きつく眉をひそめ、レニが大神を見返した。だが、それも一瞬のことで、すぐまたもとの力無い表情にもどってしまった。
 大神の残忍な言葉に、マリアの胸の内は怒りと憎悪で焼けただれた。このまま跳ね起きて、大神の喉笛に食らいついてやりたかった。だが、失敗すれば、またレニが苦しめられることになる…そう思うと、燃えさかった怒りの炎は、冷水を浴びたように萎縮した。
 カンナもこうして言うことを聞かされたのか。不屈の精神を自ら捨てざるを得なかった友の、変わり果てた暗い瞳を思い、マリアは心臓を締め上げられるようだった。だが、他人のことを考えることができたのも一瞬だけだった。
「もっと力を抜いて、マリア。指が抜けなくなっちゃうよ」
大神が、あざけるように囁きかけた。マリアは羞恥と嫌悪で気が狂いそうだった。そんなマリアを、レニは人形のように無表情に、何も感じないかのようにじっと見ていた。
「行くよ、マリア、もういいよね」
言うなり、大神がいきなり入り込んできた。
「あああっ!」
マリアは耐えきれず悲鳴をあげた。髪の毛が逆立つようだった。背骨をえぐるようにして突き進む異物からのがれようと、マリアの足がずるずると虚しく敷布の上を掻いた。
「いや…いやあっ…ああ…」
呻くマリアの体を、大神はかまわず翻弄した。抱え上げ、裏返し、何度となく貫いた。
「ああ…いいよ、マリア、君は最高だ…。これから、いつでも好きなときに君を抱けるなんて、素晴らしい世界だよ…」
恍惚とした大神の声を聞きながら、マリアは歯を食いしばり、一刻も早く嵐が過ぎ去るのをただ天に祈っていた。




 自分が疲れて眠る段になって、大神はようやく部屋の灯りを消した。蒼くほの暗い月明かりの中で、マリアは大神に背中を向けて抱きすくめられたまま、放心したように横たわっていた。
 大神の穏やかな寝息が、いまいましく耳もとをくすぐっていたが、マリアには身をもぎ離す気力もなかった。さんざんもがいたため、手首は枷が擦れて赤くすりむけていた。何より、体が、すべての神経が焼き切れたように力が入らず、ぴくりとも動かなかった。
 くやしい…。なすすべのなかった自分が惨めで、マリアは涙が出そうになった。一瞬肩が震えて、嗚咽が漏れそうになったのを、マリアは必死に噛み殺した。だが、わずかな気の緩みを突いて、涙が容赦なくにじんできた。大神に悟られてたまるものか。マリアは堪えようとしたが、一度溢れてしまった涙はなかなか止まらなかった。
 このまま死んでしまいたい。マリアは切に思った。仲間たちのことも、何もかも忘れて、虚無の世界に逃げ込みたい。それは甘美な誘惑だった。そもそも、こんな状況で、自分に何か出来るわけがない…。暗い絶望がマリアを支配しようとしていた。
 レニが、まだじっと自分を見ているのに気づいた。眠ることを知らない人形のように、レニは瞳に月明かりをかすかに照り返しながら、黙ってマリアを見つめていた。

 その時、
(マリア…)
眠っていると思っていた大神が、耳もとで囁いた。
(動かないで。そのまま聞いて)
吐息だけで、声はない。よほど注意していないと聞き取れないほどの声だった。
(俺たちは監視されている。こうするしかなかった。手荒な仕打ちを、許してくれ)
マリアは思わず体を固くし、眼を見開いた。
(俺が寝返ったのは、生き延びて、君たちを助けるためだ。君だって、あのまま火車に連れていかれてしまったら、今頃どうなっていたか…)
火車の酷薄な眼光を思いだし、マリアはぞっとした。…だが、今しがた自分が受けた仕打ちと、どれほどの差があったものか…。マリアは振り向いて大神の眼を見たかった。だが、大神はがっちりと自分を抱きすくめていて、できなかった。
(今は、堪えてくれ。かならず、花組の仲間たちを全員助けだして見せるから。それまでは、不用意に京極を誹謗したりせずに、何もかも諦めたふりをしていてくれ。頼む…)
吐息だけの言葉からは、声音すら伺うことができなかった。先ほどまでの、人にもとる畜生のような大神の行為との落差に、マリアは混乱した。
(誰も信用するな)
カンナの声が耳の底にこだました。大神を信用するなと言うことか。それとも…?
 戸惑うマリアを、レニの、乾いた氷のような蒼い瞳が見つめていた。監視されている。まさか…?
 大神が、ぎゅっと腕に力を込めて、抱きしめてくる。



 私は誰を信用すればいいの?誰が私を騙しているの…?

 マリアは虚空に向かって何度も問いかけたが、答えはどうしても見つからなかった。






《了》






す、すいませんバカなこと考えて;;



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