その男の朝は早い。男は明方が好きだった。朝は静寂で、朝は清らかだ。誰も彼の思考を邪魔しない。鬱陶しい同僚は数時間後には顔を合わせなくてはならないが、今は彼だけの時間だ。
ここは独逸。黒い森の中にたつ無機質な研究所である。男はそこに働く研究者のひとりであった。
男は古いレコードを手に取り、蓄音機にかけた。針が黒い面を滑る…静かに流れる曲はワーグナーだ。
男はしばしの陶酔に浸った。
それから男はいつもの儀式を始める。まず、顔を洗う。そして鏡を覗きこむ。鏡の中には27才という年齢の割には老けた覇気の無い顔…そしてその顔の広域を占める醜い痣を触ってみる。今日も痣はいつもと同じように赤黒く、顔に広がる範囲は1mmも狭まっていない。その少し盛り上がったザラザラとした感触を感じ、男はいつもどおりの劣等感と対面し、いつもどおりレコードの音量を少し上げた。
いつもどおりの劣等感、いつもどおりの冷え切った心。そしていつもどおりの鬱陶しい一日の始まりだ。
けれども其の日は、いや其の日からはいつもと違う日々の始まりだった。




「階段ノ上ノ子供」

夏野 遥 (はるる)






階段の上の子供に僕は話し掛けることができない。ただ泣くことができるだけだ。

         谷川 俊太郎




「この子の名はレニという、他の研究所から預かってきた新しい素体だ。とても優秀な資質の持ち主で我々はこの子に多いに期待している。…そして君の努力如何で、この子は我ら独逸の将来にさらなる希望の光を与えてくれることだろう。そして君の未来にもな。」 そう言って、この研究所で一番権威を持つ老博士は男に一人の子供をみせた。子供は5才ということだが、同じ年頃の子に対して背も小さく、体はか細く瘠せていた。短い髪は銀髪で、顔はおそろしく整ってはいるが、その深い蒼い目は何も映していないようだった。
男は内心ほっとした。初対面の相手は、誰もが男の顔の醜い痣をじっと凝視した。もちろん人々の凝視する時間はまちまちであったが、男は長年の経験から人が自分の醜い痣を眺める間合いさえ感じることができた。そして他人が考えることも、すべてと言っていいほど予測することができた。
…同情、憐れみ。疑問。そして優越感。
男はそういった感情にぶち当たるたびに、己の痣を呪い、こんな痣をつけて生んだ己の母親を憎み、母を憎む己の弱さを憎んだが、最近ではそういった自分にも疲れてしまい、ただただ研究に没頭し、国の将来に貢献し、不動ない立場を築く己を夢みる日々であった。多少の劣等感を抱えつつも…。
しかしこの子供には、男の痣などまったく関心が無いようだった。そして実際、男の夢を易々と叶えてくれそうな優秀な資質を持つ素体でもあった。

…男はこの子供に夢中になった。

当時この研究所にはレニを入れて幾人かの子供がいたが、他のどの子供もレニほど期待されてはいなかった。
どの子供の精神も、度重なる実験に耐えきれずに狂い、ひとり、またひとりと冷たい骸になっていく。もう慣れてしまったことだとはいえ、それは男の心に暗い影をおとした。 しかし死にゆく子供たちのために、男は心を痛めたのではない、なぜならその子供たちは、男の管轄外であったから。男にとって心配だったのは、この余りに報われない成果に交戦中で疲弊しかけている国が愛想を尽かし、このプロジェクトから手をひく可能性についてだった。

ヴァックストゥーム計画・…最強の霊力をもつ戦闘機械・…人間を創る計画。しかしその計画は、その困難さゆえに常に頓挫する危険性を孕んでいた。

そして男がレニの担当になってすでに三回目の秋が巡り終わり、もうすぐ長く厳しい冬が来ようとしていた。

男とレニの相性は良かったらしく、レニは男が望んだ結果を、どんな実験、訓練においても容易くクリアしてみせた。ただ、国に差し出すにはこの子供はまだ、余りにも幼なすぎて、国の期待する時期までに完璧な戦闘機械に作り上げることは難しい問題ではあった。

