流砂の呪縛(前)


 太正十五年の元旦が明けた。
 新年の挨拶を終え、仲間たちはそれぞれの家族や知人のもとへ帰っていった。かえではレニを連れて初もうでに、米田は軍関係のお偉方に年始の挨拶まわりに出かけていった。

 カンナは、怪我を理由に沖縄行きの船をキャンセルした。
 医務室で意識を取り戻したカンナは、寝惚けて階段から落ちたの一点張りで、不機嫌そうに他の一切の口をつぐんだ。
 正月休みの過ごし方について、マリアは花小路伯爵のところに年賀の挨拶に行こうと考えていたが、もう、とてもそんな気にはなれなかった。澄み渡った帝都の空を自室の窓からぼんやりと見上げながら、今の自分がその下にあまりにもそぐわない、異質なものに感じられた。


 長い間、マリアにとって生きることは苦痛だった。破滅を望み、ただその時だけを待ちながら、手のひらを覆う手袋に常に罪を思い起こし、自分を愛せず、呪いつつ日々を重ねてきた。
 そんなマリアに、生きることの喜びを教えてくれたのが大神だった。彼とともに戦い、支えあい、大切に思う相手がいることの幸せをマリアはようやく味わった。
 その大神が、今自分を愛し、支配している。マリアが逆らえるはずがなかったのだ。
 おもに日中の、一人で理性を保っている時は、病み爛れた今の自分を恥じ、激しい自己嫌悪に駆られることもあった。自分がこのままどうなってしまうのか、それを考えると冷たい恐怖が襲ってくる。が、一度大神の姿を眼中に捕らえると、そんな正気は吹き飛んだ。
 何も考えなくて良かった。何も背負わず、大神にもたれ、身を委ねていればよかった。未来への希望もないかわりに、罪深い過去もなかった。大神の腕の中でだけ、無力なただの女として、何もかも忘れることができた。真実マリアを魅了したのは、五体を押し流す快楽の波でも、暖かい人肌のぬくもりでもなく、自分が自分でなくなる、その忘我の時間かもしれなかった。


 あの時、騒ぎに起きだした面々を、大神がとりまとめ、負傷したカンナを抱いて医務室に運んだ。思いもよらない事態に錯乱しかけた自分をなだめ、昨夜もずっといっしょにいて、罪の意識に苛まされる自分を支えてくれたのも大神だった。
(マリアは、俺が守るよ…)
(だから、何も心配しなくていい…自分を責めなくていいんだ…。つらいなら、俺が罰を与えてあげるよ…)
(愛してる…マリア…もう離さない…俺のものだ…俺の…)
抱きすくめられ、一晩中囁かれつづけた言葉。新しい傷ににじみ出た鮮血を舐める熱い舌の、甘い、とろけるような痛み。
 愛撫が濃厚であるほど、適度な痛みは甘美に感じられ、そのあとの高まりは激しいものになった。縄のように身を拠りあわせ、疲労の海に死んだように漂いながら、それでもふと脳裏を不安がよぎる。今自分がいるのは、苦渋に満ちた天国なのか、悦楽の地獄なのか。


