この熱き思い
今日は朝から記録的な暑さだった。 かいた汗がじゅわっと蒸発しそうな熱気だ。この暑さに、さしもの休日の銀座の街も、人影がまばらである。ぎらぎらと照りつける太陽のもと、街灯の短く濃い陰が、陽炎に揺らいでいるだけだった。 「ふ〜。まったくたまらないな…」 ぱたぱたと顔を扇いでも、熱風が降りかかるばかりで、俺は早々に団扇を放り投げた。花組のみんなも、この暑さにはずいぶんまいっているようだった。中でも一番気がかりな彼女の様子を見に行くため、俺はゆるめたネクタイを締め直した。 「マリア、俺だけど、いいかい?」 ノックをすると、中から力無い声が帰ってきた。 「…はい…どうぞ…。開いてますから…」 俺の心配は適中した。 マリアは机の前の椅子に、まるでくたびれたコートのようにぐったりともたれかかっていた。唇をわずかに開け、瞳を半ば閉じ、額には細かい汗の粒がガラスの粉のように光っている。 「ああ…隊長、すみません、だらしない格好で…」 マリアは、億劫そうに、それでも体を起こしてきちんと立ち上がった。 北国生まれのマリアが暑いのが苦手なのを、俺はよく知っている。なんでも、人間の汗腺の数は幼児期の環境で決まるそうだ。スーツの長袖も、日差しに弱い肌を守るためのものだ。ニューヨークから戻ったばかりだというのに、いきなりこんな猛暑に見舞われて、マリアにはどんなにか負担だろう。ただでさえ、帝都の夏はじっとりと重く蒸すように暑いのだ。 「いや、いいよ、楽にしててくれ。ずいぶんつらそうだけど、大丈夫かい?」 「はい…なんとか…。じっとしている分には…」 マリアはハンカチを取り出して額を抑えながら、喘ぐような声で答えた。乱れた髪が数本、紅潮した頬に汗で張りついている。その悩ましげな様子に俺は一瞬どきっとしたが、慌てて咳払いを一つして自制した。 「こほん…あの、カンナとかはプールにいるみたいだけど、マリアも行ってみれば?少しでも涼しいと思うよ」 「ありがとうございます…。でも、私…その…」 マリアは妙に口ごもった。 「いえ…とにかく、あまり動きたくないんです…」 これは重傷だ。俺は自ずと腕組みをしていた。マリアにしてみれば、一歩部屋を出たら、毅然としていなければという気負いもあるのだろう。 なんとかしてあげたい。せつなげに眉を寄せながらも、どこかあきらめたようなマリアの表情に、俺の頭はその思いでいっぱいになった。俺が肩代わりしてやれるなら、こんな暑さくらいいくらでも代わってあげるのに…。 「そうだ、何か冷たいものでも持ってきてあげるよ。かき氷がいいかな?」 「かき氷…ですか?」 「あれ?マリアは知らないかい?氷を削って、甘いシロップをかけるだけなんだけど、こんな暑い日には最高だよ」 マリアは弱々しく微笑んだ。 「それは…涼しそうですね…本当に、お言葉に甘えてもいいですか…?」 「もちろん!」 もっと俺に甘えてくれよ。俺は少しでも君の支えになりたいんだ。喉まで出かかった言葉を俺は飲み込んだ。今ここでそんなことを言ってもマリアの暑苦しさを増すだけだ。 「ちょっと待っててくれ。今つくって来てあげるよ」 「ありがとうございます、隊長…お待ちしています…」 マリアのうれしそうな顔に見送られ、俺は意気揚々と部屋を出た。 「はあ?氷かいな。すんまへんなあ大神はん。今ウチとアイリスで使うてしもたわ」 厨房の蒸気冷蔵庫の前で、紅蘭がハンドル式の氷かき機を片づけながらすまなそうに言った。その後ろで、アイリスがいちご色のシロップの瓶を持って無邪気に微笑んだ。 「冷たくてすっごくおいしかったよ、お兄ちゃん。もうちょっと早く来たら、お兄ちゃんにも作ってあげたのに」 「いや、俺はいいんだけど…全然残ってないのかい?」 「もう1〜2時間したら次の氷ができるさかい、ちょっと待っとってや。