その噂が流れたのはちょうどそんな時期であった。
…政府がこの研究所を閉鎖するらしい…。
それは最も男が畏れていた事態であった。他の職員は真相が判らない噂話に内心の動揺が隠せないらしく、寄ると触ると隅に集まり、同じ話を何度も繰り返していた。果たして噂は真実か否か。男にとっても気になる問題ではあったが、顔にはおくびにもださず、いつもの実験を繰り返した。男にとって動揺を隠すことは簡単だった。
男が本心を隠すのは、幼い時からの習性みたいなものだ。
男は醜い痣を隠せない代わりに、その心は誰にも見せようとはしなかった。だからそんなことは容易いことだった。
…けれどもこの時の男は違った。

その日男はレニが横たわる検査室を訪れた。無菌状態に保たれたそこは、常に白衣を着ることが義務づけられていたが、その時男は普段着のままだった。なぜならもうとっくにその日の検査内容は終わっていたからだ。
けれどもレニは検査室のベットに横たわったままだ。もう一刻もすれば身の回りの世話をする者が、ようやく自分の仕事を思い出して、慌ててこの子を素体専用のベットルームに連れて行くだろう。けれどもレニの場合は他の素体に比べて、まったくと言っていいほど逃げる可能性が無い。…ただうつろに宙を眺めているだけの子供。こんな状態で一体いつまで持つのだろうと当初は返って心配になるほどであったが、実際レニは訓練時、実験時の時は目を見張るような優秀な成績で、課題を成し遂げていく。それほどまでにレニは優秀で、それほどまでに機械に近かった…。だから誰も返って気にも留めない。今もレニは、検査時のまま、全裸でベットに横たわったままだった。

男はレニのベットまで近づくと、おもむろにその冷たい体の固い乳房を掴んだ。…男の言うことに従順に従うように命令されているレニは、逆らったりはしない。未発達な体の、お世辞にも発育がなっているとは言えない胸を掴まれて、痛くないはずはないはずだ。 …しかしレニは何も言葉を発しない。喋れない子ではない、喋れとは命令していないので話さないだけだ。…痛い筈なのに。

「イタイハズナノニ コトバヲハッシナイ」
突然、男の頭の中で声が聞こえてきた。
「イタイハズナノニ コトバヲハッシナイ」

…ああ同じだ。と、男は思った。何に?誰かが問うたような気がした。


「1917年・冬」

その年のクリスマスの日は、一際寒さが際立っていた。
それでも人々は神を祝い、そして春の訪れを待ち望み祭りをとりおこなう。こんな偏狭な土地でもその気持ちは変わらない。いや、田舎であるからこそ人々は運命の過酷さを知っていて、神に感謝の気持ちを忘れない。
研究所近くの村の広場には、大きなモミの木が立てられ、色とりどりのオーナメントで飾り付けがなされた。周りにはクリスマス市が立ち、所狭しと多くの出店が軒を連ね、パン菓子や飾りを売り、道行く村人たちの目を楽しませている。
研究所内はいつもとさして変わり無かったが、閉鎖の危機が噂にすぎなかった今、職員は落ち着き、どこかしら安穏とした空気が漂っていた。
そして職員達はクリスマス休暇を貰い、この重要ではあるが陰気で孤独な仕事としばしの別れを告げた。
もちろん何人かは研究所内に残ったが、男のような家族と連絡を絶っている者か、家族がない者ばかりであった。

その日の夜、男は村にレニを連れ出した。
男はレニに、自分のお古の厚いダッフルコートを着せ、頭にすっぽりとフードを被せた。レニは数える程しか外に連出してもらった経験はないというのに、特に反応もなく、手に雪をのせ、溶ける様をなんとはなしに眺めている。
男はそんなレニの左手をしっかりと握り締め、多くの人が行き交うクリスマス市の中を人にぶつからぬよう細心の注意を払いながら、けれどもただ無闇に闇雲に、ずかずかと歩きまわった。
雪降る中、身体に合わない大きめのコートを着て、ずるずると裾を引き摺って歩く子供と、そんな子供の手を繋ぎ、出店も冷やかさずに足早に歩きまわる男は、村人の興味を引かないはずも無いが、人々はそれぞれの幸福を享受するのに夢中になっており、滑稽なふたりの様子に気づく者は僅かであった。
男自身、なぜこんなとこまでレニを連れて来てしまったか、人に問われても答えることはできないだろう。
たとえ研究所の人間に見つかって詰問されたとしても、男にはこんな陳腐な言い訳しか思い付かなかった。「この子の誕生日のお祝いに。」…お笑い草だ、男は自分の言い訳に苦笑いを浮かべた。
それでもそのために自分の命さえ左右するようなことを今、自分は犯しているのだ。その動揺は男の態度に出てしまっていた。かといって今更、回れ右をして研究所に戻る訳にもいかず、男はいらいらとその辺を歩き、いっそ早く深夜になって、闇に紛れて研究所に戻れないものかと、信じてもいない神にさえも祈っていた。
 