 突然のノックの音に淀んだ静寂が破られた。
「マリア、あたいだよ。ちょっといいか?」
寝間着姿のカンナが、ぶすっとした顔で入ってきた。鉢巻きのかわりに頭に巻かれた白い包帯が、眼に痛々しい。
「カンナ…ご、ごめんなさい…。帰省できなくしてしまって…」
いたたまれずに、マリアが俯いた。
「傷が痛えから残ってんじゃねえよ。おまえと隊長を二人っきりになんかさせられるかってんだ。危なくってしょうがねえや」
むっとしたように、カンナが答える。やっぱりそうだったのか、その話か…マリアは気が重くなった。
「お願い…隊長の事を悪く言わないで…そんな、あなたが心配するようなことは…何も…」
「マリア!いいかげんにしろよ!」
たどたどしい言葉を遮って、おもむろにカンナが怒鳴りつけた。
 剣幕にたじろぎながら、マリアはこんなことでカンナと言い争いたくなかった。カンナの言うことが正しいとわかっていたからだ。かといって、それを認めてしまえばおしまいだった。マリアは必死で抗弁した。
「本当よ…隊長が助けてくれたの。あなたが死んでしまったのかと思って…あなたに怪我をさせて…、私、気が狂いそうだったわ…。でも、隊長が…支えてくれたの…。隊長のおかげで、正気を保てたのよ…」
「おまえのどこが正気だよ!そんなふうに痛めつけられて、いやだとか思わねえのかよ!」
「いやだなんて…だって…隊長が…」
「隊長、隊長…!おまえはどこへ行ったんだよ!ええっ?なんてザマだい!帝国華撃団花組の、副隊長マリア・タチバナは、どうなっちまったんだよ!」
頭ごなしに叱咤するカンナから、マリアはふいと眼をそらした。
「…いいのよ。もう。私がなんだっていうの?真面目ぶって、肩ひじはって、でもその実はただの人殺しの、血まみれの女だわ」
「そんな言い種、おまえらしくねえよ!」
「私らしさって何よ。そんなものいらないの…」
拗ねたようなマリアの口調に、カンナが詰め寄った。
「目を覚ませよ、マリア!」
マリアの金髪をわしづかみ、腕を捻りあげる。
 大神でさえ、こんなふうに乱暴に扱いはしないと思い、痛みに喘ぎながら、素手のマリアが膂力でカンナにかなうはずもなかった。壁に肩を抑えて押しつけられ、あっという間にコートを剥ぎ取られる。ブラウスのボタンが弾け飛び、あふれ出た白い胸が揺れ、生々しい傷痕が白昼の光に凄絶にさらされた。
「よく見ろ!ええっ?!鏡に映った自分をよく見てみろよっ!」
強い、長い指がマリアの頭に食い込み、鏡に打ちつけんばかりに向き直らせた。
「これが愛してる女にすることかよ!」
「は…はなしてカンナ…痛いわ…」
「いいかげんにしねえと死んじまうぞ!」
「いいの…だって…だって、私…し、幸せなんだもの…隊長に愛されて…隊長が…私なんかを…」
ぱあん!と、鼓膜の破れるような音がして、マリアの頬を平手が見舞った。
「馬鹿っ!」
大神に叩かれたより、ずっと痛かった。本気の痛みだった。
「この…マリアの大馬鹿やろうっ!」
再度叩こうとしたカンナの手を、堅く骨ばった手が掴んで止めた。
「やめろよ、カンナ」

「ひどいことをするなあ…。大丈夫かい、マリア、痛かっただろう?」
いつのまに入ってきたのか、大神がカンナの背後に立っていた。
「けっ!てめえに言われたかねえよ!」
カンナが手を振り払うと、大神はマリアを庇うかのように、間に割って入った。
「俺のマリアを虐めると、たとえ君でも許さないよ」
「こっちのセリフだぜ!どの面下げて言ってんだよ!」
「この傷なら、ちゃんと手当てもしてあげたよ。ねえマリア、昨日塗ってあげた薬はよく効いただろう…?」
「は、はい…」
別人のようにおどおどとマリアが答える。
「薬…?」
「海軍特製の傷薬さ。塗る時はちょっとひりひりするけどね」
意味ありげな抑揚にぞっとする。
 見た目は今までの大神となんら変わるところのない、カンナのよく知っている隊長の姿である。とぼけたようなおだやかな笑みと、マリアをなぶるような口調が、あまりにも結びつかなくて、カンナは悲しくなった。
「隊長…お願いだ、もとの隊長に戻ってくれよ…。本当にマリアのことを思ってるんなら、こんな、傷つけるようなことはしないはずじゃないか。あんた、それでよく愛してるだのなんだのって言えるな」
訴えるようなカンナの眼差しを、大神が平然と見返した。
「愛してるとも。俺だって、いろいろつらいんだよ」
背後に隠すようにしていたマリアの手を引いて抱きよせ、指の背でそっと頬を撫でる。それだけでマリアの眼が切なげに伏せられる。
「マリアが困ってる…悲しみにくれ、涙を流して…眉を寄せて苦痛に耐える…、その顔を見ると、俺の胸がきりきりと突き刺されるように痛むんだ…。かわいそうで…でも、それがたまらなく美しくて…愛おしくて…」
「そーゆーのをヘンタイって言うんだぜ。世間じゃよ」
気持ち悪そうに、カンナが言い捨てた。
「ちゃんとマリアが喜ぶこともしてあげてるよ。そうだよね、マリア」
「あ…あの…」
頬を赤らめるマリアの肩を抱いて、カンナの方に向ける。
「マリアのことは、俺が一番よく知っているんだから。君なんかよりね」
背後からまわした手が、咄嗟に遮ろうとしたマリアの手をくぐり、はだけられたブラウスの胸元に差し込まれた。薄い布のあやしい蠢きが、その下でどのようにマリアの胸が弄ばれているかを如実にものがたり、直接眼にするよりもはるかに淫縻な印象を与える。
「た…隊長…どうか………あっ…」
羞恥に耐えかね、かろうじて声を絞りだしたマリアの耳を、大神の唇が捕らえ、小さな悲鳴をあげさせて黙らせた。菓子でも食むように口に含んでやわらかく噛みつづけると、がくりと膝が折れ、壊れた人形のようにマリアは動けなくなった。究極の美女ガラテアの彫像を褥で愛撫するピュグマリオン王さながらに、大神がこわばったマリアの体をうっとりとまさぐり続ける。忌まわしげなカンナの視線に全身を切り刻まれ、血が吹き出すような胸の痛みに苦しみながら、耳孔に注ぎ込まれる吐息と舌先に自由を奪われ、マリアは恥じてみせることすらできなかった。
 為すがままになっているマリアを見せびらかすように、大神が得意げに微笑んだ。
「君は経験したことがないからわからないだけさ」
「知りたかねえや、そんな胸くそわりいこと…!」
汚らわしい、というように、カンナが身を震わせる。
「じゃあ、君が同じ目にあって、気持ちよかったらどうする?もう文句は言わないかい?」
「同じ…って…あ…あたいが?!」
「それでもどうしてもわかってもらえないんなら、俺も考えるよ。二度とマリアには指一本触れないと約束してもいい」