せやけど、この暑さじゃあもうちょい時間がかかるかもしれへんなあ」 俺は途方に暮れた。その時間を待たされるマリアをのことを思うと、胸がキリキリと痛んだ。 「そや!この氷かき機をちょいと改良して、ウチが自動かき氷製造機をつくったるわ!瞬間冷却装置をつけて、水を入れるだけであっというまにかき氷が…」 「あ、いや、遠慮しとくよ。ちょっとその辺まで氷を買いにいってくるから」 このクソ暑い中、爆発に巻き込まれるのはごめんだ。俺は、爛々と眼を輝かせる紅蘭から逃げるように、厨房を後にした。 「う…」 帝劇の玄関に立つなり、俺は思わず尻込みをしてしまった。 頭上からの直射日光は、まるで刃物のように突き刺さり、じりじりと肌を焦がした。オーブンの中にでも入ったような気分だった。 「えい、マリアのためだ!」 俺は気合いを込めて階段を降り、日影を選びながら銀座の街を築地方面に向かって歩いていった。 「すまねえな兄ちゃん、今最後の氷が売れちまったよ」 「この暑さでしょう、もう朝から飛ぶような勢いで…」 当たりをつけていた氷屋は全滅だった。ある程度予想はしていたので、俺は魚屋に出くわすたびに分けてくれるよう頼み込んだ。 「だめだめ。こっちは商売かかってんだ」 「固まりで、かい?ちょっとそれだけの余裕はないねえ」 だが、あいにく帰ってくる返事は芳しくない。俺はだんだん焦り始めた。 やっと1軒、最後の氷を売ってくれる店に行き当たったが、俺が財布を出したとたん、背後に疲れた顔の女性が立ち、言った。 「あのう、氷、残ってませんか?子供が熱を出して…氷枕をつくってやりたいんですけど…」 俺は固まった。 (マリア…ごめん!) ぎゅっと眼をつむり、胸の中で手を合わせて詫びる。ここで押して氷を手に入れても、マリアは喜ばないだろう。そう思って、俺はすごすごと炎天下の路上に戻った。 気がつくと、思ったより遠くまで来てしまっていた。これ以上足を延ばすなら、戻って冷蔵庫に氷ができるのを待つ方が早いかもしれない。あまりの暑さに、喉はからからで、頭がぼうっとなりそうだった。汗で背中に張りついたシャツが不快感を倍増した。 「くそおっ!何やってんだ俺は!」 いらいらするあまり、思わずヒステリックに叫んでしまった。だが、路上に人気はなくとも俺は瞬時に恥ずかしくなった。暑いのはマリアだって同じだ。マリアが俺のかき氷を待ってるんだ。こんなところで根を上げてたまるものか。 あと1軒だけ行ってみよう。俺は顔をあげ、汗を拭って歩き出した。 「そこの小さいやつでいいなら持ってきな」 暑さにもめげずきびきびと働く威勢のいい魚屋の親父さんが、顎でさした氷の固まりは、俺にはダイヤモンドのように輝いて見えた。帰るまでに溶ける分を差し引いて、ようやくかき氷が一皿つくれるくらいのわずかな量だったが、俺は繰り返し礼を述べ、その固まりを新聞紙にくるんでもらった。 氷の入ったブリキのバケツを下げて大通りに戻ると、目の前の停車場から蒸気鉄道が出ていったばかりだった。 「おおい!待ってくれ!」 大声で叫んだが、車両は虚しく遠ざかっていく。あきらめて眺めた時刻表に俺は愕然とした。休日の昼間のダイヤはあまりにもスカスカだった。 (とても待っていられない…) こうしているうちにも、氷は灼熱の太陽の下でじわじわと溶けだし、バケツの底に水を溜めている。 俺はバケツを抱えて、炎天下の歩道を走った。 熱風を吸い込んだ肺は燃えるようだった。 (マリアが、マリアが待ってるんだ。マリアにかき氷をつくってやるんだ…!) 体中がぼうぼうと火を噴くような暑さの中、俺を走らせたのはその一念だった。 (お待ちしています、隊長…) マリアの弱々しい微笑みが浮かぶ。君を少しでも涼ませてやりたい。今行くよ、マリア。待っててくれ。 