と、その時引き摺られるように歩いていたレニがふと立ち止まった。レニの視線を男が辿っていくと、そこには一組の家族がいた。
父親は仕事先に戻るらしく、蒸気自動車の運転席から窓を開け、家族に何事か話し掛けている。レニと同じぐらいの年頃の少女を傍らにした妻らしき婦人は、そんな夫に目に涙をため、別れのキスを交わしている。
それから婦人は、娘を抱き上げた。同じように娘も父親の両頬を小さな手で包み、右頬に愛しげにキスを交わす、やがて窓は閉まり、車は轍を残しながら名残惜しげに広場を離れた。
男がレニに視線を戻すと、すでにレニはその家族から興味を失っており、彼女の目はいつもどおり何も映していなかった。ちょうど0時を知らせる教会の鐘が鳴り響き、男はレニを連れ足早にその場を離れた。

男とレニの小さな逃避行は終わり、年が明け、また同じような日々が始まった。相変わらず実験は順調であり、男は有望な自分の人生に思いを馳せることに埋没した。

しかしあっけなく、蜜月は終わりを告げた。大戦で独逸が敗れ、賢人機関にこの計画が知られてしまったのである。後に「ブレーメン・ブラッド事件」と呼ばれる出来事である。それまで極秘事にしていた計画は、世界の指導的立場であったこの機関に反感を買い、大戦後、正義の剣の名のもとに、研究所は解体されることになった。
男にとって、解体は自身の死にも近しいことであった。多くの同僚は大人しく命令に従い研究を放棄したが、男はレニを連れ、研究所の奥の部屋に隠れた。男は開いている大きな棚にレニを押し込め、自分も入りこんで息を殺した。男とレニは必然的に暗く狭い棚の中で互いを抱き締めあった。お互いの心臓の音が聞こえ、男は思った。まるで胎児のようだと。
レニの小さな心臓はこんな時でも、規則正しく心音を刻んでいる。柔かく優しい音だ。身体は冷え切っているが、細い首に両手をまわすとじんとした温かさが伝わってきた。
男は両手に力を込めた………。

「おやめなさい。」
女の声がした。見ると部屋は明かりが点けられ、男は数人の兵士に囲まれた。服装から察するに賢人機関の人間達らしい。先程の女がリーダーらしく、凛とした様子で男を睨み付けている。栗色の髪をした美しい女…東洋の女だ。
「この研究所は、昨日をもって解体されました。以降、ここは堅人機関により管理され、すべての研究は凍結されます。これから、すべての職員はこちらの指示に従って頂きます。」
女の声が部屋中に響き渡った。男は動かなかったが、力も弛めなかった。そしてレニもまったく抵抗しなかった。
女はこの光景を見ても、凛とした姿勢を崩さなかった。ただ一言、優しく言っただけだった。
「レニ、あなたは堅人機関の管理下に置かれたわ。さあ、こちらにいらっしゃい…。」
そのときレニは力なく落していた両手持ち上げ、男の両頬に添えた。蒼い瞳が男の目を覗き込む。瞬間、男の力が緩まった。次の瞬間、レニは醜い痣が残る男の右頬に掠るようなキスをした。頬に温かさを感じ、男は両手を首から解き、ガクリと膝を床についた。
…頬の一瞬の温かさは、いつの間にか流していた男自身の涙でさらに清められた。

「これからどこに行くの?」
大型の蒸気自動車は山道でもあまり揺れない。レニは女に問うた。女は答えず、
「少しおやすみなさい。」
とだけ、優しく微笑みながら言った。
レニは指示されたとおりに女の膝の上に頭を載せた。すると女は優しくレニの頭を何度も撫でた。
変わった女だとレニは思った。研究所の男とは違い、白衣ではないし、常に微笑んでいる。これから行く場所も彼女のような人間ばかりがいるのであろうか。もしそうであったら……。

今度は長い旅になるかもしれない。

レニは目を閉じた。
 






FIN.








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