「勝利のポーズ、決めっ!」
神崎邸の戦いに勝利した花組隊員たちが、晴れ渡った青空の下で明るい声を響かせた。
「ん…?」
久々に肩を並べたカンナとすみれが、じゃれるように口論を交わす横で、大神がふと首筋に手をやり、そのまま動きを止める。
「どうしたんですか?大神さん」
「…いや、なんでもないよ。何か虫にでも刺されたんだろう」
さくらの問いを笑って受け流した大神の背中に、細い糸が光って延びているのに、誰も気がついていなかった。


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『蜘蛛の糸』


山崎あやめ


 色とりどりの蒸気灯。行き交う蒸気鉄道。ウインドウショッピングにさんざめく人々の楽しげな姿。
 帝都の中心部、銀座に向かう蒸気タクシーの窓から外を眺めながら、マリアはこみあげる懐かしさに顔をほころばせた。
(やっと帰って来た…。長い三ヶ月だった)
 心配だった米田も順調に回復し、退院の日も近いと聞いてほっとしていた。あやめの妹だという副司令や、星組から入隊した二人の新人にも、早く会ってみたかった。すみれにカンナ、紅蘭も帰ってきたというし、これで自分が戻れば、また花組全員が揃うことができるのだ。
 そして何より、一刻も早く会いたい人がいた。
(隊長…)
大神の事を思うと、マリアの胸が甘く締めつけられる。三ヶ月前の、帝劇の前で別れた時の名残惜しげな顔が浮かんで来た。今日の日のためにあつらえた夏用のスーツを見て、大神は何か言ってくれるだろうか。もっと女らしい服にすればよかっただろうか…。頬をかすかに染めながら、マリアは上着の裾のフレアーが皺にならないように、シートに座りなおした。
 今日、この時間に自分が戻るということは、新しい事務員だという影山サキという女性にキネマトロンで伝えてある。みんな出迎えてくれるだろうか。
 ああ、その角を曲がれば、もう帝劇が見える。懐かしい人々が待っている…。
マリアの胸が一段と高鳴った。
(隊長…みんな…!)

 タクシーのドアを閉め、スーツケースを片手に降り立って見上げた帝劇の外観に、マリアはふと違和感を覚えた。どんよりと立ち込めた、瘴気のような胡乱な雰囲気。懐かしさではなく、警戒心にも似た、ささくれた感覚が沸き起こってくる。
(慣れない場所に訪れたのが夜だったりすると、なんとなく胡散くさく感じたりするものだ…久々にニューヨークから帰ったのだし、そのせいだろう…)
根拠のない不安を振り払って、マリアは胸のはずみを取り戻し、踊るように階段を駆け上がった。

「ただいま…!」
誰もいない、ガランとしたロビーに、朗らかなマリアの声が虚しくこだました。
 一瞬マリアは拍子ぬけた。公演の合間ということもあるのだろう。売店も閉まり、帝劇は廃墟のようにひっそりと静まりかえっていた。
「誰?」
突然の声に振り向くと、少年のような風体の白人の少女と、深紅のドレスを着たラテン系の少女が立っていた。
「わ、私は…」
帝劇の中で自分が誰何されるとは…。とまどったマリアが一瞬口籠る。
「マリアさんね、お帰りなさい。ご連絡いただいた影山サキです。よろしくネ」
黒髪の、ミニスカートのスーツを着た女性が二人の背後に現れて挨拶した。
「この二人は新人のレニ・ミルヒシュトラーセとソレッタ・織姫」
「マリア・タチバナです。花組の副隊長をしています。よろしくお願いします」
マリアが手を差し出すと、二人は無表情に握手に応えた。
「よろしく…」
「チャオ」
星組から来たエリ−トと聞いていたが、二人のうつろな目つきのせいか、マリアにはピンと来なかった。

 支配人室に行ってかえでに挨拶をした時も同じだった。
「お帰りなさい…大任お疲れ様」
「よろしくお願いします。あやめさんには、随分お世話になりました」
「そう…よろしく」
あやめに瓜二つの顔にもかかわらず、どことなく覇気がなく、冷たい印象をうけた。あの、鮮やかな生気に満ちたあやめと、とても血が繋がっているとは思えないほどだった。
 一瞬、奇妙な不安が心をかすめた。
 ここは本当に帝劇なのだろうか。自分は本当に帰ってきたのだろうか。
(…馬鹿な…いきなり知らない人にばかり会ったからだわ…。カンナや、さくらや、…隊長に会えば、こんな気分は…)
 自分の愚かしい疑惑を、マリアはふっと笑って掻き消した。