「なんであたいがそんなことしなきゃいけねえんだよ!ふざけんのもたいがいにしろってんだ!」
「や、やめてください、隊長…!カンナは関係ないじゃないですか。私になら何をしてもいいですから、カンナには…」
大神の提案の意味が浸透し、カンナが真っ赤になり、マリアは真っ青になって叫んだ。
「大丈夫。俺はカンナには触わらないから。そのかわり、君がやるんだよ」
「は…?」
「俺が、夕べ君にしてあげたのと同じことを、カンナにしてあげてよ。君は喜んだはずだろう?同じ喜びをカンナに教えてあげなよ」
「おいっ!寝言は寝て言えよ!」
「そんな…そんなこと私、できません…!」
二人で同時にうろたえる様子に、大神が面白そうに言い返す。
「さすがに俺がやるわけにはいかないだろう?君だってやめろといったじゃないか」
「で、でも、それは…」
「じゃあ、俺がやったほうがいいのかな?」
「………」
マリアは絶句した。大神が、自分の目の前でカンナを抱き、戒め、責め苛む…。想像しただけで、おぞましさに背筋が凍る。
「けっ、やってらんねえよ!勝手にもめてな」
不快そうに、ぷい、と顔をそむけ、カンナが出て行こうとした。
「じゃあ、君ももう俺たちのことに干渉しないでくれよ。大体、不粋じゃないか。女の友情だかなんだか知らないけど、男女の関係に口を挟むなんて大きなお世話だよ」
「…なんだとお!?」
歩を止めて振り向いたカンナが、肩に怒気をはらませる。
「だってそうだろう?わかりもしないのに。おせっかいもいいところだ」
かっとなったカンナの視線が、嘲笑うような大神の眼と交わって、火花を散らす。
「…本当に、二度とマリアを虐めないんだな?」
「俺も男だからね。花組隊長の名にかけて誓おう」
「へん!おもしれえ、やれるもんならやってみやがれってんだ!!」
引きむしるように帯を解き、乱暴に寝間着を脱いで床に叩きつけた。
「か…カンナ…」
うろたえるマリアを尻目に、赤銅色に輝く肌をさらして、カンナはベッドに大の字に体を投げ出した。
「さあ、どうすんだよ!」
挑むようにカンナが睨みつける。
「頑張ってね、マリア。俺は約束しちゃったんだから。もう二度と君を抱いてあげられなくなっちゃうよ」
マリアの手にいつも使う紐を握らせ、破れた服がだらしなく引っ掛かった肩を、大神がぽん、と叩いた。

 

《後編へ続く》

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