氷の星








 氷!
 真冬の川面に打ちつけられたマリアには、水は氷にしか感じられなかった。工場の3階という高低差がもたらす衝撃。ごうごうと音を立てて耳と鼻を塞ぎ、体を縛る氷河。
 マリアは無我夢中で手足を動かし、氷ならぬ水を掻いた。浮上しようとしてようやく状況を思い出し、どうにか理性を取り戻す。上がってはいけない。飛び降りた窓から、あのパトリックという男が様子をうかがっているに違いない。少しでも遠ざからなければ。
 だが、着衣のまま水中を進むというのは、ただでさえ泳ぎの不得手な彼女には至難の業だった。あっという間に息が続かなくなり、マリアは観念して水面に顔を出した。

 宵闇に僅かな月明かりがあるだけで、周囲の様子はよくわからなかった。マリアはただ必死で岸まで泳ぎ着き、這い上がった。
 汚れた水の匂いが鼻をついたが、どうでもよかった。冷え切った体に激痛が走り、傷を負っていることに気付く。こめかみから流れ出た血が目に入り、一瞬視界が紅黒く染まった。
(立ちなさい!立つのよ、マリア!)
 己の厳しい叱咤にようやく持ち上がった上体を、金属音とともに銃口が取り囲んだ。
「マリア・タチバナだな」
 英語だった。数人の男。薄暗い上に逆光になっていて、顔は見えない。しかしそのシルエットは、先ほどマリアが黙らせてきた、DS社の警備兵のものに間違いなかった。
 マリアは反射的に銃を向けた。撃鉄が濡れてさえいなければ。だが、賭に出るまでもなく、かじかんだ指先は引き金を引くこともできなかった。
 無力な腕が捕らえられ、握り続けていた愛銃がもぎはなされた。
(これまでか…)
 うなだれると、髪の先からぽたぽたと水滴が落ちるのが見えた。マリアは一瞬眼を伏せた。
(すみません、隊長。ふがいない留守居役で…)

 いや、だめだ、諦めるわけにはいかない。マリアは再び眼を見開いた。
 ここで死ぬわけには。自分の見た真実…ヤフキエルの正体を、一刻も早く伝えなければ。今しも織姫が、仲間たちが危険にさらされているのだ。
 だが、傷つき疲れ切った体はさっぱり思うように動かなかった。彼女が兵士たちに引きずられ、黒い蒸気自動車に押し込められるまで、さほど時間はかからなかった。



 車はダグラス・スチュアート社の本社ビルに向かっていた。周囲の町並みにそぐわないほどの近代的な建物だったが、多角形の角の頂点にはガーゴイルが不吉に見下ろしている。最上階の2つのフロアに、こうこうと灯りが点いているのが、車の窓越しに見えた。
 ひと気のない裏口に止まった車から、マリアは深夜のビルの中へと連れ込まれた。
 すぐに自分を殺すつもりのないことに気付いた彼女は、気力と体力の回復に専念していた。だが、銃口を突きつけられて進む無機質な廊下は、そのまま奥深い墓穴のように感じられた。血と水で濡れそぼったコートはぐっしょりと重く、失血のせいで眼がくらむ。

 長いエレベーターを乗り過ごし、引き出されたマリアを、明るい光が包んだ。
 大理石の柱に囲まれた、広々とした書斎。高い天井から下がるシャンデリア。クラシカルなデスクの向こうに立っている長身な男。マリアの全身の筋肉がこわばった。
 それは、先日ニュース映画で見たままの姿だった。ニューヨークで胡乱な噂の背後に常にいた、今の状況の元凶とも言うべき男。
「ブレント・ファーロング…」



「傷つけるなと言ったはずだが」
 血と川底の泥に汚れたマリアの顔を見て、ダグラス・スチュアート社の若き社長は渋面をつくった。
 予期しない言葉にマリアは瞬きをした。睫毛にこびりついた血糊が乾いてがさがさする。
「それが…」
 兵士たちが言いよどむと、どこからともなく、パトリックが影のように現れた。
「君のしわざか」
 一体だけになった人形に気付き、ブレントの冷たい光を帯びた瞳が睨みあげた。
「この女は知りすぎました。生かしておくのは危険です」
 妖術師は即座に答えた。仮面に隠れて表情は見えない。だが、その口調はかすかな苛立ちを感じさせた。

 化け物じみた巨躯を無視して、ブレントはその脇をすり抜け、マリアに近づいた。
 手をのばし、血のつたった跡のある顎を持ち上げる。のぞき込むように顔を寄せられ、マリアは鋭い眼で敵を見据えた。
 ブレントは動じる気配もなく、侮るように微笑んだ。
「美しい顔が台無しだ。傷の手当てと、着替えを。レディをこんな姿のままにしておくのは失礼というものだろう」
 低く響く深みのある声。口調は甘く紳士的だったが、マリアを見るその眼は、獲物を捕らえた狼のように細められていた。


 捕虜が連れ去られると、書斎に残っているのは二人の男と人形だけになった。
「ヤフキエル部隊の方はどうなっている」
「順調です。あの隊員は完全に私の術中にあります」
「ならばいい。行って自分の仕事をしたまえ」
 パトリックのくぐもった声が、一段と低くなった。
「あの女はあなたには似つかわしくない。あんな女は…」
「私のすることに口出しするな」
 ブレントの言葉を聞くと、妖術師のもつれた針金のような黒髪が、風もないのにざわめいた。
「マスター…私ならあなたを帝王の座につけることができる。あなたにふさわしい力を差し出せる。しかし、あんな女が何の役に立つのです。あんな危険な…」
「だまりたまえ」
 威圧的な声がさえぎった。一呼吸の間のあと、ブレントは苦々しげに言い放った。
「君には感謝している。確かに、私がここまでのぼって来られたのは、君の能力があってこそだ。だが、彼女のことは、私の好きにさせてもらう」
 パトリックは命令通り沈黙した。仮面の、洞窟のような眼窩の奥が、ちかりと光っていた。