 荷物を持って階段を昇ったところで、アイリスにばったり会った。
「マリア…帰ってきたんだね」
「ただいまアイリス。いい子にしてた?」
言ってから、(アイリス、子供じゃないもん!)と言ってむくれる姿を想像したマリアは、
「うん、いい子にしてたよ」
という何の変哲もない返事に、肩すかしを食ったような気がした。
「じゃあ…」
去っていくアイリスの後ろ姿を見て、さらに激しい違和感を感じたが、それが何なのかはわからなかった。

「よお、マリア、元気そうじゃないか」
「マリアはん、お疲れさんでしたなあ」
「お帰りなさい、マリアさん」
「お変わりなくて、よろしゅうございましたわ」
一見暖かな言葉と裏腹に、久々に会った仲間たちの態度は、どことなく空々しかった。作ったような笑顔と、生彩のない瞳が、マリアの神経を逆撫でする。外見はなんら変わった様子はないのに…。マリアの違和感は大きくなるばかりだった。
「あの…隊長は…?」
「さきほど一階のほうでお見かけしましたけど」
聞き終わる前にマリアは駆け出した。
 大神だけは、マリアの知っているとおりの大神でいてほしかった。この得体のしれない不安を拭いとってほしかった。
 ロビーを見回して、どちらの方向へ探しに行こうか迷っていると、頭上から声がした。
「マリア!」
階段の上に大神が立ち、微笑みながら見下ろしている。
「隊長…!」
マリアの顔が、ぱあっと輝いた。
 帝劇に戻ったら、大神がきっと出迎えてくれる…。大神が手を広げて階段を駆け降りてきたら、自分は人目もはばからず抱きついてしまうかもしれない…。そんなことになったらどうしよう…。
 長い帰路の間の、マリアの甘やかな心配は、あえなく打ち砕かれた。
 大神は、微笑んではいたが、ゆっくりと、静かに、階段を降りてきただけだった。気がつくとマリアのほうが駆け寄っていた。
「お帰り、マリア…。会いたかったよ」
あの、胸の奥がほっかりとするような、変わらない暖かな笑顔を見い出そうとしたマリアは、大神が他の者と同じように薄ら寒い空気を漂わせているのに気づき、打ちのめされた。
「隊長…?」
訝しげなマリアの肩を、大神がやさしく叩いた。
「君には話したいことがたくさんあるんだ…後でゆっくりね」

「マリアさん、お疲れでしょう?今日はもうお休みになったら?」
いつのまにかそばに立っていた影山サキの言葉にはっとした。
「え…ええ。お気遣いありがとう…」
わけのわからないショックに打ちひしがれ、マリアは重い足を運んで階段を昇った。一歩一歩が砂に埋もれるように頼りなく感じられた。

 自室に向かう途中の、隊長室の前の廊下で、マリアはふいに激しい悪寒におそわれた。何か、知らずに墓場に迷い込んでいたのに突然気づいたような、冷たい恐怖感。
(私ったら…さっきから何をぴりぴりしてるの…)
全身の神経が警告を発しているのを、マリアは信じられずに足早に通り抜けた。
 懐かしい自室のドアを閉めて一人になると、幾分かほっとした。それでも、肩にのしかかるぐったりした疲労は、旅のせいだけではないように思われた。
(みんなが、思ったように出迎えてくれなかったからって…私が甘ったれてただけのことだわ…)
どうにか納得しようと言い聞かせても、疑念がしこりのように胸につかえて落ち着かなかった。
 服をハンガーにかける時、さきほど大神の手の触れたスーツの肩に、細い糸のようなものが付いているのに気づいた。上着やズボンの裾にも、同じようなものが絡まっている。
(なんだろう…蜘蛛の糸みたいな…)
手のひらにまつわる粘ついた光る糸を、マリアは気持ち悪そうに払い落とした。
 
 ひさしぶりの自分のベッドに潜り込んで溜め息をつく。いつもは素肌に心地よいシーツの冷たい感触が、今日に限って、とてつもなく無防備な気分にさせ、ひしひしと心細さを掻き立てた。マリアは無意識に、枕の下に予備の銃の感触を確かめた。
(隊長に正直に相談してみようか…。でも、なんて言えばいいんだろう…)
暗い天井を見つめて考える。
(なんだか変なんです)
(みんなの様子がおかしいんです。隊長も変です)
(どこが?)
(どう変なの?)
そう聞かれたら、なんと答えればいいのだろう。
(疲れてるんだよ、マリア)
それで終わってしまいそうだ。