目の前が真っ赤になって、何がなんだかわからなくなった。どこをどう走ったのかも定かでない。 それでも、どうにか前方に見えてきた大帝国劇場の建物に、俺は無我夢中で飛び込んだ。 「大神はん、どないしはったん?えらい息せき切ってはるなあ」 「こ、氷、買って、来たんだ、氷かき機を貸してくれ…」 這うようにしてたどり着いた厨房で、俺が掲げ持ったバケツをのぞき込んだ紅蘭は、無慈悲な声で言い放った。 「あちゃ〜〜こりゃあかんわ。ほとんど溶けてはるで。かき氷つくるには足らんのとちゃいまっか?」 「え、ええっ…?」 かき分けた水浸しの新聞紙の中から出てきたのは、手のひらにちょこんと乗るくらいの小さな氷のかけらだった。 「そ、そんな…」 俺はその場にへなへなと座り込んだ。 「大神はん、安心してや!ちょうどウチの大発明、自動かき氷製造機『ひえひえくん』が完成したとこや!これで今すぐかき氷つくったるで!」 紅蘭が取り出した、氷かき機に手足のついたようなアヤシゲな装置を前にしても、俺は退かなかった。 「た、たのむ、紅蘭、つくってくれ、かき氷…」 俺は藁にもすがる思いだった。 「よっしゃ!ウチにまかしとき!行っくで〜〜!スイッチオン!」 水道のぬるまった水をそそぎ込むと、『ひえひえくん』はうなりをあげて震え、おもむろに雪片のような氷をシャカシャカと吐き始めた。 「やった!大成功や!」 「ありがとう、紅蘭!助かったよ!」 俺はふらふらしながらも鉢を取りだし、ひと盛りの氷を受けた。 「これが科学の力や!それにしても大神はん、そんなにかき氷が食べたかったんかいな…」 得意げな紅蘭の前で、『ひえひえくん』は突然プシュプシュと黒い煙を吹きだした。 「うわっ、ま、まさか!」 爆音が厨房に響き渡った。 「マリア、遅くなってごめん。かき氷、持ってきたよ」 「ああ、隊長…待ってたんです。ありがとうございます」 俺は黒こげになった背中を見られないように注意しながら部屋に入り、我が身を呈して守った氷の鉢を差し出した。 足つきのガラス鉢は涼しげで、雪を盛ったようなような氷の白さに、いちご色のシロップが鮮やかに映えていた。 「素敵…おいしそうですね。いただきます」 マリアは銀色の匙ですくって、氷を口に運んだ。 俺はごくりと喉を鳴らして見守った。 マリアが、結んだ唇をほうっと開き、うっとりと眼を伏せた。 「つめたい…生き返るようです。ありがとうございます、隊長」 マリアの、しみじみとしたしあわせそうな声に、俺はすべてを忘れた。暑さも、乾きも、疲れも。 マリアはゆっくりと匙を動かし、一口ずつつめたさを噛み締めるようにして、かき氷を食べ終えた。やがて、チリン、と匙をおくと、マリアはいくらか生気の戻った顔で、俺を見てにっこりと微笑んだ。 「隊長、とてもおいしかったです。また作ってくださいね」 (また作ってくださいね) (また…) (また…) マリアの声がエコーとなって響く中、俺の脳裏に、忘れていた暑さと疲労が一気によみがえって渦巻いた。 わかっている。マリアの心からの謝礼の言葉だということを。だが、今一度再現された暑さの記憶に、俺の意識はぐらりと暗転した。軽い熱射病を起こしていたのかも知れない。煮詰まった泥のような体が床に沈んでいくのを、俺は他人事みたいに感じていた。 「隊長!?どうなさったんです!大丈夫ですか!?」 どこかでマリアの声がする。ああ、君の手は冷たくて気持ちがいいなあ。俺はもう暑さを感じていなかった。 愛しいマリア、大丈夫だよ、心配しないで。君のためなら、俺はなんでもしてあげるよ。このくらいどうってことない。何度でもかき氷をつくってあげるから。何度でも…。
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