 その部屋はブレントの私室とおぼしかった。壁の一面は高いガラス窓が並び、帝都の夜景を遠く見下ろしている。一角にはカウンターがあり、ソファ、キャビネット、グランドピアノが、部屋の広さを誇るように、壁に添わない角度で据えてあった。そして大きく豪奢な寝台。天井さえなければ、ちょっとした公園に迷い込んだかのような広々とした空間だった。


 額と喉、腕、指先…白い包帯をぐるぐると巻いた体に、光沢を押さえた黒いドレスで、マリアは立たされていた。深く切れ込んだスリットからのぞく脚の先には、同じく黒のヒールが、高級そうな絨毯を踏みしめている。
 尋問するにしては嫌な趣向だ、とマリアは思った。酔狂だとしても、ことさら女らしさを強調させるからには、当然不愉快な待遇が待ち受けているのだろう。
 両側から腕を捕らえている兵士の、腰にさした銃を、そっと盗み見る。敵の数が少ない今がチャンスだ。
「ああ…」
 目眩を装ってがくりと膝を折る。同時に白い指先が素早くひらめいた。兵士たちがマリアを見た瞬間には、右側の兵士の銃がすり抜かれていた。
「動くな!」
 よどみない動きで兵士のこめかみに銃口をつきつけ、もう一人に向かって英語で言った。
「銃を捨てなさい」
 その時、扉が開いた。


「ほう…思ったより元気そうだな」
 ブレントが入ってきて、特徴のある形の眉を、軽く上げた。
「そこをどいて」
「かまわん。撃ちたまえ」
 軽く笑うと、兵士たちのあるじは悠然と腰の後ろで手を組んだ。
「無駄なことを…私が一兵卒の命を惜しむように見えるかね?」
 マリアはいまいましげにぐっと唇を結んだ。
「はしたない振る舞いはそのくらいにしておきたまえ。せっかく手当てした傷口が開く」
 マリアに視線を据えたまま軽く顎をしゃくる。銃を奪われながら、緑の瞳はその視線をずっと睨み返していた。
「行っていい。私の邪魔をするな」
 兵士たちが去ると、ブレントの後ろで重々しく扉が閉められた。



「よく似合っている。…包帯はいただけないが」
 遠慮のない視線が、頭から足先まで眺め下ろす。
「なんの冗談かしら。パーティに呼ばれた覚えはないけれど」
 マリアは冷ややかに言った。
「ならば改めて招待しよう。私の部屋へようこそ、マリア・タチバナ」
「丁重にお断りさせていただくわ。事務所を通して頂戴」
 優雅に肩をそびやかせてみせると、ブレントはこともなげに言った。
「君の帰る場所は、間もなく消滅する。私のもとにとどまるより他にないのだ」
 マリアは一瞬眉をひそめたが、すぐに皮肉な調子で微笑んでみせた。
「私にここで何をしろと?歌でも歌いましょうか?」
「そのとおり。歌ってくれたまえ。私のためだけに」
 帝都のスタアは少し意外そうだった。
「…光栄ね。あなたも私のファンだとは」


 ブレントは、部屋を横切りながら楽しそうに言った。
「秒殺のマリア」
 マリアは短く息を吸った。
 キャビネットの中から映写機が出てきた。壁のスイッチの操作で、照明が落ち、銀幕が降りてくる。
「君のことはニューヨーク時代から知っている。私がさし向けた殺し屋を、君が邪魔したことがあった。君が用心棒をしていた酒場でだ。グレッグ・キャンドルの店、だったな…」
 銀幕に映し出されたのは、肩までの金髪を手で払いのけながら、酒場でグラスをあおる数年前の自分だった。そしてコートのポケットに両手を突っ込み、三番街の雑踏を気だるげに歩く様。
「私の邪魔をした女性は、君が初めてだった」
 侵略者の男は懐かしむように言った。

「以来、私は興味を持った。誰もその年齢が僅か16歳とは知らない、類い希な銃の名手、氷の美貌の、マリア・タチバナに」
 話しながらカウンタに向かい、深いゴブレットを二つ取り出す。やがて高級そうなブランデーの香りが漂ってきた。手の中でゴブレットをくゆらしつつ、ブレントは、画像はもう飽きるほど見たというように、じっとマリア本人を見つめていた。
「君が、この美しくない国に渡ってからのことも、すべて知っている。帝国歌劇団花組のスタアとして、舞台を彩る君を。君の表情が、おだやかな笑顔に変わっていく様を…」
 再び切り替わった画像の自分は、帝劇のロビーで客出しをしながらやわらかく微笑んでいた。そして、休日に仲間たちと煉瓦亭で食事をする様子。花小路伯についてニューヨークの空港に降り立つ姿も、当然のように映っていた。
「生ぬるい笑顔など君には似合わない」
 嘆かわしげに首を振り、ブレントが苦笑する。
 知らぬ間に手のひらを握りこんでいるのに気付き、マリアは慌ててほどいた。

「そう…その孤高の瞳がいい。冷たく燃える星のような瞳だ。ずっと、手に入れたいと思っていた」
 光武の搭乗訓練の様子が映って、マリアは戦慄していた。










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