(明日は米田司令を見舞ってみよう…)
狙撃以後、帝国華撃団の隠密部隊だという月組に警護されている米田の事が脳裏に浮かんだ。こうなっては、マリアに頼れるのは病床の米田だけだった。

 不安な中にも、長旅の疲れも出て、ようやくまどろみ始めたマリアの耳に、カサカサと何かがざわめくような音が聞こえてきた。
 ふと身を起こすと、足もとの敷布の縁のシルエットが何やら蠢いて見えた。赤い、ビーズ玉のような小さな光の粒が、塊になってびっしりと覆っている。
 ぽたり、と、肩に落ちてきたものを、マリアは驚いて払い除けた。
 身の丈2センチほどの、赤い眼の蜘蛛だった。それが、今やマリアの部屋いっぱいにひしめいて、床を覆いつくし、ベッドに這い昇ってこようとしているのだ。
「きゃああっ!」
思わず悲鳴をあげて飛び起きた。ベッドに立ち上がり、枕を振り回して、迫ってくる蜘蛛の群れを必死にはたき落とそうとする。
「マリア、どうかしたのかい?」
ドアの外の大神の声に、マリアはすがるように叫んだ。
「た、隊長っ!助けてください、蜘蛛が…!」
「蜘蛛?」
「はい!あの…」
説明しようとして足もとを見下ろしたマリアは唖然とした。部屋中を埋めていた赤い光の群れは、掻き消したように一匹もいなくなっている。あたりは何事もなかったかのように静まり返っていて、マリアの荒い息づかいだけが薄暗闇に響いていた。
「マリア…?ちょっと開けてくれないか?」
大神の呼びかけに、マリアは我に帰った。
「はい、今…あっ、ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」
全裸の自分に気づいて真っ赤になり、慌ててガウンを取り出そうとクローゼットを開けようとした。その一瞬にも、いきなり中から蜘蛛の群れが飛び出してくるのではと思い、手がこわばった。
「大丈夫?何かあったの?」
ドアの向こうの廊下の暗がりに、大神の姿があった。
「い…いえ…すみません、よくわからないんですけど……あの…寝惚けてたみたいです…」
「そう…?ならいいんだけど」
「お騒がせしました…」
「マリア、ちょっといいかな」
「はい?」
詰め寄るように、大神が部屋に入ってきた。後ろ手にドアを閉め、押されて後ずさったマリアをいきなり抱きしめる。
「マリア…!会いたかった…!」
「た、隊長…?」
「君がいなくて、俺がどんなに寂しかったか…マリア…!」
まさしく、マリアが待ち望んだ大神の言葉のはずだった。しかし、背中に、布越しに感じる大神の手の感触の、意外なほどの冷たさにおののきながら、マリアはまたもあの違和感に悩まされた。
 これほど感動的な場面なのに、胸に響いてこない。なんとなく、嘘くさいのだ。帝劇に来て間もない頃、演技の稽古でセリフが棒読みにならないよう、苦労していた時のことが思い出された。
 とまどうマリアにかまわず、大神が顔を抱き、引き寄せた。
 いきなり近づいてきた大神の唇に、マリアは動転した。
「や、やめてください…っ!」
気がつくと、力一杯、大神を突き放していた。
「マリア…?」
「た…隊長…すみません、私…その…つ、疲れてて…」
幸か不幸か、顔を背けて俯いたマリアは、大神の舌の上で何かが動いていたのに気づかなかった。
「…ごめん、マリア。俺が悪かったよ…。話はまた明日にしよう。…おやすみ…」
 大神が去って、マリアは重い溜め息を落とした。マリアの知っている大神は、こんな夜更けに部屋に押し入って、いきなり唇を求めてくるような男だったろうか。マリアは迷子の子供のように、心細さに泣き出したくなった。自分がもっとも頼りにする大神が、まるで別人のように感じられる。そのうえ、カンナや、アイリスも、みんな…。
 そこまで考えて、マリアはさっきアイリスに感じた激しい違和感の理由に気づいた。
(ジャンポールを持っていなかった…)

 マリアは心底からぞっとした。

《蜘蛛の糸2へ続く》


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